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Pretty Things/Live at the BBC/2015 Repertoire Records(UK) Ltd. REPUK 1205



「BBCではちっともおもしろいものが聞けなかったんだ」 シンガーのフィル・メイは10代だった1950年代のことをクスクス笑いながら語っている。遠い昔の日々、ロックンロールは文明社会にとって気分を害するものとしてみなされ、BBCは不満をもった戦後世代の若者たちの感性に全く適応していなかった。「僕たちの好きな音楽が聞ける機会は多くはなかったんだ」 ギタリストのディック・テイラーは同意する。それにもかかわらず、選択の欠如によって、BBCは意欲的なミュージシャンたちが大西洋の向こうにあるエキゾチックなサウンドに気づく、ほとんど唯一の場となっていた。「信じられないかもしれないけれど、ラジオ・リュクサンブール以外は全てBBCだった」 ディックは続ける。「だからそういう意味ではBBCは重要な中心地だった。僕がボ・ディドリーを初めて聞いたのは、『Skiffle Club』でだった。僕はラジオのうしろ側にバナナプラグが付いたやつをもっていて、そこからオープンリール・レコーダーに録音していた。海賊放送は前の週まで発明されていなかった!」

「たまにオッと思うものがあると、いてもたってもいられなくなって、土曜の午前中を楽器屋ですごすのが最高に元気になる行動だった!」 フィルは認める。それでもレコードは高価だったため、当時の多くのポップ・ファンは大部分をラジオに頼っていた―つまり無線ラジオだ―彼らが店で見かけていた、あるいはメロディ・メーカー、レコード・ミラー、NMEなどで読んでいたレコードを聞くために。そして1963年までに事態はゆっくりと変化していた。ザ・プリティ・シングスはその秋に結成され、1964年初頭の彼らのラインナップは(メイとテイラーに加えて)、ブライアン・ペンドルトン(リズム・ギター)、ジョン・スタックス(ベース)、そしてヴィヴ・プリンス(ドラムス)を含んでいた。彼らのデビュー・シングル、“Rosalyn”は5月にリリースされ、41位まで上がった。絶え間ないツアーの結果、彼らはポップ紙(うわさとなっていたメイの長髪と彼らの乱暴な態度に対する世間の激怒をこぞって強調した)の重要グループとなり、7月には『Parade Of The Pops』においてBBCデビューを飾った。そして彼らは10月、2枚目のシングル、“Don’t Bring Me Down”のリリースと同時に『Saturday Club』に招かれた。

サタデイ・クラブは1957年に始まったスキッフル・クラブを改称した番組で、新人アーチストにとって英国全土で名を売るためには最高の場の1つだった。番組は土曜午前10時〜12時に放送され、毎週何100万という若者たちが聴いていた―少なくともビートルズが登場した時には。「ついにBBCラジオは、僕たちが本物の音楽とみなしていた、そういうものをかけ始めて、みんな家でラジオにかじりつくようになったんだ」 フィルはいう。「すでに僕たちはテレビに出ていて、それはたぶんレコード・セールスにつながったと思うけど、攻撃的な大見出しばかりで僕たちはぎょっとしたね。ラジオの方がはるかにいい経験だった―僕たちはもっと長い間そこにとどまったし、口パクじゃなくて自分たち自身をもっとパフォーマンスに込めることができたから。僕は口パクが大嫌いだった!サタデイ・クラブでプレイすることは勲章をもらうようなものだった―司会者の紹介がちょっと気取っていたけどね。僕たちはあれをクスクス笑っていたと思う―たぶん僕たちはちょっと酔っぱらっていた!」

ディックによれば―「僕たちはすでにTVに出ていたが、ラジオ・セッションがとても重要だった。あそこに行った時、僕は不安な気持ちでBBCの機材設備を見ていたことを覚えている―スタノップ・プレイスのフィリップスのスタジオで僕たちが使っていたレコーディング機材に比べると、ちょっと時代遅れに見えたんだ。でもエンジニアたちは自分たちのしていたことを本当に分かっていたし、結果ははるかに想像以上だった。でも僕たちが思っていたような‘ライヴ’録音じゃなかったんだ。オーディエンスはいなかったから、ヴォーカルをオーヴァーダブする前にまずバッキング・トラックをレコーディングした。だからそれは僕たちが期待したよりもずっと洗練されていた」

バンドは5曲を演奏した―“Don’t Bring Me Down”、“Big Boss Man”(デビュー・シングルのB面)、そして1965年3月リリースのデビューLPにフィーチャーされることになる“Mama, Keep Your Big Mouth Shut”、“Road Runner”、“Big City”の3曲だ。その時のセッションはこのCDにもれなく収録されている。当時のメディアのパワーを説明するかのように、彼らの出演ののち、“Don’t Bring Me Down”は10位まで上がった。「たぶんサタデイ・クラブは自分たちが気づかないところで僕たちに大きな作用を及ぼしていたと思う」 ディックは述べる。「僕たちは世間ずれはしていなかったが、それが過激な違いを生み出すなんてことも予想しちゃいなかった。けれども、一般のレコード購買層は僕たちを聴いた。そしてそれがとてつもなく重要なことだったんだ」

またこの時点で、彼らは現存していないセッションを少なくとも1つ行なっていた。「僕たちは『Billy Cotton Band Show』に出演して、それはレコーディングされた―ランチタイムに行なわれたショーで、チャリング・クロスにある小さな劇場だった」 フィルはいう。「それは‘ライヴ’放送された。オーディエンスはランチタイムに何もすることがない人々か、雨やどりで入ってきた人々だった!僕たちは‘ポップ’アクトとして1曲を演奏した」 この時代のBBCでの演奏を振り返ってフィルはいう―「妥協の連続だったね。僕たちはとにかくレベルメーターの針の動きを気にしていた。僕たちは少し歪ませてほしいとエンジニアたちを説得しなきゃならなかった。時々、彼らは‘フラワーポット・メン’みたいな音にしてしまうこともあったけど、すごくいいサウンドになる時もあったんだ」

1966年半ばまでに、プリティ・シングスは2枚のアルバムをリリースし、カオス状態のニュージーランド・ツアーと、ヴィヴ・プリンスからスキップ・アランへの交代によって、バッド・ボーイのイメージを固めていた。もっとも重要なのは、この時までに彼らの音楽が、“L.S.D.”という挑発的な曲名に象徴されるように、急速に発展していたことだ。“L.S.D.”はその5月に彼らがサタデイ・クラブでプレイした4曲のオリジナル・ソングのうちの1つだった(他は“Sitting All Alone”、“Midnight To Six Man”、“Buzz The Jerk”)。「実際、ブライアン・マシューはあの真面目なBBCのスタイルに合った、かなりクールな司会者ですばらしかったね!」 ディックは笑う。「時間的制約はあったが、エンジニアたちはいつも僕たちの願いを聞き入れてベストを尽くしてくれた。僕たちは彼らが僕たちのことを見下しているとは感じていなかったし、彼らは僕たちのやりたいことに素早く効率的に手を貸してくれたね」

1967年が近づいてきた時、リズム・ギタリストのペンドルトンとベーシストのスタックスが、それぞれジョン・ポヴェイ、ウォリー・ウォーラーと交代した。煮え切らないLP『Emotions』(1967年7月リリース)ののち、彼らは猛然とサイケデリアへ身を投じ、英国でのそのスタイルのパイオニアとなった。彼らの路線変更と時を同じくして始まったのが、BBCのRadio Oneで、第1回の放送は67年9月30日だった。並はずれたシングル“Defecting Grey” / “Mr. Evasion”は11月10日にリリースされ、バンドは27日放送のヒップな番組『Top Gear』のためにセッションを行なった(ロンドン、ピカディリー201のスタジオ1にて)。プレイされたのは“Defecting Grey”、“Talking About The Good Times”、“Walking Through My Dreams”、そして未リリースの“Turn My Head”だった。これらは12月3日に放送され、ロック・アンダーグラウンドの先導者としての彼らの名声を認識させることになった。

「バーニー・アンドルーズはグレイトだった。彼はアーチストをリスペクトして、オーヴァーダブやなんかでふさわしいサウンドを得るためにベストを尽くしたという点において、おそらくBBCの中でベスト・プロデューサーだった」 フィルはいう。「彼は事実上スタジオに監禁状態になって、僕たちがほしがっていたサウンドを生み出すためのテイクを録るのにどれほど時間がかかろうと、僕たちにレコーディングさせていた。それは僕たちがいることで、その仕事場がけがされると考えていた融通のきかない役人たちに何度か遭遇していた僕たちにとっては、新鮮な空気だった!」 ディック―「1967年の終わりまでに、BBCはEMIと同じくらいの水準に達していた―4トラック機材だったから、僕たちの作ったデモ・トラックを使いまわしているみたいな感じだった。僕たちは“Defecting Grey”をライヴでプレイすることはなかったが、“Mr. Evasion”はたくさんプレイした。どういうアプローチでプレイしたらいいか分かっていたからね。僕たちはそのシングルはヒットしないと思っていたけど、当時はかなり型破りなことがまかり通っていたし、(エンジニアの)ノーマン・スミスは自信をもっていた。だから僕たちはもしかするとうまくいくかもしれないと思ったんだ…」

残念ながら、その価値にふさわしいヒットとはならなかったが、1968年は彼らにとってアンダーグラウンドへの道をより深く掘り進む年となった。4月、ジョン‘トゥインク’アルダー―以前はフェアリーズとトゥモロウのメンバーだった―がスキップ・アランに代わってドラム・スツールに座った。その時までに、彼らは大きな影響を及ぼすことになるアルバム『S.F. Sorrow』の制作に没頭していた。次のBBC出演のレコーディングは10月21日にトップ・ギアのために行なわれた。それは11月17日に放送され、その内容は来たるべきLPの数曲がフィーチャーされていた。トゥインク―「バンドの名と名声を広めるという点において、2つの重要なことがライヴ活動とレコード制作だった。そのことからいえば、レコーディングした曲もないのにトゥモロウとしてBBCに出演したことは、僕たちにとっては世に打って出るためのまたとない機会だったんだ。1968年と69年のプリティ・シングスにとっては全く違っていた―彼らにはヒット・レコードがあったし、すでに何度もBBC TVとラジオに出演していた。それでもプリティーズ内部では変化が起こり続けていたし、その変化を知ってもらうためにはBBC出演が重要だったんだ」

1969年半ばまでにディック・テイラーが去り、元エドガー・ブロートン・バンドのヴィクター・ユーニットが加入していた。5月20日、BBCのマイダ・ヴェイルのスタジオにおいて、彼らはいくつかのアルバム未収曲をレコーディングした。それがこのCDに入っている“Send You With Loving”と“Spring”だ(5月25日にトップ・ギアで放送された)。「僕がプリティーズの一員として初めてレコーディングしたBBCセッションは、『S.F. Sorrow』の時の激しさをもっていた。一方で、1969年のセッションはリード・ギターに新人のヴィクター・ユーニットをフィーチャーしていた」 トゥインクはいう。「僕たちは『S.F. Sorrow』を完成させて、すぐに『Parachute』へ向かっていった。僕たちがアビー・ロードで録音したサウンドを再現するのは、全く難しいことじゃなかった。その時までに彼らは十分にリハーサルしていたし、実際僕たちは小型のアビー・ロードのスタジオにいたし、その中で何曲かのトラックにオーヴァーダブすることができたんだ」

その夏、相対的にバンドに対する幻滅を一時期味わったトゥインクもまた去って行った。結局スキップ・アランがドラマーとして再加入し、1970年6月、彼らはデヴィッド・シモンズの番組『Sounds Of The Seventies』のために、新加入ギタリストのピーター・トルソン(元エール・アペアレント)とともにセッションを行なった。その月にリリースされた彼らのすばらしいアルバム『Parachute』からのマテリアルに焦点が当てられたセッションは、7月6日に放送された。DJのジョン・ピールは『S.F. Sorrow』の時と同じように、率直に『Parachute』を褒め称えたが、残念ながらふさわしく大成功することはなかった。それにもかかわらず、メイは1970年10月にストレンジ・デイズ誌に意見を述べた。「僕はどちらかというと、何か古いレコードを買って何も考えずにどんちゃん騒ぎする10万人の人々というより、『Parachute』みたいなレコードを買って、僕たちがいおうとしていることを評価する2万の人々の方に入るね。ヤクやなんかをやめて、音楽をプレイする時がきたんだ。その2つは両立しないね」 バンドはその年の終わりに放送される『Sounds Of The 70s』のために、9月11日に4曲を録音し、それらは12月18日に放送された。

1971年にニュー・アルバムは出なかったが、バンドはその年に何度かBBC出演を果たしている。部分的にはシングルの“Stone-Hearted Mama” / “Summertime” / “Circus Mind”をプロモートするためだった。これらは3トラック・シングルとして5月にリリースされ、リード・ヴォーカルでウォリー・ウォーラーがフィーチャーされていた。8月、ラジオ1はRadio Flashesというタイトルの番組を3回シリーズで放送した。企画と紹介はヴィヴィアン・スタンシャル(ボンゾ・ドッグ・バンドのメンバーでモンティ・パイソン・ファミリー)だった。「ヴィヴはすばらしいやつだったよ」 フィルはいう。「60年代に僕たちはマネージャーのブライアン・モリソンを共有していた。つまりボンゾズのことだ。それで彼のことを何年も知っていたし、オックスブリッジのイヴェントやなんかで彼といっしょにプレイしていた。だけど、このセッションで彼といっしょに実際にスタジオの中にはいなかったと思う。普通はプレゼンターとは少し切り離されて録音されるもんなんだ。完成した番組からはむしろ分けられている。たいてい僕たちは最後にプレイバックを聞くことさえしないから」

シングルは売れず、EMIはバンドとの契約を打ち切り、ウォーラーは去る決心をした。彼の代わりは、元ブラック・キャット・ボーンズ、リーフ・ハウンドのスチュアート・ブルックスで、新生プリティーズはワーナー・ブラザーズと契約した。彼らは7月の2つのセッションにわたり、ジョン・ピールのために多くのトラックを披露し、10月にはボブ・ハリスのセッションを行ない、そこでは12月に出るLP『Freeway Madness』に収録されることになるマテリアルをプレイした。この時までに、BBCのレコーディング設備はより洗練されたものになっていた。フィルは言及している―「昔は僕たちはいいサウンドにするために、ヴォックス・アンプへの覆いのかけ方をエンジニアたちに教えなきゃならなかったが、この時までに、たぶん前もって訓練を積んだきちんとした若いエンジニアたちがそろっていて、マイク・セパレーションのことやドラムの仕切り板やピアノの音もれの防ぎ方やなんかを全て知っていた」

バンドは1974年にワーナーと切れたが、すぐにレッド・ゼッペリンに拾われた。彼らは初期の頃からジミー・ペイジのことを知っていて、ペイジは彼らの曲を何曲かプロデュースさえしていたし、アルバム『Get The Picture』収録の“You Don’t Believe Me”を共作していた。またロバート・プラントは長年のプリティーズのファンであったし、1975年2月のフランスの雑誌『Rock & Folk』で、「プリティ・シングスは常に僕にとってお気に入りのグループのうちのひとつだ」と語っている。レッド・ゼッペリンが1974年に自身の出版社スワン・ソングを設立した時、彼らはプリティ・シングスとの契約を熱望し、スワン・ソング・レーベル初のUKリリースは、その10月に出たアルバム『Silk Torpedo』となった。レーベルの開業パーティーは、ケント州のチズルハースト・ケイヴスでハロウィーン・ナイトに行なわれた。1975年1月、バンドはジョン・ピールの『In Performance』セッションで、レッド・ゼップとの共演の形でレコーディングを行なった(フィルの回想によれば)。そこでとらえられた彼らのパフォーマンスは、燃えさかる火のようだった。

ただしフィルは次のようにいっている―「ジョン・ピールは60年代に僕たちの支持者として大きな存在だったけれど、僕たちがスワン・ソングとサインを交わしてちょっとした成功を収めたあとは、ちょっと離れていったんだ」 このCDの最後のセッションは1975年7月17日にレコーディングされ、その1週間後に放送された。そこでは“Silk Torpedo”をプロモートする彼らを聞くことができ、彼らを常に定義づけ、そして今日まで続くエネルギーとパッションを伴ったプレイをする彼らの姿が依然として見られる。このCDセットに収められた様々なパフォーマンスを振り返ったフィルは結論づける―「クオリティは常にベストじゃないかもしれないけど、BBCセッションは特別な雰囲気をとらえていると思う。古い写真みたいにね。ある意味、これは昔のダンセット(商標)のレコード・プレーヤーで聴くみたいなもんだね。ハイテクじゃないかもしれないが、おかしないい方をすれば、僕は巨大で高価なバング&オルフセン(商標)のオーディオ・システムで聴くより好きだね」

Richard Morton Jack
March 2015



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