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Pink Fairies/What A Bunch Of Sweeties/2002 Universal Music 589 551-2



あてにならないロック・ヒストリーの観察者たちは、アナーキックでラウドなコンセプトを主張する音楽の始まりはザ・セックス・ピストルズ、ザ・ダムドらによるパンク・ロック・ムーヴメント誕生によっておよそ1976年あたりに端を発するというに違いない。しかしながら、ロンドンのラドブルック・グローヴを出自に持つあるひとつのバンドと1960年代後半のヒッピー・カウンター・カルチャーが、逆立てた頭髪や皮ジーンズ、そしてアナーキーな記号のゴッドファーザーであったことは強く主張できるだろう。パンクスがどんな姿勢を持っていたにせよ、ピンク・フェアリーズは何年も前からすでにそれを身につけていたし、彼らのラウドな政治的、社会的声明はその音楽的な技量不足を補い、ブリテン都市近郊の音楽的なアナーキスト新世代へ影響を与えていた。

1971年、ポリドール・レコーズと契約したフェアリーズは、そのレーベルに独創的な3枚のアルバムを残した。“Neverneverland”、“What a Bunch of Sweeties”そして“Kings of Oblivion”は全て、当時のアンダーグラウンド・プレスによって画期的事件として称賛を持って迎えられ、今なおこのジャンルの古典として君臨し続けている。

1971年5月、ポリドール・レコーズから“Neverneverland”(最初の100枚プレスはピンク色のヴィニール盤、独自のインナー・スリーヴ、コーティングされた見開きジャケットだった)をリリースしたピンク・フェアリーズ(メンバーはジョン“トゥインク”アルダーがドラムスとヴォーカル、ポール・ルドルフがギターとヴォーカル、ダンカン・サンダーソンがベース、そしてラッセル・ハンターがドラムス)は、仲間のホークウィンドと共に70年代初頭のUKアンダーグラウンド・シーンの人気グループとして確固たる地位を確立した。バンドはデビュー・アルバムをプロモートするためにUK、ヨーロッパ・ツアーに乗り出し、トゥインクは行く先々で“ピンク・フェアリーズが飛ぶ”というピンク・ペイントをスプレーして回る役目を引き受けバンドを活気づかせていた!

1971年夏の最も有名なパフォーマンスのひとつが、当に最初のグラストンベリー・フェスティヴァル、the Glastonbury Fayreであった。6月20日から4日間以上に渡って開かれ、ピンク・フェアリーズは6月23日にステージを務めたが、彼らはフェスティヴァルの周りの敷地で“ピンク・フェアリーズ・マーチング・ドラム・バンド”としてパフォーマンスを敢行し、マリファナでうとうととまどろんでいたおびたたしい数のキャンプを張っていた観客たちの目を覚まさせ、その名を知らしめることとなった。フェアリーズはのちに3枚組アルバム、“Glastonbury Fayre”(1972年にRevelation REV 1/2/3としてリリースされ、これはイヴェント組織からの負債を補う目的でザ・グレイトフル・デッド、ピート・タウンゼンド、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、ゴング、ジ・エドガー・ブロートン・バンドなどから寄贈された楽曲がフィーチャーされていた)に含まれる2曲の傑出したトラックをものにした。その2曲、“Do It”と“Uncle Harry’s Last Freakout”はイヴェントでRevoxの2トラック・テープ・マシンでレコーディングされ、アルバムのブックレットには“紛れもない原始的なレコーディング”と記述されていた。

ああ、しかしピンク・フェアリーズの持っていた崇高なスピリットとアンダーグラウンドで英雄的存在となったステイタスは続かなかった。ジョン“トゥインク”アルダーはモロッコへ旅立つためにバンドを去ることを宣言した。しかしバンド創設者の旅立ちはピンク・フェアリーズにとって致命的打撃とはならなかったのである。

ルドルフ、ハンターそしてサンダーソンはバンドを存続させていくことを選択し、音楽的にはより結合力のあるバンドとなっていった。なるほど彼らの拠点であるノッティンヒルで、フェアリーズは大物ミュージシャンの友人たちをひきつけ、彼らはステージで共演したりリハーサル・スタジオでジャム・セッションに参加したりしていた。それは例えばポール・コゾフ(フリー)、クリス・ウッド(トラフィック)、そしてギタリストのトレヴァー・バートンらが含まれていた。バートンは元ムーヴのメンバーであり、プログレッシヴ・ロック・バンド、Ballsでデニー・レイン、スティーヴ・ギボンズと共に活動しピンク・フェアリーズとは親友であった。バートンは続く数ヶ月間、臨時メンバーとなりラジオ・ワンの番組“In Concert”に出演し、ピンク・フェアリーズのセカンド・アルバムのスタジオ・セッションにも参加した。

トリオとしてのピンク・フェアリーズ初のレコーディング・セッションは、ロンドンのポリドール・スタジオで1971年11月23日にスタートした。バンドはドン・ニックス・ヴァージョンのブルース・ナンバー、“Going Down”に取りかかり、この曲はピンク・フェアリーズのライヴ・レパートリーとしてフィーチャーされることになった。このセルフプロデュース・セッションの詳細なデータは記録されなかったが、30年間使用されずミックスされず放置されたのち、今回このCDリイシューに含まれることになったのである。

アルバムのための次のセッションはベイジング・ストリートのアイランド・スタジオで1972年2月に始まった。最初に取りかかった1曲がジョニー・スミスのロックンロール・スタンダード“Walk Don’t Run”だ。この曲はピンク・フェアリーズ初期からの重要なライヴ・レパートリーであったが、デビュー・アルバムではレコーディングを見送られていた。これはバンドによってかなりの再アレンジがなされることになり、中央の位置にパワフルなギターが“Middle Run”としてオーヴァーダブされることになった。実際にはスタジオでの“ライヴ一発録り”で、多くのテイクの中から全体に見て一番目を引く最良のヴァージョンが選ばれることになった。完全な別テイクは2月2日にレコーディングされたが、それはポリドールのアーカイヴへと棚上げにされ、今回のリイシューでボーナスとして日の目を見ることになった。

トレヴァー・バートンは“Portobello Shuffle”とアルバムのオープニング・ナンバー“Right On, Fight On”でセカンド・ギタリストとして参加した。仮タイトル“That Was It”でレコーディングされたある曲(1972年2月23日)は、ピンク・フェアリーズとホークウィンドがラドブルック・グローヴのA4 Westwayの立体交差の下で行なった名高いフリー・コンサートのひとつで起こった警察による暴力行為に関連している。コンサートは1971年夏のこの地区での毎週末のイヴェントであり、楽しみのよりどころであり(もし君がローカル“フリーク”コミュニティの一員であれば)、不快のよりどころであった(もし君が型にはまった保守的な人間なら)。警察は地方居住者から“テレビの音が聞こえない”という苦情を受けた後、問題のコンサートを中断させた。この時のイヴェントと警察たちの光景は、ホークウィンドの1971年のアルバム“In Search of Space”のジャケットで使用された。そしてこの事件は最高のピンク・フェアリーズのアンセムとなる1曲にインスピレーションを与えた。

1972年3月2日、その曲はユーモアある紹介を受けた。ウーラノス(天:イヴェント名称?)でのコンサートで、これを演奏するに当たってピンク・フェアリーズのプロモーターの要請を詳述する陽気な対話が行なわれた(あるいはこれはマリファナ摂取による所産だったのかもしれない)。もしかするとこれはアルバム中最も悪名高い1曲かもしれない。漫画家ギルバート・シェルトンのアンダーグラウンド人気コミック・ブック、The Fabulous Furry Freak Brothersのラリったユーモアにインスパイアされ、70年代初頭の多くの“集会(Gatherings)”(“Freak Brothers”としての集会)では対話に度々この漫画が引用されていた。実際シェルトンはアルバムA面ラストの“Pigs of Uranus”で詞を共作している。

2枚目のピンク・フェアリーズのアルバム、“What a Bunch of Sweeties”は1972年7月にPolydor 2383 132としてリリースされた。見開きジャケットでインナーバッグはコマ割り漫画で飾られ、UKアルバム・チャートの48位に達した。チャート上の成功によってバンドはコンサート・サーキットへの需要が高まったが、今度はバンド内序列に摩擦が増大するようになっていった。ハンターとサンダーソンによる“サイケデリック”物質の消費にポール・ルドルフが不満を持ったことが摩擦を引き起こした。ついには1972年8月頂点に達し、ルドルフはバンドを脱退した(結局1975年にレミーがホークウィンドのベーシストとして彼と交代した)。彼の後加入したのがあの由緒ある(前科者)ギタリスト、ミック・ウェインだった(以前はデヴィッド・ボウイの最初のバック・バンド、Junior’s Eyes、そして元ティラノザウルス・レックスのパーカッショニストでピンク・フェアリーズの旧友スティーヴ・ピリグリン・トゥック率いる名のないグループにいた)。続く1年間、フェアリーズはアルバムもシングルも出さず、再びトリオとなる前にひとつのコンサートのために短期間4ピース・バンドとして活動した。そしてThe Kings of Oblivion(サード・アルバム)が王位につくことになる。

マーク・パウエル



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