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The Pentangle/Sweet Child/2001 Sanctuary Records Group Ltd. CMDDD132



ペンタングルという名を前にして、フォークロック伝説の編年を調査する必要などない。彼ら自身が伝説であり、それをも越えたペンタングルは、その時代最高のミュージシャンたちから成り立ち、個々の才能の総和を超え、全く新しい音楽を創り上げてしまった。フォークを少し、ロックを少し、ジャズを少し、ブルースを少し・・・彼らは自分たちの頭から音楽に対する先入観を全て追い払った。さらに驚くべきことに、無頓着で異端的な性質を持ったミュージシャンたちが参加し、その本能的な資質が音楽に反映された結果、彼らはスターになってしまった。

ヒット・アルバムを出すのがスターだ。おそまつなヒット・シングルであっても。国内最大級のホールを完売すること。海外でも。私たちは世界的スーパースターたちについて話す。彼らが最初にロンドンのパブでジャム・セッションを始めた時、そのことは彼らの頭の中で最後尾に位置していた。彼らは実際にそういった名声に真剣に取り組むことはしなかったし、それはほとんど30年間近く続く夢のように思えるに違いない。しかし万事を考慮しても、その音楽は依然グレイトに響いてくる。彼らは常に時代の先端を行っていた。

もちろん個々のミュージシャンはすでにそれぞれがよく知られ、高い評価を受けていた―少なくとも彼らの仲間からは。ジョン・レンボーンバート・ヤンシュは、フォーク・シーンで革新的なギタリスト/コンポーザーとして、ギター・プレイの法則を書き換えたミュージシャンとしてあがめられていた。彼らはロンドンのフォーク・シーンを作り上げた才能の温床で頭角を現し始めた60年代半ばに手を組むようになった。彼らとデイヴィ・グレアムは、フォーク・ギタリストの黄金の3人となるべく、およそ同時期に現れた。彼らは今や伝説のフォーク・クラブ―レス・カズンズ、スコッツ・フーズ、バンジーズ、そしてトルバドールなど―でレギュラーのギグをこなし、クラブに住みつきさえしながらシーンに影響を与えていた。

ヤンシュとレンボーンは互いのアルバムでプレイし、セント・ジョンズ・ウッドでフラットを共有し、デュオとして数回のギグを行なった。そして必然的に1966年、ビル・リーダーの家の居間で共同して1枚のアルバムを録音した。1人の新しい世代のギタリストでレッド・ツェッペッリンのメンバーとなるジミー・ペイジは、将来の彼らの並はずれた冒険に影響を与えることになるヤンシュたちの作品を心待ちにしていた。レンボーンがヤンシュのアルバム、Jack Orionでプレイした時、彼らは未踏の領域へと進み、それは目の前に迫っていた革新の時代に土台を提供し、彼ら自身でさえ驚きと興奮を感じていた草分け的なアレンジメントをさらに推し進めることになった。大衆、そしてヤンシュのコアなファンたちでさえ、Jack Orionの迷路的アイデアに少しばかり困惑したが、それは多くの扉を開けた―とりわけヤンシュとレンボーン自身の心を解放し、ペンタングルへの道を示していた。

その合間に、レンボーンはジャッキー・マクシーを引き入れていた。彼女もまた、クリス・アイリフとデュオを組み、彼のアルバム、Another Mondayで歌い、フォーク・シーンでスターダムの階段を上り始めていた。レンボーンが時々、彼女とデュオで行なったギグは大いに満足のいくものとなり、それはレンボーン、マクシー、そしてヤンシュを含めたグループの構想に発展し始めていた。彼らがあと必要としたのはリズム・セクションだった。

ダニー・トンプソンは未来のペンタングルの一員がドアをノックした時、すでに紛れもない大物ベース・プレーヤーとして長い間認められていた。何年もの間、ロンドンへ訪れていた多くのジャズやブルースの伝説的アーチストのバックでプレイしていた活気あふれるトンプソンは、R&B/ジャズの混合バンドであるダフィー・パワーのニュークリアスでプレイしていた。レンボーンはトンプソンが様々なTV番組で働いていたことを知っていた。彼は彼とヤンシュとマクシーが最初にロンドンのホースシュー・パブでレギュラー出演をスタートさせた時に、トンプソンをジャム・セッションに招いた。翌週、仲間のテリー・コックスを連れてきたトンプソンはジャム・セッションを大いに楽しんだ。ドラマーのコックスもダニーとともにダフィー・パワーのニュークリアスでプレイしていた。ペンタングルはすでに始まっていた。

その名はレンボーンによるアイデアで、見たところ、‘円卓の騎士たち’の中に出てくるアーサー王の盾の内側にある印からきていた。ホースシューで形を整えてから数週間後、本格的な最初のギグとして、彼らは1967年5月27日にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールに出演した。共演アーチストはオッティーリエ・パターソンとスパイダー・ジョン・コーナーを加えたクリス・バーバー・バンドだった。これは大成功を収めた。彼らがエレクトリック・ギターをプレイし始めた時に、頑固なファンたちから裏切りに対する2、3の怒号が飛んだが、初期ペンタングルのギグはレンボーンとマクシー、レンボーンとヤンシュのデュオに加え、純粋主義者たちへの譲歩として、ヤンシュとレンボーンそれぞれのソロ・スポットを用意していた。

しばらくの間、彼らは自由に活動を続け、レンボーンは時折ドリス・ヘンダーソンとともにプレイしていたが、1967年に最初の大きなツアーにとりかかった時までに、彼らの名声はすでに巨大なものとなっていた。その時までに彼らは華々しいやり手のアメリカ人マネージャー、ジョー・ラスティグを獲得していた。彼はバンドをカルト・フォーク・ヒーローからメジャーな存在へ引き上げるのに大きな役割を果たした。彼ら自身が認めるように、バンドはビジネス、プロモーション、そして巨大な悪徳音楽業界のずる賢いやり方にかなり無知だった。彼らはそのことについて何も知らなかったし、真実が語られようとも、彼らは知ろうとはしなかった。

しかしラスティグは前進を続け、彼らをホースシュー・パブから撤退させ、世界的な大物バンドへ仲間入りさせようとした。1968年だけで彼らは11ものラジオ・ワン・セッションをこなし、ニューヨークのカーネギー・ホールとパリのオリンピア劇場でプレイし、多くのフォークとジャズのフェスティヴァルでヘッドライナーを務めた。彼らは何エーカーもの新聞記事を提供し、熱帯雨林を破壊した。

数ヶ月前にリリースされたファースト・アルバム、The Pentangleのすぐあとを追ってリリースされたのが、このSweet Childだった。これは1968年6月29日にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールでレコーディングされた。それは大きなコンサート・シリーズの幕開けだった。それは壮大な夜であり、あるいは疲労が立ち込める前のバンドのピークをとらえているかもしれない。これはどぎもを抜かれるようなインストゥルメンタル・アレンジメントから、当時の驚くべきジャズ融合の噴出を伴った彼らの全レパートリーを伝えている。トラディショナル・フォーク・ソングの堂々とした解釈に対し、彼らはふさわしい称賛を受けた。これはベストなペンタングル体験だった。

しかしSweet Childはダブル・アルバムであり、もう1枚は彼らの名高い2つのバラッドの解釈を含むフレッシュなスタジオ・レコーディングをフィーチャーしていた。そのバラッドとは、1つが女強盗(!)を題材にした‘Sovay’で、もう1つが王になる少年をテーマとした‘The Trees They Do Grow High’だった。明らかに彼らは火のついたバンドとなっていた。彼らはアイデアを統合し、それぞれの異なるインスピレーションをブレンドし、完全に独自のサウンドへ昇華させていた。

それは大胆で、ラジカルで、すばらしく最高に驚くべきことだった。それは評判となったのである。そして現在もそれは変わらないのだ。

コリン・アーウィン


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