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Pentangle/Live At The BBC/1995 BBC Worldwide Ltd. BOJCD013



僕はペンタングルの音楽にずいぶん遅れてやってきた。実際バンドはその2年半前に活動を停止していた。1975年夏、雑誌に広告が出ていたClerkenwell・ストリート・マーケットで昼休みの間、中古レコードの箱を漁っていた時に、フォークリフトで運ばれるゴミみたいな中にSweet Childのうちのスタジオ録音のレコードに出くわした(当時僕はこれが本当は2枚組だったなんて知らなかった)。それはジャケ無しで単にビニール袋に入った1枚だった。

僕はもちろんバンドのことは知っていた。彼らはBBC初のカラー・ドラマ・シリーズ、1969年のTake Three Girlsのテーマ曲‘Light Flight’をやっていたから。それは彼ら唯一の大ヒットになってシングル・チャートにも入った。僕はドラマ同様その曲も好きだったけど、レコードを買うほどでもなかったんだ―当時15のガキに向くような音楽じゃなかった。そうしてバンドはそれ以降ヒットを出すこともなく消えてしまった。僕にとっちゃどこから来たのか分からないバンドがまた行方不明になるようなものだった。

図書館では評判が良かったから、彼らのコレクションがレコードの貸し出しシステムに並ぶようになったんだ。続く数年間、ポップスに飽き足らなくなった僕は、以前に聴いたこともなかった音楽を体験する機会に恵まれた。フォークとかブルースとかだ。僕が最も擦り減るほどのめりこんだレコードがバート・ヤンシュだった。

ヤンシュはグラスゴーとエジンバラのフォーク・クラブで活動を始め経験を積んだギター弾きで、アメリカの黒人ブルース・シンガー/ギタリストのビッグ・ビル・ブルーンジーやソニー・テリーの影響を受けて、その音楽を自然に吸収していった。彼は単なる音楽愛好家としての活動をやめ、‘イングランド・フォーク・リヴァイヴァル’に加わるべく南へ向かった。

ロンドン初期のクラブ・シーンでヤンシュはすぐに名手の一人となり、その内向的ではあるが不思議にカリスマ的なステージングと驚くべき革新的なギター・プレイは、同僚のミュージシャンから称賛を受けるようになっていった。数え切れないほどのギグ、ボブ・ディランとのパブ回りとイングリッシュ・フォークスターとして高く評価されていたアン・ブリッグスと交流する中、ヤンシュはビル・リーダーをプロデューサーに1枚のアルバムをレコーディングし、それは英国でディランさえも凌駕するほどのセールスを記録した。彼の影響力は巨大なものとなり、ドノヴァンやジミー・ペイジと肩を並べるほどになり、大西洋を越えて一人のハイ・スクール学生、ニール・ヤングにまで達するほどだった。アメリカでヤンシュの1枚目と2枚目は‘Lucky Thirteen’というコンピレーション・アルバムとしてリリースされ、のちにヤングがアコースティック・ギターの第一人者としてのヤンシュに敬意を表し、自らのコンピレーションに同名のタイトルを使うことになった。

ロンドン・シーンでヤンシュとほとんど同じ影響力を持っていた同期のジョン・レンボーンは、よりバロック的で熟練したギター・テクニックを持ち、多くのギグで友人の伴奏を努め始めていた。レンボーンはアメリカ人シンガー、ドリス・ヘンダーソンとデビュー・アルバムを作った後、ヤンシュと共に1枚のアルバム、Bert & Johnを制作した。これは今日のスタンダードであり、アコースティック・ギター・プレイの傑作の1枚として今も語り継がれている。

彼らはしばらく共同生活を送っていたが、そこへよく訪れていたのがブルース・シンガーのジャッキー・マクシーだった。彼女は姉妹のパムとデュオで歌い、時々レンボーンのレコーディングにゲスト参加していた。最終的に3人はHorseshoeクラブのレギュラーを務め始め、すぐに評判となりその人気は定着するようになった。

しかしレンボーンはすでにトリオのサウンドを拡張する構想を持っていた。ベース・プレーヤーのダニー・トンプソンとドラマーのテリー・コックスはセッション・プレーヤーとして売れっ子ミュージシャンであり、彼らは主にジャズ・コンボとして成功していた。数週間後、彼らはHorseshoeで同等の存在として宣伝され出演するようになった。こうして1967年5月、グループとなった彼らはペンタングルとしてロイヤル・フェスティヴァル・ホールで最初のギグを行なった。

あとに続いた出来事は原型的なミュージック・ビジネス・ストーリーといって差し支えないだろう。批評家たちの称賛、大きな成功、巨大なレコード・セールス、きりのないツアー、ワイト島フェスティヴァル、深刻な危機、レコード・セールスの落ち込み、レコード会社とのいざこざ、メンバー間の音楽的方向性の相違、多量の飲酒。最後のアルバム(Solomon’s Seal)はあるいは彼らの最高作であったかもしれないが、新しいレコード会社((訳注:リプリーズ(Reprise))による不十分なプロモーションによってついには1972年の終わり、バンドは崩壊してしまった。

トンプソンはジョン・マーチン、テリー・コックスと共にプレイを続けセッション活動を継続した。レンボーンとマクシーはジョン・レンボーン・グループで共に活動した。ヤンシュはレンボーン同様素晴らしいソロ作品、Rosemary LaneとMoonshineをリリースしたのち、農夫になるべくウェールズへ向かった。しかし田舎の田園生活は長続きせず、彼は1974年、メローで優れたアルバム、LA Turnaroundと共に戻ってきた。

これは地元の図書館で借りたアルバムだった。僕が最初に体験した彼の初期の音源で、すぐに僕の違法なテープ・コレクションの仲間入りとなった。僕はすぐに100クラブでレギュラー出演していた彼のギグへ通うになった。時々ダニー・トンプソンがベースで彼をバックアップしていた。僕はあの妙に内気なキャラクターに魅了されてしまった。彼の一見やすやすとこなしているように見えるけどすごくテクニカルで不可解なプレイと、緊張感のある不安定なヴォーカルは素晴らしく印象的だった。Clerkenwellで出会った片割れのレコードだったペンタングルが、僕のヤンシュのコレクションに加わるのは自然なことだった。

最初に感じていた疑念はすぐに晴れることになった。ペンタングルの複雑なリズムはすぐに僕を熱狂の渦に巻き込むことになった。バンドはしばしば‘イングリッシュ・フォーク・リヴァイヴァル’の産物と呼ばれることがあった。しかし彼らの持つ音楽的幅広さは、真にそれが当てはまるものではなかった。英国のフォーク・リヴァイヴァルは、イワン・マッコールのようなトラディショナリストたちによって始められ、ブルーンジーやテリーらアメリカのブルースマンによって活気づけられ、それはデイヴィ・グレアムという革命者を生んだ。グレアムはトラディショナル・フォークとブルース、東洋のリズムを融合し、それはドノヴァン、アル・スチュワートそしてラルフ・マクテルらを導くことになった。彼らはそれぞれのやり方でポップ・ミュージックに取り組み、それはスティーライ・スパンとフェアポート・コンヴェンションらバンドによってフォークとロックのフュージョンを生んだ。

その中でペンタングルはトラディショナル・フォークの素材、ブルースそして彼ら自身のブルージーでフォーキーな歌をトンプソンのアップライト・ベースとコックスのレイドバックしたドラムというジャズ・リズム隊に当てはめ、独自のスタイルを築いていた。

この抑制されたリズム・セクションがヤンシュとレンボーンのアコースティック・ギター・プレイを可能にしていた。彼らのスタイルは概してエレクトリックには不向きだった(レンボーンは時折セミアコースティック・ギターでアンプを使用していたが)。マクシーとヤンシュのヴォーカルの背後あるいは間に、メロディが複雑に織りなされるスペースが存在していた。マクシーの強力で安定したヴォーカルは5番目の楽器といえるものであった。とりわけヤンシュのヴォーカルの背後でバンド・サウンドに、より深みを加えていた。

マスター・テープが消失してしまったという優れた作品Solomon’s Sealを除いて、バンドの全てのアルバムは今CD化されている。これまでは全盛期の彼ら唯一入手可能なライヴが、2枚組アルバムSweet Childのうちの1枚であった(僕がClerkenwellで見つけられなかった方だ)。それは1968年6月にロイヤル・アルバート・ホールで行なわれたバンド結成1年後のライヴ・レコーディングで、のちのソロあるいはデュオで取り上げられる曲をかなり多く含んでいる。バンド存命中の二つの時期を収録したBBCアーカイヴからなるこのCDは、バンド全体を網羅する貴重な記録である。とりわけ僕のように、当時コンサートで彼らに遭遇する幸運に恵まれなかった人々にとってはなおさらなのである。

マイク・パーカー
95年6月


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