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Otis Redding/The Very Best Of…/2000 Elektra Entertainment Group AMCY-6191/2



“オーティスはキングだった―ソウルのキング、
スタックスのキング、全てのキングだった。”

(スティーヴ・クロッパー、オーティスの共作者/ギタリスト)

“オーティスはロックンロールだ”
(ジョン・ランドー、ローリング・ストーン誌)

“みんなオーティスといっしょにプレイしたがったね。
彼はみんなのベストを引き出してくれるんだ。
それが彼の奥義だった。”

(ダック・ダン、スタックス・ベーシスト)

2ヶ月間、彼は医師の指示により歌うことを禁じられていた。オーティス・レディングが1967年11月についにのどが完治した時、彼は今にも火山が噴火しそうなほどうずうずしていた。

スタックスのハウス・バンド、ブッカーT&the MGsのギタリストであり、オーティスの曲の多くを彼と共作していたスティーヴ・クロッパーは回想する。“彼は本当にたくさんのアイデアを持っていたね。彼は丸一週間毎日スタジオにやって来て、それから二週間は断続的にやって来た。ある日彼はいつものように新曲のためのアイデアを持ってスタジオにやってきたんだ。そして僕にメロディを聞かせてくれた。彼はほとんど全てのヴァースを完成させていた。それで僕らはスタジオに入って2時間以内に曲を完成させた。僕は仕上げに手を貸した。アレンジメントを加えたんだ。”

黙想的でほとんどフォーキーなバラッド、‘(Sittin’ On)The Dock Of The Bay’は、彼がそれまでレコーディングしてきたどの曲とも全く似ていなかった。“彼はそれが特別な1曲だと確信していたね。” MGsのベーシスト、ダック・ダンは回想する。“彼はこの曲にすごく興奮していたよ。” ファースト・テイク録音のためにテープが回り始めると、オーティスは気だるさを醸し出すためにカモメのガーガーという鳴き声を真似た。それは彼が欲しがっていたカリフォルニア州湾岸の雰囲気だった。6テイク録り終えたのち、みんなはその出来上がった名作に満足していた。オーティスはクロッパーに、レコードにハーモニーを加え、よりR&B色を出すためにステイプル・シンガーズを招き入れてはどうかと提案していた。

“僕らは金曜の朝に最後のホーンをいくつか録音した。” クロッパーは説明する。“それで彼は‘じゃあ、また今度ね。’といって帰っていった。彼はもう何曲か録音するために、月曜に戻ってくる予定だった。” その間クロッパーはミキシング・デスクに向かい、レディングと彼のツアー・バンド、バーケイズはクラブ・ショーのためにメンフィスからナッシュヴィルまで短距離飛行を始めていた。翌朝、一行はオハイオ州クリーヴランドに飛んだ。そこはオーティスがアップビートという地元のTVショーで最新シングルの‘Knock On Wood’を売り込むところだった。

1967年12月10日の土曜日、レディングとバーケイズは自家用機に乗るためにクリーヴランド空港に戻ってきた。飛行機は6人乗りだったため、いつものようにバーケイズのうちの一人が車で向かうよう命ぜられた。残りの者たちはウィスコンシン州マディソンでの次のショーのために、飛行機の中でシートベルトを締めていた。

午後3時30分頃、パイロットはマディソンに向けて飛行機を操縦していた。しかし一帯は霧に覆われていた。彼は迂回する代わりに、空港に沿った湖のどんよりとした氷の上へと機首を向けた。しかしその時、飛行機は氷の中へ突っ込んでしまった。飛行機は沈んでしまった。どうにかして乗客たちは脱出を試みていた。バーケイズのメンバーの一人は、難破した残骸の中から何とか捕まえた救命ボートにつかまっていた。凍りつく水の上で彼は絶望的に浮かんでいたが、彼の耳には氷に引きずり込まれまいと、何とか水面に頭を出そうともがいていた仲間たちの死に物狂いの悲鳴が聞こえていた。数分以内にあたりは静かになった。湖はパイロット、4人のバーケイズ―そして今に至っても悲しみを誘う一人の男、あるいは史上最高のソウル・シンガーの命を奪ってしまった。


短くもめざましいキャリアだったオーティス・レディングは、1941年9月9日、ジョージア州ドーソンで生まれた。彼はメイコン近くの町で育った―リトル・リチャードの故郷であり、1950年代半ばにジェイムス・ブラウンが名をあげたところだ。二人とも10代だったオーティスを魅了し、オーティスの音楽的背景は全く普通のコースを辿った―スクール・バンドでドラムスを叩き、教会で歌い、街角でリトル・ウィリー・ジョンのようなシンガーの最新R&Bヒットの流行の歌を歌って過ごした。

またオーティスは何度も優勝してしまうために締め出しを食らうまで、日曜のタレント・コンテストに出ていた。1958年、彼はメイコンのダグラス・シアターで開催されていた、より名声ある舞台であるTVショー、ティーンエイジ・パーティーに目を向けた。そこに出た彼は、リトル・リチャードの騒がしい‘Heebie Jeebies’をそっくりに歌い、レギュラー出演を勝ちとった。

ダグラスはまたオーティスにとって3つの重要なコネクションをもつきっかけとなった―未来の妻ゼルマ、のちに彼のマネージャーとなる白人のR&Bファン、フィル・ウォールデン、そして派手なブルース・ギタリスト、ジョニー・ジェンキンスだ。ロックハウス・レディングという新しい名でオーティスは、ジェンキンスのツアー・バンド、パイントッパーズと期限付きで契約した。ショーの欠員の時の穴埋めとガソリン・スタンドの案内係としてだった。

一夜にしてスターダムの地位を獲得することに失敗したことに耐えられなかったオーティスは、1960年にカリフォルニアに向かい、数ヵ月後、彼の才能が認められた証拠を携えて戻ってきた―彼の名が入った1枚のシングルだ。‘She’s All Right’とそのあとの‘Gettin’ Hip’はロサンゼルスの小さなレーベルからリリースされたが、それはオーティスがまだ自分のヒーローにとらわれていることを示していた。本物のリトル・リチャードと契約するには小さすぎたレーベルは、そのリチャードに似たサウンドを喜んでいた。もう1枚のシングル、‘Shout Bamalama’は1961年にジョージア拠点のレーベルからリリースされた―同年、オーティスは南部の州を回るザ・ドリフターズのクライド・マクファーターのふりをする偽のフロントマンとしてラインナップに加わることに同意した(マクファーターは実際その5年前に脱退していた)。

パイントッパーズとともにメイコンに戻ったオーティスは、その時レギュラーの脇役ヴォーカリストに加え、ジェンキンスのお抱え運転手と彼の世話人として仕事をしていた。“ある日のことだ、” 死の直前に彼は回想している。“僕はジョニーをレコーディング・セッションのためにメンフィスまで車で送り届けた。で、彼らはスタジオで30分ほど時間があまったから、僕は1曲歌っていいか聞いたんだ。それが‘These Arms Of Mine’だった。彼らは一緒にプレイしてくれて、最終的にその曲は80万枚売れたんだ。”

そのメンフィス・セッションはスタックス・スタジオで行なわれたが、まだ新進でそれでも勢いのあったその独立レーベルは、マーキーズやブッカーT&the MGsのようなアーチストのレギュラーなR&Bヒットをすでに生み出していた。スタックスはニューヨークの独立レーベル、アトランティックと親密な関係を築いていた。アトランティックは前年にジェンキンスのインストゥルメンタル、‘Love Twist’を手に入れていた。アトランティックはセッションの現場としてスタックスを提案した。しかしスタックスの社長、ジム・スチュワートはアトランティックに代わって事の成り行きを見守っていた。彼はリリース・レコードをでっち上げるジェンキンスの無益なやり方にとたんにうんざりしてしまった。セッション・ピアニストのブッカーT・ジョーンズも嫌になって帰ってしまった。そしてついに誰かが、もしかするとオーティス自身か、あるいはスチュワートか、おそらくフィル・ウォールデンだと思われるが―レディングがマイクの前に立つべきだと提案した。

セッションを回想するスタックスのギタリスト、スティーヴ・クロッパーによればこうだ。“やつが2行歌っただけで全員こういったよ。‘なんてこった、こいつは何者だ!’ってね。” “彼は自分のスタイルを持っていたね。” スタックスのドラマー、アル・ジャクソンがつけ加える。“田舎の土臭い雰囲気を持っていた。” ジム・スチュワートだけが心を動かされないでいた。“彼は‘Hey Hey Hey’って歌を歌ったが、私は‘つまらないね、世の中はもう一人のリトル・リチャードなんて求めていないよ。’といった。次にバラッドの‘These Arms Of Mine’をやったんだが、これも私はそれほど感銘を受けなかった。しかし私たちは地域限定でそれをレコードにしてみた。ジョン・リッチバーグ―ナッシュヴィルのWLAC局にいたジョン・R―がこのレコードを半年間、毎晩毎晩かけたはずだ。それでついにブレイクした。” 1962年10月にリリースされた‘These Arms Of Mine’は1963年3月にUS R&Bチャートに入り、最終的に20位に達した。

‘These Arms Of Mine’はもう一つのレディングの音楽的側面を表していた。サム・クックの歌唱法であるほとんど女性的なトーンはスタックスにおけるオーティスの特徴となった。彼は次のシングル、‘That’s What My Heart Needs’でも同じような効果を使った。しかし今回は絶望したような苦しみを感じさせる叫び、うなり声があらわになっていた。それはあたかもサム・クックが曲の中間でリトル・リチャードに変身したかのようであった。

すでにオーティス・レディングは彼のアイドルたちを越えようとしていた。模倣スタイルは完全に消え去ったわけではなかった。彼はアーマ・トーマスの‘Ruler Of My Heart’を荒々しく改作し、‘Pain In My Heart’はその時の最大のヒットとなった。これは彼の全てのソングライティングに引き継がれることになった。しかし彼のパフォーマンスは今や彼が真のオリジナルなシンガーであることを証明していた。まもなく彼はコンポーザーとしても同等の存在となった。

まだスターではなかったオーティスは、1963年にハーレムの伝説的なアポロ・シアターに招かれた。彼はドリフターズ、ルーファス・トーマス、ベン・E・キングのような大物たちをステージで圧倒してしまった。‘Security’と‘Come To Me’は1964年初頭、深い苦痛を表したソウル・シンガーのプリンスとしての彼のイメージを決定づけていた。サザン・ソウルのライヴァルたち、ジョー・テックス、ウィルソン・ピケット(オーティスはのちに彼の‘You Left The Water Running’の秀逸なデモを残している)からドン・コヴェイ、ソロモン・バークらとの注目すべきパッケージ・コンサート・ツアーのあと、夏に彼は両面ヒットを放った。それは2年の間に彼がいかに遠くまでやって来たかを示していた。‘Changed And Bound’はロマンチックな罠の中で、ほとんどマゾヒスティックな喜びを感じているレディングの悲哀的深遠さを引き出していた。一方、‘Your One And Only Man’は少しの尊厳を欲する愛の男としての新しいレディングのイメージを生み出していた。

その2曲でさえ、彼の1964年最後にリリースされた曲の前では影が薄くなってしまう。1曲はひざまずいて究極的な言明を行なう愛の男だ。それが‘That’s How Strong My Love Is’だ(ローリング・ストーンズがカヴァーした初期のレディングの3曲のうちの一つ:ミック・ジャガーはその絶望に暮れた嘆願を十分に表現し切れなかった)。もう一つの同傾向を持った歌が‘Mr. Pitiful’で、これはメンフィスのDJ、ムーラー・ウィリアムズがレディングにつけたニックネームだった。しかし曲はダントツにすばらしかった。今日までのレディング最高のパフォーマンス、尊大で誇り高く、その無頓着さはレーベルに小さく印刷された文字が示している通りなのかもしれない。

1965年春、スタックスはふさわしくThe Great Otis Redding Sings Soul Balladsと名付けられたアルバムをリリースした―その中には1958年のジェリー・バトラーのヒット曲、‘For Your Precious Love’のすばらしいカヴァー・ヴァージョンが入っていた。そしてレディングとバトラーはバッファローのホテルの部屋でともに曲を書き、それは‘I’ve Been Loving You Too Long’となって完成した―むき出しのソウル・バラッドであり、真冬の枯れ木を思わせる。これは今日までレディング最高のパフォーマンスとして、荒涼性、粗野なフィールを圧倒的に見せつけている。バンドは彼の悲しみを盛り上げるバッキングを提供し、オーティスはくだけた岩に死に物狂いでしがみつきながら指先だけで登っていく登山者のごとく、頂点の音に達している。このレコードは緊張感と苦悩を表す生な直接性を保持し、今日までの彼の最大のヒットとなった。

‘I’ve Been Loving You Too Long’はアーチストとしてのキャリアを定義づけたが、レディングはまだ始まったばかりだった。彼はある1曲で多義的な解釈を広めることになった。とりわけアレサ・フランクリンによって1967年にNo.1ヒットとなったその曲はカヴァーされ改作された。オーティスは‘Respect’を、“僕のレコードの中で一番いいグルーヴだ”と認めていた。ドラマーのアル・ジャクソンはこう回想している。“僕らは山あり谷ありの人生について話をしていた。で、僕はこういった。‘僕らはいつもツアーに出ている。うちに帰った時、僕らが必要なのは唯一ちょっとした敬意なんだよ’ってね。” ‘Respect’は彼の1964年のヒット、‘Your One And Only Man’に少し負うところがあった。そして少し彼の友人、Speedo Simmsにより負うところがあったらしい。Simmsは似たようなメロディ・ラインを当時書いていたと主張する。それをオーティスが自身の曲として書き直したと。しかしそのソースが何であれ、これは見事なレコードであり、ジャクソンのすばらしいドラム・ロールによってパワーアップされ、堂々としたレディングのヴォーカルは敬意(respect)に値する。

‘I’ve Been Loving You Too Long’と‘Respect’はいったんシングルとして録音されたが、再び1965年の7月になってオーティスがアルバム用に夏のツアーの間に36時間を確保し、録り直すことになった―他のいかなるアルバムでなく、Otis Blueこそが空前で最高のR&Bレコードとして君臨する。

オーティスはいつもスタジオの中で改良を加えようとしていた。プロデューサーだったトム・ダウドは回想する。“オーティスは3曲か4曲のアイデアを持ってやって来るんだ。それでバンドは彼が歌うと素早くコードを拾う。それからみんなはどこからそんなアイデアが出てきたのか彼に尋ねるんだ。” オーティスはこういったそうだ。“レコーディング中に考え出すんだ。僕らは3〜4回は録音するんだけど、僕は毎回違った歌い方をする。” アルバム制作中に変更されたのはオリジナル・ソングだけではなかった。Otis Blueには同じレーベルの友人からライヴァルまで、多くのカヴァーが入っていた。サム・クックの‘A Change Is Gonna Come’、ウィリアム・ベルの‘You Don’t Miss Your Water’、ソロモン・バークの‘Down In The Valley’そしてテンプテーションズの‘My Girl’などだ―‘My Girl’はUSでシングルとはならなかったが、デッカのトニー・ホールがアルバムからカットし、英国でのオーティス初のチャート・インをもたらすことになった。

しかしOtis Blueの中で最も驚くべきは、アルバムの中で最も即興性高いパフォーマンスだった。当時のローリング・ストーンズのヒット、‘Satisfaction’のすばらしい解釈だ。“スティーヴ・クロッパーとブッカーTが持ってきたんだ。” オーティスは説明している。“彼らが提案して僕は歌ったんだ。彼らは僕にローリング・ストーンズの新曲を聞いたかと尋ねたんだけど、僕はまだ聞いていなかった。彼らは僕にレコードを聞かせてくれた。僕以外のみんなが気に入っていたね。僕はストーンズのヴァージョンより多くの言葉を使った。その方がうまくいくと思ったからさ。” オーティスの‘Satisfaction’がシングルとしてリリースされるや、これは元々彼のオリジナル・ソングだという噂が広まった。ストーンズが彼からパクッたと―明らかに真実でないが、オーティスがストーンズのキャリアに与えた影響(ストーンズがオーティスをカヴァーしていたこと)に対する公正な見返りといえるかもしれない。

‘Satisfaction’はレディングのステージ・ショーに完全にフィットしていた。それは崇高なバラッドから、たくましさを強調する緩急自在なステージに貢献した。‘Satisfaction’は時折、評論家の気分を害することになったが(彼のオーディエンスは歓迎していた)。1966年最初のシングル、‘I Can’t Turn You Loose’はライヴでオーティスのたくましさを示す代表的ナンバーだった。B面の‘Just One More Day’は、彼が全く失っていない心うずかせるバラッド・シンガーとしての資質を示していた。

レディングのソウル性に対するいかなる批判も、1966年のThe Soul Albumに入っていた重要ナンバー、‘Cigarettes And Coffee’によって永遠に葬り去られてしまった。書物ではこの歌は愛に対するシンプルな賛辞のように書かれている。しかしオーティスとMGsはその皮を全てむしり取ってしまう。ロマンス的な密会が途中で破綻することを想像させるような、シンガーのむき出しになった神経があらわになっている。‘Nobody Loves You When You’re Down & Out’はニーナ・シモンの1960年のヒット曲であり、ブルースのスタンダードであるが、これも先と同じ領域にある歌だ。アルバムはそういった悲しみの歌ばかりではない。レディングはテンプテーションズのヒット曲、‘It’s Growing’を威勢よく取り上げた。これは彼がモータウン・サウンドに敬意を表したものだ。モータウンは1966年のスタックスが持っていた首尾一貫性にマッチしないレーベルではあったのだが。

その夏、オーティスはもう1枚の注目すべきアルバム、もっともなタイトルが付けられたThe Dictionary Of Soulを録音した。そのアルバムには3つのヒット・シングルが含まれていた。請い願うバラッド、‘My Lover’s Prayer’、ミドルテンポのダンス・ナンバー、‘Fa-Fa-Fa-Fa(Sad Song)’(これは奇妙にもTV番組The $64,000 Questionのテーマ曲に基づいていた)、そして本質的なソウル百科全書である‘Try A Little Tenderness’だ。

この歌はビング・スロスビーの時代にさかのぼるものだが、オーティスはダイナミックなR&Bに仕立ててしまった。最初は憂鬱なバラッドで始まり、続いてアル・ジャクソンがスネア・ドラムでリム・ショットをカツカツと打ち始め、リズムを強調する。それからオーティスとMGsはほとんどヒステリック状態の中へとなだれ込んでいく。ソウル・ミュージック史上、無類の感情の暴走の中でそのテンションを爆発させながら。

その後、スタックス仲間のスター、カーラ・トーマスとのコラボレーションで‘Tramp’(男と女の3分間のバトルだ)、混沌とした‘Lovey Dovey’のようなシングルを軽い息抜きとして発表した。‘Tramp’はオーティス単独の‘I Love You More Than Words Could Say’とともにチャート・インした。一方でオーティスはヨーロッパを回るスタックス/ヴォルト・レヴューのパッケージ・ツアーを成功に導いた。オーティスはすでに毎週イギリスで放映されていた名声ある音楽TV番組、レディ・ステディ・ゴー!に出演し、前年の秋にイギリスで人気を打ち立てていた。今や彼は宣伝ポスターにフィーチャーされていたMGs、エディ・フロイド、カーラ・トーマス、サム&デイヴ、マーキーズそして彼の秘蔵っ子、アーサー・コンレーの中でヘッドライナーを務めていた。オーティスはコンレーのために曲を書き、‘Sweet Soul Music’をスマッシュ・ヒットさせていた。

そのナンバーは古いサム・クックのヒット曲に基づいていた。もう1曲のサム・クックのヒット‘Shake’はアルバムOtis Blueでカヴァーされ、1967年夏のシングルとしてリリースされた。それはレディングがジェファーソン・エアプレインに続いてステージに上がったモンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルが開催された6月にチャート入りした。フェスティヴァルの模様は、ジミ・ヘンドリクスとのカップリングとしてアルバムが制作され不朽の1枚となり、D. A. Pennebakerの映画、モンタレー・ポップにも収められた。“みんな、愛し合ってるかい?” オーティスはステージに上がるとオーディエンスにこう聞いた。“僕たちはみんな愛し合っているんだ、そうだろう?” いぶかしげに思ういかなる者たちも即座に心を揺れ動かさざるを得なかった。ホーンのウェイン・ジャクソンは次のように回想している。“聴衆は気が狂ってしまったかのようだったね。彼らはステージに殺到してオーティスに触ろうとしていた。”

モンタレーはオーティスのレコード・セールスを傷つけるものとはならなかったが、彼にある思いを促すことになった。“僕は変化する時に来ているんだ。” 彼はその夏に考えていた。“人々は僕に飽きてしまうかもしれない。” 彼は歌手を引退したらプロデューサーになろうという考えを持ち始めていた。そうこうするうち、彼は自分のオーディエンスの幅を拡げる道を探り始めた。前年、彼はすでにボブ・ディランとのミーティングを画策していた。彼はディランに自分にふさわしいマテリアルがないか尋ねていた。ディランは彼にアセテート盤(試作盤)になっていた‘Just Like A Woman’を歌って聞かせたが、レディングはのちに“詞が多すぎる”として不満を述べている。

引退の考えはおそらく1967年にオーティスが被った永続的なのどの問題に端を発しているのだろう。その夏の暮れ、彼はポリープを取り除くために入院した。そのことにより、彼は2ヶ月間ツアーとスタジオの仕事から離れることになった。その間、彼はメンフィス郊外の自分の400エーカーの農場で過ごしていた。彼は1967年暮れに録音できるよう、未完成品への意欲を持ち始めていた。仕事を再開する機会が訪れた時、彼は11月と12月にマラソン・セッション・レコーディングを計画し、最終的に30曲以上の新曲を録音した。そのうちの1曲、内省的な雰囲気漂う‘Dock Of The Bay’は、オーティスがモンタレーの数日後、カリフォルニア、ソーサリートの港の堤防に座り、自らの未来を太平洋の広大な海原になぞらえたものだった。

“僕たちは本格的に仕事を再開した。” スティーヴ・クロッパーは回想する。“僕らは本当にいい曲をいくつか書いていたよ。でもその時にあの事故が起こったんだ。全てが吹き飛んでしまった。突然訪れたショッキングな出来事だった。全てが失われてしまったんだ。今となっては誰も彼が自分の中に用意していたものを知る由もないよ。彼は何かになろうとしていた。彼はハードなリズム&ブルースから抜け出そうとしていたんだ。彼は枠を飛び越えていた。”

崇高な‘Dock Of The Bay’は、彼が失ったものを暗示させる痛みが表れていた。ベーシストのダック・ダンは回想する。“ジム・スチュワート(スタックス社長)にとっちゃ遥か彼方の音楽だった。R&Bでも何でもなかったね。僕はジムに同意したほどだよ。僕はその曲を有害なものとさえ思った。” しかしクロッパーがホーンとエレクトリック・ギターをオーヴァーダブし、オーティスが元々描いていたカモメの鳴き声を入れたのち、レコードはリリース待ちの状態となった。リリースされるやレコードはたちまち大西洋の両端でNo.1となった。レディングがUSポップ・チャートのトップ20内に入ったのは初めてだった。オーティスは死後、ついに彼が存命中、心に描いていた領域に達することになったのだ。

その成功によって、倉庫に残されていた他の豊富なマテリアルに光が当てられることになった。次の‘The Happy Song’は、‘Fa-Fa-Fa-Fa(Sad Song)’の逆のメッセージを持った繊細なR&Bの1曲だ。‘Hard To Handle’は威勢のいい純粋なスタックス・サウンドだ。‘I’ve Got Dreams To Remember’はある人たちよって、オーティスが歌い方を忘れてしまったと批判する時によく引き合いに出されるナンバーだ。続く3年間、スタックスのアーカイヴから洪水のように未発表作品が流れ出した―しかし‘Love Man’、‘Free Me’、‘I’m A Changed Man’、‘Tell The Truth’、‘The Match Game’のような優れたナンバーでさえ、‘Dock Of The Bay’が示したような可能性ある未来を見せてくれるわけではない。

飛行機事故の後に残されたもの全ては、テープ・ボックスの中だ。そして様々なうわさ―オーティスがアレサ・フランクリンとともにデュエット・アルバムを作りたがっていた、あるいはスタックスを去りアトランティックにいくことを考えていた、あるいはR&Bの世界から足を洗い、フィルモア・ウェストのようなロック会場に出ることを考えていた―がささやかれた。それは彼より前のバディ・ホリー、そして彼よりあとのジミ・ヘンドリクスと同様に、彼の未来が予測不可能なその瞬間に死んでしまったということだ。数々のアルバムに残された奇跡的な音楽は、単なる物語の始まりだったのかもしれない。しかしそれよりも、ここに収められた40曲は依然としてのちの展開を暗示させるような興味をそそる楽曲群に違いないのである―今はただオーティスが60年代最高のサザン・ソウル・シンガーだったことを称えようではないか。


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