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Otis Redding/Live On The Sunset Strip/2010 Concord Music Group, Inc. 0888072320468



非凡な音楽的才能が全盛期を迎えるとき、毎夜そのステージ、照明の下で行なわれるショーは歴史に残りうる。

戦後のウェスト・メンフィスを目撃した人に尋ねてみるといい―1951年、ハウリン・ウルフは手の届かない存在だった。1979年、ザ・クラッシュは“唯一重要なバンド”としてビラで宣伝されていたが、彼らは真に無類だった(私のことばを信じてよい―私は彼らを目撃した)。

1966年春、オーティス・レディングのロード・ショーは歴史に残るものとなった。「当時、オーティスは最重要人物だった。グレイト・バンド、グレイト・ソング、グレイト・ショーだった」 タジ・マハールは回想する。彼自身のキャリアは始まったばかりだった。

「彼のパフォーマンスは、オレが見てきた中でも最高に驚くべきものだった。映画とかでっかいフェスティヴァルで見た時のことをいってるんじゃないよ。実際に小さなクラブで見た時のことをいってるんだ。こいつは垂木をぶっ倒しちまったんだ」

レディングは66年にR&Bヒットメーカーの壁を破り、全国的なポップ・スターとなった。その年と翌年を通じて、彼のライヴの多くが録音された。バックはブッカーT&ジ・MGsかバーケイズだったが、もう1つ存在するのが、せせこましい地区のナイトクラブでレディング自身のバンドをとらえたレコーディングだ。どこの会場かって?母音を発音しないロサンゼルスの名高いナイトクラブ―Whisky A Go Goだ。

Live On The Sunset Stripは、66年初頭にサンセット通りで行なわれた名高いレディングの4晩のショーから、3つのフル・セットをフィーチャーしている。その頃のソウル・ミュージックはまだ若く、自身の定義を確立する過程にあった。マハールはそのソウル・マンが大量に汗をかきながら垂木を揺り動かそうとしているのを体験すべく、全てのショーに足を運んでいた。

「オーティスは最高にファンタスティックでナチュラルな声を聞かせるシンガーのうちの1人だった。ある特定のスタイルなんかじゃなかった―つまり単なるグレイト・ミュージックだったんだ。彼は他の人たちのようにはっきり発音しようとはしなかった。彼は彼自身だったね」

1963年に初の全国ヒットを放った時から、オーティスは彼自身だった。彼はより生で黒っぽいサウンドを持った仲間のリズム&ブルース・ヒット・メーカーたちの中で突出していた。ふり返ってみれば、モータウンはまだ新しく、ディオンヌ・ワーウィックの“Walk On By”やメジャー・ランスの“Um,Um,Um,Um,Um,Um”のような巧妙に仕上げられた曲や、R&Bチャート・トッパーであった2つのアーチスト、テンプテーションズとサム・クックの滑らかさと洗練さには欠けていたかもしれないが、彼はその両アーチストから具体的な曲含め、多くのインスピレーションを引き出していた。

音的にいえば、レディングは南部発だった。“Pain in My Heart”のようなスロー・バラッズ、あるいは“Mr. Pitiful”のようなアップテンポなナンバーなどのヒット曲に支配的な雰囲気は、教会(ゴスペル)から直にくるものだった。むき出しの感情とゴスペル的な興奮をそのパフォーマンスの中で強く押し出すという点において、レディングのスタイルは同じジョージア出身のジェイムズ・ブラウンに最も近かった。しかしレディングのアレンジメントは、フェイマス・フレイムス(JBのバック・バンド)のタイトなホーン・ラインとチャ、チャという断続的なリズムを避けていた。彼はもっとザラザラとしたルーズなグルーヴを表現し、それはメンフィスのスタックス・レコーズによるサウンドの特徴といえるものだった。

スタックス、メンフィスそしてレディングは、徐々に人気の高まるソウルと呼ばれる砂利のようなサウンドの誕生において、主要な役割を担っていた。実際、60年代半ばまでに人気を博し、広まっていたこの“ソウル”というスタイルは、ポピュラー・ブラック・ミュージックの全てのスタイルを説明するものとなり、そのことばは音楽を越えて文化的ルーツと永続的な人種的誇りを再び取り戻すという意味をも含んでいた(ポップのメインストリームさえ、このことばを採用した:ザ・ビートルズは1965年のアルバムにRubber Soulというタイトルをつけ、70年代に入る前にビルボード紙は“リズム&ブルース”の代わりに“ソウル”を使うようになった)。

1966年、レディングはサウンドだけでなく、真のソウル・マンとしてのスタイルと装いを定義づけた。細身のスーツを着たひょろっとした彼が、その薄手の折り袖付きの上着をさっと脱ぎ、ひざまずくと、それが彼が約束を果たす時だった。エーメン・コーナー(教会の説教壇の横の席―礼拝中‘Amen!’と応答する音頭をとる信者が占めた席/教会で熱心な信者たちの占める一角)として旅をする彼の10人編成のバンドは、毎夜、彼に証言をせきたてていた。そのキャッチーな歌の集い―それは多くがレディング自身の手によるものだったが、彼の自家製の詞にふさわしい歌の数々だった。息が切れるほど早口でまくし立てる彼のステージは、あたたかく南部的で気さくだった。「レディース・アンド・ジェントルメン」 彼はファンたちに向かっていう。「家になんか帰りたくないって力いっぱい叫ぶんだ!」

1966年までに、全国の黒人リスナーは10数曲のR&Bヒットと、ニューヨークのアポロやシカゴのリーガルのような都市の主要な劇場のポスターからレディングのことを知っていた。白人たちも遅れをとっているわけではなかった。レディング・ナンバー―“I’ve Been Loving You Too Long(To Stop Now)”と“Respect”は、枠を超えてポップ・トップ40へと達していた。そして彼の1曲はローリング・ストーンズ始め、ロックンロール・バンドによるカヴァーを生み出すことになった(気をよくしたレディングは1年後にストーンズの最も有名な曲をカヴァーした)。

実際、レディング・ヴァージョンの“Satisfaction”は、彼が1966年4月の最初の週にロサンゼルスにぶらりとやって来た時にチャートをかけ上っていた。彼はその町を知っていた。彼はその町で“ロックハウス”レディングを演じるリトル・リチャード・スタイルのロッカーとして、1960年に最初のレコーディングを行なっていた。“Shout Bamalama”は南部で地域的なヒットとなっていたが、それはのちのレディングのレコーディングに見られるサウンドもインパクトも持っていなかった。

レディングが最初に訪問して以来、LAミュージック・シーンはかなり変化していた。66年までに、彼の音楽はKHJ―当時のR&B、ポップ、ダンス・ミュージックを分け隔てなく流していた“主要ラジオ”―でひんぱんに聞かれるようになっていた。4月2日、レディングはKHJプロデュースの“感謝コンサート”で、その一員としてハリウッド・ボウルに出演した。そのショーは他にソニー&シェール、ドノヴァン、ママス&パパスをフィーチャーしていた。しかしレディングが最も強烈なインパクトを残し、レコーディングされることになったのは、その近くのウェスト・ハリウッドにあった小さなクラブだった。

ウィスキー・ア・ゴー・ゴーは1964年1月にはオープンしていた。場所はLAの名高いサンセット・ストリップ(米俗:ロサンゼルスのサンセット大通り沿いの一区画で、麻薬常用者・ホームレス・反体制文化人などがたむろする)に沿ったサンセット大通りとクラーク・ストリートの一角だった。そこは2年という短い間に、ミ二・スカートや白いゴー・ゴー・ブーツなどのファッション、若者向けのカルチャー・シーン、全国的に広がるダンスと流行を生み出した。またヒット・アルバム、Johnny Rivers at the Whisky A Go Goでさえ生み出していた。地元のアーチストの中にはライジング・サンズ(Rising Sons)がいた。それはマハールと未来のギター名人ライ・クーダーを含むブルース・ロック・アンサンブルだった。クラブは2人の元シカゴの警官、エルマー・ヴァレンタインとマリオ・マグリエリが経営し、彼らのブッキングするアーチストたちは時代の最先端を行っていた。

マハールは回想する。「彼らはサンセット・ストリップで起こっていることを完璧に象徴していたね。最初、エルマーとマリオは、マーサ&ザ・ヴァンデラスとかテンプテーションズを出演させていた。人々が集まってくると、お互いに向かってこういう。‘お前らはここで何やってんだ?’ 白人たちは黒人たちに目を向けるようになる。黒人は白人に目を向けるようになる。そしてみんな今度はメキシカンに目を向けるようになるんだ」

サンセット・ストリップでふつふつと沸き立っていた音楽的ミックスの中へ、生のサザン・ソウルのエッセンスを投じようと、ウィスキーはイースターの週末にオーティス・レディング・レヴューをブッキングした。それはハリウッド・ボウル出演に続くもので、1966年4月7日から10日までの木曜日〜日曜日だった。当時の多くのR&Bロード・ショーの典型にならって、レディングの一団は司会を含む10人編成だった(サキソフォ二ストのボブ・ホロウェイがリーダーだった)。またヘッドライナー(レディング)の前座として、3人の新進の有望なシンガーたちがそれぞれ1曲ずつ歌った。レディングがみずから精選した中には、ブルースの達人/ピアニストのケイティー・ウェブスター(彼女はレディングのバンドでキーボードもプレイした)、10代だったカール・シムズ(のちにマラコ・レーベルで、ある程度の成功を収めた)、バルチモアの小さなソウル・レーベル、Ru-Jacでレコーディングしていたキティ・レーンが含まれていた。「マーサ&ザ・ヴァンデラスのマーサ・リーヴスみたいな声を持ってたね」 マハールはいう。

通常、ウィスキーは一晩に2つか3つのバンドを出演させていた。ヘッドライナーは全国的な名声をもつ者、サポート・アクトは地元から選ばれた。一生に残るマハールの誇りとして、ライジング・サンズはレディングの前座を務めたことがある。彼がいうには―自分たちのステージが終わると、すぐに授業が始まったそうだ。「オレたちは出番が終わると、ステージ袖でミュージシャンたちのプレイを見るのが待ち遠しくてね。つまりドラマーのうしろでベース・プレーヤーみたいに体を低くして、フット・ペダルの動きを観察していたんだ。当時みんなそうやって学んでいたね」

「オーティスを通してあらゆることを学んだ。オーティスはフレンドリーで、彼の仲間たちもそうだった。気取りなんてなかったね―彼らはみんなと会いたがっていた―‘やあ、僕の名前はボブだ。サキソフォン・プレーヤーさ。ここにいるのは僕らのトロンボーン・プレーヤーだ。よし、みんないいかい!今夜、仲間たちが僕らのためにプレイしてくれるよ!’ってね」

「バンドの連中も全国的にそういう雰囲気を持っていたんだ。誰でもステージに手を差し出したり近づくことができた。ステージは高くはなかったしね。それって本当に素晴らしいことだったな」

「オレはライ(・クーダー)のギターが、オーティスの書いたほとんどの曲と同じチューニングだと知った時のことを覚えている。オープンDチューニングだった。それである時、オーティスがギターを貸してくれっていったんだ。もちろんライはそのでっかいブロンド・トップのギターを持っていった。その時、初めてオーティスがギターをプレイすることを知ったね!」

マハールは続ける。「何よりもまず熱くなるんだ。オーティスのショーはレヴュー形式だった。バンドは“Get Out of My Life, Woman”(リー・ドーシー/ミーターズ)や“Sidewinder”(リー・モーガン)のようなインストゥルメンタル・ナンバーをプレイする。それから何人かのシンガーが出てきて1曲ずつ歌う。そしてオーティスの召使い(司会)がマイクに近づいてきてこういう。‘レディース・アンド・ジェントルメン!今夜この男があなたにお届けするのは・・・“Pain in My Heart”!’するとホーン隊が力いっぱいバーン!とやって、ドラマーはパシャーン!とやる。次に司会が“Security”!と叫ぶと、またバーン!パシャーン!さ。そして司会が‘ほんの少しの“Respect”がほしい!’と叫ぶと、ドラマーが‘1, 2, 3・・・’とカウントを取るんだ。するとオーティスが舞台袖からやる気満々で飛び出してきて、マイクの前に出て左右に動き回る。それからうしろに振り向いてマイクをつかむ。そして‘I can’t turn you loose・・・’とシャウトし始めるってわけだ」

「ああ、どえらい無法地帯だったね!そこにいたみんな気が狂ってたよ。オーティスは最初の曲からエネルギー全開だった。彼はヒートアップして、さっそく上着を脱いでネクタイをゆるめて腕まくりしてこういう。‘オーライ、次はスローなやつを1曲・・・’ それから彼は“These Arms of Mine”とか、その頃やっていたグレイトなソウル・バラッドを歌うんだ。オーティスはことばをねじって歌っていた―これはオレが彼から学んだことだね。オレたちはよく‘メロディ・ラインをいじる’っていってた。それってのは、ほんの少し歌のラインと調子をはずしながらメロディを維持するってことなんだ。“These…arms…of…miiiiine…(マイ〜〜〜ン)”ってところは昇天モノだったね」

レディングはすぐにセンセーションとなった。彼はクラブをいっぱいにし、ロサンゼルス・タイムズはこう書いた―“彼の高まる人気に吸い寄せられた熱烈なオーディエンスはクラブへ押し入り、彼の歌を合唱した。ある時には、もっとアップテンポな曲を叫びながら要求する声によって、彼によるバラッドの紹介がさえぎられた・・・レディングは観客の中に支持者たちに囲まれたボブ・ディランがいた翌木曜の晩に、自分もその共同体としての集団(In Group―原文のまま)の一部であることを確信していた。”

(レディングのマネージャー、フィル・ウォルデンによれば、ディランはその晩、レディングに自分の最新曲だった“Just Like A Woman”を聞いてほしいと申し出た。彼はその曲をレディングにカヴァーしてもらいたがっていた。しかしレディングはもっと若いソングライターたちの作品をプレイすることに積極的だった―“Satisfaction”に加え、ビートルズの“Day Tripper”は彼のレパートリーにすでに入っていた。彼は見たところ、ディランの曲はことばが多すぎると考えていたようだった)

オーディエンスの中に他にビッグネームがいたかどうか尋ねられたマハールは答えた。「あそこでスターだったのはオレの知る限りオーティス・レディングだけだったな」

翌月には、さらにいっそうレディングに光が当てられることになった。ウィスキーでのレディングの一連のコンサートは、66年にはずみをつけることになった。2曲のラジオ・ヒット(“Fa-Fa-Fa-Fa-Fa(Sad Song)”と“Try a Little Tenderness”)と、アメリカのオール・スター・ソウル・ツアーでの最大の脚光、そして最初のヨーロッパ・ツアーだ。クリスマス・ウィークには、サンフランシスコのフィルモア・ウェストで3晩の興行が行なわれた。そこはヒッピーとロック・カルチャーが産声を上げていたところだ―フィルモアはレディングを最後の年に向けて飛び立たせることになった。

67年を通じ、大成功を収めたそれぞれのイヴェントは、ソウルのキングとしてのレディングのステイタスと、今なお永遠に輝く彼の伝説を筋書き立てていたかのようだった。3月に行なわれたスタックス/ヴォルトのヨーロッパ・ツアーでは、ヘッドライナーを務めた。6月に行なわれた歴史的なモンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルで、彼のパフォーマンスはスポットライトを独り占めしてしまった。彼の書いた“Respect”はアレサ・フランクリンによってリアレンジされ、それは夏を通じてラジオの電波を支配し、女性解放/公民権運動のアンセムとなった。―そして12月10日、悲劇的な飛行機事故による彼の死は、流れ星のような彼の完全無欠な絶頂期を永遠に、ドラマチックに凍結させることになった。人々の心の中で、レディングは永遠に老いることなく、彼のキャリアも衰えることはなくなった。以来、彼が残した音楽の重要性はどんどんと大きくなってきた―その中には66年初頭の3晩のナイトクラブでのパフォーマンスも含まれている。

「じゃあ、こうしよう。今夜は最後の夜だから、そして僕らを見に来てくれた人たちのために、僕らはちょっとだけ仕事をサボってみることにするよ」―オーティス・レディング、1966年4月10日

ジョニー・リヴァースの64年のヒット・アルバムは、クラブがオープンしてたった半年の間に、ウィスキーを全国的に有名にしただけでなく、コンサート・レコーディングの場としての名声を確立させた。レディングにとって、1966年にライヴ・アルバムを作ることはたやすい仕事だった。彼のマネージャーとレーベル(ヴォルト)は、さらなるレディングのクロスオーヴァーな潜在能力に目を向けていた。ライヴ・レコーディングの達人としてウェスト・コーストの第一線で活躍していたウォリー・ヘイダーが雇われ、ウィスキーでの3晩のレディングのコンサートが録音されることになった―4月8日の金曜日に2つのセット、翌晩にもう1つのセット、さらに日曜日にもう2つのセットだった。

生前発表されたレディングのスタジオ録音は、安定して一貫した熟練ぶりが見られたため、よりラフなウィスキーのマテリアルが死後リリースされるまで差し控えられたのはもっともなことだ。68年のLP, In Person at the Whisky A Go Goは、入念に選ばれた10のトラックが含まれ、LAタイムズの評論家ピート・ジョンソン(最初にこのショーをレビューした人物)の解説が載っていた。1993年のCD, Good To Me:Recorded Live at the Whisky, Vol. 2は、ほとんど無視された1982年リリースのLPを詳細に記録したものだった。そこには司会による紹介と初出トラックが含まれていた。

それらの内容は異なるショーから順不同にトラックが並べられていたが、このLive On The Sunset Stripは、レディングの歴史的なコンサートの最後の3つのセット(土曜の晩からの最後のセットと日曜の2つのセット)が連続して入っていることで、真のドキュメントとして傑出している。それらはウィスキーでリラックスした晩を過ごすレディングとバンドを最良の形でとらえている。各トラックは演奏順に正確に並べられている。ルーズで歓迎すべき全体の雰囲気は、週末のウィスキーに遭遇したマハールの証言を裏付けるものだ。

そこには即興の素晴らしさとありのままの楽しみにあふれた輝きが存在している。レディングがオーディエンスあるいはサイドマンたちと人なつっこく対話しているところを聞いてみてほしい。彼が“Satisfaction”のエンディングから、礼拝式でコール・アンド・レスポンスを行なう信者に変わるところを聞いてみよう。お、“I Can’t Turn You Loose”の途中で、彼はサム&デイヴの最新ヒットでほんの数週前にリリースされた“Hold On, I’m Comin’”を引用しているではないか。それから、ああ、最後のセットを聞いてみると、彼はビートルズの“A Hard Day’s Night”をやっている。そこからジェイムズ・ブラウンの“Papa’s Got a Brand New Bag”のロング・ヴァージョンに突入だ。

そう、いくつかのパフォーマンスは情熱的であると同時にラフだ。オーティス・レディングをもってすれば、そこがポイントでもある。これも彼の伝説を引き立たせるリアルなパラドックスである。彼の悲しい悲しい歌の中で、最高に悲しい歌を歌う時でさえ、レディングは自分の音楽に宿るあふれるばかりの豊かさとパワーを隠すことはできなかったし、それはいつもオーディエンスに感動を与えていた。あそこにいた人に聞いてみれば分かるだろう。

「オレはあの時見たショーを今でもはっきり覚えているよ」 マハールはいう。「むき出しで予測不可能だった。それがつまり音楽の楽しさなんだ。リズムの楽しさ、エネルギーの楽しさだ。なぜってオレたちの多くは踊ってしまったからね。それが今の音楽とは違うところだ。曲がスローだろうが関係なかったな―オレたちはオーティス・レディングでダンスしていたから」

―アシュリー・カーン
2010年3月

アシュリー・カーン;A Love Supreme : The Story of John Coltrane’s Signature Album / Kind of Blue : The Making of the Miles Davis Masterpieceその他の著者。また彼はナショナル・パブリック・ラジオ(非営利ラジオ放送局のために番組を制作・配給する組織/NPR)の“Morning Edition”に時折参加し、ニューヨークの大学で音楽史と
ジャーナリズムを教えている。



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