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The Ovations featuring Louis Williams - Goldwax Recordings/2005 Ace Records Ltd CDKEND 246



ゴールドワックスのオーナー、クイントン・クランチは、カントリー・ミュージックの素養を持ち、黒人音楽シーンに手を染めようと決めた時、彼の頭にはヴォーカルグループはありえなかった。これは驚くほどのことではない。なぜならニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴ、デトロイトとは対照的に、60年代、70年代のメンフィス及び南部一帯ではソウル/R&Bヴォーカルグープはごく稀であったからだ。

アスターズ、マッドラッズ、マスカレイダース、テンプリーズはソウル通にのみ知られた存在であった。それらグループは優れた作品を発表したにもかかわらず、ごくマイナーなヒットに終わることが多かった。おそらくそれは、南部には、大都市に見られたようなコーラスグループの伝統がなく、またレコード購買層は南部グループの希薄なバックコーラスよりも、より都会的で洗練されたコーラス・ハーモニーを好んだからであろう。理由はどうであれ、そういった障害を乗り越えR&Bチャートへ活路を見出した(そしてクランチにとっての初のヒット)最初のグループがオヴェイションズであった。

リード・ヴォーカル、ルイス・ウィリアムスの美しいサム・クック唱法は、もちろん筆頭に上げられるが、ネイサン“ペドロ”ルイス(グループ最後に加入し、今もオヴェイションズの大きな力となっている)は、ルイス・ウィリアムスは単にサム・クックの模倣者としては終わらないものを持っていると信じている。“確かにサム・クック・スタイルは大きな売りになったけど、ルイスは例えばクライド・マクファーターや、ジャッキー・ウィルソンその他当時のトップシンガーのような歌い方も自由に操ることができたんだ。もちろんサム・クックは僕たちみんな大好きだし、サムの要素は大きかったけど、僕らのレコードを聴けば僕らは僕ら自身のスタイルを持ってる事が分かるはずだよ。”

もう一人の創立メンバー、エルヴィン・リー・ジョーンズもこれに同意する。“僕にとってルイスは何でも歌えるシンガーなんだ。聴衆が彼の声にサム・クックを感じるならその通りだろう。それはレコードの売上げにつながったよね。ただルイスはサム・クックを真似たわけじゃないんだ。これが彼のスタイルであり、オヴェイションズのスタイルなんだよ。”

ネイサンは1943年メンフィスに生まれた。50年代末、彼は近所の仲間と、エル・サルバドルズというヴォーカル・グループを結成した。そこには彼の兄弟ドンと、従兄弟のジェイムス・ライトも加わっていた。そしてエル・サルバドルズは絶賛され、大ブレイクすることになった。

“バーニー・シリングスタインという男がいたんだ。彼は食料品店を経営していて、僕らを聴いた時にシミー・アラバスターに引き合わせたんだ。彼はアラバスター・クリエイティブ・ジュエリーという宝石商をやっていた。彼らは僕らを気に入り、レコードを出す事にしたんだ。僕らはレコーディングをしてシミー・レコードからシングルを出した(1960年頃)。片面は‘Shimmy In The Daytime’もう一方は‘Fall Is Here’だった。でもたった1つ問題があった。バーニーはThe Flintstonesのアニメキャラクター、Barney Google(原文のまま)を凄く気に入っていて、レコードで僕らの事をBarney And The Googlesって名付けたんだよ!(笑) 僕らはその名前が嫌でしょうがなかったけど、彼らが売ってくれてる以上僕らには選択の余地が無くてね。2回だけラジオで演ったよ。でもギグではその名前では決して歌わなかったな。だって恥ずかしかったし、昔の名前に戻したかったからね!”

ビール・ストリートとその一帯はメンフィスのブラック・コミュニティの拠り所であった。ネイサンはそこで、多くの仲間たちと仕事をし遊んだ。“僕の叔母さんのバーニスは、4丁目とビール・ストリートに美容院を持ってた。そこでルイス・ウィリアムスと会ったんだ。バーニスの娘たちもその店で働いてて、月曜の晩はフラミンゴ・ルームっていうクラブに通ってたな(1ブロック向こうのヘルナンド・ストリートにあった)。なぜなら月曜はデル・リオスナイトだったからね。ルイス(1941年シカゴ生まれメンフィス育ち)は、元々モントクレアズ(ポーラ・レーベルのグループとは別)にいたが、その時はウィリアム・ベル、ロバート・ハントリィ、ハリー・オースティンともう一人ティノという仲間と、デル・リオスに在籍していた。

彼らは1962年スタックスで、‘Just Across The Street’を吹き込んでいた。ルイスとロバートが一度、その美容院に訪れ、娘たちと友達になった。で僕もそこにいたというわけさ。彼女たちは僕をからかってこう言ったんだ。「ネイサンは自分のグループのレコードのことをあなた(ルイスとロバート)に言った?ネイサン、あなたのことよ」ってね。僕は言った。「その話は持ち出さないでよ」ってね。でも彼女たちはやめないから、ルイスとロバートに僕らのレコード、つまりバーニー・アンド・ザ・グーグルズのことを説明しなきゃならなくなったんだよ。彼らは笑ってたから困惑したね。でもその後、奥の部屋に入って一緒に歌ったら彼らは僕の声を気に入ってくれた!”

“ちょうどその頃、ウィリアム・ベルが軍隊に入って、ティノがグループを抜けた。ピート・タイラーというプロモーターがデル・リオスのギグをいくつか企画していて、ルイスとロバートが僕のことをハリー・オースティン(グループのマネージャー)に話して、デル・リオスを建て直そうとしたんだ。僕はティノの代わりにツアーに参加したんだけど、ウィリアム・ベルのお下がりのユニフォームを着たよ。ティノのは小さすぎてね(笑)。タイラーはアイヴォリー・ジョー・ハンターと友人同士でルイジアナのモンローに住んでた。

僕らはアイヴォリーの家にあるスタジオに立ち寄っていくらかリハーサルしたんだ。彼は息子のシャーマンに、僕らをワゴン車で迎えに行かせてくれて、僕らが泊まっていたホテルへ送り届けてくれた。その日僕らのために働いてくれたんだ。僕らはハードなR&Bグループだった。ちょっと未熟なね。思うに彼は、プラターズやクローバーズのような洗練されたヴォーカルグループに僕らをもっていきたかったんだろう。彼は洗練された男だったし、僕らは彼からいろんなことを学んだよ。僕らがホテルに泊まっていた時、一人の男が新聞を送り届けてくれた。で彼は僕らが何者かを知ると、リハーサルを申し込んできた。名前はノーム・ウェストといって、後のソウル・チルドレンのメンバーになる男だった。いいシンガーだったね。僕らはアイヴォリーとそれが分かったから、メンフィスを出発する時にはノームはデル・リオスの一員になってた!”

“メンフィスに戻ってフラミンゴ・ルームでジーン‘ボウレッグス’ミラーのバンドで歌ってたんだ。メンフィスの南側の人たちはフラミンゴ・ルーム、北側の人たちはカリーズのクラブ・トロピカーナに行ってたな。フラミンゴはたまにベン・ブランチを呼んでたよ。彼は「バトル・オブ・ザ・バンド」のためにカリーのハウスバンドを従えてた。僕らはそのバンドのシンガーたちに挑んでたよ。ほんとにそういう晩は盛り上がったね。噂が広まってブルック・ベントン、B.B.キング、アイク・ターナーなんかが、ビール・ストリートのクラブ・ハンディから見に来たりしたよ。

ビール・ストリートは当時ビッグなところでね。今では観光名所だけど、ピーボディ(ホテル)の行楽地とか。人々は今ではビールに行く余裕がなくなってしまったけど、皆そこに住んで働いてたんだ。デル・リオスは2年くらい続いたかな。ノームがハイに採用されてハリーはデトロイトに行った。ベースシンガーのロバートはスタックスに行った。みんなルイスと僕の下を去ってしまった。でもラッキーなことに、ウィリー・ミッチェルが連絡をくれて、フォー・キングスの一員としてギグを頼まれたんだ。メンツはウィリー・ミッチェルとドン・ブライアントをフィーチャーしたフォー・キングスだった。エルヴィン・リー・ジョーンズは‘キングス’唯一の生き残りだったな。

リー(1942年生まれ)はネイサン、ルイス同様、自由自在な歌い手としてのキャリアを積んでいた。彼は思い出す。“ドン・ブライアントと、僕と、後2人の4人で、DJのディック・‘ケイン’コールの務めるWLOKで働いていたよ。僕らは自分たちをケインズって呼んでた。彼の番組で毎朝なにか録ってた。アカペラでね。僕らはdry singingと呼んでたよ。ディックが、僕らをクラブに出演させる話を持ってきたんだけど、ディックの支払いで問題が起こって、彼のところを去った時、彼からケインズっていう名前を使わないように言われたんだ。

僕らはケインズのような響きのする名前が欲しかったから、フォー・キングスって名乗ることにした。ドンは、僕らとウィリー・ミッチェルを仲介してくれて、何曲かレコーディングもした。どれも成功しなかったけどね。ある晩、ホワイト・クラブで喧嘩があった。僕らが演っていたのが原因だった。人種差別さ。クラブは店を閉めるか、黒人を締め出すかしたんだ。ウィリーが迫害されるのを避けるために、フォー・キングスは解散してしまったんだ。ウィリーはアーカンソー大学で、いくつかギグの予定が入っていたからルイス&ペドロを雇ったんだ。”

ネイサンは、彼自身と、ルイス、リーは素晴しいグループだと感じていたので、ウィリーとドンとのギグが終わっても、トリオを続ける決心をした。“僕はその時仕事がなくてね。ルイスはコットン会社で働いていて、リーはビール・ストリートの理容学校を終えたばかりだった。ルイスが仕事を終えてから、僕らは理容学校の部屋でよく会ってたよ。古い壊れた理容用の椅子に座ってリハーサルしたりね。でビール・ストリートの病院で働いていた男が、レストランやなんかの店でモノになりそうな才能を探し歩いていたんだ。で僕の叔母の店に来た時、彼に僕らのことを話したらしいんだ。

彼は僕らを聴いて、自分の名前はルーズヴェルト・ジャミンソンだと言った。彼は僕らをレコーディングしたがるに違いない人物を何人か知っているから会わせたいと言った。もちろん僕らは同意すると、彼は言ったよ。「クイントン・クランチとドック・ラッセルという男だ。病院が閉まったらそこで会わせるよ」ってね。1963年頃のことで、クイントンはゴールドワックスを立ち上げる前だった。僕らは彼らにとって最初のアーティストのうちの一つだった。バーバラ&ザ・ブラウンズもいたな。もちろんルーズヴェルトはジェイムス・カーとO.V.ライトも連れてきていた。ルーズヴェルトはゴールドワックスに全ての才能を連れてくる牧師のような存在だった。でも僕はクイントンとドックがどう裁判に決着を付けるか話してたのを覚えてるから、OVのドン・ロビーとの契約に問題があったのは確かだね。OVは結局ロビーとの契約に落ち着くことになった。”

初期のステージでは、アイヴォリー・ジョー・ターナーがグループ結成に手を貸し、彼らのマネージャーとなった。それは1964年8月、最初のゴールドワックスとの契約で、マネージャーとしてサインしたものだった。いくつかのステージをこなした後、1967年8月、ルーズヴェルト・ジャミンソンがマネージメントを引き継いだ。それはベル・レコードを通じての契約であった。その契約では4人のゴールドワックスのアーティスト、つまりウィリアムス、ルイス、ジョーンズ、ヤングとしてグループを構成するという形であった。

“クイントンは僕らをチップス・モーマンのアメリカン・スタジオに連れて行ったんだ。会社はレコーディング・スタジオを持ってなかったからね。で僕らがボウレッグスと一緒にプレイしていたことを聞くと、彼を連れてきてレコーディングした。最初が‘Pretty Little Angel’(1964)だった。

‘Angel’には3人全ての名がクレジットされた。フリートウッズの‘Come Softly To Me’を思わせるようないかしたナンバーだ。それは全員のヴォーカルがフィーチャーされている。‘Won’t You Call’ではルイスがほんのちょっと前に出ている。他のメンバーは後ろで甘いハーモニー付けている。ルイスのサム・クックの影響はセカンド・シングル‘It’s Wonderful To Be In Love’でよりいっそうはっきり表れている。これはサムのスペシャルティでの‘He’s So Wonderful’に似ている。特に歌詞を正確に発音するところがそっくりだ。この曲はオヴェイションズの中で最も有名で、サム・クックに影響を受けたグループとして、彼らを決定づけることになった。

しかしルイスのヴォーカルを繰り返し聞けば、クックとの違いも多くあることがわかる(ボビー・ブランドとその弟子グレイター・デイヴィスのように)。これは1965年、ゴールドワックス最初のシングルとしてリリースされ、R&Bチャート22位を記録した。ペドロはこの成功についてはっきり覚えている。“ノーム・ウェストが去る前からその曲には取り組まなきゃならなかったよ。(今でもだけど)僕らはリーを入れて再び取り上げたんだ。その曲を携えてアポロ劇場に直行さ!衝撃だったね。でも僕らがやらなきゃならなかったことは、いつもやっていたことだったからね。いつものステージングってことさ。”

アポロはリーにとって恐いものではなかった。“とても魅力的に感じたけどハードな仕事だったね。一日に5,6回のショウをやんなきゃならなかった。朝11時にスタートしてね。みんな気に入ってくれて、事実僕らのレコードは人気があったし、ジェイムス・ブラウンは自分のツアーに誘ってくれたんだ、彼の前座としてね。僕らは彼と一緒にまる1ヵ月毎日出演したね。僕はオヴェイションズのビジネス・マネージャーで金の流れを管理していた。多くの人がJBは金にうるさいっていってたけど、僕にはとても礼儀正しく見えたよ。支払いで彼と問題になったことなんてなかったね。”

クランチはオヴェイションズの成功を利用したがっていて、次のレコーディングはリック・ホールのフェイム・スタジオが相応しいと考えていた。そのスタジオで起こるマジックに期待したのだ。Goldwax 117番のシングルは、アップテンポの‘Recipe For Love’と、ゆったりしたソウルフルな‘I’m Living Good’である。後者は伝説的サザンソウル・ライター、ダン・ペンとスプーナー・オールダムの手によるもので、オヴェイションズのゴールドワックス作品では最高の部類だ。この曲は、アーサー・コンレーとフットボール選手からシンガーに転向したルーズヴェルト・グリア他にも取り上げられた。

このセッションでの他のトラックはいきのいいR&B‘They Say’があり、これはヴォーカルの素晴しい相互作用を聞くことができる。作者はO.B.マクリントンというクレジットではないが、マクリントンは後にカントリー界に転身した。‘Me And My Imagination’はスローナンバーで、ルイスはより伸び伸びと歌い、バックコーラスもかすかに聞き取ることができる。この2曲は、遅まきながら1967年Goldwax 314としてシングルリリースされた。A面の‘Imagination’と共にR&Bチャート40位となり彼らのゴールドワックス2枚目の、そして最後の成功となった。

しばらくするとスターとしてのオヴェイションズにも、人気の陰りが見えてきたかのようだった。ネイサンはしかしそれもよいこととして考えていた。“次のツアーはオーティス・レディングによって企画されたんだ。僕らとグラディス・ナイト&ザ・ピップス、ビリー・スチュワート、パティ・ラベル&ザ・ブルーベルズ、ジェイムス・カー、ミッティ・コリア、ジェイムス・フェルプス、ジミー・ティッグ&ザ・ラウンダーズそしてパーシー・スレッジだ。ジェイムス・カーとジェイムス・フェルプスは、彼らの歌唱の中にゴスペルがあったね。彼らは僕らも含めた連中のようには羽目をはずすことは決してなかったね(笑)。全員が出演者だったから、みんなと多くの時間を過ごしたよ。家族のように親しくなった、特にピップスとね。彼らはほんとに親切だった。ルイス、グラディス、バーバ(ナイト)、ミッティ・コリアと彼女の夫は、トンク(トランプゲーム)を一晩中やってた。

オーティスはいつも僕らの面倒を見てくれた。彼は自分の農場に僕らをディナーに招待してくれさえしたよ。全てのショーもね。グレイトだったね。オーティスは農場が好きで、カウボーイのように馬に乗ることもできたんだ。いくつか問題が起こったこともあったな。1つはパーシー・スレッジがファンの女の子と一緒だったために、バスから放り出されたんだ。彼は車を買って僕らを追いかけてこなきゃならなかった(笑)。もう1つはビリー・スチュワートとリーの仲が悪かったことだね。なぜかというと、ビリーが気が付くと、いつもリーがビリーの彼女と話をしていたからなんだ。ピップスの連中がなだめ役になってビリーを落ち着かせてたよ!リーと彼女もね!(笑)”

しばしばなぜメンフィスという地域に、これだけ多くの才能が集まったのかという議論になることがある。ネイサンはそれについては考えたことがないそうだ。ただ1つの事実は認めている。“僕はポナトック・ストリートのアパートに住んでいて、そこには(シンガー/ソングライター)のジョージ・ジャクソンもいたんだ。とても親しかったんだよ。彼はいくつかキーの欠けたピアノを持っていて、それで多くの曲を書いてたんだ。僕は時々一緒に曲作りしたり、リハーサルしたりした。ある日クイントンが立ち寄った時、ジョージは僕らのために‘Qualifications’と‘I Believe I’ll Go Back Home’を書いてた。でもそれは1966年までリリースされなかったよ(Goldwax 306)。

ジョージ・ジャクソンは今もだけど、サム・クックの大ファンで、ルイス・ウィリアムスのいるグループのために曲を書くのに喜びを感じていたんだ。キャッチーな‘I Believe I’ll Go Back Home’と、スマートで性急な感じの‘Qualifications’、これは明らかにウィルソン・ピケットの‘634-5789’の影響を受けてた。意志の強いソウルフルな曲で、多くのソウルファンが望むサム・クックスタイルだ。これらのトラックはサム・フィリップスのレコーディング・サービス・スタジオで録音された。ルイスとグループは今や音楽界でベテランだったし、そのことは僕らに大きな自信と円熟したパフォーマンスを与えてくれたね。

オヴェイションズのゴールドワックスのシングルには、レーベル上に‘featuring Louis Williams’と表示されているものがあった。グループの売りであるルイスの声を意識してのことだ。クイントン・クランチはルイスをソロ・シンガーとして売り出そうと考えていたことも認める。“私たちがオヴェイションズと契約した理由はただ1つ、ルイス・ウィリアムスだった。サム・クックは亡くなっていたし、ルイスは当にクックを受け継いでいたからね。それがレコードの売りになると考えていたよ。”

しかしながらこれは、他のグループのメンバーがルイスにもたらしている大事なサポートを無視した考えである。スタジオの中においても、そしてネイサンによるとツアーにおいても、両方の面での話だ。“ルイスは才能あるシンガーで、レコード会社もプロモーターもいつも彼を‘The Ovations Featuring Louis Williams’、もしくは‘Louis Williams And The Ovations’としてフロントに立たせたがっていた。でもルイスはグループの一員である方を好んでたし、ソロ・アーティストとしての責任を望んでなかったんだ。聴衆の中にはこう叫んでた人々もいたよ。ルイス一人に歌わせろってね。彼にとっては、本当はその方がよかったのだけれど、彼の目には一人で歌うことはむしろ重荷に映ったんだ。このことはグループ内にねたみを引き起こさないことを意味したね。一方でルイスはグループに面倒を見てほしがってたから、それはしなくちゃいけなかったけどね。

ローカルでヒットを放っても、オヴェイションズはいつもより大きなツアーは見込めなかった。しかしネイサンは、小さな会場での忙しかった日々をよく覚えている。“オーティスのツアーが終わって小さなギグをこなしていたよ。フロリダ、マイアミ郊外のポンパー・ビーチにあるバードランド・クラブからジョージア、アトランタにあるロイアル・ピーコックまでね。ピーコックでは2回演ったな。そこから道の向かい側に‘カウント’ジャクソンの写真屋があってね。そこはスターがアトランタに来ると、必ず写真を撮ってたんだ。彼はメンフィスのアーネスト・ウィザーズみたいなもんだった。カウントはシンガーのチャック・ジャクソンの父親でもあったんだ。ピーコックに写真を撮りに来たとき、いかに自分の息子が素晴しいシンガーかふれ回ってたよ。

さっきいったように、リーはパーティ好きで、女の扱いに問題があったから、ついにグループを抜けることになったんだ。ワシントンDCのハワード劇場でのコンサートがあって、リーはガールフレンドを連れて行くことにしたんだ。そのコンサートの次がボストンでテンプテーションズとの小さなギグが2つだった。僕らが車に乗ってる時、リーが彼女のアリーンに頼んで次の町の契約書をアタッシュケースから取り出してもらったら、それはアトランタの女からのリーへのラブレターだったんだ!アリーンは僕らがリーの行いを全て知っていると思って、リーより僕らにわめき散らしたんだ。でリーにオヴェイションズをとるか彼女をとるかって迫ってリーはアリーンを選んだんだ。二人は結婚したからリーは後悔していないよ。リーは時々そうやってグループを失ったけど、最終的には歌うことを辞めた。““アリーンが辞めさせたんだ。彼女は何でも辞めさせるんだ(笑)。でもよかったよ。仕事についたし音楽って保険がないだろう?この歳じゃ退職金をもらっていいくらいだからな(笑)。”

オヴェイションズはメンバー不足になっていたが、彼らはユニバーサル映画のためのギグが残っていたので、メンフィスに戻ってグループを再編することにした。ネイサンはルーズヴェルト・ジャミンソンが再び彼らの手助けをしてくれたのを思い出す。“ルーズヴェルトは彼の甥のウィリアム”ビリーボーイ“ヤングを推薦してくれたんだ。アバンティスというグループで歌っていたらしかった。僕らにはヒット曲があったから、ルーズヴェルトは彼にグループを抜けてオヴェイションズに加入するよう働きかけた。ビリーボーイはリーのような安定した音程は持ってなかった。でも僕かルイスと同じ音程であればキープすることができたから、そうやって彼を隠してたよ(笑)。ビリーは才能あるライターで、アバンティスに‘Keep On Dancing’(Argo 5436/1963年)を書いていた。これはボックストップス、ジェントリーズにカヴァーされたよ(後にベイ・シティ・ローラーズのUKヒットにもなった)。僕らは彼が入ってくれて嬉しかったね。おかげでユニバーサルの仕事も終えることができたんだ。

ネイサンはグループが、クランチとラッセルの彼らに対する扱い方に、あまり満足していなかったことを回想する。“僕らは曲を練習して、アレンジして、スタジオに入っていた。自分たち自身でプロデュースしてたんだ。でもクイントンがプロデューサーだった。彼らはいくつか自分たちで曲を書いてたが、もっと印税を欲しがってた。他のアーティストがその曲をカヴァーした時もね。ナッシュビルのカントリー&ウェスタン・シンガー、サンディ・ポージーが60年代後半マーキュリーに‘It’s Wonderful To Be In Love’をレコーディングした。これが結局僕がハリー・フォックス・エージェンシーを雇った理由なんだ。権利を守るためにね。いいかい?振り返ってみるとこの世界の華やかさに巻き込まれると、ドアに自分の名前があったり、ラジオから自分の歌が流れてきたりして惑わされるんだ。音楽ビジネスに対して無防備な状態に陥るね。ショー・ビジネスさ。僕らは‘ショー’ばかりに目がいって‘ビジネス’の方には注意を払わなかったのさ(笑)。

ゴールドワックスは、エルヴィンのディープなヴォーカルの入ったテープをまだ持っていた。‘Me And My Imagination’と‘They Say’(# 314)がリリースされ、1967年R&Bチャートで40位になった。次のシングルは、ルイスの優れたヴォーカルの聞ける‘I Gotta Go’(再びペンとオールダム作)と、明るくかつブルージーな‘Ride My Troubles And Blues Away’だった。ネイサンはなめらかなゆったりしたテンポの‘Happiness’と、スマートな‘Rockin’ Chair’(Goldwax 341)が、ビリー・ヤングがオヴェイションズのメンバーとして初めてゴールドワックスに残した曲だと信じている。これに続いたのが‘You Had Your Choice’で、これはストリングスを伴った、より充実したナンバーで‘I’m Living Good’とのカップリングだった。これはホーンとストリングスが加えられた。結局これがゴールドワックス最後のシングルとなった。

グループはドック、ラッセルとクイントン・クランチの関係が悪化していることを悟り、オヴェイションズは目的地を失ったトラックに乗っていると感じていた。1969年ついにゴールドワックスが倒産した時、グループは契約から解放されたことに幸せを感じていた。彼らは数年間地方の小さなクラブでギグを続けた。しかしクランチの下に残された未発表音源は、70年代後半と90年代初頭の日本のレーベルから、LPとCDで発表されるまで、日の目を見なかったのである。そこにはどっしりとした堅実な‘I Know You Don’t Want Me’、うねるようなブルースシャッフルの‘What Did I Do Wrong’(これはハーモニカに注意をそらさないような優れた音階を持つ)、デトロイトを強く感じさせる‘I Miss You Baby’の誰をも魅了するグルーヴ(エンディングで素晴しいグループのハーモニーが聞ける)、‘You And Tom’‘I’ll Be True To You’、そして粋なルイスのソロヴォーカルが聞ける‘When It Comes To Loving You’など、クランチがリリースしないことを決定したため、これらはグループの音源として追加されることがずっとなかったのである。

ジョージ・ジャクソン作‘I Like Summertime’は、サム・クックの‘Moon In June’の歌詞に通じるソウルと、MORの中間といった雰囲気を持った曲だ。しかしあくまでルイスの品格あるヴォーカルが特徴的だ。キャッチーだが感傷的な‘Adios Senorita’は、ルイスの資質からはかけ離れているかもしれない。ディープな‘Peace Of Mind’(サム・フィリップス・スタジオ録音)は力強い詞がルイスのヴォーカルにうまく乗っているが、未発表トラックとして扱われた。最高なのがアップテンポの‘Let’s Stick Together’で、これはエース・レコードがこのリリースのために探し当てたものだ。

ギグは続けられたが、ヒット曲が生まれることはなくなっていた。しかしラッキーなことに、ダン・グリアがレコーディング契約を持ってきた。ダンは言う。“僕は1971年A&Mで、2,3のアーティストを手がけていた。メンフィスのサウンド・オブ・メンフィス・(SOM)スタジオでね。SOMはプロダクション会社で、サム・ザ・シャムの‘Wooly Bully’のヒットをMGMに残していた。SOMはその資金でスタジオを作ったんだ。でもサム・ザ・シャムはそれ以上のレコーディングを拒否したから、会社は他のアーティストを必要としていた。それが僕とミニッツ、バーバラ・ブラウン、そしてスペンサー・ウィギンスだった。

でも僕はラジオでの売込みに疲れきっていたから、名の通ったアーティストを探してた。オヴェイションズと会った時僕は、ゴールドワックスの専属ライターだった。ルイスと僕は小学校へ一緒に通っていた仲だった。で彼にペドロとビリーボーイをSOMに参加させるために、話をさせてくれるよう頼んだんだ。でたくさんスタジオでリハーサルした結果、‘Touching Me’(SOM 708)が出来上がった。オヴェイションズはいつも素晴しいレコードを出してたけど、ゴールドワックスは全然プロモートしなかったんだ。MGMはそんなことなかったから1972年にはR&Bチャート(19位)に入ったよ。”

そしてオヴェイションズはチャート上の成功により、‘Hooked On A Feeling’(SOM 7001)を作ることが出来た。このアルバムは、グループの円熟を示していた。ネイサン、ビリーボーイの素晴しいバッキング・ヴォーカルと、ルイスの驚くべきリードヴォーカルを聞くことができたが、ネイサンは一日中働いていることに変わりはなかった。“うん、いいレコードだよ。でも僕らとしては次はどうするって感じだった。僕らはツアーを続けていて、ドン・ドーチとベティ・バーガーが運営していたコンチネンタル・アトラクションズと多くの時間を過ごしていた。彼らはユニバーサルのような大物アーティストは扱えなくて、僕らは小さなギグばかりをこなすことになったね。”

次のヒット‘Having A Party’は、そのままサム・クックのメドレーで、R&Bチャートのトップ10に入り、彼らの最も成功したアルバムとなった。しかし残念ながら2人がグループを抜けることになった。“ビリーボーイと僕はどう事を進めようかと考えたよ。その時僕ら2人は、法的問題を抱えていて、しばらくグループを離れなければならなかった。ドン・ドーチのところのプロモーター、エディ・デイヴィスがルイスに、僕らは必要ないって説得したんだ。エディは以前にも僕らのマネージャーになりたがっていた。でもドン・ドーチのプロモーターでもあったから、僕はそれが利権争いになると思ってたんだ。

エディはナイチンゲイルズ(ローチェスター・ニール、ビル・デイヴィス、クインシィ・ビルアップス・ジュニア)のメンバーを引っ張ってきて、僕とビリーの代役にしたんだ。”しかし新メンバーはダン・グリアが言うように、レコードには参加しなかった。“オリー(・ホスキンス)はその時にはナイチンゲイルズを去っていた。僕は彼らのハーモニーは好きじゃなかった。ツアーでだけメンバーを使ったよ。‘Having A Party’は大ヒットしたよ(1973年R&Bチャート7位)。でもおどけ役とバックヴォーカルは、僕とジョージ・ジャクソンだ。元々はSOMからのリリースだったけど、ポリグラムがMGMを買収して、レコードをメインのレーベルに移したんだ。アルバム上では、バックヴォーカルは、ユーラ・ビューフォード、マキシン・ジョーンズ、そしてメアリー・デイヴィスだった。彼女たちはザ・ガールズという女性グループだった(ザ・ガールズはメンフィスのレーベルからディープで美しい‘The Hurt’s Still Here’をリリースしていた)。僕は自分の会社ウェット・ペイントを立ち上げるためにSOMを辞めていたけど、アルバムはプロデュースしたんだ。オヴェイションズとは80年代になるまで仕事をしなかったね。”

ヒットが出たため、ビリーボーイとネイサンが戻ってきたが、状況は変わってしまっていた。ネイサンの目にはよく映らなかったようだ。“彼はレコーディングに忙しくて、僕らには構っていられないようだったね。もう対等じゃなくなってたから去ることにしたよ。”

MGMから契約は切られたが、ルイスはオヴェイションズを続け、SOMでレコーディングを続行した。エディ・レイ(前MGM)の助けを借りて、‘Pure Natural Love’と‘Gotta Move On(To My Destiny)’のカップリングは1975年チェスからリリースされた(# 2166)。1978年彼は、ボビー・ウーマックのアルバム‘Roads Of Life’のバッキングヴォーカルを録るため、マッスルショールズに出向いた。そこにはおそらくジョージ・ジャクソンのデモ‘Sweet Thing’と‘Till I Find Some Way’があり、1980年SOMの姉妹レーベルXL(# 120)からルイスが出したようである。ジョージはSOMスタジオで多くの時間を過ごし(エディ・レイはジョージの‘Macking On You’を1975年チェスにライセンスしている)、ただちにそのシングル両面をプロデュースし、‘The Ovations featuring Louis Williams’としてリリースしている。

しばらくネイサンは、他のアーティストの曲を書き、レコーディングしていた。しかしビリーボーイ同様、すっかり音楽ビジネスに幻滅し、キャリアをストップさせた。それはプロモーター、ドン・ドーチが、オヴェイションズが一緒に戻ってくれば仕事が手に入ると言った1981年のことであった。“イチバン・レコードのジョン・アビーという男が、日本でオベイションズの仕事を持っていたんだ。僕はルイスとビリーを呼んだよ。で日本へ飛んだ。日本のファンはグレイトだったね。彼らは空港で花束を持って待っていてくれて、僕らの古いゴールドワックスの曲を全て知っていたよ。SOMのアルバムも出した日本のレーベル(Vivid Sound)との仕事はとてもハッピーだったね。その時がグループとしての最後のギグだったな。

しかしダン・グリアによって、もう一枚グループのアルバムが現れることになった。“1984年頃、ルイスのトラックをリリースしたよ。‘Ole Beale Street’で大好きな曲だった。でも何かが欠けてたんだ。ルイスはビリーボーイとペドロを捕まえてきてバックヴォーカルをハイ・スタジオで入れた。うまくいったよ。”しかしながらヒットにはならず、それは‘Ole Beale Street Salutes Sam Cooke’というCDに残りの曲と共にネイサンとペドロ抜きで集められた。

ビリーはいつも胃の病を抱えていて、1998年に亡くなった。ルイスは続く4年間糖尿病に苦しんだ。オリジナル・メンバーのエルヴィン・リー・ジョーンズは、60年代にグループを抜けて以来、音楽シーンからは足を洗っている。ネイサンただ一人が、グループに忠誠を尽くすことになったわけだ。“僕は未だに何人かの人から、オヴェイションズの記録映画を作りたいという申し出を受けているよ。でも今も働き続けているんだ。オヴェイションズはいいグループだったし、まだ生き続けていると思う。僕らに興味を持ってくれて、僕らや僕らの曲について知りたがっている人々がいる限りね。僕は最後のオヴェイションズとして現役だし、いつでもカーテンコールのための準備は整ってるよ!”
マーティン・ゴギン


ザ・ゴールドワックス・テープス

我々はこれらの宝物のようなレコーディング作品に触れることのできる幸運に恵まれ、一つか二つの失望はあったが、いくつかのエキサイティングな発見もしたのである。

最初のシングル‘Pretty Little Angel’は、レコーディング時にホーンが付け足され、つまりオープニングのヴォーカルのバックに加えられ、別のリードギターも、リズムギターの代わりに加えられたテイクが存在する。言い換えればこれは全くの別テイクなのである。このCDは、彼らのメインの作品をフィーチャーしている。我々は、別テイクは将来出るであろうゴールドワックスのコンピレーションに収められるべきだと考えた。セカンド・シングル‘I’m Living Good’は、1969年Goldwax 342としてリリースされた。これもストリングスとホーンが加えられ、イントロが編集されたヴァージョンがあるが、それも先のCDに収められるだろう。我々は、このCDは彼らの最も愛される作品のオリジナル・ヴァージョンが収録されることがより大事だと感じた。

たった1曲、日本のヴィヴィッド・サウンドがリリースした中で、ここに入っていない、インクスポッツ風の‘I’ll Be True To You’がある。これは収録時間の関係で収めることができなかった。これも先のCDに入るだろう。おそらくマーティンは‘Adios Senorita’よりこちらを好むかもしれないが、‘Adios…’にはブラス・セクションが加えられており、日本のレーベルのとは違うものなので収録したのである(個人的にこのドリフターズ・スタイルのサウンドも好みなので…)。‘I Miss You Baby’はデトロイト風の素晴しいトラックで、しかも信じられないことにホーンとストリングス入りの未発表テイクである。オヴェイションズ・ファンはもちろん、ノーザン・ファンにとっても究極的作品である。20秒間長いヴァージョンの‘I Know You Don’t Want Me’も収めることができた。ただしベーシック・トラックは同じであるが。

オヴェイションズによって指摘された2曲の作品、‘Wait For Me’と‘You Got Me Eating Out Of Your Hand’は、結局レコーディングすることのなかったグループのためのベーシックデモだ。後者は、ジョージ・ジャクソンによって今進行中だ―前者は、我々が現在も取り組んでいる。また我々は、‘Dance Party’の高速ヴァージョンも発見した。実際本当に速いのだが、全てのテイクがこのテンポなので、我々はレコードのテンポが落とされたのだと確信している。なぜそうなったのかは分からないのであるが。ゴールドワックス関係のレコーディングで、‘I Meant You No Harm’という曲もあったのだが、追跡することはできなかった。

セッションの詳細はざっと示した通りだが、我々はフェイム、サム・フィリップスに、アラバマのバーミンガムにあったアメリカン・スタジオが、全てのレコーディングに使われたことを確認している。ミュージシャンのリーダーは、チャールズ・チャルマー、クラレンス・ネルソンとボウレッグス・ミラー・バンドだった。個々についていうと、ドラムスにジーン・クリスマン、ベースにトミー・コグビルとマイケル・リーチ、キーボードにボビー・エモンズとボビー・ウッド、ホーンにウェイン・ジャクソン、アンドリュー・ラヴ、ジーン・ミラー(ボウレッグス・ミラー)、ジェイムス・ミッチェル、フロイド・ニューマンである。

最初、このCDは発表順に収録するつもりであったが、この重大なアルバムのスタートの1曲目、つまりデビュー・シングルの音質が芳しくなかったため、純粋に音楽的傾向で並べかえた。それが一番聴きやすいと考えたからだ。

アディ・クロースデル 2005年
ピーター・ギボンとジョン・リッドリーに多大な感謝を送る



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