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Pretty Things/Emotions/2002 Repertoire Records REP 4929



ザ・プリティ・シングスのサード・アルバムには称賛者がいる―しかしプリティ・シングス自身はその中には入っていない。1967年5月にリリースされた『Emotions』は、この頑固なバンドが一度だけ、みずからの選択ではない道を歩んだアルバムだ。このCDであなたはオリジナル・トラックを聞くことができ、このアルバムがバンドの考える逸脱行為だったかどうかをあなた自身で判断することができる。しかし今回のシリーズでフィーチャーされている気前のいいボーナス・トラック群のおかげで、あなたは『Emotions』セッションの生まれたままの姿の断片を聞くことができる―グループのレーベルだったフォンタナが装飾として彼らの音楽に押しつけたポップなブラスやストリングスのないヴァージョンだ。

31年後の今、プリティーズの1967年のラインナップは今なお健在であり、ギグをやり、レコーディングを続け、そして不満をぶちまけている。創立メンバーのフィル・メイとディック・テイラーは、現在でも『Emotions』のけばけばしいアレンジメントへの嫌悪を和らげてはいない。しかし中立な耳で聞けば、このレコードのサウンドはかなり魅力的だ―つまりR&Bルーツをぶちかますバンドから、このアルバムの次に出た不滅の『S.F. Sorrow』で証明されるサイケデリアの絶頂期への移行期であるということだ。『Emotions』はある意味、ザ・プリティ・シングスのブリットポップ・アルバムだ―巧妙に作られた装飾、スウィンギン・ロンドンのメロディックな批評、それは1990年代の音楽的傾向においても支持され復活することになったイージー・リスニング的肌触りによって引き立てられたコレクションだ。神に誓って、これはプリティーズが最初の4年間に西欧世界を恐怖に陥れた、ガレージ・バンド・ブルースの焼き畑スタイルではなかった。しかしその中には、バンドが身につけ、30年後にまで続く高度なソングライティングのみごとな見本が数多く存在する。

ローリング・ストーンズを輩出した同じ‘ダートフォード・デルタ’(訳注:おそらくファースト・アルバムのライナーに出てきた‘ダートフォード・アラバマ’と同じ意)界のアート・スクール出身者たちの中で(全国的にはゼム、アニマルズ、ヤードバーズなどが含まれる)、シングスは“Rosalyn”、“Don’t Bring Me Down”といったヒット曲を通じて、ポップの若者エリートの仲間入りを果たしていた。一般的な人気は盛衰したが、彼らが仲間のミュージシャンたちから受けた崇敬の念は衰えることがなかった。先に述べた2曲は、デヴィッド・ボウイがその時代に捧げたアルバム『Pin-Ups』の中でカヴァーしたし、バンド自身の名はディランの“Tombstone Blues”で言及されていた。「当時はそういう交流が驚くほどたくさんあったんだ」 フィル・メイはポップ・ヒストリーのうきうきするようなエピソードを回想している。「ほとんどのバンドは週9日間働いていたようなもんだったし、多くのつながりがあった。オフの時はいつも他のミュージシャンたちとつるんでいた。僕たちはビートルズといっしょに何度もスコッチ・オブ・ザ・セント・ジェイムズ(ナイトクラブ)に行った。スピークイージーでは一晩中、ザ・フーのロジャー・ダルトリーや、ジミ・ヘンドリクスといっしょにすごしていた」

1966年と1967年にはどこで行動をおこそうが、酔って暴れるザ・プリティ・シングスがいつものように興奮しながらいい気分になっているところに出くわしただろう。彼らお気に入りの根城をメイは覚えている―「P.J.プロビーやダイアナ・ドーズ(英女優)やスキャンダル・ガールのマンディ・ライス・デイヴィスみたいな本当に変わり者の連中でいっぱいだった。あとクレイ兄弟(英国のふたごの凶悪犯罪者)といっしょになるんだ。夜中の1時か2時まで働いていた人たちにとっての夜の時間で、そういう人たちが行き着く場所だ。そりゃとんでもないことになるんだ―ヌレエフ(ロシア生れの舞踏家・振付師)とかジュディ・ガーランドとかね。スターライト・ルームっていうすばらしいところがあった。僕たちがリーズとかマンチェスターから戻ってきた時に、唯一酒が飲める場所だった。そこはけた外れた社会の縮図が見られるところだった―ロンドン警視庁の犯罪捜査課の軍団、特別機動隊とか…。彼らはクレイ兄弟と仲良くなっていた―クレイ兄弟がテーブルについているところを見ると、どっちがどっちだか区別がつかなかったね」

「レスラーもいたな」 ディック・テイラーは思慮深くつけ加える。「イエー、すごく奇々怪々だった。あとヤクの売人とか、夜中に働いていた連中はどこかに酒が飲める場が必要だったんだ。誰も知らないようなセレブでいっぱいになったギグがあったのを覚えている―アド・リブでのギグのあと、僕たちはロールス・ロイスに乗り込んで、ヒースロー空港方面に走って、ボーリングをしに行った。ラリッた状態でM4高速道を飛ばして、サーヴィス・ステーション(Heston Services)なんかで…」

プリティ・シングスの一団も変化していた。躁病ドラマーのヴィヴ・プリンスは10代の天才児スキップ・アランと交代し、ベーシストのジョン・スタックスはオーストラリアへ旅立った。リズム・ギタリストのブライアン・ペンドルトンは失踪した:「彼はリハーサルに現われなかった。つまり僕たちは控え目にいってもあまりリハーサルをやらなかったが、この時はブライアン抜きでやっていた。僕たちはリーズでギグをやるために列車に乗っていて、彼は向こうで列車を降りなかったんだ。僕たちはその晩のギグを4人でプレイした。2日後、僕たちはリハーサルすることになっていたが、ブライアンは現われなかった。僕たちは別にあった口論のあと、彼はむしゃくしゃしただけだろうと考えた。それから僕たちは彼のフラットに行ったんだけど、そこは完全に引き払われていた。僕たちは何年も彼と会うことはなかったね」 Bern Elliot & The Fenmenから2人の採用という形で補強が行われた―ベーシストのウォリー“ウォーラー”アレンとキーボード奏者のジョン・ポヴェイだ。2人は『Emotions』セッションにハーモニー・パートをつけるために招待され、そのまま2人ともプリティーズのフル・タイム・メンバーとなった。

変化する音楽シーンにおけるプリティ・シングスの位置に不安を覚えたフォンタナの重役たちは、ビート・グループの基本原則は消えつつあり、メインストリームのポップなアレンジメントで装飾する必要があると考えた。そこで彼らは元ハリウッドの俳優で、のちにはデイヴ・ディー・グループを手がけた新しいプロデューサー、スティーヴ・ローランドを呼び出した。そしてローランドは彼のクライアントだったザ・ハードから、ベーシストのゲイリー・テイラーを借りてきた。「スティーヴ・ローランドは大当りするっていわれていたんだ」 ディックは懐疑的に語る。「彼は本物のプロデューサーで、真にコマーシャルな作品で僕らをチャートに送り込むことのできる人物だった。実際にはその前に僕らはもっとうまくやったと思うけど、まあそんなものさ」 しかしプリティーズのサウンドをもっともラディカルに色づけしたのは、もう1人の部外者レグ・ティルズリーであり、彼はバンドが激しく嫌悪感を抱く手の込んだアレンジメントをオーヴァーダブした。「あのアルバムはレコード会社にハイジャックされたんだ」 メイは主張する。「それが問題だった。僕たちはフォンタナとの契約から抜け出すために、あれを終わらせなきゃならなかった。そして僕たちの頭はすでに『S.F. Sorrow』にいっていた。基本的な歌のアイデアとバッキング・トラックは全て書き上げていたんだけど、突然降ってわいたように、彼らはレグ・ティルズリーを引っ張り込んだんだ」

オーケストレーションは異質に聞こえるかもしれない―フォンタナに先を見る目がなかったのは、ザ・プリティ・シングスのような‘ビート・グループ’が、サイケデリアを通じてまさに自身のサウンドに大変革を起こそうとしていると考えたことだ―しかしもちろん、歌自体が以前よりもソフトになっていたことは事実だ。少なくとも、新しいマテリアルははっきりと哀愁をおびた傾向をもっている。

フィルは答える:「基本的に僕たちは歌を作る素材として、個人的な出来事を利用していた。プリティ・シングスの歌はいつも起こったことについて語っていた。出会った人々についてだとかね。それに作詞は必ずしも音楽と結びつくとは限らなかった。普通は、誰かが音楽的アイデアと歌詞を思いついて、それをうまくフィットさせるものだが、ここにある曲は歌詞主導だ。だからこれは完全にソングライティングとしては変わったやり方なんだ。僕たちは自分たちの将来につながる方法を模索していた。それにこれは昔のブルース・ナンバーからそれほど遠くはないやり方だ。ブルース・シンガーがどこの何について歌っていたかは、スライド・ギターやその他全てと同じくらい重要なことだった。例えばジョン・リー・フッカーの“Poor People Of Tupelo”のようなすばらしい歌はどれも物語だ。僕たちのルーツはそこにあったしね」

ディックによれば、“Growing In My Mind”はややノーマルなソングライティング・スタイルで落ち着いて書かれたが、他の曲はちょっとした映画のようなものになったあと、音楽へと昇華されたそうだ。「僕はフラムの町を酔っぱらってぶらついていて、“Out In The Night”を書いたことを覚えている」

「“Tripping”(プリティーズの友人ドノヴァンの同名曲の引喩だ)に関しては‘かなり明白’といえるね」 フィルはいう。「休日にしたことさ…」 奇妙なことに、“Death Of A Socialite”は同時期にレコーディングされたビートルズの『Sgt. Pepper』に収録の“A Day In The Life”と共通点をもっている。どちらの曲も、スウィンギン・ロンドンのもっともヒップな一団とのつきあいを好み、1966年に交通事故で死んだ若いギネス・ビール社の相続人タラ・ブラウンのことをベースにしている。「彼の車が焼け焦げたのは僕がよく走る道だったんだ」 ディックは回想する。「そこはチェルシーのガンター・グローヴ近くを下ったところだった。道にはその時の恐ろしい事故の跡が残っていた。それがたぶん僕たちがあの歌を書いた動機だったと思う」

『Emotions』収録曲のうち奇妙な1曲が、キンクスのカヴァー、“House In The Country”だ―もちろん作者はレイ・デイヴィスだ(訳注:UKオリジナル・アルバムには入っていないシングル曲)。これはスティーヴ・ローランドの要望により、シングス自身のマテリアルが十分にコマーシャルではないという一般的評価に即してレコーディングされた。フィル・メイはこの曲のファンではなかった。「僕たちはキンクスのファンだったし、レコーディングしたいキンクスの曲はたくさんあったが、特にあの曲をやりたいわけじゃなかった。僕は何曲かキンクスのデモを聞いて、そこには2〜3曲ほんとにすばらしいのがあったんだけど、どういうわけか“House In The Country”が既成事実になってしまったようだ。もしかすると攻略上、他の曲だと提供するにはもったいないと判断されて、残ったのが“House In The Country”だったのかもしれない。僕はこれはいつもキンクス・ソングとしてすばらしいとはいえないし、つまらない曲だと感じていたけど… 僕らはフォンタナとは続かないことがわかっていたし、対話もなかったんだ。彼らから逃げ出す唯一の方法が、このアルバムを片づけることだった。僕は自分たちが多様性へと向かうべきだと感じていた。こういうポップなやつを組み込むんじゃなくてね。僕はポップ・バンドになりやしないかと危惧していて、アルバムをさっさと片づけてしまうのが待ち遠しかったね。ティン・パン・アレイの専門技術が全編に渡っているのを聴くとゾッとした。全てとり除けたらと思ったよ」

彼らは叩きつぶされるが、再び起き上がる。ザ・プリティ・シングスは単なる英国最長勤続ロック・バンドの1つではない。彼らはもっとも頑固だ。『Emotions』での挫折のあと、バンドはEMIレコードへ移籍し、アビー・ロードのスタジオでザ・ビートルズとピンク・フロイドのとなりの部屋で仕事をすることになった。そういった刺激のあるレコード会社の影響下で(さらに他のある‘ブツ’の影響下で)、彼らはこのシリーズの次に当たる傑作レコードを作り続けることになった…


Paul Du Noyer


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