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Pretty Things/The BBC Sessions/2003 Repertoire Records REP 4938



1960年代中期のBBCは、英国の慣習と堅苦しくて時代遅れな価値観の代表的存在だった。それでもこの古臭く、融通のきかない外観の裏側で、その取り組みは外側で起こっていた文化革命に焦点を当て、それを吸収することに向けられていた。認めるべきところは認めよう…‘Auntie Beeb’(BBCの俗称)はトライしていた。社長のヒュー・カールトン・グリーンは、国営放送協会は変化する時代を反映させ、市民全てにある種の娯楽を提供すべきだと考えていた―どんどんと人口の増えていた、主張する若者たちを含めて。BBCの‘ラジオ・ワン’以前の時代でさえ、ロックンロールあるいは‘ポップ’ミュージックは番組‘Light Programme’で週に数時間に限定され、新しい若者音楽の中でもっともラディカルで型破りなものを好む者たちは、その人気が要求する範囲で時々オンエアされていた程度だった。

その時代、ザ・プリティ・シングスほどラディカルで型破りなグループはいなかった。実際、グループの好き勝手で反抗的な態度と大音量の野蛮な音楽は、‘アンティ・ビーブ’の厳格さとは全く正反対だった。しかしながら、彼らの全国的人気とそれに見合った初期のレコード・セールスによって、彼らは60年代と70年代を通じて定期的にBBCのさまざまなスタジオに出入りしていた。ファンにとってのこれらセッションは、彼らの同期(ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ヤードバーズその他)と同じく、オルタナット・ヴァージョン、改訂アレンジメント、さもなければ未レコーディング・マテリアルなどから成り立つ‘影のディスコグラフィー’のようなものだ。ここで聴けるBBCセッションの2枚のディスクは、バンドの歴史の中で魅惑的かつ常に進化するわき筋を描いている。

「‘Beeb’のレコーディング・スタッフはほとんど政府の一部門のために働いていたようなものだった」 ウォリー・ウォーラー(1969〜71年及び現在のバンドのベーシスト)は説明する。「技術的には、彼らの設備は1つか2つの例外を除いてかなり原始的だった。ほとんどの技術者はメジャーなスポーツ競技(番組)の‘Proper Radio’や‘Outside Broadcast’のための音楽をくつろいでレコーディングしていた。でも僕は平気だったね。ある種、現実的だったから。それでも何かやりがいのあるというか、重要なことをやってると考えていたよ」

「実際のところ、あそこに行ってプロフェッショナルとしてBBCでレコーディングすることは、かなり恐ろしかったんだ」 リード・ギタリストのディック・テイラーは回想する。「僕たちは何をやるにも1回こっきりだったと思う。設備はスタノップ・プレイス(地名)のフィリップス(スタジオ)と比べて、旧式のように見えた。僕たちが大きな音を出すことが許可されていなかったのはわかっている。でもいったん僕たちがそれに応じるつもりがないことを彼らが悟ると、エンジニアとプロデューサーたちは僕たちにかなりクールになった。社員食堂はとてもよかったよ」

グループは1964年10月に、BBCのサタデイ・クラブのために初のラジオ・セッションをレコーディングし、彼らはそこで2枚目のシングル、“Don’t Bring Me Down”を初披露した―前のめりでセクシーでエロチックなこのナンバーはすぐにチャートのトップ10に入った。同じセッションで、彼らは“Big Boss Man”と自分たちのライヴ・レパートリーから何曲かのハイライト・ナンバーを演奏した。そこには彼らが事実上、自分たちのものにしたボ・ディドリーのオリジナル、“Roadrunner”“Mama Keep Your Big Mouth Shut”が含まれていた。その2曲と、“Big City”はその後まもなく、バンドのデビュー・アルバムのために、より決定的なヴァージョンがレコーディングされたが、これらのルーズで激しく興奮を覚えるBBCヴァージョンは大いに聴く価値ありだ。例えば“Big City”は、ヴィヴ・プリンスのスリリングでスピーディーなドラム・ロールをフィーチャーしているし、フィル・メイのかん高い叫び声「オーライ、ディック!」は、ディック・テイラーによるすばらしく尖ったギター・ソロへの合図となっている。

またプリティーズはBBC2のThe Beat RoomA Whole Scene Goingといった‘ビーブ’のテレビ‘ポップ’番組にも出演した。1966年1月、彼らはそこで最新シングルの“Midnight to Six Man”を、少数のスタジオ・オーディエンスの前でプレイした。プレイに先立って、プリティ・シングスのフィル・メイそっくりのボーイフレンドのいる1人の女の子の手紙が読まれた―彼氏はいつもキャーキャーと騒ぎ立てる女の子たちに悩まされていると彼女は不満をもらしていた。もう1人の番組ゲストだったジョナサン・キングはおどけて自分を茶化した―「ジョナサン・キング似のボーイフレンドがいる女の子を1人知っているが、彼女は全く不満をもっていないらしい!」

数ヶ月後、バンドはラジオ番組のサタデイ・クラブに戻り、論争の余地のある多義的な“L.S.D.”含む他のオリジナル・マテリアルとともに、その時にはすでにチャートから姿を消していた“Midnight to Six Man”をとりあげた。他にフィーチャーされたのが、EPレコード収録曲の“Sitting All Alone”(ジョン・スタックスのゴロゴロとうなるベースは、まだ表面には現われていない新しい側面を曲に与えていた)と、最新セカンド・アルバム『Get The Picture』から“Buzz The Jerk”のすばらしいテイクだ。

1967年の終わりまでに、ブリティッシュ・ポップ・シーンは完全に様変わりしていた―それはプリティ・シングスも同様で、彼らは新しいサイケデリック・アンダーグラウンドの中でもっとも創造的なグループの1つとして、自らを改造していた。その年の12月、彼らはBBCラジオ・ワンの番組トップ・ギアにゲスト出演した。その番組は基本的に、古いサタデイ・クラブのドレス・アップ版であり、愛想のいい(しかし末期的に堅い)司会者のブライアン・マシューが依然、舵をとっていた。

「ブライアン・マシューは当時でも古臭かったね」 ウォリーは思い出す。「彼は僕がガキだった頃のお気に入りだった番組の司会を務めていた。つまりサタデイ・クラブのことだ。それは唯一、僕が聴きたかった音楽をかけてくれる‘ビーブ’の番組だった。今だと土曜午前のテレビが最新の若者たちをとりあげるようなことをやっていたけど、50何歳の男が司会者なんて想像できる?そのことが僕が育ったブリティッシュ・カルチャーをいい表わしているし、多くの反逆者が現われた理由なんだ」

どういうわけか、突然ごきげんな気分で、あるいは少なくとも笑顔を装って、マシューは「わくわくサウンドでいっぱいだ、ベイビー!」と声を張り上げた。しかし多くのことを彼らは成し遂げた。例えばプリティーズがプレイしたその時のシングル、“Defecting Grey”は、さまざまなトリックとエフェクトが施されたスタジオ加工品であり、ライヴでは再現不可能だったが、シタールや逆回転テープなどを含む‘ビーブ’でのオーヴァーダブ作業によって完成していた。「ちょっとずつ彼らは使いやすくなったね」 フィルは説明する。「若いエンジニアたちは音楽に大きな共感をもって、期待に応えていた」

そのセッションは彼らの公式リリースでは日の目を見なかった“Turn My Head”を含んでいる点において注目すべきものだ。今回これは正真正銘の初登場曲だ。脈打つワウワウ・ペダル、親密なハーモニー、叫びをあげるファズ・ギターとスキップ・アランによる印象的で熱いドラミングを伴ったイングリッシュ・サイケデリアの偉大な本道だ。「僕はいつも“Turn My Head”は‘どこかへ追いやられた’1曲だと思っていた」とディック・テイラーは嘆く。

翌年、彼らは来たるべきトータル・アルバム『SF Sorrow』からのひとコマを試演すべく、トップ・ギアに戻ってきた。彼らは数曲のパッセージで基本的なオーヴァーダブを行なうことができたが、BBCヴァージョンは事実上、5人によるアンサンブル・パフォーマンスであり、彼らのその時の興奮状態はジュージューと音を立てているかのようだ。

「基本的に、‘ビーブ’のレコーディングは全てライヴだった。そこにオーディエンスがいなくてもね」 ウォーラーは説明する。「事実上、オーヴァーダブはなしだった。完璧に手入れされたアビー・ロードのヴァージョンと違うのは、それほど意外じゃなかった。僕たちのアドレナリンを抑えるような人間は周りに誰もいなかったから」たしかに“Balloon Burning”は、決定的な刺激となっているテイラーのギターによって真の活気と生命力で脈打っている。またとりわけ“SF Sorrow Is Born”でミックスされたジョン・ポヴェイによる卓越したキーボード・プレイが聞けるのも興味深いところだ。

バンドの1969年5月のセッションは、『SF Sorrow』『Parachute』の間の過渡期を聞くことができ、その日にレコーディングされた5曲のうち4曲は公式にリリースされなかった。“Send You With Loving”はディック・テイラーによる急降下するスライド・ギターをハイライトとする陽気なアコースティック合唱曲だ。一方の‘まだリリースされていないアルバムからのサンプル’として紹介された“Spring”がまず第一に、クールなハーモニー、ボンゴ、そして美しいフィンガー・ピッキングによるギター・ソロに支えられたソフトなフィル・メイのヴォーカルを伴ったアコースティック・ナンバーだ。

「何曲かは時代的なタイミングの点で不運だったと思うし、僕たちのやっていたことに合わなかったと思う」 ウォーラーは説明する。「あの頃の僕たちはすごく凝った作りのアルバム『SF Sorrow』『Parachute』の曲を書いている過程にあったことを忘れちゃいけないと思う。あの頃は(僕たちのカラーである)‘ごろつき’シングルをほとんどリリースしなかった。“Turn My Head”に関しては、ジョンと僕がバンドに加入した直後に起こったサイケデリック・ブームの中で産み落とされた1曲だと思う。“Send You With Loving”は単に『Parachute』向きの歌じゃなかったんだ」

このセッションはディック・テイラーのグループでの最後の仕事になったが、彼はそのことをあまり覚えていない。「僕が消火器につまずいた時かもしれない。それからひどいことが勃発した」 彼は笑う。「僕は自分たちが追い出されようとしていると思った!」

「60年代のマイダ・ヴェイル(BBCがスタジオとして使っていた建物)にはわずかに‘第二次世界大戦’の雰囲気が残っていた」 ディックは結論づける。「破壊されたランカスターから引き揚げた装置を使って、防空壕の中でレコーディングしているような感じだった。僕は80年代にザ・メコンズといっしょにあそこに戻ったんだけど、その時までにNASAの制御室みたいになっていた。とても印象的だったが、いかしたダイヤルと大きなノブのついたあの美しくて古い設備を使っていた時代は何だったんだろうと思ったね」

1970年7月にDave Symonds’ Sound of the Seventiesのためにセッションを行なったプリティ・シングスは、その頃ヴィクター・ユーニットと交代した新しいリード・ギタリストのピーター・トルソンをフィーチャーしていた。バンドはニュー・アルバム『Parachute』から何曲かプレイした―ウォリー・ウォーラーによる熱のこもったリード・ヴォーカルが聞ける“Sickle Clowns”の扇情的なヴァージョンを含んでいた。

トルソンはアルバム『Parachute』ではプレイしなかったが、数ヶ月後にレコーディングされた“Cries From The Midnight Circus”で証明されるように、すぐに彼とわかる火を噴くようなギターをバンドのマテリアルに植えつけた。もともとはベース・プレイがひっぱるナンバーで、そのギタリストはエキサイティングなカウンター・メロディとワイルドなリード・ソロによって曲を変容させている。「必然的にその時のメンバーがその時のバンド・サウンドに影響を及ぼしたんだ」 ウォリーはいう。「ピートは本当に魅力的だったし、彼といっしょに働くのは楽しかったね。僕としては、彼が歌をどういう風に料理しようが平気だった(事実、71年6月のセッションで、ある曲はさらに濃厚なスタイルへと形を整えられている。これらはうまくいけば、後年にリリースされるだろう)」

1971年5月、プリティーズはトップ・ギア・セッションのためにBBCのマイダ・ヴェイルに戻り、今度はニュー・シングルの“Stone-Hearted Mama”を売り込んだ。しかしその放送のハイライトは、メイとトルソン双方によるヴォーカル&ギターの叫びと、スキップ・アランの凄まじいドラムの乱れ打ちが聞ける“Cold Stone”の凶暴な演奏だった。ライヴでこの時期のバンドは本当に熱演していたし、翌月の彼らは最高作の1つである“Summer Time”の忘れられないヴァージョンを含む、マイク・ハーディングのセッションで再びそれを証明した。しかし悲しいことに、これがバンドにとっての新たな章の終わりだった。7月にウォリー・ウォーラーがプリティ・シングスを去り、しばらくの間、バンドはばらばらになってしまった。

結局、彼らは新しいレコード契約(ワーナー・ブラザーズ)とともに再編され、新しいベース・プレーヤー、スチュアート・ブルックスが加入した。72年8月、彼らはスタジオ・セッションのために‘ビーブ’に戻り、来たるべきアルバム『Freeway Madness』からさまざまなトラックを試した。その中には、ハード・ロック・ナンバーの“Onion Soup”から、カントリー・ロック調の“All Night Sailor”まで幅広い音楽性が表われ、彼らの初期R&B時代に敬意を示した“Rosalyn”の復活ヴァージョンが差し挟まれていた。

1年後、ザ・プリティ・シングスはロンドン北部のゴールダーズ・グリーンにある競技場、ヒッポドロームで、BBCの番組イン・コンサートのためにオーディエンスを前にライヴ・レコーディングを行なった。レコーディングされたトラックはバンドの目を見張るスタイルをとらえていた。彼らはUKツアーと、初めてのUSツアーでアルバム『Freeway Madness』のマテリアルに磨きをかけていた。トラックというトラックで、イン・コンサート・ヴァージョンはスタジオ・ヴァージョンを凌駕し、よりロックしていた。“Religion’s Dead”はとりわけすばらしく、めいっぱいのコカイン・パワーと獰猛さで煮えたぎっている。

翌週のBBCのランガム・スタジオでのセッションでは、“Peter/Rip Off Train”のすばらしいヴァージョンが生まれた。それは再び、多くの意味でよりプロデュースされた『Freeway Madness』ヴァージョンを超えていた。ストリング・セクションなしで、バンドのハーモニーは空高く舞い上がり、よりロックな“Rip Off Train”セクションは、さらに心地よく絶対的ロッキン・グルーヴを保持していた。また同セッションで、彼らは米国ツアーからインスパイアされた新曲、“Atlanta”を披露した。

1974年11月、彼らはゴールダーズ・グリーン・ヒッポドロームの生のオーディエンスの前に戻り、アルバム『Silk Torpedo』のリリースを祝った。キーボードが主体となった“Bridge of God”は、最初のBBCセッションから10年の間に、いかにザ・プリティ・シングスが変身したかをよく示していた。フィル・メイのヴォーカルはヴァースを伝えてはいるが、合唱ハーモニーによってその中に呑みこまれ、ミドル・エイトのところでリード・ヴォーカルをゴードン・エドワーズに譲っている。少なくともトルソンはザクザクというギター・ブレイクで期待に応えているかもしれない。それとは対照をなす形で、モーター付ブギ・ロック・ビート“Come Home Momma”は、まだタンクの中に古いハイオクR&Bが残っていることを示している。一方で陽気な“Dream/Joey”は、アメリカのFMで大ヒットとなる要素を全て備えたナンバーだが、どういうわけか無視されてしまった。

この曲は彼らが1975年1月に、ジョン・ピールの番組で一連のトラックをレコーディングした時に再びとりあげられた。意外にも、そのセッションはピーター・クックとダドリー・ムーア(英コメディアン:ムーアは兼ジャズ・ピアニスト)のジャズ・ピアノ小曲でテーマ・ソングの“Not Only But Also”を含み、それは猛烈な初期ナンバー、“Big City”へとつながっていた。そうすることで、彼らはプリティ・シングス・BBCセッションの10年間をはさみこんだ―そしてこのコレクションも思いがけなく調和のとれた効果をもたらすこととなった。


マイク・スタックス Ugly Things Magazine, March 2003


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