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The Ovations Featuring Louis Williams/One In A Million/2008 Ace Records Ltd CDKEND 294



‘Wonderful’以来5年以上に渡り彼らはスターの座についた

ジ・オヴェイションズといえば真っ先に思い出されるのが、ゴールドワックス・レーベル在籍期間とメンフィス・ソウル・ヴォーカル・グループとしての真のヒット曲‘Wonderful To Be In Love’(R&Bチャート22位、1965)である。彼らの第1級作品の数々(そしてその背後の物語)はKent CDKEND 246で聴けるとおりだ。しかしながらオヴェイションズ・ストーリーはクイントン・クランチのゴールドワックスが破綻すると共に終わってしまうわけではない。それどころか実際、彼らの最大の成功は次のレーベルであるSounds Of Memphis/MGMで達成させられ、そのベスト集がこのCDなのである。

70年代初頭、メンバーのルイス・ウィリアムズ(リード)、ネイサン・ルイス(ファースト・テナー)そして“Billy Boy”ヤング(セカンド・テナー)は何の進展もなく現状を維持していた。‘Wonderful’以来5年以上に渡り彼らはスターの座についていたが、レコード・レーベルとの契約がなくなったことによって、より富をもたらすギグのためのヒット曲を出す可能性を失い、時代はより厳しくなっていた。

同じく当時もがいていたソングライター(そしてゴールドワックスの名もないプロデューサーであった)のダン・グリアは、(SOM)スタジオ所有者ジーン・ラッチェシ(訳注:発音分からず:Lucchesi)のためにSounds Of Memphis(SOM)・レーベルを活性化させる仕事を見つけた。グリアは自らも素晴らしいシンガーであり、サム・フィリップスのRecording ServiceでA&Mのアルバムのために仕事をしていた。しかしスタジオの時間がなかなか取れず、ノックス・フィリップス(サムの息子)はダンにSOMスタジオでもっとのびのびやってみてはどうかと提案した。ジーン・ラッチェシとポール・ボマリトー(訳注:発音分からず:Bomarito)は自分たちのプロダクション会社とレーベルを設立し、1965年にはサム・ザ・シャムの‘Wooly Bully’のメジャー・ヒットを手にしていた。そのヒットをもとにラッチェシはSOMスタジオを建て、1968年にオープンさせた。この頃、彼の裏方のスタッフだったスタン・ケラーとチャールズ・チャルマーズは、新しい活動の場を求めて去って行き、レーベルはメイン・ソングライター、プロデューサーそしてA&Rマンに欠員が生ずることになった。

ダンがSOMで録ったA&MのLPが出た時、彼はプロデューサーに転身することを決めた。ダンはしばらくの間、自身の作品に従事したのち、ジーンはダンをシンガー/ソングライターだけでなくプロデューサーとしても承認し、才能あるミュージシャンを迎え入れることに同意した。ジーンはまず白人シンガーのルー・ロバーツと仕事をするために彼と話をした。ロバーツのXL/SOMでの作品は、この時はMGMを通じてライセンス貸与されていた。しかし彼はこの時MGM配給のSOMレーベル最初のシンガーとなるつもりであった。“ジーンは僕にSOMレーベルを経営しないかと尋ねて、そのためには新しいシンガーを引っぱってこなくちゃならないといったよ。で、私は私自身とthe Minitsを連れてきた。そのあとにスペンサー・ウィギンスだったね。当時はどの世界でも黒人対白人の図式があった。私はそれ以上はSOMには誰も連れてこれなかったね。誰か才能あるシンガーやソングライターを見つけても全てはジーンの手に握られてしまったんだ。”

ダン自身によるパンチの効いた‘Masquerade’のような初期のSOMリリースは、ガール・グループ、the Minitsの‘Still A Part Of Me’と共にチャート上の成功を獲得するに値する作品だった。しかしダンはPR戦略において他の作品とは同等の地位に立てなかったことが、チャンスの機会を逃したと思っている。“僕たちは基本的には独立レーベルで働いていたんだ。知ってのとおり、それは続かずうまくいかなかった。MGMはSOMをR&Bレーベルだと考えて、プロモーションに投資する気はなかったよ。バーバラ&ザ・ブラウンズはすでに‘Big Party’(Stax Label 1964)のヒットを放っていた。僕たちはブルースマン、ウィリー・コブの‘You Don’t Love Me’(元々はラッチェシ自身のXLレーベルだったがその時はSOM)で彼女(バーバラ・ブラウン)をちょっとしたローカル・ヒットにしていたんだ。でもそれまでだった。私が必要だったのは‘名の通った’アーチストだった。ラジオのオンエアを手に入れるのに疲れ果てていたからね。”

チャート上でオヴェイションズは停滞していたにもかかわらず、彼らはオーティス・レディングやジェイムス・ブラウンと共にツアーしたことで知られていたし、ニューヨークのアポロ・シアターでもライヴをしたことがあったため、まだメンフィスではメジャーなヴォーカル・グループと考えられていた。ダンはオヴェイションズがSOMに移ることに関してルイス・ウィリアムズに接触した。彼はそれが双方にとっての問題解決になると信じていた。ルイスはネイサンと“ビリー・ボーイ”の同意を取るのに困ることはなかった。彼らはゴールドワックス時代からダンを知っていたし、信頼していた。しかし本当の問題はグループにふさわしいマテリアルを見つけることだった。ジ・オヴェイションズはSOMではダンの所有物であり、このジレンマは明らかに彼の責任だった。

ダンはその役目をシンガー/ソングライターのジョージ・ジャクソンに依頼することに決めた。(ジョージとダンはソングライティング・パートナーを組み、George & Greerとして一緒にレコーディングし、ゴールドワックスとダン自身のGre-Jacレーベルからシングルをリリースしていた) その結果出来上がったのが軽快な‘So Nice To Be Loved By You’だった。作者のクレジットはオヴェイションズ3人に加えEugene(“Gino”)Williamsとなっていたが、ネイサンによればジョージの名が載せられるべきだったという。“ジョージはスプリング・ストリート(メンフィス)のジョージのうちでオヴェイションズのメンバーたちと最後まで一緒に曲を作ったんだ。でもジョージはフェイムとソングライティング契約を結んでいたから、彼はGinoに名前を使わせてくれって頼んだんだ。Ginoはライターじゃなかった。他の曲で彼の名前なんて見たことないはずだよ(笑)。”ラッチェシは滞りなくテープをMGMに差し出した。そしてMGMはSOMでのシングルとなる4曲のオヴェイションズのセッションのための費用を出した。

ダンは最初のオヴェイションズのシングルが、泥沼からの脱出のきっかけとならねばと思っていたが、‘So Nice’がグループのベストのサウンドかどうかは怪しく思っていた。ネイサンとビリー・ボーイはすぐれたプロフェッショナルのヴォーカル・グループ・シンガーであったが、ダンはリード・シンガーのルイス・ウィリアムズのサム・クック・スタイルのヴォーカルがグループの一番の強みだと信じていた。一方でネイサンはオヴェイションズがサム・クック・クローンとしてカモにされることに対して必死に抵抗していた。“ジ・オヴェイションズは自身のサウンドを持っていたし、それに加えてルイスは当時の多くのトップ・シンガーのスタイルを模倣することができたんだ。”しかしネイサンは、サムを崇拝するシンガーとしてのルイスを認めていたし、多くのクック・マナーを歌唱に取り込むことに協力してきたのも事実だ。そしてダンは彼がこの方向に専念すべきだと感じていた。“僕はゴスペルを歌ってきてサムのルーツがよく分かったし、サム・クック・ソングの書き方もよく分かるようになってきたんだ。僕は‘You Send Me’を念頭に置いて、女性がどういう風に心に触れてくるのかを考えて‘Touching Me’を作ったんだ。全く違う音楽性で違う詞だけどアイデアは同じだよ。”

‘Touching Me’のオープニング、“La da da la la cha da”からして我々は深くクックのスタイルに引き込まれるが、これはより成熟したサム・フィールだ。ダンはSOMが‘So Nice’を強く推したにもかかわらず、SOMでの最初のシングルA面を‘Touching Me’に決めた(芯のあるアップテンポの‘Don’t Break Your Promise’がB面だ)。彼の決定は新しく参入したレコード・プロデューサー、ウィリー・ビーンによって正当化されることになった。これは1972年R&Bチャートで19位となり(‘Wonderful’より3つ上の順位)、オヴェイションズ第2章としてふさわしいスタートとなった。

このヒットはオヴェイションズが表舞台に戻ってきたことを意味していた。ネイサンはグラディス・ナイト&ザ・ピップスと共にメンフィス繁華街のクック・コンヴェンション・センターで大規模なMGMのショーをやった日々を懐かしく思い出す。“僕たちは60年代にオーティス・レディングのツアーで一緒になってから、ピップスの連中とは親しくなっていた。僕たちはお互い半径50マイル以内でギグをやる時には会う約束をしていたね。同じショーでまた一緒にステージに立てるのがうれしかったよ。”

オヴェイションズはショーで他のアーチストのカヴァーをよく取り上げていた。彼らはカントリー・スター、BJ・トーマスのヒット曲、‘Hooked On A Feeling’を聴いた時に、これにグレイト・ソウル・ナンバーとしてのスポットを当てた。彼らはこれを‘オヴェイションズ・スタイル’に仕立て直した。ダンはスタジオで最終仕上げをした。メイボン“ティーニー”ホッジス(ハイ・リズム)とアーニー・バーナードの美しく浮かぶミドルテンポのアレンジが、ルイスの見事にソウルフルなヴォーカルを演出した。これはSOM作品の中で最高の1曲となり、‘Touching Me’に続くシングルに選ばれた。B面は深く沈むような‘Take It From One Who Knows(A Loser)’だった。このシングルが(どういうわけか)チャート入りを逃した時に、ついにオヴェイションズのサード・シングルとして‘So Nice To Be Loved By You’がリリースされた(B面はOne In A Million)。しかしこれもほとんどのインパクトを残さなかった。にもかかわらず彼らのSOM作品の素晴らしさに満足したMGMは、オヴェイションズのLP制作を認可した。

ダンは元々ハイ・リズムを全てのレコーディングに使うことを希望していたが、彼らとウィリー・ミッチェルのロイヤル・スタジオとの契約によって、ダンは必要な時にハイ・リズムを起用することができなかった。そこで彼はthe Trademarksと呼ばれるグループを連れてきた。彼らは以前フェイムで働いていたが、その時は主にメンフィス周辺のクラブでハウス・バンドとして活動していた。ダンは彼らが機会あらば高い能力を発揮できるバンドであることを知っていた。グループの中枢はレオン・アルドリッジ(ベース)、オスカー・スミス(ギター)、アルヴィン・ポッツ(キーボード)そしてコーネル・マクファーデン(ドラムス)だった。またウィリー・ミッチェルの兄弟、ジェイムス・ミッチェルと伝説的サックス・プレイヤー、フレッド・フォードは時折立ち寄ってはバンドに手を貸していた。

サム・クックが取り上げる‘ポピュラーな’マテリアル以外のサム・クック・ファンにとって、オヴェイションズの最初のSOMのアルバムはまさにうってつけだった。“Hooked On A Feeling”は3枚のシングル両面と‘You’ll Never Know’と全くもって見事な‘I Can’t Be Satisfied’のようなディープなナンバーが含まれていた。後者はダンいうところの、のちにレコーディングされるスペンサー・ウィギンスのブルー・カラー・ヴァージョンに対してホワイト・カラー・ヴァージョンだ(スペンサーのテイクもSOMシングルとして吹き込まれ、サザン・ソウル・クラシックとして広く認められている)。

ネイサンはもっと多くの‘TLC’((訳注:tender loving care(やさしい心遣い)?))がSOMのレコーディングには吹き込まれたと主張する。黒人紙The Tri State Defenderの記者ジェイムス・キングズレィはそれに同意し、LPを‘R&B Ovations On The Way Back After Slide’というタイトルのもと熱烈に記事にした。しかしダンは、‘Touching Me’に続くヒットが出ないことを悩んでいた。彼は黒人社会の根強いサム・クックへの支持を信じていたし、サムの遺産を受け継ぐのが正しいことだと感じていた。“多くのヒット・レコードを持つアーチストたちは、彼らのショーでそのヒット曲がいつもうまくハマッてなかったね。ヒット・メドレーをやったりしてたけど・・・。僕は思ったよ。サムの曲をやればいいじゃないかってね。”

しかしながら二人のキー・プレイヤーがダンの考えであるサムのメドレーのレコーディングにやってこなかった。ネイサンは次のように説明する。“ビリー・ボーイと僕は、うん、何ていえばいいかな、僕たちはその現場にいくにはある法的問題を抱えていたからそこにはいられなかったんだ。しばらくの間はその問題を片付けなきゃならなかったんだ。”ダンはネイサンとビリー・ボーイ抜きで事を進めなければならないことを分かっていた。そしてジョージ・ジャクソンをスタジオに呼び戻した。“The Trademarksは当時ショーのためにツアーに出ていたけど、幸いハイ・リズムの手が空いていた。で、ついに‘Having A Party’を思いついたんだ。私はライヴ・パーティーの雰囲気を加えたかった。ルイスがアドリブで一人でしゃべりながら歌に入ってきて、人々のざわめきが起こる。このレコードで聞けるおどけた声は僕とジョージだ(笑)。”巨大資本のポリグラムがこの段階でMGMレーベルを買収し、SOMとMGMレーベルの契約を打ち切った。‘Having A Party’(B面は内省的な‘Just Too Good To Be True’)が新しいレーベルのもとリリースされた時、このシングルは大本のMGMからであった(“The Ovations featuring Louis Williams”としてであった)。

‘Having A Party’が1973年にR&Bチャートのトップ10に入り、オヴェイションズ史上最大のヒットとなった頃までにダンはSOMをすでに去っていた。“僕はフレッド・フォード、アーニー・バーナード、ジェイムス・ミッチェル、あるいはハイ・リズムの連中に、彼らが僕のためにしてくれた仕事に値するだけの支払いができなくなったんだ。みんな友人たちだったからこれは切実な問題だったんだ。”ダンはあるいはこれら全ての厚意(彼がゴールドワックスとSOMで働いて得た幅広い経験と共に)を彼自身のGre-Jacレーベルに向けるべきだったかもしれないと考えている。彼自身のレーベルを経営することはダンの夢であり続けてきたし、今では幸せを感じるのはその頃の夢を曲の中に見出す時だ。

ヒットが出たことにより、ポリグラムはアルバムをほしがった。MGMのマイク・カーブはダンにSOMに戻りアルバムのプロデュースをするよう説得にやってきた。ダンはカーブと親しい関係にあり、これに同意した。彼は将来に渡って二人の協力関係は有効であることを分かっていた。“僕はその時、同時にサセックス・レーベルで忙しく働いていたんだ。で、2枚目のオヴェイションズのLPをまとめるのに時間がかかってしまったんだ。でもこれは悪いことじゃなかった。ルイスは自分がレコーディングしていない時でも、いつでもスタジオをぶらぶら歩き回っていた。だから僕たちはアイデアが浮かんだ時にいつでもレコーディングに入ることができた。ミュージシャンもいつもそろっていたしね。”ダンはまたジョージをソロ・アーチストとして2枚のシングルをリリースするのを条件にMGMレーベルに仲間入りさせることに成功した。そのシングルのうちのひとつ‘Soul Train’はまた、ルイス・ウィリアムズによってもレコーディングされ、今回このCDで初めて聴くことができる。

ネイサンとビリー・ボーイが一時的に気乗りしない状態にあった中、オヴェイションズには欠員が生じることになった。ネイサンはある話を取り上げる。“ルイスはエゴの強い性格じゃなかった。で、僕とビリーが去った時に、エディ・デイヴィスがルイスに僕らは不要だって納得させたんだ。エディは(以前から)僕らのマネージャーになりたがっていた。でも彼はドン・ドーチのツアー・エージェンシーでプロモーターの仕事もしていたから、僕が思うに利権の衝突があったんだよ。エディはナイチンゲイルズというグループから何人かのシンガーを連れてきた(ローチェスター・ニール、ビリー・デイヴィスそしてクインシー・ヴィショップ・ジュニア)。僕とビリーの代わりとしてね。でも彼らは真の‘Ovations’として認められたことはなかったよ。”

ダンは新メンバーの誰をも評価していない。“オリー(ホスキンス)のいないナイチンゲイルズのサウンドは好きじゃなかったね。僕たちはツアーのみで彼らを起用した。“Having A Party”のアルバムでバッキング・ヴォーカルが必要になった時は、ユーラ・ブフォード、マキシン・ジョーンズそしてマリー・デイヴィスに歌ってもらった。彼女たちはGirlsっていう女性グループだった。”(彼女たちは美しいディープ・ソウル‘The Hurt’s Still Here’をメンフィスのレーベルでリリースした。) アルバムで特に目立つのが‘I Can’t Believe It’s Over’だ。これは聴衆の騒ぐ音が入っていたが、今回はそれに加えて未発表ヴァージョンのスロー・テイク(聴衆の騒音なし)も収録した。このヴァージョンではルイスが全力で詞をしぼり出しているのが分かる。

アルバム完成後、ダンはオヴェイションズ・ストーリーから姿を消すことになる。彼が再び戻ってきたのは、1984年彼自身のレーベル‘Beale Street’からシングル“Louis Williams featuring the Ovations”をリリースした時だ。

多くの人々がまだルイス・ウィリアムズの需要はあると考えていた。今回はクレイトン・アイヴィ(キーボード・プレイヤーでクィン・アイヴィの息子であり、アラバマ、マッスル・ショールズでスタジオを経営していた)がプロデューサーに挑戦した。MGMは強力な2曲、激しい‘I’m In Love’と陽気な‘Don’t Say You Love Me(If You Don’t Mean It)’をシングルに選んだ。これは1974年にリリースされたが、続くルイスのレコード全てと同様チャート入りに失敗してしまった。

マイク・カーブもまた1975年に‘Pure Natural Love’と‘Gotta Move On To My Destiny’(このCDには未収)で挑んだが失敗した。これはチェス・レーベルにリースされたもので、おそらくウェスト・コースト録音だ。しばらくしたのち、ルイスは80年代に至るまでSOMで頻繁に活動を続けた。時にはジョージ・ジャクソンも参加していた。ジョージが2曲の素晴らしいダンス・ナンバー、‘Till I Find Some Way’と‘Sweet Thing’を書き上げた時、彼はルイスの生きいきとした歌唱がピッタリだと信じていた。ラッチェシも同意し、ジョージがルイスの2曲のプロデューサーだったため、彼のXLレーベルからリリースされた。シングルはおそらくメンフィス地区でオヴェイションズの名声を打ち立てる後押しとなった。しかしやはりチャート上では振るわなかった。

何年にも渡って多くの曲がルイスによってSOMに残されたが、おそらく無数の理由によってそれらはリリース待ちの状態に置かれることになった。しかしいかなる理由があろうと、もちろんそれは好ましい状況ではないのだ。ラッキーなことに、この上なく素晴らしいディープな‘I Care For You’と第1級の感動モノ、‘You’re My Little Girl’と‘Gotta Get Free’がついに今回のリリースで日の目を見ることになった。この3曲とジョー・サイモンのヒットでカントリー・スタンダードの‘Hangin’ On’は、‘Pure Natural Love’に続いて予定されていたシングルのデモとしてレコーディングされたものだ。しかしチェスはGRT CorporationからAll Platinumのシルヴィアとジョー・ロビンソンに所有権を移してしまい、その後彼らは実際のリリースをするレーベルとしては事実上閉鎖してしまった。所有権はオリジナルの契約に基づいて、全てのマスターはSOMに返却された。しかし我々がメンフィスに行った時、これらデモは紛失してしまっていたのである。しかし全くの偶然からAceのレパートリー・コンサルタントのトニー・ラウンスがAll Platinumの倉庫を訪れた時にコピーを発見し、何年も前にそれをCD-Rに落としたのだ。

ネイサンとビリー・ヤングは1976/7年頃ルイスと共に戻ってきた。ルイスはお気に入りのサポート・メンバーが戻ってきたことを喜んだが、彼らは再び初期の頃の強い絆を取り戻すことはできなかった。ルイスは時折ボビー・ウーマックのようなアーチストとソロ・ワークをするようになっていた。ビリー・ヤングは1998年に他界し、その4年後ルイス・ウィリアムズも他界した。ネイサン・ルイスとダン・グリアは今も情熱的に音楽を作り続けている。かつてスタックスやハイ・レコーズ以上のメンフィス・ソウル・ストーリーがあったことなど気にも留めない人々に向けて・・・ そう、このCDがまさにそのストーリーなのだ。

マーティン・ゴギン、2008


AceはLinda Lucchesi, Gene Lucchesi Jr, そしてTony Rounceのこのプロジェクトに対するご協力に感謝します。

マーティン・ゴギンはこのスリーヴノーツのために協力してくれたダン・グリアとネイサン・ルイスに感謝します。



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