Welcome to my homepage


Nic Jones/In Search of Nic Jones/1998 Mollie Music MMCD.01



【感謝の言葉】

ニックとジュリアはデイヴ・エメリーに感謝する。テープの目録作りと聴き取りに限りない時間を割いてくれた。そこから最良のものを引き出すためにスタジオで長時間過ごしてくれた。ステファノ・ボルゾネラとエンリコ・ナッティはイタリアでのコンサートとプライヴェイト・セッションの良質なテープを持っていてくれた。それはこのCDの大きな部分を占めている。ステファン・グロスマンはスタジオ・セッションを録音してくれていた。ラルフ・ジョーダンはこのプロジェクトに信頼を与えてくれ、我々と共に駆け回ってくれた。写真を提供してくれたヘレンと、ジョーの確かな耳、我々の家族、友人、知人彼ら全てのサポートが何年にも渡って励みになった。

デイヴはウィリー・ラッセルに感謝する。彼の励ましとこのプロジェクトに対する並々ならぬ熱意と支援に対して。スティーヴ‘One’クラークのスタジオでの協力とレイヴンスウォーズ・デザインのアンドレア、ポール・マッキー、ショーン・マーティンにも。そしてこのアーカイヴ音源を再プロデュースすることを承認してくれたBBCワールドワイド・ミュージックに対して。

このCDを持っている人は皆、リリースに至った経過についてはよく知らないだろうと思う。私が確信していることは、つまりニックの仕事であるレコード、クラブ、ラジオでのコンサートの体験をした人にとってそれは決して忘れられないものであり、次に思うのは、コンサートのように形に残っていない音楽こそが最も素晴らしいものであったということだ。

より綿密に分析してみると、とてつもなく個性的なアコースティック奏者を生み出すために、あらゆる技能の集結というものがなされたのだと思う。彼のシンガー及びギタリストとして、物語あるいはメッセージの語り部として、また全ての要素を描写する彼の感性、ほとんど生まれつきの才能でもってその息を呑むような演奏の成熟は、今日最も影響力を持ち、尊敬されるアーティストとしての彼を位置づけている。

ニックは'70年代〜'80年代初頭にかけてが最も活発な時期だった。音楽が急速に発展し、多くの音楽的信念と共に西洋世界の音楽は、以前よりも遥かに自由な表現活動をできるようになった面があるだろう。それはとりわけ'70年代初頭から半ばにかけて、私たちが訪れたあらゆる国のフォーククラブというアンダーグラウンドで、多くの実験がなされたという事実と、そこにはほとんどボヘミアン的ルールが存在していたということだ。

フォーク・リヴァイヴァルの初期の人たちは今も私の心に焼き付いている。彼らは、パブやクラブやコーヒーバーのような小さなところで歌っていた。簡素な舞台装置、壁には割れ目があってポスターやレコードジャケットが飾られていた。人々は自ら歌い、自分を表現していた。左翼的価値観が流行していて社会的メッセージを歌い、それはより強い価値基盤を作っていた。フェミニズムもそこで生まれた。人々は演奏者の目の前に座り、じかに音楽を感じていた。

残念ながらそういった背景は、より民族的主張を持つ人々の流入によって薄まってしまうことになった。たしかに自由放任主義の考えは、時々威厳さを失わせることになる。社会意識は人々の間から消えていくことになった。

それでもなおエキサイティングな時代は確かにあった。ニックの頑固な姿勢は彼の訪れた国々で人々を魅了させたのである―ブリテンはもちろんイタリア、オーストラリア、イラン、オランダ、ドイツ、フランス、キプロスそしてベルギーなどでね。

ニックは元々エセックス州ブレントウッドに住んでいた。そこで1968年ジュリアと結婚し、彼らはチェルムズフォードに引っ越した。ニックはハリアードという成功したグループの一員だった。メンバーのデイヴ・モーランが1968年末ロンドンへ移住するまでプロとして活動していた。グループ解散ののち、ニックとジュリアはチェルムズフォード・フォーク・クラブの経営を引き継いだ。

1968年終わりにニックは再びプロになり、ファーストソロLP“Ballads And Songs”をビル・リーダーのトレイラー・レーベルに吹き込んだ。このアルバムは彼を最高のパフォーマーとして樹立させた。続く4枚のアルバムもそれぞれ彼を当時最高のリヴァイヴァリストかつコンテンポラリー・シンガーとして傑出した存在であることを証明していた。彼の先のアルバム“Penguin Eggs”(1980)はメロディ・メイカーのフォーク・ミュージック・アルバム・オブ・ジ・イヤーに選出されている。

私が最初にニックを知ったのは、リーダーズサウンドで、ビルとヘレン・リーダーとジャネット・ケールと働いていた時だった。ニックはリーダーではベストセラー・アーティストだった。すぐに親友になった。私はニック、ジュリアと赤ん坊のヘレンと彼らがフェンズに移ってから一年間同居した。ニックのライヴを体験した人々は、ニックのことをよく知るようになった。彼はとても人懐っこくて近寄りやすい人間で、彼をよく知る人は私たちがいつものようにクラブかどこかでコンサートを始める前に、チェスをしたり、テニスをしたり、泳ぎに行ったりした事を知っているはずだ。これはよく覚えているが、例えばジョン・ピールの“トップ・ギア”でレコーディングするために行った、メイダ・ヴェイルのBBCセッションなんかの前に、プロデューサーのジョン・ウォルターは“今週はニックだ!“と言っていつも喜んでいた。なぜならニックがマイクに向かうと彼の完璧な音楽はケーブルを伝わってレコーダーに録音され、スタッフはみんな夜10時にはパブにいるという寸法だからだ。いっさいのオーヴァーダブもミスもなしで、ここのエンジニアは何もすることがなかった。

ニックと私は交代でギグの行き帰りの運転をしていた。歌ったり心理ゲームをして、ちょっとした冒険をしたり笑ったりして眠気を追い払っていたんだ。

1982年2月だった。おそらくニックは眠気から逃れられなかったのだろうな。その晩遅くの交通事故から半年間入院することになった。皮肉にも彼の家は目前だったよ。

入院の最初の頃、ジュリアはニックの容態が深刻だったことを知っていて、ニックの記憶を戻すための刺激として、フォーク界にニックのいくつかのレコーディング物のことを伝えた。これらのテープは間違いなく効果的だったし実際そうであった。数年後私はテープを全て聴き通してみて、これはリリースするためにリマスタリングすれば、強力なものになると確信した。私のスタジオにテープが持ち込まれ、私は曲をリストアップしてみたら、ちょうどよいくらいのレコーディングが使えるものだと判明した。それは500かそれ以上の様々な音質のものであったが、これはそこからの最初のコレクションCDだ。

ニックは完治はしていなかったがよくはなっていた。まだ偉大な左手と強靭な精神力が残っていた。20のチェスの詰め手を食らっても私のキングは大丈夫だ。ニックの武器のひとつは人々が彼に求める成熟、知性、そして誠実な詞であり、それを満足させるものであった。彼はまた表現力とユーモアを兼ね揃えていた。ニックのライヴ・パフォーマンスは、我々を感情の全領域へと導いてくれるものであり、このCDは我々が慎重にそれを1枚のアルバムとして反映されるようプロデュースしたものだ。単に明快な、例えば“The Best Recordings”といったコレクションでなく、我々にとってかけがえのない12曲のトラックを選んだ。とりわけニックにとってもだ。皆が満足するように一致団結した。

スタジオでは少しの音質修正以外は、オリジナルレコーディングを忠実に再現するよう心がけた。

我々は誠実さを信じてプロデュースした。それはニックのコンサートの誠実さをよく表していると思う。未発表マテリアルで固められたのは当時のニックのレパートリーからセレクトされたためだ。トラッドあり、コンテンポラリーあり、ニックの社会的メッセージもある。我々にとってハッピーで、気分を高揚させてくれるアルバムになった。あなたにとっても。そして永遠にお気に入りとなるコレクションだろう。

デイヴ・エメリー 1998


過去、スリーヴノーツを書けなくなってしまうような宣告をされてしまった。今回それを覆してみようと試みた。問題は僕の記憶がいくらか損傷しているってことだ。自分の頭の中が容量いっぱいで、ちょっと回復が難しいんだけどね!

違う状況だったら、このアルバムはペンギン・エッグスに取って代わるものとはならなかっただろうし、僕のダメなライナーノーツと、忘れ去られてしまった言葉と、ヒリヒリする喉の伴ったライヴアルバムにはならなかっただろう。しかしながらこれは、僕がずっと楽しんできた誠実なパフォーマンスのコレクションだ。ジュリアがテープを送るよう頼んだ当時の唯一の目的は、僕がかつて親しんだ事を僕の無意識に向けて質問攻めにする事だった。彼女はボブ・マーリーから犬の鳴き声から子供の遊ぶ音まで何でも僕に聞かせた。振り返ると何年か後デイヴが、彼女たちを救ってくれたことは本当に幸せだった。へレンが彼女とジョーがキューピッド・スタントとシド・スノットの物真似を録音しようと提案したこと―それはみんな昔彼女が聞いたことなんだよ!

ニック・ジョーンズ 1998


Seven Yellow Gypsies

これは多くのヴァージョンがあるけどどこから持ってきたのか覚えてないな。多分パディ・ドーランのヴァージョンだと思う。セシル・シャープ・ハウス・サウンド図書館で聴いていた全てのヴァージョンをリストアップしたノートを持ってて、そのうちのひとつなんだけど間違ってたらごめんね。

Texas Girl At The Funeral Of Her Father

僕はランディ・ニューマンの大ファンでエメリーのレコード棚から彼の“リトル・クリミナルズ”を見つけたんだ。グレイトな曲で、ある理由からカヴァーしたんだ。うちから長い間離れている時に感じるような、寂しい気持ちを連想させるんだ。

Lord Franklin

これはフォークソングの古典だといつも思っていて、ハリアード時代に出会った曲だ。でもかつて歌った曲じゃないし、自分が歌っていたのを覚えてないんだ。テープを聴いてびっくりしたね。イタリアのコンサートで録音されてたんだ。1981年にパオロ・ナッティが僕のために開いてくれたコンサートさ。残念ながらトラックと大喧嘩する前の記憶が曖昧なんだ。ジュリアはあそこで僕が素晴らしい時間を過ごした事は確かだと言ってくれるけどね。

Swimming Song

僕はマガリッグルズのアルバムを何枚か持ってて、最初の“Kate and Anna McGarrigle”からこの曲を知った。19の時、救命活動(ライフガード)をしてたんだ。仲間の連中と水の中で泳ぎ回る日々を過ごしたね。僕らはバイクに乗って板の先から飛び降りたり、プールが一般には閉鎖している時に好き勝手なダイヴィングをしたり、離れ技を競い合ったもんだった。屋外のプールがあって僕は暑い日にダイヴしてた。救助しなきゃいけない人たちは実際溺れてなんかいなかった。いいかい?つまりそういう人たちっていうのは大抵女の子なんだ!水泳は僕の人生で最高の楽しみだね。だからこの曲を歌うのが大好きなんだ。

Ploughman Lads

僕はジ・イグザイルズの音楽を高く評価してた。特にエノック・ケントの歌唱をね。よく覚えてるのは彼らの2枚のアルバム―“Freedom, Come All Ye”と“The Hale and the Hanged”で両方トピック・レコードから出てた。この曲は後者収録だった。アーサー・アーゴが採取したグレイトな歌でよく歌ったものだよ。

Ruins By The Shore

ブルターニュのどこかで僕らが休暇でキャンプをしていた海岸に廃墟があったんだ。僕はヘレンがジョーをからかってやろうと石の間にいるクモを探してるのを見ていたとき、映画“猿の惑星”でチャールトン・ヘストンが砂浜から突き出ている自由の女神を発見したシーンを思い出したんだ。想像力をかき立てるね。

On Board The Kangaroo

70年代にはたくさんの略奪集団が、セシル・シャープの音楽図書館に潜んでいるのが見られたんだ。エリザベス・クルーニンのヴァージョンでこの歌を聴いた時、そういう軍団がいたんだ。僕はそういう地理的にありそうもないようなユーモアが大好きだね!

Hardiman The Fiddler

僕はウィリー・クランシィ・マイケル・ゴーマン・アンド・マーガレット・バリーの“アイリッシュ・パイプ・アンド・フィドル・チューンズ”っていうグレイトなEP盤を持ってた。そこでこれを知ったんだ。その後再びオーネイルの“1001ジェムズ−ザ・ダンス・ミュージック・オブ・アイルランド”で出会ったよ。僕がフィドルを弾いてた頃だ。彼らの8分の9拍のスリップジグのリズムが好きでね。ところがジグっていうのは普通8分の6なんだ。これは考えると可笑しくてね。ジグを踊るには弓の長さが60センチ必要だけど、スリップジグには90センチの長さが必要だぞってね!それ以来フィドラーとしてはものにならなかったな。ギターで弾こうと思ったのさ。

Green To Grey

僕たちは13年間イースト・アングリアン・フェンズの牧草地の端っこに住んでいた。農園がトラクターと政府の農業助成金によって破壊されるのを見ていて、この曲が生まれたんだ。

Rose Of Allendale

亡くなってしまった僕の親しかった友人ピーター・ベラミーが、コッパーファミリーの歌うこれを教えてくれて、一発でノックアウトされたんだ。今でもコッパーファミリーのレパートリーの中でお気に入りだよ。

Teddy Bears' Picnic

ウィリー・ラッセルがTV番組“Our Day Out”のBGMとして弾いてくれないかって僕に依頼したんだ。僕は気取って生意気な感じで“ああ、いいよ”って言った。ガキの歌だろ?目をつぶっても弾けるさってタカをくくってたんだ。ところがいざ楽譜を見たら僕が今までやってきたどれよりも練習が必要な曲だったんだ!僕は当時知られてなかったんだね。でもそれ以来これは僕のレパートリーになったよ。

Thanksgiving

詞とメロディに魅了されたね。リックとロレイン・リーの“コントラスト”からで、今でもお気に入りのひとつだ。


ホームへ