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Pretty Things/The Pretty Things/2002 Repertoire Records REP 4927



ザ・プリティ・シングスのファースト・アルバムのセッションは大惨事の連続によって、大失敗プロジェクトとして始まった(ある意味、続く彼らの長くすさまじいキャリアのひな型を最初に設定していた)。フォンタナ・レコードのボス、ジャック・ベイヴァーストックは、最近レーベルと契約を交わした5人の手に負えない若者たち―リズム&ブルース好きで破壊行為もいとわない無軌道な連中―によるデビューLPを監視するために到着していた。「彼は30分僕たちといっしょにいたあと出て行った」 プリティ・シングスのシンガー、フィル・メイは回想する(33年歳をとり、あるいは少し賢くなったかもしれないが、完全に悔い改めたわけではない)。「彼は2階へ上がってこういった―『動物どもといっしょにいるつもりはない!』 それから僕たちはそこにプロデューサー不在で30分間いただけだった。ヴィヴはドラムにゲロを吐いて2度転倒した…」

そういった見込みのなさそうなスタート時点から、ザ・シングスは当時恐ろしいほどの存在だった分、今日ではうきうきするような音を聞かせる、途方もないパワーを奮い立たせていた。ヴィヴ・プリンスは自分のドラム・ストゥールに再び腰かけ、新しいプロデューサーはその建物の中から選ばれ、続く2日間にわたり、この不機嫌な連中はあなたが今このCDパッケージで聞いているどえらいレコードを作り上げた。そのデビュー・アルバム『The Pretty Things』は1965年3月にリリースされた。その時でも、そして今でも、これは砲撃サウンドへ向かって進軍するのが大好きな一団のレコードだった。

仲間だったローリング・ストーンズよりもいっそう、ザ・プリティ・シングスはブリティッシュ・ポップのメインストリームに黒人音楽のむき出しの濃厚さを持ち込んだ。あの狂乱の48時間で彼らはLPを完成させ、とりわけその中に入っている一握りのヒット・シングルで、彼らはロックンロールの発展における重要な瞬間をとらえていた。オリジナルの黒人ヴァージョンを耳当たりよく作り直しヒットさせる白人アーチストの伝統はすでにあったが、プリティーズは実際、オリジナルよりも野蛮な音に作り変えていた。間違いなく、彼らは全世代のガレージ・バンドの原型だった。ミシシッピ・デルタのルーツと、シカゴのチェス・レーベルによるガツンと電化されたサウンドは、このバンドによってラフで本能的なやり方へと作り変えられ、以来それはザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとMC5、パンク・ロック、そしてラモーンズからニルヴァーナ以降に至るまで絶えずくり返されている。もちろんそれは彼らの計画ではなかった―事実‘プラン’などという考えはプリティ・シングス史のあらゆる段階においても、堂々とするくらいに皆無だった。しかし起こったことは紛れもない事実だった。

1950年代R&Bのバトンが英国の学生たちによってとりあげられたのはロック・ヒストリーの1つの謎だが、プリティーズのギタリスト、ディック・テイラーはブルースの輸入レコードがミック・ジャガー、キース・リチャーズ、そしてフィル・メイといった彼の知り合いの間で、むさぼるように聴かれていたことを覚えている。ディックが最初期のローリング・ストーンズから脱退した時―ちなみに彼はそのことを後悔したことはない―彼とメイはケント州のシドカップ・アート・カレッジで昼食を共にし、自分たちのルーツを現在私たちがこのCDで聞けるような、びっくりするようなノイズへと変形させようと話し合っていた。フィル・メイはどなりつける白人シンガーの‘ダートフォード・アラバマ’派(訳注:わからない。‘イングランドの米南部スタイル’の意か?)の中でジャガーと同等の達人であることが判明した。テイラー/メイのコンビは自分たちと同類の人間を探し、工事現場でゴミ清掃車の運転手をしていたジョン・スタックスに、ベース・プレーヤーとしての素質があることを発見した。フィルはその現場で休暇の間、お茶の給仕係として働いていた。「彼はスタックス・レコードが好きだったから自分の名前を変えていたんだ。リーガル・ゾノフォン(英レコード会社)は嫌いだったのはあっぱれだったね。僕が知っている中で、ショー・ビジネスの名前をつけたゴミ清掃車のドライヴァーなんて彼だけだった」 彼らはスタックスが昼食の話し合いに参加できるように、こっそり彼をアート・スクールの授業に連れ出した。「僕たちはよく彼を製図板の前に座らせた。彼は線を引くことなんてできなかったが、急いで教室から出て行こうとするたびに、僕たちは足や手なんかを小突いていた。彼は3ヶ月間学校にいたけど誰も感づかなかったね」

彼らは長髪が嫌われていた時代にすでに長髪だった。メイは現場の男たちが彼を突き倒し、髪を切れと脅したことを回想する。アート・スクールの学生たちは決して1人でうちへ帰ろうとはしなくなった。地元の若者で2番目のギタリスト、ブライアン・ペンドルトンが募集広告を通じて採用された。ディックは回想する―「僕たちは彼の家に行ったんだけど、僕たちがドアをノックすると彼の母親は『ブライアン!浮浪者の連中があんたに会いに来たよ!』といった。彼は僕たちの中で音楽的に一番しっかりしていたから、すごくいい人選だったね。プレーヤーとして正確性に欠けていた僕とスタクシーとは対照的だった」 セントラル・スクール・オブ・アートで精力的にギグをこなした彼らは、学生興行主のブライアン・モリソンの目に留まり、モリソンは彼らのマネージャーになった。「髪を肩よりも下に伸ばしたこの連中はステージに上がって、自分たちのレパートリーをぶちかました。僕はファンタスティックだと思ったね。当時は認められなかったが、僕はこの連中をマネジメントして週に10ポンド稼げるかもしれないと考えていた」

まもなくバンドはジミー・ダンカンという男に話しかけられ、彼はスターにしてやると約束した。ロンドンのティン・パン・アレイ(ニューヨークのポピュラー音楽業界地区)であるデンマーク・ストリートに出没していたこの熱烈なソングライター志望者は、バンドに真にプロフェッショナルなマネージャーの印象を与えていたが、一方でひそかにある印象を受けていたフィルはいう―「彼はのんだくれだった。実際、彼は階段を上がる時につまずいていたんだ」 彼は不承不承ながらブライアン・モリソンとともに共同プロデューサーとなり、すぐにフォンタナ・レコードにコンタクトをとった。フィル・メイ―「ジミーがそのミーティングを手配したんだけど、僕たちは何も起こらないと確信していた。彼はへべれけだったから。でも僕たちがブライアンといっしょにセントラル・スクール・オブ・アートの反対側にあるカフェに行くと、そこに彼らがそろっているのを見つけたんだ。驚いたことに、そのスーツ一団は契約書を振って合図した。僕たちはジョークかと思ったね」

運が向いてきた時にとったダンカンの次の行動は、熟達した新しいドラマーを紹介することだった。すさまじい音を出す、見事だが気まぐれなヴィヴ・プリンスの加入だ。「彼はバンドを団結させるプロフェッショナルな要素になるだろうと思われて連れてこられたんだ」 フィルはしかめっ面をしていう。「とんだ皮肉だ!僕は奴ほど完全に自由な人間なんて知らないね。奴と比べたらキース・ムーンがおとなしく見えるんだ。キースはザ・ハイ・ナンバーズ(ザ・フーの前身バンド)でギグをやる前に3ヶ月間、ヴィヴのドラム・キットの前に立って奴から学んだんだ」 ブライアン・モリソンはいう―「ヴィヴは完全に気違いじみていた。あの男は7日間眠らずに起きていたことがあった…」

バンドが“Route 66”をプレイしたリージェント・サウンドでのオーディションのあと、フォンタナは親会社フィリップスのスタジオでマーブル・アーチ近くにあったスタノップ・プレイスに彼らの予約を入れた。そこで彼らは破壊的なデビュー・シングル、“Rosalyn”(チャート上では励みとなる41位を記録した)と、トップ10に入った“Don’t Bring Me Down”、そして3枚目のヒット、“Honey I Need”をレコーディングした。奇跡的に、ザ・プリティ・シングスはすぐにポップ・スターとなった。白黒テレビ、ちゃちなトランジスタ・ラジオ、そしてDansette(おそらく商標)のポータブル・レコード・プレーヤーから、フィル・メイのけたたましく怒鳴りつけるようなことばで歌う声、ディック・テイラーのとげのあるギター、そしてプリティ・シングスの野蛮で強烈なアンサンブルが飛び出してきた。突然、そのノイズがそこいら中にあふれ、それはLPを作る絶好のタイミングであった。彼らにはLP制作のために丸2日間が与えられた。フィル・メイ:「僕たちは一晩中、車を運転してリーズのギグから移動して、次の会場が9時に開くまでヴァンの中で待機していた。それからまたどこかへ向けて出発しなきゃならなかった。で、そのギグが終わると再び戻ってきた。睡眠はヴァンの中だったね」

バンドが許されるプレイがどれくらいの音量かについては、すぐに口論が起きた。「全ての音を小さくしなきゃならなかったのは苦痛だったね」 ディックは不満をもらしている。「Vox 30sアンプはオーヴァードライヴさせなきゃ、いいサウンドが出なかったから」 フォンタナのジャック・ベイヴァーストックは喜んでプロデューサーの椅子をセッション・ドラマーのボビー・グレアムに譲った。グレアムはプリティ・シングスのブランドである原始志向に深い感銘を示していた。メイはいう―「レベル・メーターの針がレッド・ゾーンに入らない限り、ジャックは満足だった。一方のボビーはいいこともあれば悪いこともあるという立場をとっていた―『うん、私たちはいくらか鮮明さを失うかもしれないが、少なくともいくらかすごいものを手に入れるだろう』ってね。もちろん僕たちは技術的な問題なんて考えちゃいなかった」(「何も変わっていないよ」 現在のプロデューサー/マネージャーであるマーク・セント・ジョンはため息をついている) またボビー・グレアムはこのLPのどこかでドラムを叩いている可能性がある。ひょっとすると、ヴィヴ・プリンスが再びドラムの椅子からひっくり返ったあと、“Baby Doll”でプレイしているかもしれない。「彼はうしろへまっすぐ倒れて、僕たちが彼のところへかけつけるともう意識はなかったね…」

このアルバムのスピリチュアル・ゴッドファーザーは実はボ・ディドリーである。ディドリーのクレジット(Ellas McDaniel)は何曲かのトラックで見られるが、彼の影響はその範囲だけではない。まさにバンド名は、ここでカヴァーされ、フィルの感謝のつぶやきをもって最後を締めくくるディドリー作品(“Pretty Thing”)からとられている。ボの“Road Runner”は彼らの事実上の代表曲となった。ディックは彼らがボの真似をすることを気に入っている―「なぜかっていうと、彼はめったにコードを変えなかったからだ」 しかしボの専売特許である‘ジャングル’リズムを直感的にひっぱってきたことは、たしかにキーとなる要素だった。ボ・ディドリーについては、バンドはファンク及びラップ・ミュージックとともにその先祖を共有している。ファンクもラップもロックンロール同様、この男のヴィジョンに大いに恩義がある。ローリング・ストーンズはチェス・レーベルの中でボよりもコマーシャルな存在だったチャック・ベリーの一番弟子だったが、ボはシングスの親分だった。ジミー・ダンカンが、彼の書いた“Rosalyn”を披露し、グループがそれを原型をとどめないくらいにディドリー化したとたん、その歌は新しい生命を帯びた。

“Unknown Blues”はバンドのオリジナルで、大部分はその場で急ごしらえされた。ブライアン・モリソンは“Judgement Day”に寄与した(「僕が?思い出せないな。たぶん彼らといっしょに酔っぱらっていたんだろう」)。しかしグループはこの段階では大部分、外部のソングライターに頼っていた。そういった作曲家の1人がジョニー・ディーで、彼は続く重要なシングル、“Don’t Bring Me Down”を提供した。フィル・メイ:「ジョニー・ディーはP. J.プロビーのコピーだった。彼はカウボーイ・ハットをかぶって、ピンクのキャディラックに乗ってデンマーク・ストリートに現われた。彼はアメリカン・アクセントで話していたが、ダーリントン出身だったと思う。彼はインディアンのスー族の生れだといい張っていたが、次に会うとチェロキー族だといったんだ」 ここでボーナス・トラックとしてフィーチャーされたもう1つのディー・ソングが、“Get Yourself Home”だ。これはリージェント・サウンドでレコーディングされ、3枚目のシングル候補となったが、“Don’t Bring Me Down”に似ていたため却下された。

ブルースのカヴァーのストックが少なくなり、彼らの歌を整え始めたティン・パン・アレイの作曲家たちにゾッとするようになったグループは、自分たち自身のマテリアルにとり組み始め、生まれたのが、傑作“Honey I Need”だ。もう1曲のオリジナルが、スリム・ハーポの要素が濃厚ではあるが、バンドがストーンズのブライアン・ジョーンズと同じベルグレイヴィアの住所に住んでいたことから名づけられた“13 Chester Street”だ。「ウェストミンスターの公爵が所有していたところだった」 フィルは回想する。「おかしなことに、そこはエリザベス王女とギリシアのフィリップがよくお茶を飲みにきていたところだったんだ。僕たちはそこを借りていたんだけど、通りに止めてあったロールス・ロイスのとなりに、僕たちが塗装しまくった車を駐車したのを彼らが我慢できなくて、結局僕らは追い出された。パーティーやら警察の手入れなんかも同様にね」(しかしブライアン・モリソンは単に賃貸契約が切れただけあり、彼が長髪たちのいんちきの“追い立て”を作り、タブロイド紙の狂乱をでっち上げたと考えている)

初めて自分たちのアルバムを聞いた彼らはがっかりしてしまった。「僕は橋から身を投げたいと思ったね」 ディック・テイラーは嘆く。「いくつかは気に入ったが、いくつかは全くダメだと思った。なぜならこじんまりとまとまったようなサウンドだったから。僕が気に入ったトラックと比べると、技術的な限界を感じた」 フィル・メイも同意する:「レコードの音じゃなかった。混乱して聞こえたんだ。僕たちの破滅の原因になると思った。つまり例えばローリング・ストーンズのレコードを聴いて、それから他の誰かのレコードを聴く。それから僕たちのレコードを聴くと、‘ひでえ!’と思うだろうってこと。でもあの時のむき出しのエネルギーは他のレコードでは聞けないものだった。僕たちは他の人たちが技術的にうまくやったことで失っていたものを提示することで、ふさわしい視点をもっていた」 それに加え、彼らはそれがたとえ混乱したものだとしても、少なくとも彼らなりの混乱であり、今なお彼らはセッション・マンを起用しなかったことを堂々と発言できると考えている。

欠点含めたありのままのそのLPは、1965年春にトップ10に入った。そして1960年代とその後を通じての、ザ・プリティ・シングスの壮大な旅が始まった。そこにはさらに輝かしい音楽が生まれることになった―あなたはこのリリース・シリーズでそれを聞くことができるのだ―しかしそれは気弱な旅などではなかった。


Paul Du Noyer


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