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Plainsong/Plainsong/2005 Perfect Pitch Productions(USA) water149



プレインソング結成の記憶 by アンディ・ロバーツ 2005年1月

プレインソングを結成した時、僕らはとにかくまる一ヶ月はきっちりリハーサルをしようと考えてたよ。で、西ロンドンのシェパーズブッシュ・グリーンから少し離れたところにある、バンボロー・ガーデンの小屋をリハーサルのためにおさえたんだ。僕らはチャーリー・ワトキンスの最新P.A.機材と、ハリー・アイルズのミキシングで、毎日本当によく働いた。当時5チャンネルのオーディオマスター・ミキサーってあったの覚えてる?僕たちはそれを2つもっていた!イアンは音楽について並外れた知識を持っていたね。僕はインターナショナル・サブマリン・バンドや、ポール・シーベルは全く聞いたことがなかった。その年の1月からのノートブックをまだ持ってるよ。そこには僕らが試した曲の詞やキーが載ってるんだ。ギグを開始してすぐに僕は、アメリア・イアーハートに関するフレッド・ガーナーの本を見つけた。僕らはステージでその物語をやってみることにしたんだ。“Amelia Earhart's Last Fright”はディラード&クラークで知ったんだけど、そこにはオリジナル・ソングはレッド・リヴァー・デイヴのアルバムに入っているとあったんだ。あの年を振り返ってみると、あの当時音楽的に僕らが経験したことは驚きの数々だったね。僕自身その時以来あんなに学んだことはないね!

プレインソング:過去、現在、そして未来

パット・トーマス:君はマシューズ・サザン・コンフォートを抜けた後、2枚のソロ・アルバムを作ってからプレインソングを結成したね。その結成について聞きたいんだけど、僕が思うに君は最初アンディ・ロバーツと組んで、そのあと残りのメンバーを集めたんだよね?

イアン・マシューズ:そうだよ、基本的には。僕はアンディ、リチャード・トンプソン、それにアメリカ人のベース・プレイヤー兼ツアー・マネージャーのボブ・ロンガと一緒に、僕のアルバム‘If You Saw Thro' My Eyes’のためのツアーをやっていて、その時はアメリカに住んでたんだ。アンディと僕はツアー中にバンド結成のためにリチャードにメンバーになってくれないかと誘ったんだけど、彼はその話には乗らなかったんだ。ボビーはアンディ、デイヴ・リチャーズと仕事をするためにイギリスに戻ってきた。でアンディと僕がボビーとデイヴにバンドのメンバーにならないかって誘って結成に至ったんだ。

パット:もの凄い速さで結成してたくさんのレパートリーとレコーディングをしたわけだね?

イアン:自分たち自身で全てやったよ。ある日の午後、僕らは“Along Comes Mary”のアレンジを明確な形で考え出したんだ。すぐにレコーディングしたね。このCDで聴ける通りだよ。僕らは自分たちのためにそれをライヴでもすぐにやろうと決めた。で、リハーサルのためにまる2ヶ月間スタジオにこもることにした。その結果僕らは多くのグレイトなナンバーを手にすることができた。アンディと僕は狂ったように曲を書いてはロードに出て人前で演奏した。30ステージ分の曲をやらなくちゃならなかったからね。

パット:そういったナンバーはまずステージで取り上げて、それからアルバムのリリースになったの?それともアルバム・リリースの方が先?

イアン:リリースより先にプレイしてたよ。充分にリハーサルしてたから。オランダにも行って少しツアーして回った。イギリスに戻ってからもね。六つくらいのショーをした後、僕らはレコード会社を招待した。すぐにエレクトラがオファーをくれて喜んで契約したね。

パット:‘In Search Of Amelia Earhart’はコンセプト・アルバムなのか違うのか教えてくれるかい?

イアン:過去においても未来においてもあれはコンセプト・アルバムとはいえないだろうね。アンディと僕は、僕らがアメリアに魅了されたことをみんなに伝えたかったんだ。それであのジャケットにしたんだ。ただある人たちはあれをコンセプト・アルバムだと勘違いしてしまった。でも聴いて分かるように、アメリアのついての曲は2曲だけだから、そこにコンセプトがないことを知るためにロケット工学者になる必要はないってことだよ。

パット:君はいつも隠れたソングライターの埋もれた名曲を見つけてきてカヴァーしてきたよね。プレインソングも例外じゃない。

イアン:そうだね。僕はいつもどん欲に歌とアーチストを探してきた。音楽に対して抑えられない欲求を持ってて、それは今までずっとそうだったよ。

パット:どうやってそういった曲を見つけてくるの?その曲の何が君にインスパイアを与えるんだい?

イアン:別に難しいことじゃないよ。偉大な曲は詞やメロディに魅力を感じるからね。僕は音楽的スキルの欠如はあるけど、いい曲に対する第六感を持ってるみたいだね。それをずっと保ち続けられているのはラッキーなことだな。

パット:ポール・シーベルの書いた“Louise”―もちろんエレクトラ・レーベルの仲間だけど―個人的に彼のことを知ってた?

イアン:彼にはプレインソングの初期にちょっと会ったことがあるんだ。で僕は彼に会ってバンドに引き入れるためにニューヨークへ飛ばされたよ。でも彼はソロ・パフォーマーとしての存在が大きかったから、僕らには合わなかった。彼の音楽は死ぬほど好きだね、でも彼はバンドの一員になるようなタイプじゃなかったんだ。

パット:“Raider”はジェリー・イエスターとジュディ・ヘンスキーの曲だね。彼らは60年代後半に‘Farewell Aldebaran’という隠れた名作をレコーディングした。“Raider”はそのいかしたサイケ・フォークのアルバムからのナンバーだ。このアルバムにはどういう経緯で出会ったの?

イアン:多分アンディがWEAのカタログから見つけてきて、それに僕が関心を持ったんだと思う。しばらく僕らのバイブルになった。そのアルバムにはいくつかのグレイト・ソングが入ってて、その中では“Snowblind”が僕がいつもやりたいと思ってる曲だ。

パット:プレインソングでは君のソロ・アルバム同様、ウェスト・コーストのフォークロックの影響が顕著だよね。プレインソングはジーン・クラークとクリス・ヒルマンの曲もカヴァーした。この二人は他のメンバー含めて君たちに最も影響を与えた人たち?

イアン:特にアンディと僕にね。でも多くは僕を通じてだね。僕はフェアポートを通じて―つまりアシュリー、リチャード、サイモンらのおかげでたくさんのアメリカのコンテンポラリー・シンガーについて学ぶことができたよ。ジョー・ボイドもだ。

パット:プレインソングに加えて君は多くのソロ・アルバムを、サンディ・ロバートンにプロデュースしてもらってるよね。彼とは仲がいいと思うけど、少しサンディと君との関係を話してくれるかい?君のキャリアの中でサンディは重要な存在のようだからね。

イアン:‘If You Saw Thro' My Eyes’をレコーディングしてた時、ポール・サムエル‐スミスと僕との関係はうまくいかなかった。サンディは時々スタジオにアンディとひょっこり立ち寄ったりして、プロデュースに手を貸してた。僕は彼が好きだったし、彼は音楽的感性を持ったアーチストだったんだ。で親友になって僕と僕のマネージャー、ハワードとブレイキーの間の調停役のようになったんだ。彼は、僕の契約上作らなければならなかった最後のヴァーティゴからのアルバム、‘Journeys From Gospel Oak’をプロデュースしてくれた。プレインソングのプロデューサーになったのは自然な流れだったね。僕らのショーは全て見に来たし、(非公式な)5人目のメンバーといえるね。

パット:プレインソングの他の二人のメンバー、デイヴ・リチャーズとボブ・ロンガについて少し話してくれるかい?彼らはプレインソングの前は何をしていて、その後何があったの?

イアン:うん、ロンガについてはさっき説明したとおりだよ。ニュージャージー出身で、ツアー・マネージャーとしてマネージメント会社で働いていた。それで僕のツアーに来ることになった。ニューヨークでのリハーサル中に彼がピアノ(多分!)を弾き始めて、結局ベーシストとしてバンドに加入することになった。おもしろい奴がやって来たと思ったんだけどね。プレインソング時代に彼は酒を飲み始めて、ついにはバンドと共に破滅してしまった。ボビー(ロンガ)とはまたEメールやなんかで去年から連絡を取り始めたよ。ニュージャージーに戻って曲を書いたりプレイしたりしてるらしいよ。デイヴ・リチャーズは、アンディとの仕事を通してだった。彼はしばらくサンディ・デニーのバンドでベースを弾いていた。あとEveryoneでアンディとも一緒だった。彼も素晴らしいピアノを弾くんだ。僕らのステージでも弾いたよ。2年前のプレインソングのショーで偶然彼と再会したんだ。彼がバンドを去った時、彼とはお互いほとんど口を利かなかったんだ。ひどい口論があってね。一時期アイルランドに住んでいたとアンディに聞いたことがある。

パット:70年初頭のイングランドでは、フェアポート・コンヴェンション・ファミリーの周りに小さなフォークロックのコミュニティがあったように思えるね。‘Amelia’のアルバムでは、リチャード&リンダ・トンプソンと、ちょっとこれは確かじゃないけどサンディ・デニーで叩いていたティミ・ドナルドがドラムスだよね。それからもっと大きなフォーク・サークルでいえば、君はフェアポートのドラマー、デイヴ・マタックスにも叩いてもらってるよね。なんと君とデイヴはフェアポートで一緒だった時期はないんだよね!

イアン:そう思う。僕らは単に彼らのプレイが本当に好きだったから参加してもらったし、多分サンディもリチャードもそうだと思うね。ティミは飾り気のないファンキーなプレイ・スタイルで、グレイトなドラマーだった。最後にティミのことを聞いたのは、再びスコットランドに戻ってドナルド・サザーランドというバンドでギャヴィン・サザーランドと仕事をしているということだった。でも数週間だけだったようだ。僕がアメリカに移住してからは、昔の多くの仲間たちと連絡が途絶えてしまった。何人かは再び連絡を取り始めたんだけど、他の人は途絶えたままだよ。

パット:オリジナル・プレインソングはどのくらい続いたの?ある一時期、短期間にたくさんのことを成し遂げたような感じだね。2枚のアルバムを作ってツアーをこなして・・・

イアン:多分約1年!ほとんどのことは1972年に起こったはずだ。僕がカリフォルニアに移る73年の1月までだからね。

パット:なぜバンドは終わってしまったの?

イアン:それがよくわからないんだ。多分いろんな理由があったと思うけど、一番は僕がジャック・ホルツマンに僕のことをソロ・アーチストとして認めさせようとしたことだと思う。カリフォルニアは僕にとってとても魅力的なところだったし、チャンスもあったから。そこに飛び込まずにいられなかった。メンバーたちにどう言ったか分からないけど、こそこそ逃げ出したんだと思う。マイク・ネスミスとのレコーディング中にデイヴ・リチャーズから電話があって、罵倒を浴びせられてね。僕はどう応えたか分からないけど、それから15年間皆と縁を切ってしまった。

パット:君とアンディは1990年代初めに、違うラインナップでプレインソングを再編したよね。そのいきさつと現在の状況は?

イアン:僕は90年代にマーク・ホールマンとブライトンでショーをしてた。そこで突然アンディと再会したんだ。グレイトな出来事だったよ。過去のわだかまりとか恨みは吹き飛んでしまったね。彼は翌日ロンドンにやってきて僕らと一緒にステージに立った。また連絡を取り合うようになったんだ。僕らは過去の決裂のことについて話し合って、また元に戻ることに決めたんだ。数ヵ月後彼に電話して、もし僕と一緒にドイツ・ツアーをしてくれるなら会ってくれないかと聞いた。その頃はまさに過去の出来事を癒す期間だった。僕らはプレインソングの旅を完結させてどこまでいけるか見届けることに決めた。僕はグリフにバンドに興味があるかどうか電話してみたよ。ジュリアン・ドウソンがこの計画の最後のパイだった。僕らが3人目のライター/シンガーを探してた時に、彼のハーモニカ・プレイにも興味をひかれて加入してもらったよ。彼は3枚のアルバムに参加してからソロの仕事をするために脱退した。僕はずっとクライヴ・グレッグソンをすごく称賛していた―エニィ・トラブルのアルバムなんかのね。ジョン・ウッドが僕らをまとめてくれると考えていたよ。そこで、今は僕らの最高傑作(多分)だと思っているアルバム、‘New Place Now’のためにクライヴを呼んだんだ。それからクライヴは次のステップに進んで、ジュリアンが今度は戻ってきて、2年前に‘Pangolin's’をレコーディングした。

僕はプレインソングが消滅したわけではないと思うよ。今は活動してないけど、誰も辞めるとはいってないし皆自分たちのプロジェクトもしてないしね。ただジュリアンはニッキー・ホプキンスについての本を書いてたけどね。アンディは自分のプロダクションの仕事を持っている。マークはハンク・マーヴィンと共にどこかでオフを取っている。僕はここ南オランダでじっと思案中だ。今世紀中に何かやることは話し合ってるよ。グレイトなライヴ・アルバムがリリース待ちなんだ。まあ時が解決してくれるだろうね。

―対談:パット・トーマス、イアン・マシューズ 2005年1月


In Search Of Amelia Earhart

1932年、アメリア・エアハートは女性として初めて大西洋横断ソロ飛行に成功した。彼女のヒロインとしての地位は、1935年に彼女が初めてハワイからカリフォルニアまで太平洋横断ソロ飛行を成し遂げた時に世界中で認められた。1937年、ナビゲーターのフレデリック・ヌーナンとともに、彼女は東回りの世界一周を企てた。彼らは5月20日にカリフォルニア州オークランドを飛び立った。

7月1日までにアメリアとフレッドはニューギニアのラエに達し、翌日彼らはハウランド島(太平洋中部フェニックス諸島北部)に向けて2,556マイルをひと飛びすべく国際日付変更線を横切り、昨日へ向かって飛んだ。ただ彼らが到着することはなかった。

アメリアのためにハウランドに仮設滑走路を建設し、彼らの飛行を援助していたアメリカ政府は、十隻以上の軍船を急行させ、一ヶ月間ハウランド海域を捜索させるほど、開拓者たちの安否を気遣っていた。しかし結局、アメリカ人飛行士のファースト・レディが跡形もなく消えてしまったことを発表しなければならなくなってしまった。

アメリアの最後のフライトは歴史の中に埋没してしまったが、1960年になってサンフランシスコのKCBSラジオのリポーター、フレデリック・ガーナーが、1937年のマリアナ諸島の島サイパンに、2人の白人飛行士がいたという情報を手に入れた。彼は戦時中のサイパンで戦っていた人たちの中に、アメリアの飛行に関する何らかの目撃をした現地の人たちがいたのではないかと仮説を立て、ひょっとすると彼女の行方の謎を解明する手がかりが得られるかもしれないと考えた。1966年までにフレッドは以下の可能性/推測に基づいて多くの証拠となるものを収集していた。まずアメリアが乗っていたツイン・エンジンのロッキード・エレクトラ飛行機は、当時公表されていたより、はるかに長距離飛行が可能で速度も速く、それが当時撮影された飛行中の写真と合致していた。

アメリアとヌーナンは偶然か故意か、日本軍が占領していたマーシャル諸島に不時着したが、スパイの容疑をかけられ、サイパンの日本軍部によって身柄を拘束されていた。

アメリア・エアハートはサイパンの獄中で赤痢によって死亡し、フレデリック・ヌーナンは日本軍によって斬首された。

太平洋戦争終結後、サイパンでアメリカ軍によって2人の男女の墓が掘り起こされた形跡がある。

アメリアのロッキード・エレクトラは1945年にサイパンの急傾斜地の林で発見され、軍の命令によって回収され、ガソリンをかけられ焼かれた。

1937年アメリカ政府はアメリアとフレッド・ヌーナンが捕虜となっていたことを知っていたが、太平洋上で不意に起こった最初の日本軍との衝突と、政治的困惑を避けるために真実を公表することを差し控えた。

―In Search of Amelia Earhart by Fred Goerner


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