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Peter Bellamy/The Transports/1977 Free Reed FRRD 021/022



このユニークなプロジェクトは、ヘンリー・キャベルとスザンナ・ホームズの実話、1787年に‘第一次囚人移民船団’として流刑地であるオーストラリアに送られる判決と、その歴史的航海となった試練の数々を伝えるものだ。物語は伝統的なイングリッシュ・フォーク・ソングの様式で新たに創作された歌によって表現されている。それは語り形式で、メロディは当時のブロードシート・バラッズに結びつくものだ。歌に付随するオーケストラとアレンジメントは、‘その時代’の全般的な感情を強調するように表現されている。使用楽器は教会の楽団、あるいは当時のイースト・アングリア(イングランド東部地方)の村の‘聖歌隊’で聞かれるようなものだ。シンガーたちはイングリッシュ・フォーク・ソング・リヴァイヴァルの最前線から選ばれ、メロディはそれぞれのシンガーのスタイルに合うように作られた。イラストの入ったブックレットには、物語の詳細な歴史的背景が描写されている。それは全ての歌詞に加えて、それを調査した一人の男(ピーター・ベラミー)によるものだ。

THE STORY OF THE TRANSPORTS

1783年、メンダム、サフォーク村出身のキャベルという一人の19歳の青年が、彼の父親とアブラハム・カーマンという男とともに絞首刑を宣告された。罪状は南ノーフォーク、Alburghの屋敷に入り、盗みをはたらいたかどだった。その判決の短い罪状の中に動機は書かれていない。貧困が彼ら村民を犯罪に追いやったのかもしれない―そこには彼らがベッドからシーツを盗み、貯蔵室の樽から肉を盗んだことを非難されるべき行為として言及されていた。彼らはセットフォード裁判地からノリッジの刑務所に護送された。そこはノルマン城の屋根のない石の監獄の中にあり、古いレンガが積み上げられた場所だった。父親のキャベルとアブラハム・カーマンは公衆の前で、城の中にある高台で刑を執行された。一方、群集は市場を下に見下ろす城の中で絞首刑によってゆらゆらと揺れる彼らを見ていた。

息子のヘンリー・キャベルの判決はしかし、14年間の流刑に切り替えられた。彼は船を待つ間、40〜50人の重罪犯とともに城の中に閉じ込められた。一方、同年、1783年の終わりにスザンナ・ホームズというサールトンのノーフォーク村出身の19歳の少女が、ある家からリネンと銀貨(2.13ポンド6ペンス)の窃盗の罪で死刑を宣告されていた。しかし彼女の判決も流刑に切り替えられ、彼女も植民地行きの護送船を待つ間、ノリッジに収監された。

ヘンリーとスザンナは3年間収監された―海を隔てた見知らぬ国への流刑となった純粋で無学な若い村人が犯した罪は、現代に照らし合わせれば、十中八九は保護観察程度に当たるくらいのものだろう。

収監が長期間に及んだ理由は、1783年は英国がユナイテッド・ステーツの独立を承認した年で、そのことにより国が流刑地として使っていたアメリカの植民地を取り上げられてしまったことによる。犯罪は町中にあふれていた。人口は産業革命の影響により、爆発的に増えていた。地方では土地をもたない労働者と退役軍人たちが、貧困からくる密輸、白昼の強盗、夜盗、馬、羊、鶏などの盗みに訴えていた。刑はむだにきびしくなっていった。絞首刑は重大犯罪人に適用され、むち打ち、刑務所内での重労働などが微々たる犯罪に課せられた。しかしそれでも犯罪は減らず、刑務所はいっぱいになり、牢獄船は重罪犯であふれるようになったため、政府は植民地での強制労働によって刑を執行するために、まとめてアメリカに送るようになっていた。

ついに1786年、オーストラリアの東海岸、ニュー・サウス・ウェールズに植民地を設立するため、囚人移民船が送られることが決定した。そこはそれより17年前にキャプテン・クックが探検した、地上のさいはてにある未開の地であり、そこには点在するアボリジニの放浪民族が住んでいるだけだった。国にとっては厄介な犯罪人の増加が目に見えなくなれば万事オーケーというわけだった。

話変わって、18世紀の刑務所に不潔と野蛮と怠惰がはびこる中、ヘンリー・キャベルとスザンナ・ホームズは恋人同士になることを企て、1786年の春、スザンナは男の子を出産し、父親の名をとってヘンリーと名付けた。ヘンリー・キャベル―当時は何年も牢獄に入れられたにもかかわらず、“すばらしく健康な若い男”として記述され、その母と子に捧げられている―は、くり返し結婚の申し立てを行なったが無駄に終わってしまった。そして子供が5ヶ月になった時―“母親が生んだ時から母乳で育てた元気な赤ん坊”とされている―ノリッジ城の看守は、キャプテン・アーサー・フィリップの世話役として、自分のところの女囚をプリマスに送るよう命ぜられた。

ヘンリー・キャベルは再び死に物狂いで結婚の申し立てを行ない、スザンナと同行することを嘆願したが拒否されてしまった。そして1786年11月、看守のジョン・シンプソンはスザンナと彼女の子供、そして2人の女囚とともにプリマスまでの350マイルの長旅にとりかかることになった。それは荒れた11月の天候の中、ずっと船室外で過ごす過酷な旅だ。しかし無甲板船で3時間待ったあと、不運に見舞われた。女たちは移送を待つ船に乗せられたが、船長が幼児の乗船をきっぱりと拒否してしまった。スザンナはうろたえ、悲しみ、下のデッキに閉じこもり、機会あらば自殺するとおどした。看守のシンプソンはやむなく赤ん坊とともに陸に上がった。

幸いにもシンプソンは情け深く、果敢な性格の持ち主だった(彼はこの出来事のあと、“慈悲ある看守”として知られることになった)。“人道上の問題において君主たる信念に基づいて”、彼は内務大臣のシドニー卿に直々に接触することを決意した。彼は赤ん坊をひざに抱え、途中、食べ物を与えあやしながらロンドンに戻った。ロンドンで彼は信頼できる女性(同情的な人々)に子供を預け、シドニー卿の家へ直接出向き、そこで彼は秘書のいるところに押し入り、子供を母親のところへ返す命令書を作成するように説得した。

シンプソンは玄関で待っていたが、シドニー卿が2階から降りてきた時にかけ寄って行き、その命令書にサインするよう嘆願した。単なる一人の看守がこの18世紀の高官の自宅で待ち構えていたことは、それだけで信頼に足ることだったのかもしれない。彼は看守の話を聞き、“大いに心を動かされた”。彼は秘書に直ちにプリマスに手紙を書かせ、母親に子供を返すことを伝え、父親も一緒にいることができるよう命じた。“それと同時に彼らが乗船する前に結婚できるようにし、祝儀をつけ加えた”。慈悲あるシンプソンは父親のもとに帰るまで子供の世話を手配し、移送される父キャベルのところへ、そのうれしい知らせを伝えるためにノリッジへ急いだ。その間、ジャクソン婦人率いる共鳴者たちは、その若いカップルと子供がオーストラリアに着いた時に役立つような生活用具一式を寄付した。

こうしてヘンリー、スザンナ、そして彼らの幼い子供はついに1787年5月、オーストラリアの歴史学者たちに知られるFirst Fleet(第一次囚人移民船団)の航海に出発した。この航海は11の船団から成り、男性600人と女性178人の受刑者、200人の海洋救助員、2年分の食料、甲板積み貨物には羊、豚、ヤギ、そして鶏が積まれていた。一行が荒地であったボタニー湾(オーストラリア南東部シドニー南、1770年キャプテン・クックがオーストラリアで最初に上陸したところ)に停泊するまでに約9ヶ月が経過していた。言い伝えによると、最終的にニュー・サウス・ウェールズのフィリップ初代総督は、もっと好ましい地であるシドニー入江に上陸することを決定した。勇気あるヘンリー・キャベルは背泳ぎでその新しい植民地にたどりつき、最初の一歩を刻んだヨーロッパ人となった。

これだけが彼が残した先例ではなかった。ロンドンのシドニー卿の指示であった、出航前の二人の結婚は事実上、伝えられていなかった。彼らが実際に結婚したのは1788年2月10日で、他の4組とともに式が挙げられ、それはオーストラリアの土地での最初の挙式となった(訳注:あくまでヨーロッパ人による)。その後まもなく植民地最初の民事法が制定された。それはまさにアーサー・フィリップによるもので、彼がヘンリーのアレキサンダー号船長に対する苦情を聞き入れたものだった。ジャクソン婦人たちがヘンリーとスザンナに寄付した生活用具一式の入った箱が、航海中に壊れて開いてしまったのだ。スザンナはお茶などの嗜好品が失われてしまったことを嘆き、字の読めない彼女に残されたのは何冊かの本だけであることに不服を申し立てた。法廷は賠償として15ポンドを支払った。

ところでファミリー・ネームはこれ以降、Cabellではなく、Kableとつづられている。ヘンリーがかろうじて読み書きができたとは考えにくい。彼の名は犯罪者植民地の記録の中で発音どおりにつづられたに違いない(訳注:ヘンリー・‘カボウ’がより近いと思われる)。

シドニー入江上陸は、不幸な受刑者にとって新たな試練の始まりとなった。農家、畜産業者、水産業者から収入を得るロンドン政府は、植民地がすぐに収益を上げるようになると楽観視していた。しかし実際のところ、土壌は堅く、気候は荒く、長い航海で持ち込んだものは役に立たなかった。役人たちはお互いに、そして統治者と争い、兵士は手に負えなくなり、受刑者の大半は貧しく技術をもたない労働者だった。上陸から4年の間、全ての植民地は依然必要なうちの半分の供給にとどまった。それにもかかわらず、さらなる囚人船がイングランドからやって来た。人道上の待遇は悪化し、アーサー・フィリップのような有能な指導者もなく、その悲惨な護送状況は第一次囚人移民船団よりもいっそう悪くなっていた。陸上で人々は鞭や絞首刑などの無情な仕打ちで拘束されやすい状態にあった。19世紀に入ってかなり経つまでは、このオーストラリアの植民地の歴史は、記録に残る「人間が人間に対して行なった残酷な行為」の中で、最もひどい物語のうちのひとつだ。

しかし一方でヘンリー・キャベルは繁栄した。彼の性格はその体格同様、屈強なものだった(言い伝えによれば彼は赤毛だったらしい)。彼は受刑者の中で初の農場監督となり、続いて新しい入植地の治安官となった。彼は14年間の刑を満了したことにより富を築くことになった。1798年、彼はRamping Horseという名のホテルを開業し、オーストラリアで第1級の宿泊施設を経営した。また彼は小売店も所有した。彼の資産は5つか6つの農場にまで拡大し、アザラシ狩り大型猟船と商船の共同経営者となった。彼は植民地で男爵にまで成り上がった“元囚人”あるいは“放免された受刑者”の一人だった―しかしこれは不道徳なならず者だったバウンティ号のブライ船長(1808年バウンティ号で船員が反乱を起こした時の艦長。フィリップのあとニュー・サウス・ウェールズ総督となった)による叙述だ。

スザンナに関しては、ノリッジの刑務所で産まれ、父親の所有する船の一つで船長になった最初の子供に加えて、彼女はさらに10人の子供を産んだ。父親のヘンリーは82歳という高齢まで生き、社会的名声のうちに死んだ。そしてスザンナとともに家族の納骨所(今はもうない)に埋葬された。スザンナは彼に先立つこと1826年に死んだ。

第一次囚人移民船団が上陸してから180年目に当たる1968年、ヘンリーとスザンナの100名以上に及ぶ子孫たちが、オーストラリアの植民地設立に寄与した第一人者たち(ヘンリーとスーザン)を称えるために、シドニーで一堂に会した。これが先祖の受刑者に謝意を表明する最初の会合であり、この物語のハッピー・エンディングである。
Eric Fowler



Peter Bellamy
All Music Guide Biography by Steve Winick


ベラミーはイングリッシュ・フォーク・リヴァイヴァルの中で最高の声を持つ一人だった。彼は1944年にノーフォーク(イングランド東部の北海に臨む州)で生まれた。1965年の初め頃、彼はロンドンに移り住み、そこでロイストン・ウッドとへザー・ウッドとめぐり会い、3人はThe Young Traditionと名乗ってクラブにレギュラー出演するようになった。けばけばしい衣装、機知に富んだ表現、そして他の二人のコーラスを従えたベラミーの驚くべきパワフルな声によって、彼らは多くの聴衆を魅了し2枚のアルバムをレコーディングした。彼らは素晴らしい名声をつかんだが、その後もプロとして生計を立てることはできず、1969年に解散した。のちにベラミーが指摘するように、彼らは消滅したあとになってからその重要性と影響力が認められ、伝説的存在とさえなったのである。

1970年、キプリング(1865-1936:英国の短篇作家、詩人)の詩を音楽に置き換えるというアイデアが、ベラミーの頭に浮かんだ。ベラミーのキプリングへのこだわりは、彼が死ぬまで続くこととなり、生涯に渡って5枚以上のキプリング・ソングス・アルバムを制作することになった。また70年代に、ベラミーはThe Transportsを制作した。これはイワン・マッコールのスタイルを借りたバラッド・オペラであり、マーチン・カーシー、ニック・ジョーンズ、A. L. ロイドそしてシリル・タウニーらがレコーディングに参加していた。アルバムは1977年にリリースされ、それはイングランドにおいて、いくつかのステージで上演された。70年代、80年代を通じてベラミーは、トラディショナル・フォーク・ファンを超えた、より幅広いオーディエンスを獲得しようと試みていた。そこで彼は自分のショーでトラディショナル・ソングを減らし、マルチメディアに向けて歴史的なプレゼンテーションを行なうようになっていった。しかしトラディショナル・シンギングはベラミーの生命線であり、90年代の初めに彼は、再び自分のレパートリーの中のほとんどに、彼が常に情熱を傾けていたトラディショナル・ソングを復活させるようになった。

ベラミーはいつも自分が命を捧げていた音楽に対して、正当な評価がなされるよう望んでいた。以前より増して彼は、いかに数知れないパフォーマーたちが‘他の形のフォーク・ミュージック’のために、見捨てられてきたかを表明するようになっていった。それは金のためのフォーク・ミュージックであり、彼は間違いなくそれは嘆かわしいことであると感じていた。彼はトラディショナル・ソングに対する関心は、リスナーのみならず演奏者も同様に衰退しているに過ぎないと、遺憾の意を表明するようになっていった。彼はいつも自分の反抗的な姿勢、あるいは自分の妥協を許さない頑固な性格が、ザ・ヤング・トラディションを消滅に導いたことを認めていた。もしかすると、そのことは22年後の自分を導いたのかもしれない―1991年9月、ピーター・ベラミーは自らの命を絶ってしまった。全てのピーター・ベラミーのレコーディング作品は推薦されるものだ。


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