Welcome to my homepage


Pretty Things/Get The Picture?/2002 Repertoire Records REP 4928



1965年12月、セカンドLPのリリースまでに、プリティ・シングスはブリテンのモラル衰退を象徴する5人となっていた。当時の国としてはどれほど衝撃的なことだったかは忘れられがちだが、LP『Get The Picture』はほとんど生意気な気楽さでもって、タブロイド紙の激怒を引き出した社会的部外者たちによる作品だった。3枚のヒット・シングルと一触即発のファーストLP(このシリーズで入手可能だ)は、彼らをポップ界ののけ者にしていた。もしローリング・ストーンズがよくいわれるように、ビートルズよりも危険な存在だったとしたら、プリティ・シングスは徹底的に生命を脅かすものとしてみなされていた。「彼らが最初だったね」 初期のマネージャー、ブライアン・モリソンは断言する。「彼らの髪はストーンズよりも長かったし、ストーンズよりもさらにダーティーだった」

凶暴、ぼさぼさ頭、堕落。バンドは喜んでこれらの賛辞を認めるだろうが、彼らはでっち上げと呼ばれることには躊躇するだろう。「僕たちは自然に評判を集めたと思う」 今なおブリテン最高のR&Bヴォイスの1人であるシンガーのフィル・メイは主張する。「話がつけ加えられたとは思わないね」 30年以上の相棒であるギタリストのディック・テイラーは同意する。「具体的にいえば、ニュース・オブ・ザ・ワールド(英国の日曜大衆紙)は僕たちを見に来たんだ。なぜなら彼らはあらゆる人種を発見しようと考えていたから。宣伝マシンなんて必要としなかったんだ」 それでもブライアン・モリソンはメディア向けのスポークスマンとして宣伝したのは一度ではないことを認めている。「僕たちは宣伝のためにやったんだ。僕たちは窓から物を放り投げたり、ホテルをめちゃめちゃにしたり、あのオアシス(訳注:90sの英クズバンド―しつこい)が今もやってるようなことをでっち上げた。プリティ・シングスはそういう犯罪者集団の元祖だった。プレスに電話をかけて、連中がドアの外に群がるってわけ。すると当然どの新聞の第一面にもそれが載る。そのあとは正直いって、そういうことをやってくうちに人々が勝手に作り上げていったんだ」

しかしもちろん疑いもなく明らかなのは、プリティ・シングスの音楽のパワーだ。アルバム『Get The Picture』はデビューLPのほんの数ヶ月後にリリースされた。その時、ブリテンはアメリカの黒人ブルースをひっさげたこのホワイト・ボーイに震撼した。ローリング・ストーンズを生み出したロンドン郊外のアート・スクールの学生たちと同じ地区で結成されたメイとテイラーのグループは、パンクが発明される前からパンクスであり、続くあらゆるガレージ・バンドの源だった。“Rosalyn”、“Don’t Bring Me Down”、そして“Honey I Need”のチャート上の成功は、彼らをスターダムと悪名に導いていた―フィル・メイは‘ブリテンで最も長い髪をした男’として、崇敬と罵倒の対象だった―そして彼らはセカンド・アルバムをレコーディングするために、とびきり上等な4日間が与えられた。フィルとディックといっしょだったのが、ベーシストのジョン・スタックスとリズム・ギタリストのブライアン・ペンドルトンだった。しかしヴィヴ・プリンス―あの伝説的に凶暴な人物であり、今なおその名は強者たちの顔を真っ青にさせる―のドラム・ストゥールは時折、不気味に空席となっていた。彼はこのアルバムの数曲を叩いているが、他は彼の替え玉であり、バンドの友人だったスキップ・アラン、もしくはグループのプロデューサーだったボビー・グレアムが叩いている。ディックは回想する―「P.J.プロビーの家か何かにいてヴィヴは起きてこなかったんじゃないかと思う」 フィル・メイは異なる記憶をもっている―「ニュージーランドではぐれたんじゃなかったっけ?奴は僕らといっしょに帰ってこなかった。ヴィヴは僕たちが飛行機に乗りこんだ時につまみ出されたんだ」 『Get The Picture』は大部分がスタノップ・プレイスにあるフィリップス・レコードのスタジオでレコーディングされた。すでにそこでバンドはデビュー・アルバムと数曲のシングル、EP収録曲を録音していた(その多くはこのCDのボーナス・トラックで聞ける)。「あの時までに僕たちは快適に過ごしていた」 彼らは認める。「僕たちは常習犯だった」

彼らがスタジオという快適な場を手に入れたことは、“Can’t Stand The Pain”といったトラックを聞けばわかる。エコーが効いていて雰囲気があり、ライヴ・セットから編曲したというより、レコーディングに対してじかに理解し、初期プリティーズのやり方によって極度に洗練されている。それでも現在のプロデューサー/マネージャーのマーク・セント・ジョンは述べている。「その時はプロダクションについては誰もそれほど心配しちゃいなかった。最初の2枚のアルバムは真に攻撃的で怪物みたいなレコードだ。聴けばやっていることが手にとるようにわかる。何も隠すようなことはしていないからね。直に入ってきて直に反応できるんだ」 チャート上をにぎわせていた他のヒット曲とは違い、グループはセッション・マンを使わなかった。しかしジャラジャラと鳴る“You Don’t Believe Me”のライター・クレジットに、当時一流セッション・ギタリストだったジミー・ペイジの名があることに気づくだろう。彼はバンドに曲の構成について手助けをしたが、そのトラックでプレイはしていないと彼らは確信している。しかしながら、ディックは“We’ll Play House”でとり入れたかったメロディックなフレーズを弾くために、ペイジのギターを借りた。その間、そのタイトルが示すように(play house:ままごとをする)、バンドはありふれたR&Bのカヴァーやお決まりのティン・パン・アレイ・ナンバーに頼らず、急速にソングライターとして力をつけていった。「僕たちが奮闘中だったのは認めるね」 メイはいう。「僕たちのところへやってきて本当にクソみたいな曲を聞かせる奴らがいたんだ。僕たちは‘くそったれ!それなら自分たちでやってやろうじゃないか’って思ったんだ」

彼ら自身の詩才の感じられる、メイとテイラーが創り上げた“LSD”というタイトルのつけられた歌は、あるいは必然だったのかもしれない。これは単なるデモであり、彼らにいわせれば約25秒で書かれた歌だ。しかし彼らはこれを再びレコーディングするには至らなかった。

それでもこれは伝統的なプリティ・シングスのスキャンダルをけしかけるのに十分だった。「僕たちはうまくやってのけると思っていた」 フィル・メイは、LSDは英国の旧通貨単位であるポンド=シリング=ペンスの意味もあるとして弁解する。「でもプレスの総攻撃にあった。英国の製薬協会はラジオで流すのを禁止することを求めて、大きな記事を書いた。それで放送禁止になった。LSDはあの時点で違法でさえなかったし、単なる精神薬だったんだ」 1965年終わりの時点で、アシッドということばを聞いたことのある者はほとんどいなかったし、レコード自体がまだ‘サイケデリア’の前の段階だった。しかし新種の厄介事となると、例によってプリティ・シングスが矢面に立つことになった。

ファースト・アルバムの熾烈なブルース・ロックのあとの『Get The Picture』は、スタイリスティックな多様性を示している。テイラー作の“London Town”は、疑似フォークの匂いをもっているが、ひょっとすると、最も顕著な影響はソウル・ミュージックかもしれない。「僕たちはその頃までに、マンチェスターのようなイングランド北部のいろんなところでプレイしていた」 ディックは回想する。「あとフラミンゴとかディスコテック(ナイトクラブ)みたいなところにも行っていた。モッド色の強いものが流行りだしていて、ソウルはその中でも特に際立っていた」 フィル:「ハーロー(イングランド南東部)のインフェルノみたいなところで、1200人のモッズの前でプレイしたね。夜通し、ギタリスト、ベーシスト、ドラマー、1人のサックス・プレーヤー、そしてハモンド・オルガン奏者っていう編成のたくさんのグループが、みんなオーティス・レディングやソロモン・バークをカヴァーしていた」 特にテイラーはすばやくブラック・アメリカの新しいサウンドをプリティーズの中へとり込み、レイ・チャールズのシングル、“I Had A Dream”にとびついた。ルーファス・トーマスの“Walkin’ The Dog”をカヴァーする計画はストーンズが最初にやってしまったため、くじかれてしまったが、彼らはソロモン・バークの“Cry To Me”に全力でとり組んだ―ストーンズが同曲をリリースしたが、28位で止まってしまっただけだった。同じソウル・グルーヴ路線が、プリティーズ5枚目のシングルで、わめきちらすような“Midnight To Six Man”だった。これはグリン・ジョンズがロンドンのポートランド・プレイスにあるIBCスタジオの卓に座り、真夜中に何らかの理由で作られていた(「奇妙なことに、僕たちはこれを実際に夜中から朝の6時の間にレコーディングしたと思う」 ディックはいう)。ゲスト・ピアニストはニッキー・ホプキンズだ。オルガニストは‘ゴールディー&ザ・ジンジャーブレッズ’からだったが、ヴィヴ・プリンスは今や公式に元プリティ・シングとなり、彼の代役だったスキップ・アランがパーマネントなメンバーとなっていた。

まだレコードは実際のツアー・ビジネスより下の、副次的なものとして考えられていた時代だった。したがって、アルバム『Get The Picture』がリリース待ちの状態で、バンドは再びダンス・クラブ、ボールルーム、そして地方の映画館に精を出していた(このディスクのエンハンスト・セクションでは、ロンドンの‘100クラブ’でプレイするグループの珍しい姿が見られる)。パッケージ・ツアーは不思議なとり合わせで知られていた。「本当に奇妙なビラだったね」 フィルは顔をしかめる。「僕たちはビリー・フューリー、ザ・ロッキン・ベリーズ、PJプロビーといっしょに出ていたんだ」 ディック・テイラー:「僕たちのキャリアのハイライトは、マット・モンローといっしょにワイト島でプレイした時だった… あと僕たちはエンゲルベルト・フンパーディンク(トム・ジョーンズ・タイプの英ポピュラー・シンガー)といっしょにブリュッセルのテレビ番組に出演した。彼は髪をのばしてマリファナを吸いたがっていて、本当に気が動転していた。『オレはヒッピーになりたい』なんていってたよ」

マーク・セント・ジョンはいう―「僕たちはミドル・クラスじゃなくて、ほとんどワーキング・クラスだった。当時、実際に週20ポンド稼いでフォード・コンスル(英国製のフォード車)に乗って国中を回って、動くものは何でもぶっこわして、首が絞まるほどブラウン・エールを飲んで、週末にはラム・アンド・コークさえ飲んで、そして自分たちの音楽をやるなんて、まるで夢のようだったな…」

彼の前任者であるブライアン・モリソンは、やはりノスタルジックに回想している:「すばらしい時代だった。ちょっと想像してみなよ。22歳でアート・スクールを出たばかりだったんだ。世界中を回って、そこには叫び声を上げるキッズたちがいる。つまりあのバンドは僕を狂わせたんだ。なぜなら僕はちゃんとした契約を結んでいなくて、彼らはいつも僕を脅していたからだ。でもすばらしいなんてもんじゃないね!僕はいつもステージ上の彼らをもっともっと凶暴にしようと彼らをけしかけていた。僕はよく彼らに、狂いまくれ!もっとアグレッシヴに!一発かませ!奴らをパニックに陥れろ!なんていっていた。すると暴動になったね」 フィル・メイはたばこに火をつけ、哲学的に表現している―「グッド・ロックンロールは…」 彼は結論づける。「切れ味とか鋭さへ向かうものだ。そしてバッド・ロックンロールとは、あまりに多くのことを考えすぎるものだ。だからたくさんマーケット・リサーチなんかしても何の意味もないね。グレイト・ロックンロール・バンドはみなデンジャラスだった。僕が今までゾクゾクしたグレイトなナンバーは、どれも針金みたいにやせる要素をもっていた。その興奮は作るものなんかじゃない。それはカー・レースのコーナーを本来より5マイル速く曲がる者たちのことなんだ…」

あいにく、プリティ・シングスはキャリアの中でもっとも鋭いカーブに近づいていた。もちろん彼らはスピードをゆるめたりはしなかった。彼らの次の停泊地は、サイケデリアのトリップ・ガーデンだった。フラワー・チルドレンはいったい何が彼らに襲いかかってきたのかわからなかった…


Paul Du Noyer


ホームへ