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Pink Fairies/Neverneverland/2002 Universal Music 589 550-2



あてにならないロック・ヒストリーの観察者たちは、アナーキックでラウドなコンセプトを主張する音楽の始まりはザ・セックス・ピストルズ、ザ・ダムドらによるパンク・ロック・ムーヴメント誕生によっておよそ1976年あたりに端を発するというに違いない。しかしながら、ロンドンのラドブルック・グローヴを出自に持つあるひとつのバンドと1960年代後半のヒッピー・カウンター・カルチャーが、逆立てた頭髪や皮ジーンズ、そしてアナーキーな記号のゴッドファーザーであったことは強く主張できるだろう。パンクスがどんな姿勢を持っていたにせよ、ピンク・フェアリーズは何年も前からすでにそれを身につけていたし、彼らのラウドな政治的、社会的声明はその音楽的な技量不足を補い、ブリテン都市近郊の音楽的なアナーキスト新世代へ影響を与えていた。

1971年、ポリドール・レコーズと契約したフェアリーズは、そのレーベルに独創的な3枚のアルバムを残した。“Neverneverland”、“What a Bunch of Sweeties”そして“Kings of Oblivion”は全て、当時のアンダーグラウンド・プレスによって画期的事件として称賛を持って迎えられ、今なおこのジャンルの古典として君臨し続けている。



ピンク・フェアリーズはもうひとつの伝説的なブリティッシュ・アンダーグラウンド・バンド、ザ・ディヴィアンツの媒介者、アート・スクールの学生からカウンター・カルチャーの名士となったミック・ファレンにルーツを持っている。

1967年初め、ニューヨークを拠点とするボヘミアン・ビート詩人であり、ドロップアウツ集団であったザ・ファグスの政治的、社会的で急進的な音楽にインスパイアされたファレンは、The Social Deviantsの名の下、アンダーグラウンドの聴衆に向けてパフォーマンスを行なうべく“ミュージシャンたち”を集めた。そのパフォーマンスは通常、混沌へと退廃していった。バンドは従順なヒッピーたちの“愛と平和”精神からは程遠く、スタイリスティックなものでは全くなかった。代わりに彼らはアンフェタミン常習者、アルコール中毒者、そしてアナーキストのオーディエンスに向かってアピールしていた。

数ヶ月位内にバンド名は短く改められ、ザ・ディヴィアンツのラインナップはより安定したものになった。ミック・ファレンがヴォーカルに落ち着いたことで、イアン“Sid”ビショップがギター、コード・リーズがベース、そしてラッセル・ハンターがドラムスとなった。まもなくこのラインナップにセカンド・ヴォーカリストとしてダンカン“Sandy”サンダーソンが加わった。彼はミック・ファレンとトッテナム・コートのUFOクラブで働いていた。彼らはミドル・アース・クラブでのレギュラー・バンドとなったあと、デモ・テープを配ったがその甲斐もなくメジャー・レコード・レーベルからのオファーはなかった。しかしついに若き大富豪であったナイジェル・サミュエルズが現れ、バンドのレコーディング、プロダクション、そして配給に至るまで投資することに同意した。デビュー・アルバム“Ptoof!”は雑誌“Oz”と“インターナショナル・タイムズ”で広告が打たれ、1967年後半、Underground Impresario(独立レーベル?)のIMP1としてリリースされた。

アルバムはDJジョン・ピールのスリーヴ・ノーツがフィーチャーされ、ロンドンのアンダーグラウンド・シーンに広くアピールすることとなり、アレキサンドラ・パレスでの名高いイヴェント、“14 Hour Technicolour Dream”で脚光を浴びることになった。アルバムはデッカ・レコードがバンドとライセンス契約を結び、1969年に再リリースされるに十分なセールスを上げた。セカンド・アルバム、“Disposable”(SLP 7001)は、シングル、“You Got To Hold On”b/w“Let’s Loot The Supermarket”(Stable STA 5601)とともに1968年、Stableレコーズからリリースされた。それらレコードがリリースされてまもなくシド・ビショップがグループを去り、代わりのギターにカナダ人のポール・ルドルフが加入した。彼の加入を提案したのはディヴィアンツのマネージャー、ジェイミー・マンデルコウで、以前から彼は故郷のヴァンクーヴァーでそのギタリストのことを知っていた。前任ギタリストよりも有能であったルドルフが入ったことにより、バンドは自分たちのレベルに幻滅し、いっそうシリアスに取り組むことを望むようになった。ダンカン・サンダーソンはベース・ギタリストとしての役割を引き受け、このラインナップで1969年トランスアトランティック・レコーズでアルバム、“The Deviants”(TRA 204)をレコーディングした。ミック・ファレンはアンダーグラウンド新聞の記者としての比重が大きくなり始め、その政治的で急進的な姿勢は彼と他のメンバー間の距離を広げることになった。

1969年7月、ポール・ルドルフとミック・ファレンは名うてのアンダーグラウンド・ミュージシャンであったトゥインクと組んだ。彼のソロ・アルバムをセイモア・ステインのアメリカのサイアー・レーベルでレコーディングするためであった。ジョン“Twink”アルダーは、以前サイケデリック・バンドのトゥモロウ(他のメンバーはスティーヴ・ハウ、キース・ウェストそしてジョン“ジュニア”ウッド)でドラムを叩いていた。バンドが解散すると彼はプリティ・シングスに加入し(スキップ・アランの穴埋めのためだった)、伝説的なアルバム“S.F.ソロウ”のレコーディングに参加した。彼は常にアンダーグランドの重要人物であり、1969年春、プリティ・シングスから解雇されたあとソロ・キャリアに進むこととなった。

完成したアルバム、“Think Pink”はディヴィアンツの仲間たちが多くフィーチャーされていた。ファレン、ルドルフ、ローディーのデイヴ“Boss”グッドマン、それにプリティ・シングスのジョン・ポヴェイとウォリー・アレン、ジュニア・ウッドとスティーヴ・ピリグリン・トゥック(ティラノザウルス・レックス)、そしてプリティ・シングスのオリジナル・ドラマー、ヴィヴィアン・プリンスだ。またそこには“ピンク・フェアリーズ・モーターサイクル・クラブとオール・スター・ロックンロール・バンド”とクレジットされていたが、それはつまりディヴィアンツの社交クラブに通っていた堕落した連中を節操なく示したものであり、のちにミック・ファレンによって“drinking club”と呼ばれたスピークイージーに60年代後半に出没したお気に入りのミュージシャンたちを指していた。グループ名はファレンによって付けられたが、彼はジェイミー・マンデルコウが友人のミュージシャンについて書いたショート・ストーリー、“Pink Fairies”からインスパイアされていた。

物語からの引用はアルバム“Think Pink”のアートワークに表れていた。マンデルコウは次のように述べている。“ピンク・フェアリーズは唯一の目標を持っていた。孤独な目的をね。それは世界に光と善をもたらすことだった。それは彼らがMadame Darkness(暗黒界の暗喩?)と彼女の邪悪な力との永遠の戦いを意味するように思われるかもしれない。”アルバム“Think Pink”とジェイミー・マンデルコウのストーリーの両重要性はほぼ1年後に明白となった。

そうこうするうちに1969年の夏の初め、ハイド・パークのフリー・コンサートでのフリートウッド・マックのサポート・アクトとしての出演に続いて、ザ・ディヴィアンツは一連のカナダ・ツアーを引き受けた。しかしヴァンクーヴァーに到着してバンドが知ったのは、カナダのプロモーターが彼らのチケットを安く売ったためにイングランドへ戻るための旅費がなくなってしまったということだった。この障害によってコインランドリーでファレンとディヴィアンツの他のメンバーとの間に言い争いが生じ、その果てにファレンはバンドを解雇されることになった。ファレンはロンドンに戻ることにし、残りのメンバーのポール・ルドルフ、ラッセル・ハンター、ダンカン・サンダーソンそしてローディーの“Boss”グッドマンはライヴの仕事をいくつか手に入れ、結局半年間ほどサンフランシスコのFamily Dogのコミューンに落ち着き、ザ・ディヴィアンツの名でコンサートを行なった。

数千マイル離れた大西洋の反対側でミック・ファレンはトランスアトランティック・レコーズにソロ・アルバム“Mona The Carnivorous Circus”をレコーディングしていた。そこではトゥインクとスティーヴ・ピリグリン(彼はこの時にはマーク・ボランのティラノザウルス・レックスを去っていた)がフィーチャーされていた。ライヴ・ワークと一連の混沌としたアナーキックなショーにより、このバンドは自らをピンク・フェアリーズと名乗った。マンチェスター大学での乱雑極まるコンサートのあと、ミック・ファレンはトゥインク、スティーヴ・ピリグリンと度々言い争いになり、彼はフルタイムの文筆に専念するため音楽から身を引く決心をし、トゥインクは次なる自己の音楽のために去っていった。

ディヴィアンツが避難していたサンフランシスコのFamily Dogのコミューンに1本の電話が入った。それはロンドンに戻りトゥインクとともに新しいグループを結成しようという要請であった。シアトルでの一連のコンサートで儲かったイカれたハンター、ルドルフそしてサンダーソンは、ロンドンへ戻るだけの十分な金を手に入れた。イングランドに戻ったピンク・フェアリーズのラインナップは、ポール・ルドルフ(ギター、ヴォーカル)、ダンカン・サンダーソン(ベース、ヴォーカル)、ラッセル・ハンター(ドラムス)となった。ツイン・ドラムのコンセプトはあるいは計画的というよりアクシデントによるものだったのかもしれない。トゥインクの元々の考えはサンダーソン、ルドルフとバンドを結成するというものであったが、ハンターがバンドに残ることを強く主張したために、二者によるパーカッシヴなアプローチが展開されるようになったのである。

最初の公式のピンク・フェアリーズのコンサートは、1970年春ロンドンのチョーク・ファームにあるザ・ラウンドハウスで行なわれた。バンドはまもなく他の当時のアンダーグラウンドを牽引していたバンド―ホークウィンドやジ・エドガー・ブロートン・バンドらとともにポスターの常連となった。これらバンドはみな政治的、社会的理念から多くのフリー・コンサートを実行し“民衆のバンド”としての名声を持っていた。初期ピンク・フェアリーズのレパートリーは、トゥインクの“10,000 Words in a Cardboard Box”や、ジェファーソン・エアプレインの“3/5 of a Mile in Ten Seconds”のカヴァーなどから構成されていた。その夏、フェアリーズはワイト島フェスティヴァルとバース・フェスティヴァル両方に出演した。両イヴェントでの彼らのパフォーマンスは発電機を使ったPAシステムにより、トラックの平台の上で行なわれた。これはそれぞれのイヴェントの‘バカ高い’チケットに対する抗議の意味であった。ワイト島“プロテスト”ギグにはまたホークウィンドも出演し、それは当時の新聞でも報道された。ジミ・ヘンドリクス(このイヴェントで彼はUKでの最後のショーを行なった)は両バンドを観たことにより、のちに自分の曲に“銀色の顔をした猫”というフレーズを挟み込み彼らに捧げている。これはホークウィンドのニック・ターナーが顔を銀色にペイントしたことに由来しているが、当時多くの雑誌の表紙に使われた(変わったところでは“Vogue”さえもだ)。

こういった悪名高き評判はレコード会社の関心を引くことになり、仲間のホークウィンドが1970年ユナイテッド・アーチスツと契約した時、ジェイミー・マンデルコウはあらゆるレコード会社にピンク・フェアリーズを売り込み始めた。そしてアイランド・レコードとの交渉が決裂した後、ついにポリドールとの契約が樹立された。レコーディングに先立ってポリドールは、トゥインクのアルバム“Think Pink”(ピンク・フェアリーズ誕生の間接的要因となったアルバム)のライセンスをアメリカのサイアー・レコーズから譲り受け、彼らの新しい契約に向けたイントロダクションとして1970年10月にリリースした。

最初のポリドールでのピンク・フェアリーズのシングルが1970年12月にRecorded Sound Studioでレコーディングされる前に、いくつかの“Top Rank”コンサート・ツアーが行なわれ、雑誌“Frendz”、“it”そして“Oz”のページでさらなる称賛を受けるようになった。“The Snake”はポール・ルドルフのパワフルなギター・リフがフィーチャーされ、シングルA面として選択された。しかしB面の方がより注意を引きつけることになった。悪名高いトゥインク作、“Do It!”だ。

イッピー(Yippie:ヒッピーより政治色濃い反体制の若者)の過激さを持つジェリー・ルービンの同タイトル本からインスパイアされた“Do It!”は、1970年当時のほとんどのロック・ナンバーとは対照的であった。そのアプローチはパンク・ロックに先立ったものであり、トゥインクのアナーキックなロックンロール的わめきはコンサートで確固たる呼び物となり、ピンク・フェアリーズのアンセムとなった。シングルは1971年1月にリリースされ(Polydor 2058 089として紙のポスター・スリーヴが付いていた)、アンダーグラウンド・プレスの大きな称賛を受けた。これにはプロモーション・フィルムとしてキャロル・リードの映画“Oliver”のショットがシェパートン・フィルム・スタジオで撮影されていた。のちにこの曲の偉大さはトゥインクによってチズウィック・レコーズに“Do It ‘77”として再レコーディングされ、パンク・ロックの同胞に向けてアピールすることになった。

ピンク・フェアリーズのデビュー・アルバムのレコーディング・セッションは、1971年3月1日にコマンド・スタジオで始まった。レコーディング・セッションを指揮するためにニール・スラヴィンが起用され、最初に演奏されたのが“Uncle Harry’s Last Freakout”だった。ポール・ルドルフのギター・リフを基調にしたジャム・セッションで始まるこの曲は、文字通りパワー・フリークアウトだ。最初のレコーディングではトゥインクのドラムスのみがフィーチャーされ、12分を超えるインストゥルメンタルだった。これは3月3日にのちのヴァージョンに拡大された。このインスト・ヴァージョンは1971年3月2日に録音されたもので今回初めてCD化された。

レコーディング・セッションは3週間続いたが、この時ピンク・フェアリーズがレコーディングした最高のロック・ミュージックは、70年代初頭のブリティッシュ・バンドのレコードに深くコミットしていた。トリッピーな“Heavenly Man”と“War Girl”(フェアリーズは繊細であることも証明した)含むハイライトは、“Do It!”のロング・ヴァージョン、“Uncle Harry’s Last Freakout”、ふさわしく名付けられた“Side Two, Track One”と、“Teenage Rebel”だ。“Neverneverland”と名付けられたアルバムはPolydor 2383 045としてリリースされ、最初の100枚プレス分はピンク色のヴィニール盤であった。アルバムはキュー国立植物園(ロンドン西郊)に佇むバンドとローディーの“Boss”グッドマンを描写したインナー・スリーヴに収められ、外側の見開きジャケットはくっきりとしたコーティング・カヴァーだった(今や貴重なコレクターズ・アイテムとなり、オリジナル・ピンク盤は優に350ポンドを超える値が付けられている)。

“Neverneverland”の最後のミキシング・セッションでは、今回のリイシューのリサーチで日の目を見るまでポリドールのテープ・ライブラリーに閉じ込められる定めとなったレア・ヴァージョンが生み出されていた。そのお楽しみの1曲、“War Girl”のロング・オルタナティヴ・ミックスがここにボーナスとして含まれている。

“Neverneverland”は熱狂的なファンから暖かく迎え入れられたが、唯一の批判はステージと比べてレコード上での彼らは“全くラウドではない”というものだった!ああ、しかし彼らのファースト・アルバムがリリースされるまで持ちこたえたこのたぐい稀なピンク・フェアリーズの団結精神は続くことはなかった。ラインナップにもたらされた変化は、トゥインクの脱退と元ムーヴのメンバー、トレヴァー・バートンの臨時加入であった。続いて天のお告げにより、1972年に彼らはレコード界での次なる冒険、“What a Bunch of Sweeties”でアルバム・チャート上の成功を手にしたのである。

マーク・パウエル


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