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Otis Clay/Testify!/2003 Fuel 2000 Records 302 061 351 2



1960年代半ばから後半にかけてのウィンディ・シティ(シカゴ)・ソウル・サウンドは洗練さや熱さよりも、インプレッションズ、メジャー・ランス、ジェリー・バトラー、ジーン・チャンドラー、ディー・クラーク、ベティ・エヴァレット、リトル・ミルトン、タイロン・デイヴィス、ザ・デルズ、ザ・レイディアンツその他シカゴを拠点としていた伝説たちのたまらなく魅力的なミドルテンポのクラシックに示されるようなさわやかさと楽天性によって大きく特徴づけられる。

しかしジョージ・リーナーのOne-derful!レコーズ―南ミシガン通りに本部を置いていた多くのR&B独立レーベルのうちの一つ―で、より汗臭く激しいスタイルが会社のリリース予定の中に支配的になりつつあった。ブルースとゴスペルの影響が強く、One-derful!(マッキンレィ・ミッチェルのヒット“The Town I Live In”で頭角を現した)と、その傘下の出版社Mar-V-LusとM-Pac!では、より荒い雰囲気を持ったサザン・ソウルのアプローチが幅を利かせていた。オーティス・クレイが世に示した作品の中でこれほどアーシーなアプローチをしたものは他になく、ここには彼のOne-derful!での全7枚のシングルと、遅きに失したが日本で日の目を見た未発表作品である熱い9曲が集められている。

ミシシッピ州の人里はなれたワックスホースで1942年2月11日に生まれたオーティスは、ゴスペルの豊富な環境の中で育った。“僕の母親は毎週日曜になると僕を教会に連れて行ったもんだった。” クレイはいう。“僕の家族にはたくさんのシンガーがいたんだ。グループたちはみんな僕のうちでリハーサルしていたね。僕はガキだったから、そこらに座って彼らを見ていたよ。彼らは何でも歌っていた。それでリハーサルが終わると僕らガキ共は彼らを真似るわけさ。そこから全てが始まったと思うね。”

彼の家族が1953年にインディアナ州のマンシーに引っ越した後、クレイは12歳の時にVoices of Hopeに参加した。そして再びミシシッピに旅した時にクリスチャン・トラヴェラーズと付き合うようになった。オーティスは1957年にシカゴに落ち着き、Golden Jubilairesでハーモニー・ヴォーカルをとった後、59年にチャールズ・ブリッジズのFamous Blue Jay Singersでジュビリー・スタイル(黒人民謡)の歌を歌い始めた。さらに地元のHoly WondersとPilgrim Harmonizersで活動し、クレイの神聖なる訓練の場を広げることとなった。

“僕はあらゆる人たちと一緒に歌ってきてプロのゴスペル・シンガーになったんだ。プロになることはずっと僕の目標だった。全てが自分のトレーニングの場だったね。” オーティスはいう。彼はそれにもかかわらず、彼の同輩たちの多くがそうだったように、世俗音楽へ転身する渇望を大きくしていった。“僕は世俗的方向へいってもその中に同じゴスペル・フィーリングを漂わせていたサム・クックが大好きだった。”

事実上、クレイのレコーディング・キャリアは、彼がナッシュヴィルにあったアーニー・ヤングのNashboroレーベルでGospel Songbirdsのリード・ヴォーカリストとして感動的な“Let Jesus Love You”を歌った時に始まった。しかしオーティスはすでにその2年前にスタジオの中に身を置いていた。その時彼はコロンビア・レコーズが送り込んだプロデューサー、カール・デイヴィスのもとで4曲のR&Bナンバーをレコーディングした。Gospel Songbirdsの仲間であったモーリス・ドリソンは、キャッシュ・マッコールというスマートな名を使ってビジネスをしていたが、彼が60年にソウル・ヒット、“When You Wake Up”をThomasレコーズから放った頃(彼は今もブルースマンとして活動している)、クレイのOne-derful!でのR&B路線のナンバーで楽器を弾いた。以降ドリソン/マッコールはそこでセッション・ギタリストとして副業を持つようになった。

“キャッシュ・マッコールは僕の友人で、彼とは多くのゴスペル・グループで一緒だった。彼は僕がOne-derful!に行こうとした時にそこに居合わせたんだ。”とクレイは回想したが、すぐにこれを翻した。“いや、その前だったな。当時の僕のマネージャーはボブ・リーといった。僕はコロンビアにいて何でもレコーディングしたんだけど、コロンビアは作品をリリースしなかった。それで僕らはコロンビアをはなれて、彼は僕をOne-derful!に連れて行ったんだ。でも彼らは当時僕に興味を示さなかった。その後にキャッシュ・マッコールが現われたんだ。彼はそこでレコーディングしていて、僕は彼と一緒に働くようになった。

One-derful!でオーティスはシカゴ生まれのヴェテラン・ヴォーカリスト、ハロルド・バレージと共に働いた。彼はオーティスの測り知れない恩師となった。バレージのレコーディング再開は1950年にまでさかのぼる。その時彼はデッカで“Hi Yo Silver”をレコーディングし、続いてAladdin, States, Cobra(彼が1956年から58年にかけてWest Side出版からリリースした中には愉快な“You Eat Too Much”、猛烈な“I Don’t Care Who Knows”、そしてロッキン・ナンバー、“Betty Jean”が含まれる)、PasoそしてFoxyへと渡り歩き、1962年にM-Pac!に落ち着いた。彼の6枚目のM-Pac!でのシングル、ゴキゲンな“Got To Find A Way”はバージェスがリリースした中で最初で最後の全国ヒットになった。それは1965年夏の終わりにCash BoxのR&Bチャートで7位まで上がり、Billboardでは31位になった。

“僕がRegal(シアター)にいた時にハロルドと会ったんだ。僕はRegalのゴスペル・ショーで歌っていたんだけど、Sensational Nightingalesにいたんだ。僕はNightingalesにいた時にすでにOne-derful!レコーズと契約を交わしていた。そして実はハロルドもOne-derful!にいて僕のことをすでに聞いていた。彼はRegalにショーを見にきていたんだ。彼はWest Sideで生計を立てていたことがあって僕もそうだった。その晩に僕らはたまたま同じ電車に乗っていて、彼と話し始めてそれ以来友人同士になったね。”

“ハロルドは僕の友人としてすごく大きな役目を担ってくれた。ハロルドはいつもタイロン・デイヴィスと僕との共通性を感じていた。彼はずっと年上で物知りだったからね。彼は長い間ビジネスに身を置いていたから、僕は彼に聴いてもらうべきだと勧められたんだ。彼は大きな影響を僕に与えたね。” しかしバレージは1966年11月25日に思いがけなくも心臓発作で亡くなってしまった。35歳だった。オーティスはOne-derful!の人気ヒット・メーカーと親友を同時に失うことになってしまった。

バレージはR&Bの異端者アンドレ・ウィリアムズ(彼のOne-derful!後の成功は例えばFive Du-Tonesの“Shake A Tail Feather”やアルヴィン・キャッシュの“Twine Time”がある)、オーティス・ヘイズと共に組み、オーティス(クレイ)の1965年のソウル・シンガーとしてのデビュー作で感傷的なディープ・ソウル・バラッド、“A Flame In Your Heart”を書いた。そのぎらぎらと燃えるような激しさは、マッスル・ショールズやメンフィスから当時現われたものと同等のものだ。そのB面のおかしな“Three Is A Crowd”は大量のサウンド・エフェクトで始まり、あちこちにサーカスのようなホーンが鳴り響き、そのエフェクトをかき消してしまう。そして曲はよりアップテンポとなって進んでゆく―これらは全てA&Rマンだったモンク-ヒギンスによるものだった。彼らがアレンジし、指揮し、書いたものだ。

クレイのOne-derful!でのもう一つの曲、“Tired Of Falling(In And Out Of Love)”は対照的にわずかに洗練された都会的なソウルで、これはレーベルの別のA&Rマン、ジミー・ジョーンズによって施されたものだった。オーティスが65年秋に放ったローカル・ヒットでは、彼の多才な表現が見事にコントロールされていた。B面となる“I Paid The Price”は最高のシカゴの伝統に相応しい渦巻くようなミドルテンポのナンバーで、これはジョーンズと共に制作したオーティス自身唯一のOne-derful!での共作曲であることが表示されている(シングルの両面にはリーナーが共作者として彼の妻の旧姓ヴァリー・ライスの名をつけ加えた)。1966年初頭、もう1枚の素晴らしいシングルがリリースされた。かぐわしい“I’m Satisfied”はドリソンが担当し、オーティスの魅力的な歌唱が脈打つようなミドルテンポのグルーヴに乗って進んでゆく。Cash Boxはヒットになると宣言したが、BillboardのR&Bチャートには入らなかった。裏面を占める情熱的な“I Testify”は、ジョーンズとヘイズが書き、クレイは強烈なホーンの前に襲いかかり、抑えられないビートを紡ぎ出している。

同じく刺激的に燃え上がる“It’s Easier Said, Than Done”は、ジミー・ジョーンズ作の力強い作品だ(今回はOne-derful!の一員である優れたサックス・プレイヤーのエディー・シルヴァーズとの共作だ)。クレイはウィルソン・ピケットのごとく隅から隅までスクリームしてみせる。そしてメローな出だしを持つドリソン/ヒギンス(法律上の氏名ミルトン・ブランドの下で)の美しい“That’s How It Is(When You’re In Love)”はついに67年8月、クレイをBillboardのR&Bヒット・パレードへ送り込むことになり、34位に達するヒットとなった。

“最初の大ヒットだった。つまりそれまでいくつかいいシングルは出していたけど、本当にプロらしく感じられるようなレコードだったんだ。” オーティスはいう。“いろんなところへ出かけて行くようになったね。今に至るまでよくリクエストされる曲なんだ。” クレイはさまよい歩くようなミドルテンポのメロディを心から吐き出すように歌う。この美しいアレンジはシルヴァーズによるものだ(オーティスはのちにこの歌をハイ・レーベルで、この極度の絶望感を違ったセンスで再録した)。裏面のシルヴァーズ作の脈打つような推進力を持ち、かつ張り詰めた孤独の物語である“Show Place”ではホーン隊が吹き荒れる。

シルヴァーズはまた、BillboardのR&Bヒット・パレードへもう1曲、背筋の凍るようなバラッド、“A Lasting Love”を送り込んだ。これは1967年の終わりに48位に達した。そのB面、容赦のないジョーンズ作のソウル・ロッカー、“Got To Find A Way”はクレイの恩師、故バレージに捧げられた熱いオマージュだ。バレージはほんのその2年前に同曲をヒットさせていた。

“ハロルドは僕の親友だった。これが親友に捧げる僕なりのやり方だと思ったんだ。僕はこれを歌うことを楽しんだよ。僕はいつもこの歌を歌う時、66年に死んだハロルドのことを考えながら歌っているよ。それがハロルド・バレージのことを世界中に紹介する僕のやり方なんだ。どこへ行こうと僕はハロルドの歌を歌いたいと思っている。” オーティスはいう。“ハロルドのこの歌に僕は打ちのめされたね。僕はもっと高いキーで歌ったから、彼がこの歌に込めていたものは失われてしまっているかもしれない。すごくいいとは思うけど、僕は自分のどのヴァージョンよりもずっとハロルドのヴァージョンの方が好きなんだ。” 実際にはクレイは過度に控え目な言い方をしている。彼の香り高いグルーヴを持ったリメイクは、バレージのオリジナルよりもいっそう伝染性がある。

マイナー調あふれる“Don’t Pass Me By”―これはのどが引き裂けんばかりに威嚇する焼けつくようなディープ・ソウル・フィール漂う“A Flame In Your Heart”への回帰だ。これはドリソン、ヘイズ、ヒギンスと女性コーラスが拡がるナンバー、“That’ll Get You What You Want”(シルヴァーズがアン・デュ・カンジェイと元Nikeレコーズの共同オーナー、ドク・オリヴァーと共にひらめいた曲)は1968年初頭のクレイのOne-derful!との別れを導いた。その年の半ばまでに、レーベルとその傘下の会社は活動を終了した。

“ある日ジョージ・リーナーが電話をかけてこう言った。‘ヘイ、君はアトランティック行きだ!’ってね。” オーティスは回想する。彼のニューヨークのレーベルへの契約金は、伝えられるところによると5000ドルだったらしい。“彼は失業していたんだ。ジョージはいつも僕の面倒を見てくれたよ。僕は彼の息子みたいなものだったからね。僕たちは親父と息子の関係だったんだ。” クレイはアトランティック・レーベルが新しく興したコティリオン出版と契約した最初のアーチストの1人だった。それは会社が彼をフェイム・スタジオへ送るためだった。フェイムはマッスル・ショールズにあるプロデューサー、リック・ホールのスタジオだった。

“行くところはそこだったよ。” クレイはいう。“アトランティックはホットなレーベルだったし、マッスル・ショールズは当時レコーディングにおいてホットな場所だったんだ。” そこで彼はサー・ダグラス・クインテットの“She’s About A Mover”の熱いリメイク・ヴァージョンをヒットさせることに成功し、その後メンフィス、ハイ・レコーズのプロデューサー、ウィリー・ミッチェルとその素晴らしいハウス・バンドと長期的な関係を結ぶことになった。そこで彼は1972年、最大のヒット曲“Trying To Live My Life Without You”を放った。翌年も気持ちの高揚するような“If I Could Reach Out”が十分なヒットを記録した。

One-derful!はレーベルの南ミシガンの本部の中に自社のレコーディング・スタジオを管理し、そこには音楽的実験のための多くの部屋とその地下貯蔵庫には大量のテープが眠っていた。オーティスの場合、9つの才気ほとばしるトラックが日の目を見るまで待たねばならなかったが、ついに日本のPヴァイン・レコーズが国内のレコード・コレクターのためにそれらを発掘した。

“I Don’t Know What I’d Do”はとりわけ激しいナンバーで、ホーンがクレイの猛烈なヴォーカルに完全にマッチしている。“Funny Life”はバッキングの騒々しいダンス・ビートに乗って進んでゆく。愛らしい“Come My Dear”は堂々とした優れた女性コーラスが配され、汗臭い“Nothing To Look Forward To”は専属作家のラリー・ネスターが書いたが、これは中でも傑出している。シルヴァーズの“Must I Keep On Waiting”は時折オーティス・レディングのあの絶美なる“Try A Little Tenderness”を思わせる。“I Lost Someone”、“Wrapped Up In Her Love”そして“Cry Cry Cry”はクレイのソウル・バラッドとして圧倒的な魅力を放っている。一方で“This Love Of Mine”の普通でない起伏に富んだグルーヴは、One-derful!の金をいくらかくすねたに違いなく、当時はリリースするには厄介な代物だったろう。

1965年から1968年まで、オーティスはOne-derful!レコーズでソウルのビジネスを吸収した。会社は他のレーベルより少し粗さを取り入れることに恐れはしなかった。“みんな器用にやっていたけど僕らは全く未加工なままだったね。” オーティスはいう。彼はメリスマ的なビートを失うことなしにゴスペルの本道からソウル・ストリートへと航行してきた。

“簡単じゃなかったよ。このビジネスは本当に予測がつかないんだ。偶然あるのみだ。” クレイはいう。どういうわけかOne-derful!初期の“The Arkansas Yardbird”が現在とんでもないDJの保有となっている。“日々一つずつ何かをやっていくだけさ。そうやって日々は流れていくんだ。”

-BILL DAHL

Robert Pruterに感謝する
ソース:Chicago Soul, by Robert Pruter(Urbana, IL and Chicago : University of Illinois Press, 1991) ; Goldmine No.45, Feb.1980 : “The Otis Clay Story,” by Robert Pruter ; Joel Whiteburn’s Top R&B Singles 1942-1988, by Joel Whiteburn(Menomonee Falls, WI : Record Research Inc., 1988)


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