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Pete Dello & Friends/Into Your Ears…Plus/1989 See For Miles Records Ltd. SEE 257



リイシュー盤のスリーヴノーツを依頼されることの素晴らしい側面のひとつが、それを再評価する貴重な(そして時に無類の)機会を与えてくれることだ―もしかすると、その作品を初めて理解する場合だってあるかもしれないし―ある人が忙しすぎて/酔っ払っていて/頭が鈍くて(この世から消してしまうのをふさわしいと考えて)ほとんど無視されたか、忘れ去られた至宝に初めて正当な評価を与えることだってあるかもしれない。この壮大なアルバムに関しては、まさにそれが当てはまる。これはレコード購買者に向けて事実上、ピートが唯一残した遺産だ。彼は70年代初頭に創造的ピークにあったにもかかわらず、早々にシーンから退いてしまった。

今や、ピート・デロの名は、私たちの古い記憶に残っているロックンロール最前線の一人から、完全に抜け落ちてしまっているかもしれない。なるほどセールス的観点からいえば、彼のインパクトはかなり限定されたものだった。しかしデロのことを述べる時に特に使われる言葉が、‘過小評価’であることは歴然たる事実だ。彼はシンガー、ソングライター、アレンジャー、そしてプロデューサーとして全ての才能を兼ねそろえた稀有な存在だった―60年代にいくつかの名曲と強く胸を刺すような曲の数々を残した。とりわけ1968年、彼のグループ、ハニーバスによって放たれたヒット曲、“I Can’t Let Maggie Go”だ。しかしながら、60年代後半から70年代初頭のデロの移り気で繊細な性格を考慮すれば、彼の最初のキャリアがハード・ドライヴィングなチャック・ベリー・タイプのギター・ソロを聞かせる主流のロックンロール・ギタリストへ向かったのは、いくらか皮肉なことのように思える。

ロンドン子のデロ(本名はピーター・ブラムソンだが、ずっとデロで通っていた)の最初のグループはRed Tails & The Talismanで、元々ロンドンのイースト・エンド、ハクニー・ミッションにあった今や伝説の59クラブにおいて、60年代に突入しようという時期に結成された。その後、Grant Tracy & The Sunsets(名は変わっても中身は同じ)と改名した彼らは、北ロンドン/ホーム・カウンティーズ(ロンドンを取り巻く諸州:エセックス、ケント、サリー、ハートフォードシアなど)のクラブ・サーキットで名声を打ち立てた。レギュラーでハードなギグ(最低週5日)を展開した彼らは、1961年にドイツ・ツアーを行なった最初のイングランドのグループ、第一波のひとつとなった―そこで彼らは文字通り、嵐の中に入っていった。ピアノは破壊する、暴動をけしかける、の連続だ。

UKに戻った彼らは、一握りの素晴らしいシングルをリリースした―今や驚異的にレアなEP、ジェフ・クルーガーのエンバー・レーベルから1961-63年の間に出した(デロ初のオリジナル・インスト、“Manhunt”と“Little Kelly”含む)中で、カール・マンのカヴァー、“Pretend”は彼ら最大のヒットとなり、めったに手に入らないような成功をかろうじてもたらした。ほとんどヒットを出さなかったにもかかわらず、彼らはそれでも定期的にプレイを続け、2年間“サタデー・クラブ”のハウス・バンドのひとつとしてフィーチャーされた。その場所で彼らは野性味あふれる多才なロックンロール・グループとしての名声を強固なものにした。とりわけリード・シンガーのトレーシーによる最大の呼び物が、ロイ・オービソンの完璧な物真似だった―実際、オービソン自身(彼らは一夜限りの興行でオービソンのサポート・アクトを務めた)が彼らを見て賛辞を送った。

サンセッツは最終的にデッカから最後のすばらしいシングルを1枚リリースしたのち、64年初頭にゆっくりと活動を停止した。最後のシングル、“Everybody Shake”(ザ・ビートルズの“Twist & Shout”のフレーズを引用しているのは明らかだ)はサンセッツの新しいメンバー、レイ・ケーンとともにデロが書いた曲だった。この時までにデロはライヴよりもソングライティングとアレンジングのキャリアを求める方へ関心を寄せるようになっていた―Cliff Bennett & the Rebel RousersとThe Outlawsへの加入のオファーを断った彼とケーンは(デロはChas Hodges & Coとともにジョー・ミークの2回のセッションで様々なギター・プレイを提供したが)、ツアーを降り、1年半ほど曲作りをして過ごした(彼らはジ・アップルジャックスの最初の2枚のヒット曲のB面を書き、またのちのA面、“I’m Through”を書いた)。また時折セッションもこなした(デロはこの時期、Unit 4+2、The Roulettes、Scaffold、そしてThe Baron Knightsらのレコーディングに参加した)。またライオネル・バートのアポロ・ミュージックでアレンジを担当したり、バートのミュージカルで定期的に楽曲を提供した。

デロは最終的にシンガーのスティーヴ・ダービシアによって再びライヴ活動へ誘い込まれることになった。ダービシアはロンドン、オックスフォード・ストリートにあるタイルズ・クラブでレギュラー出演していたが、彼は固定のバック・バンドを欲しがっていた。何のいざこざもなく再びツアー生活に戻れることは大きな魅力だった―結局デロは(バック・バンドとして)Yum Yum Bandを結成した。それは彼とケーン、そしてテリー・ヌーンが含まれ、デロのアポロ・ミュージックでの本業と両立で、タイルズ・クラブへ出演することになった。またこのことは彼に曲作りをさらにうながすことにつながった。ダービシア(と彼のバンド)は1965年から67年の間に、5枚のシングルをリリースした―デロは単独/共作で大部分の曲を書いた。しかしながら、2度もう少しのところまではいったが―特に“That’s The Reason”と“Yum Yum”(ライヴでの人気曲)―成功することはなかった。そしてよくないことが頭をもたげていた―過労のため、デロの健康状態は悪化していった(肺炎にかかった)。それはラスト・シングル、“Holiday In Waikiki”(キンクスのレイ・デイヴィスのカヴァー)を67年2月にリリースしたあとで、彼はスコットランド・ツアーを中止することを余儀なくされ、その結果グループは解散してしまった。

少し経って健康を回復したデロは、自分自身のグループを結成すべき時が来たと判断した―それは彼のマテリアルをプレイするだけでなく、それまで彼が同等の仲間たちから見逃されてきた(特に1,2の例外を除いて)と感じていた、音楽的方向性を探求することであった―すなわち、ソフト・ロック/木管楽器/弦楽カルテットの融合だった。その間にヌーンは自分の将来をマネージメントと音楽出版の中に見出そうと考え、彼をマネージャーとしてハニーバスが結成された―ラインナップはデロ(ヴォーカル/ギター)、ケーン(ベース/ヴォーカル/キーボード)、コリン・ヘア(ギター/ヴォーカル)そしてピーター・カッチャー(ドラムス)だった。

彼らがデッカから借りたリージェント・スタジオでセルフ・プロデュースしたシングルは、67年6月に新進のデラム・レーベル(訳注:デッカ傘下レーベル)からリリースされ始めた。彼らのデビュー・シングル、“Delighted To See You”はこれからの展開を期待できる仕上がりとなった。それはデロの初期のマテリアルからは大きくかけ離れ、とりわけ目新しい楽器が使われていた(カズーも含まれていた)。しかしながらその楽曲の成熟度と強力な魅力にもかかわらず、詞がラジオの電波に乗るにはかなりきわど過ぎた―その結果行き詰ってしまった。しかし彼らのデビュー曲が強い印象を与えたのだとしても、それに続くシングルはセンチメンタルにほかならないものだった。“Do I Figure In Your Life”は全く異なるナンバーだった。完全無欠なアレンジが施さていた。美しく忘れられないメロディ、魅力的できらめくような、ある意味エリザベス様式のストリング・アレンジだ―多くのフックが詰め込まれていた。このシングルは67年10月にリリースされ、ラジオでもオンエアされ、火がつき始めたかのように思われた―しかしどういうわけかヒットせず仕舞いだった。

今日に至るまで私はこの曲が好機を逸した理由が分からない。60年代にリリースされた優れたシングルとして忘れられない1枚である。たとえ67年当時の一般のレコード購買者が見向きもしなかったのだとしても、これはデロの中で最も有名な曲となり、しばしばカヴァーされる曲となったのである(いうまでもなく彼に最も利益をもたらす曲)。例えばジョー・コッカー(彼のファースト・アルバム“With A Little Help From My Friends”だ―このアルバムは何度もプラチナ・ディスクを達成した)、デイヴ・ベリー(彼は60年代後半、オランダ、ヨーロッパ中でこれを大ヒットさせた)、ケイト・テイラー(彼女は大ヒット・アルバムにこれを収録した)、デーナ、サマンサ・ジョーンズ、サタデイズ・クラウドそして最近では最高の職人、ポール・カラック―彼は今なお感動的なこの曲の、最高のカヴァーを録音した。

皮肉にも次の1曲“I Can’t Let Maggie Go”が、画期的成功を導いた―しかしこの曲自体は疑いなく強力であるが、その前の曲ほど見事なわけではない。それでも美しいレコードではあるし、ハニーバス・サウンドのエッセンスを完璧にとらえている。高揚するハーモニーと木管楽器の繊細なブレンドだ。これは1968年3月にリリースされ、すぐにチャート・インした。最終的に春の間、3ヶ月間圏内にとどまり8位に達した。そしてヨーロッパ中で大きな成功を収め、たくさんのコンサートの誘いが舞い込んでくることになった。彼の仲間たちはティーンエイジャーへ媚びへつらうことに大そう喜んでいた。その昔、トップ10ヒットを追いかけていた女の子たちだ(実際これは今でも同じだ)。デロはそういうことには全く関心がなかった。しかし忘れてはいけないのは、彼は元々ハニーバスを厳密にはスタジオ・バンドとして認知していたし、彼の曲/アレンジメントを純粋に実践するためのバンドだった。

彼はラジオでプレイすることに抵抗はなく(彼らは二度“Top Gear”のセッションを行なっている)、TVは許容する用意があった(しかし“TOTP”-“トップ・オブ・ザ・ポップス”で当て振り出演することは忌み嫌っていた)―彼はツアーに出ることは本当に望んでいなかった。彼にとってそれは60年代初頭の体制、つまりザ・サンセッツに戻ることを意味していた。あるいは1年ほど前に彼がレギュラーのライヴを続けていた時に被った健康問題を含めて考慮していたのかもしれない。彼は依然、ソングライター、アレンジャー、そしてシリアスなミュージシャンとしての道を歩むことに関心を持っていた。UKとヨーロッパから次々とライヴのオファーが舞い込み、文字通りスターダムのステイタスが眼前に迫っていた中、そして彼らが依然、成功の頂点にあった中で、彼は1968年にハニーバスを脱退した―次のリリースも決定していたさなかだった。

ハニーバスは、果敢にもデロの代わりにスコット・ジム・ケリーを加え、活動を続け、約1年後に敗北を認めるまでに3枚の優れたシングルを録音した―バンドが終わったのは皮肉にもアルバム・リリースの数ヶ月前だった。それらシングルは(特に“Girl Of Independent Means”)すばらしいものだったが、デロのマジックを失い、印象に残るような出来ではなかった。

デロはそうこうするうちに、さらにいっそう表舞台から退くようになり、曲作り、アレンジ、プロダクションなどを教える音楽講師としての道を進んだ。最終的に2枚のシングルがそれぞれ異なる変名でリリースされた。69年2月にページ・ワン・レーベルから出た“I’m A Gambler”/“Go Away”はLaceとクレジットされ、69年8月に出た“Taking The Heart Out Of Love”/“Uptight Basil”はMagic Valleyとクレジットされていた。両方のレーベルにクレジットされたグループはどちらも実際には存在しなかったが、いずれもデロとレイ・ケーン、そして他の様々なセッション・ミュージシャンから成り立っていた(実際はほとんどハニーバス)。

これらのレコードは絶対的にすばらしい。前者は穏やかに跳ねるようなカントリー・チューンで、デロの最高作“Do I Figure…”にも匹敵するようなコマーシャル性とフックを兼ねそろえていた。元々はハニーバスのために書かれ(もし彼がバンドに残っていたら“Maggie”の次にリリースされていただろう)、もう少しのところでUKヒットするほどだった。元々ケニー・エヴァレットが推薦していたが、不幸なことに売れ始めた週のラジオのプレイリストから外されてしまった(!)にもかかわらず、これはオーストラリアでかなりのヒットとなった。メディアへの露出もなかったし、デロのプロモーション嫌いにもかかわらずだった。“Taking The Heart…”は美しさと雰囲気のあるバラッドだった。完全無欠に表現されたすばらしいプロダクションだったが、これは完全にレコード購買層から無視されてしまった。一般リスナーの関心はグラム・ロックへと傾き、全く見込みがなかった。

2年間の休止に続いて、彼はついにレコーディング・スタジオに戻ってきた。その結果出来上がったのが、1971年の終わりに向けてネペンザ・レーベルからリリースされたアルバム“Into Your Ears”だった。クレジットはPete Dello & Friends名義になっていた。再び旧友のケニー・エヴァレットがライナーノーツを書き(彼はLPの見開き部分にウィットに富んだ短評を載せている)、このレコードは絶賛された―特にメロディ・メーカーの有力ライター、レイ・コールマンは彼自身のアルバム・オブ・ジ・イヤーに選出した。ぼうっとするような魅力と奇抜さと美しさにあふれたアルバムは、デロがハニーバスを去ったあとに残された曲、彼の初期の2曲の‘ソロ’シングルの再録―そしてほとんど同一であるが、ハニーバスのオリジナルにいくらか改良を加えたおそらく彼の最高傑作である“Do I Figure In Your Life”が再び収められていた。実際このアルバムの全てのトラックは喜びに満ち溢れている―聴覚上の音楽的クォリティに加えて、デロの書く詞は全体に渡って想像力あふれるものだ。

もちろん“I’m A Gambler”と“Do I Figure…”が絶対的に傑出している―しかしその他も同様に素晴らしいマテリアルがそろっている。それらはシュールで才気あふれる驚きをもたらしてくれる。ほとんどトルキーン(英ファンタジー作家)風のナンセンスな“Harry The Earwig”(イラストを描いたロジャー・ディーンのカヴァーでは、死闘の中、ゴキブリ・ヘンリーをやっつけている)と“Arise Sir Henry”、ことばあそびの“There’s Nothing I Can Do For You”、これは独特なテンポ・チェンジが使われている。奇妙で古めかしい“On A Time Said Sylvie”、ねじれたユーモアの“It’s The Way”(同居する恋人に向けた変な賛辞)、退屈なポップ・ソングの形を借りて、その本質的な問題を提示してみせるゆったりとしたシャッフルの“A Good Song”(レイ・ケーンの優れたアレンジメントをフィーチャーしている)、ブラック・ユーモアの“Uptight Basil”は、詞を偽って伝える陽気なアレンジメントが施されている(これもケーンによるもの)―自殺(hara-kiri)しようとする男についての歌だ。そしてストレートなポップ/ロック・バラッドの“It’s What You’ve Got”、ソフト・カントリー・ロックの“Go Away”、荘厳な“Taking The Heart Out Of Love”、これはただただ見事だ。

たしかにアルバムは彼の特異な楽曲によって広く称賛され、ロック界の通たちから承認され、デロにとって大きなキャリアとなり彼はシンガー/ソングライター界に割って入ることができた。しかしながら、3年ほど前にハニーバスが最初に成功した時に‘おびやかされた’ことによって彼がはっきりと示した不満が再び姿を現した―そして彼はあらゆるプロモーション活動を断固拒否し、またもや立ち止まってしまった。こうしてアルバムはチャートと無縁のカルト的存在へと制限されることになった。その代わり、彼は4人のオリジナル・メンバーによってハニーバスを再召集した―(当時のインタビューで彼が苦々しげに指摘するように)彼らはきっぱりとレコーディングだけを目的として集まったのであり、ギグは行なわれなかった。

彼らはベル・レーベルで多くの曲を録音したが、リリースしたのはシングル1枚のみだった。その1971年の“She Is The Female To My Soul”は、デロによって書かれプロデュースされた。まもなく彼らはワーナーと契約し、1枚のアルバムを完成させたが、WEAのA&Rマンが代わったことによりリリースは棚上げにされた。1973年に1枚のシングル、デロの“For You Baby”が出た結果、一時的な‘再結成’は終わりを告げた。同年、デロが‘Lace’名義で録音した“I’m A Gambler”がGMレコーズからリイシューされ、今度の名義はRed Herringとなっていた(さあ考えてみよう)。またGMレコーズはアメリカ人の若い女性シンガーのシングルとして、デロ作の“Arise Sir Henry”/“Uptight Basil”をリリースした。

70年代を通じて、パンのTVコマーシャルで長い間使われたことによって、“I Can’t Let Maggie Go”はずっと生き延びることになった。そのコマーシャルは永遠に流れるかのようだった(たまたまそれはハニーバスのオリジナル・ヴァージョンではなく、デロが再録した方だった)。おそらくそれはゴールデン・タイムに流れていた!―もちろん当時はそういった手を使って、安易に再リリースされることが多かった。いかにもプロモーション/マーケティング・キャンペーンの一環だった。ビデオ、トップ5レコード、TVとラジオのスポット、ツアーを利用して、その主人公の所在/現在の動向/活動状況への関心を高めさせ、続いてそれに見合ったシングルとアルバムがリリースされた(ただし考えてみよう。デロがそういった時流に便乗するかどうかは大いに疑問だ)。最終的に1976年、デッカがデロの未発表曲、“Julie In My Heart”(その数年前に不運に見舞われたWEAのセッションからの残りもの)をB面に“Maggie”をぞんざいにリイシューした。この再リリースによって即席コレクターズ・アイテムの出来上がりだった。

最後に、翌年(1977)になって彼はもう一度“I’m A Gambler”による企てを実行した。今回はアリスタ・レーベルからのリリースでMagenta名義だった。レイ・ケーンがプロデュースし、初期のヴァージョンとわずかに違うアレンジがフィーチャーされていた―しかしこの時、パンク・ロックの嵐が吹き荒れ、そういったセンシティヴで音楽的なマテリアルはもはや不要の烙印を押されてしまった。これはデロにとってとどめとなった。この時すでに彼はロックの主流から大きく離れた存在だった。彼は身を固め、結婚し、家庭を持ち、講師としての道を歩んでいた―以来彼はレコーディングを行なっていない。

今から考えれば、デロはバッド・タイミングの犠牲者だった。彼が自分のソロ・キャリアに(一度だけの適当なものであったが)着手した時代は、T・レックス、ジ・オズモンズ、ザ・ベイ・シティ・ローラーズ、そしてグラム・ロックらがより受け入れられやすい状況だった。実際には彼の前にはチャンスはたくさんあった。しかし繰り返すが、彼は明らかにスターダムの地位を望んでいなかった―もちろん彼はライターとしての成功にも関心がなかったわけでは全くない。彼は成功の余波とは全く無縁のところにいたかったのである―余波とは、いいかえればメディアのスポットライトは必然的に(その作者でなく)チャート・ヒット上の成功を成し遂げたアーチスト/パフォーマーに焦点が当てられるということだ(彼はそれを嫌った)。

今回のアルバムはデロの決定的な“Into Your Ears”をそっくりそのまま、プラス、4曲のボーナス・トラックを追加したリイシュー盤だ。1969年のペニー・ファージングのシングル、“Taking The Heart Out Of Love”と“Uptight Basil”―すなわちアルバム用に再録されたうちの2曲の初期ヴァージョンだ。また(これは本当に驚きだが)2つの未発表曲、ピート・デロの傑作である“Madam Chairman Of The Committee”と“Hear Me Only”だ。1972年頃に録音された(“Into Your Ears”の約1年後)これらは、ビートルズ/マッカートニーを強く感じさせ、彼が録音した他の曲に匹敵するものだ。前者は古典的なデロ/ハニーバス・タイプだ―穏やかで、内省的で、思慮深く、とっつきやすいコーラスといたるところにストリング・アレンジメントを伴ったいくらかクセのあるナンバーだ。後者は(デロにしては)風変わりでまばらなアコースティック・バッキング―すばらしく抗しがたいヴォーカル・ハーモニーをフィーチャーした、スローで悲しげなバラッドだ。特徴のない粗くプロデュースされたこれは、いかにも制作途中であるかのようだ―ほとんどデロは前者を優先してストリングス/木管楽器を加えていたかのようだ。しかしこのことで批判の対象にはなりえない―このコレクションの中で他のナンバーに並ぶ傑出した出来である。

ここに収められた16のトラックでプレイするバッキング・ミュージシャンは、ハニーバス・ストーリーの一端を担った全ての人たちだ―レイ・ケーン、コリン・ヘア、ピート・カーチャー、ラス・バラード、ボブ・ヘンリット、ジム・ケリーなどなど。もしあなたがマッカートニーあるいはビートルズ、ELO、ルネサンス、あるいはレイ・デイヴィス、ケヴィン・エアーズらの音楽が好みなら―あるいは実際に“I Can’t Let Maggie Go”を覚えていて、その優れたオリジナリティに感銘を受けたことがあるなら、このアルバムは絶対的にあなたにうってつけだ。ぜひ買うべきだ―その音楽に驚愕することだろう。

ロジャー・ドプソン
ピート・デロ承認



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