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The Move/Move Deluxe 2-CD Expanded Edition/2007 Onward Music Ltd/Union Square Music Ltd SALVODCD207



“間違いなくThe Beatles, the StonesそしてThe Moveがイングランドでの序列である”

Tony Secunda、マネージャー&ムーヴの先導者、The Move 1966-1968


そして間違いなくThe WhoThe Kinksは、セカンダの取り乱したような狂信的評価に対して何かいいたかったに違いない。しかし彼らはのちになって、1995年にこの世を去ったトニーのスウィンギン・ロンドン最後の4年間に盛大に花開いた偉大な先導者ぶりを認めないわけにいかなくなったのだ。セカンダのThe Moveに対する指摘―67〜68年にかけて放たれた5曲のトップ5ヒットはthe Stones、Who、KinksそしてSmall Facesよりもすぐれていたこと―は、ポップの裏ページの中で忘れ去られる危険にさらされていた。

15年以上経過しバンドのフロントマンであったカール・ウェインもこの世を去ったのち、ザ・ムーヴの残した遺産はついに磨き上げられ、栄光のオリジナル・スタイルで復活したのだ。彼らのポップの頂点から、まる40年後、聴く価値ある同世代バンドの中で、最も才能あるひとつを今聴くことが可能になったのである。水準以下のCDリイシュー、貧弱なサウンドとパッケージ上のデータ・ミスが何年も続いたのち、Salvo Recordsと手を組んだFly Recordsは、40周年記念シリーズとして細部に渡ってプロデュースするために、生き残っている元メンバー全ての協力を取りつけたのだ。注意深く聴いてくれたまえ。生い茂った草原の音が聞こえるかもしれない・・・
Mark Paytress, 2007


60年代後半を通じ、我々はThe Moveから目をそらすことはできない―5人の“Ace Faces”はバーミンガムの活気あるビート・シーンの中で自らの技巧を完成させ、あてのないメンバーの組み合わせをくり返すうち、結果的にBrum(バーミンガムの俗称)・Beatのスーパー・グループとなってしまった。

それは1965年12月であった。数週間のうちにあちこちからメンバーが集合し、バンド結成に至ったことにインスパイアされた新しいグループ名、The MoveはUKのクラブ・シーンですぐに新しい波を起こし始めた。The Whoと新興勢力であったTamlaサウンドにインスパイアされた床を揺らすようなエネルギーに、素晴らしく効果的な4つか5つのハーモニー・パートを敷きつめたバンドの音楽的スキルは十分に見事なものであった。それに加えてまず挙げられるのがサイケデリック前夜のライト・ショー、つまりテレビに出演しアドルフ・ヒトラーの人形を使ったり、斧を振り回したりという野蛮な行為を繰り広げていたということだ。これを考慮すれば、なぜムーヴの名声が急速にクラブ・シーンに広がっていったかを想像するのは難しいことではない。

スモークとストロボ・フラッシュという視覚的な効果は、ブリティッシュ・ポップの最前線で最も好んで使われていた。一団のリーダー、カール・ウェインはクールで大胆でオーディエンスが望めばバラッドでさえ感傷的に歌うことをいとわなかった。他のメンバーよりわずかに年上だったカールは、とりわけTony Secundaが彼に斧を手渡すと無法者のように振る舞っていた。

カールの右側にはトレヴァー・バートンがいた。バンドの頑固者、決して笑わないギタリストであった。彼の後ろに隠れていたのが、神経質で小柄な奴、うわさによれば奴がグループの頭脳らしかった。それがロイ・ウッドだ。一番後ろには大柄のベヴ・ベヴァンだ。彼はドラム・キットを強烈にぶっ叩いていた。そして時々彼は最高の“Mr. Bassman”として、ドゥ・ワップ・ナンバーでステージ前方へ出てきて歌っていた。

最後が忘れてはならないファッショナブルなブロンドの若者、彼は神経質そうに頭を上下に動かし、ガリガリとベース・ラインを刻んでいた。ステージ左側にいたそいつがクリス‘Ace’ケフォードだ。66年のMarquee Clubでの猛烈なムーヴのステージの一つを目撃したNic Cohnによると、ケフォードはまるで“歌うガイコツ”だったそうだ。栄光の堕落したロックンロール・アニマルの一人だ。“彼の肉は削げ落ち、終始ガムを噛みアゴを動かしていた。彼の顔は果てしない退屈さで硬直したようだった。”

ケフォードはグループのBrian JonesあるいはSyd Barrett的人物であった。彼はいつもなぜか仲間から距離を置いた男性モデルのようであった。この異様さは早くから始め、そして以降も続けることになるLSD依存による精神的衰弱からきていた。しかし最初からムーヴは彼のアイデアであった。それはバーミンガムのCeder Clubである晩、もう一人のAce Face、David Jonesと話す機会に恵まれたためであった。そのジョーンズは間もなく自分のモッド・バンドを見捨て、David Bowieとして復活することになる。彼はエース(ケフォード)と彼の親友トレヴァー・バートンに、それぞれのバンドを抜けてチャンスを素早くつかみとるよう助言したのだった。

彼らはジョーンズのいうとおりにしたが、結成されたムーヴの中で最年少だった彼らはすぐに主導権をヴォーカリストとして経験があり、生まれつきのリーダーだったカール・ウェインに引き渡してしまった。まだ事態はゆっくりと動き、ムーヴのスリル満点ではあるが否定しがたい困難な歴史を決定づけることになるバンドのダークホース、ロイ・ウッドの浮上はありそうもなかった。2年以内にウッドは闇から姿を現し、ポップの世界で最も優れた人物のうちの一人となり、同世代ミュージシャンの中で最も優れたソングライターの一人となるのである。

バーミンガム・ギグ・シーンでムーヴがまたたくにインパクトを与えたニュースは、セカンダが彼らに接触してからすぐに彼のもとに届き(彼はすでにThe Moody Bluesのマネージメントを行なっていた)、彼が探し求めていた将来性あるバンドであることを強く印象づけた。彼はすぐさま動いた。ソールド・アウトとなったシーダー・クラブでのギグを見た後、セカンダは4月中にロンドンのMarquee Managementとグループを契約させ、彼らに専属カメラマン、Robert“Bobby”Davidsonをつけた。素晴らしい“The Move”のロゴを考案し(Shirley Scott-Jamesによって具現化された)、新しい流行のイメージを企てた。スーツが仕立てられ、セカンダとデヴィッドソンの細部まで渡る完全な配慮によって、カメラを直視して絶対に笑わないよう厳格な指導が与えられた。ザ・ムーヴは“ギャングスター”ルックを採用した。

イメージを確実なものとするため、セカンダはロイ・ウッドだけが大きな興味を見せていたソングライティングに注意を向けた。ムーヴはシングルとして1966年1月初めに、ロイのYou’re The One I Needをすでにレコーディングしていたが、ロイはもっといいものが書けると感じていた。トニー・セカンダは彼をサポートするため自信をつけさせた。“ロイは私に自分の書いた詩をいくつか見せてくれたよ。私はいったね、‘君ならできる。曲を書こうじゃないか!’ってね。”

なにか覚えやすくキャッチーなものを思いつくよう彼のマネージャーとしての指導によって(“思いついたらすぐに書き留めるんだ・・”)、ロイはクロイドンでのステージの前にバンドに‘Night Of Fear’を歌ってみせた。そして彼らはまさに次の日Advision Sound Studioでそのファースト・シングルを吹き込んだ。

“僕たちはロイが曲を書き始める前にかなりワイルドになっていた。”トレヴァー・バートンはいう。しかしセカンダはムーヴがThe Temptations‘My Girl’のカヴァー、あるいはBobby Parker‘Watch Your Step’でショーを埋めてもチャートを賑わすことはないだろうと分かっていた。ザ・フーのPete TownshendThe KinksRay Daviesはとりわけ、素早くポップ・ソングライティングの方向を変えたが、唯一ロイ・ウッドだけがザ・ムーヴにとってそのレベルで張り合うことができるような可能性を秘めていた。彼もバンドもその追求において成功したのである。

ザ・ムーヴのファースト・アルバムの数曲のアレンジを担当したプロデューサー、Tony Viscontiによればこうだ。“ロイ・ウッドはブリティッシュ・ポピュラー・ミュージックの中で最も賢く器用なうちの一人だ。”この意見にケチをつける者はほとんどいないであろう。しかしウッドは移り気な天才でもあった。彼は自分のスタイルを創り上げるや否や、Kilroyというキャラクターについての“弟9次元の電子音楽オペラ”(?)を書きたいと語っている(67年半ばDJAlan Freemanに向かって・・)。ある意味ウッドの頑固な折衷主義は巧妙に様々なテイストとして具体化されている―当時バンド内では絶え間ない衝突があったことはいうまでもないが。ザ・ムーヴも彼らの作ったレコードも、常に予想外の展開を見せていた。

“今日に至るまで誰もロイがドラッグをやっていなかったなんて信じていないね。”ベヴはつけ加える。“時々僕らはウォッカのボトル1本持たせてロイをホテルに閉じ込めて言うんだ。‘さあ、ニュー・シングルを書くんだ!’ってね。その時が一番彼がラリッた状態に近かったんだよ。彼は子供の物語を書くのが好きだったし、それは多分曲があどけない響きを持っていることに起因しているからだと思う。”あまり指摘されないが危険な妄想性を示す天才的センスは最初のシングル、‘Night Of Fear’のB面に入っていた‘Disturbance’にあらわれている。これは彼らの悪夢のようなステージを表わす象徴的なナンバーだ。

バンドはやり手のムーディー・ブルースのプロデューサー、Denny CordellEssex Music(プロダクション会社)との契約を済ませるとすぐにDecca傘下の新進レーベル、Deram Recordsと1966年暮れに提携した―その取り決めはプレスにとって大衆の目を引くような計画によって実施された。トップレス・モデルのLiz Wilsonの背中に“契約”が書かれるというパフォーマンスとなって登場したのである。間もなくトニー・セカンダは、差し迫っていたデビュー・アルバム、‘Move Mass’にとりかかった。“ムーヴは2月中のLPリリースを望んでいる。”1966年のクリスマスにファン・クラブは会報で高らかに告げたが、セカンダはすでに気持ちを変えバンドが常に目立つような巧妙な戦略を採択した。

ムーヴはまた国内中あちこちで金を稼ぎ疲れきっていた。ベヴはいう。“僕は1967年に母親に300ポンドのカラーTVを買ってあげたんだ。”彼らはオフの間にやっとスタジオに入る時間をつかんでいたのだが、このことはかなりグループが稼いでいたことを示している。最初のアドヴィジョンのレコーディング・セッションは1966年10月22日だったが、The Speakeasy(クラブ)でヘッドライナーを務めた“斧攻め”コンサートやウォーダー・ストリートの警官が非常線を張ったマーキー・クラブでの破壊行為、そして“車破壊”とThe Roundhouseの‘サイケデリック・マニア’による暴動によって、バンドは1967年1月までスタジオから閉め出されてしまった。

デニー・コーデルとエンジニアのGerald Chevinとの次のレコーディングは‘Night Of Fear’がチャート2位に達し、続くセカンド・シングル、‘I Can Hear The Grass Grow’がトップ・テンに入り、UK中がムーヴ・マニアに屈服した3月になってようやく始まった。6曲のアルバム用ではないトラックが完成し、バンドは取りかかればすぐにデビューLPは完成すると感じていたが、セカンダは曲をシングルのAB面として売り出すことにこだわり続けていた。あわただしいライヴ・スケジュールの中、9月に‘Flowers In The Rain’はシングル・チャートをかけ上ったが、同月のカール・ウェインの言葉にあるように、彼らはLPにそれほど固執してはいなかった。“なかなかLPが出ないけど次の世界大戦までにリリースされるはずだよ!”

実際には1968年4月下旬、ザ・ムーヴのデビューLPはリリースされた。Fool(デザイン・チーム)による素晴らしいジャケットと同じく、バンド自身も目を引く姿になっていた。彼らはいかついギャングスターのスーツの代わりにサイケデリックなガウンにビーズと髭、そして―エースとトレヴァーは―Hendrixスタイルのパーマをかけていた。カール・ウェインはすでにサイケデリアの“反対論者”を明言していたが、流行の髭をはやし“雨の中のフラワー・パワー”と歌うことはやめはしなかったのである。

1967年7月7日にレコーディングが始まった‘Flowers In The Rain’はザ・ムーヴにとっていくつかの点において重要なリリースであったが、最初はホーンとアレンジメントが十分ではなかった。バンドはTony Viscontiに相応しいアレンジを依頼するまでは、この曲は失敗するだろうと感じており、ボツにすることを検討していた。メンデルスゾーンにインスパイアされたトニーのアレンジにより、管楽器4本とイントロに雷鳴が加えられ曲は完成した。それは前の2曲のシングルから大きく前進していた。この曲はムーヴ最大の成功を導き、英チャート2位のヒットとなり続く3ヶ月間チャート圏内に居座り続けた。そしてBBCの栄光のニュー・ラジオ・ステーション、Radio 1で最初にかけられたレコードとして歴史に残ることになった。‘Flowers…’はまたセカンダがプロデュースしたプロモーション用のポストカードに寄与することになった。それは時の英首相ハロルド・ウィルソンを中傷したもので、結局バンドはそのことで法廷へ出ることになってしまった。ウィルソンは彼が選んだチャリティへのムーヴの出演料全てが与えられることになった。それはなんと今日までも有効である・・・

“僕らはホントにビビッたよ。”トレヴァー・バートンはいう。“首相に向かってちょっかいを出す時は用心した方がいいね。M15(英国の高速幹線道路のことか?)はトニーの家のそばを走っていたんだけど、僕らは確かに誰か知らない奴にあとをつけられたんだ。まるでジェームス・ボンドの映画みたいだったな。”

ポストカードのエピソードは彼らの遅すぎたデビュー・アルバムが完了した時にもバンドの神経を高ぶらせていた。そして‘Sgt Pepper’があらゆるものを変えてしまっていた。誰も―特に花柄のシャツを着飾ったタムラ(モータウン)の熱狂者たち―次はどこへ向かおうとしているのか分からなかったのである。

“どの曲も次に入っている曲とは全く違うんだ。”アルバムがリリースされた週にカール・ウェインは語っている。“LPは僕らのファースト・アルバムとしちゃ全てどれもが悪いわけじゃないよ。”ロイ・ウッドはレコード・ミラー紙にいつもの自嘲気味なコメントを残している。“とてもシンプルでコマーシャルだ。僕らは手に負えないレコーディング・テクニックは使わなかったんだ。全ての人たちにアピールするよう心がけてアルバムを作ったよ。” これは全く事実だ。

1年と2ヶ月を越える期間に渡って断続的にレコーディングされたアルバムは、サイケデリック・ロックと脂ぎったロックンロール、50sヴォーカル・バラッドそしてプログレッシヴなオーケストラ・ポップと多岐に及んでいた。13曲中3曲はワイルドな独自のカヴァー、残りは全てロイ・ウッド作だ。確かに彼は多様な面を持っていた。そして折衷主義は当時の命題でもあった。

オープニングの‘Yellow Rainbow’はいきなり活気に満ちたサイケデリックなフェイジングに突入するが、見かけ上このカラフルなイメージは無関係なものであり、曲自体は核の恐怖に怯える世界の危機に視点を置いている。それはバンドの持つ見事な暗喩的手法でもあった。なるほど“気が滅入る一団”である。またウッド作、‘Kilroy Was Here’もそれほど違わないかもしれない。たっぷりにメロディックなこのフォークロックのおとぎ話は明らかにLindisfarneにいくつかのヒントを与えている。曲はやはり中ほどに狂気めいた箇所がかろうじて見受けられる。

‘(Here We Go Round) The Lemon Tree’はすでに‘Flowers In The Rain’のB面で発表済みのナンバーだった。この曲は全体にあふれるロイの幼児性が最もあらわれている。“純真さが好きなんだ。”当時彼は語り、実際にいた“イカれた奴”を題材にしたことをつけ加えている。Eddie Cochranのロックンロール・クラシック、‘Weekend’は、トレヴァー・バートンが最高にギトギトした唸るようなヴォーカルをとっている。これは当時ステージで好んでプレイされていた。1967年1月に録音された‘Walk Upon The Water’はステージでは取り上げられなかったが、これはThe Beatles‘Sgt Pepper’に影響を与えた可能性がある(奇妙で切ないエンディング、出だしをチェックしてみよう)。ビートルズのメンバーはたしかにマーキーでザ・ムーヴを目撃しており、‘Sgt Pepper’のイメージを考えてみるとムーヴの派手な衣装にインスパイアされたといえるかもしれない。

ウェストコーストの雄、Moby Grapeのパンキッシュなサイケ・ナンバー、‘Hey Grandma’のダイナミックなカヴァーでA面は幕を閉じる。B面あたまの失われたムーヴ・クラシック、‘Useless Information’はアルバム用に書かれた最後のトラックだった。とりわけバンドの強みであるバッキング・ヴォーカルに力を入れたかなり洗練された雰囲気を持っている。フィナーレ部分“Hundreds of people”のメロディックなひねりはウッドの真骨頂だ。

アルバム中Ringoにあたるのが、古いCoastersのヒット、‘Zing Went The Strings Of My Heart’でのベヴ・ベヴァンの短い名演だ。彼の“ダブル・ベース”(コントラバス)ヴォーカルはほとんどレコーディング・テクニックによるおふざけ的印象だ。2コーラス目に入ってくるエースのStevie Winwoodスタイルのヴォーカルは確かに驚きだ。

“歌った時僕はひどい風邪を引いていて、ブランデーを1本飲んでたんだよ!” ‘The Girl Outside’についてトレヴァー・バートンは笑いながらいう。これはロイとトニー・ヴィスコンティが挑戦したMcCartney‘Eleanor Rigby’と肩を並べるポップ・バロックだ。さらにずっと強力なのが、ロイの素晴らしいハープシコードがふんだんに使われた牧歌、‘Mist On A Monday Morning’だ。あるいはこれは彼がのちにザ・ムーヴをElectric Light Orchestraに移行させることを示す最初の兆候かもしれない。オーケストラを使った2曲に挟まれたのが、‘Fire Brigade’だ。ポップの復興を示す忘れられない1曲であり、ムーヴにとっては1位の座にごく短い間輝いた3番目のヒットだ。

キーとなる曲(ウッド作含む)は‘Cherry Blossom Clinic’で、これは‘Flowers In The Rain’に続くシングルとしても考えられた。しかし人々の感情を害する恐れがあるため、それは棚上げされてしまった。当時ロイは精神錯乱をテーマに発展させようとしていた。ワウワウ・ギターのうねり、変質的(Psycho)スタイルのストリング・アレンジ、そして濃厚で方向性が分からなくなったような作品だ。“僕らはこれでとことんやってみたんだ。”ウッドは告白している。

‘Move’はすぐにMelody Makerの月間アルバムとして選出され、UKチャートでも15位という立派なヒットを記録した。しかし今日ベヴ・ベヴァンは主張する。“アルバムを出すのがあまりに遅すぎたね”―彼はあるいは正しいのかもしれない。68年までにポップ・シーンは劇的に変化していた。“シングル”指向と“アルバム”指向のアーチストのギャップがはっきりと認識できる状況にあった。The Small FacesThe HerdそしてThe Moveのようなグループは、その二つの傾向の間で厄介な問題に直面していた。ロイ・ウッドのようなソングライターはすでにあらゆる方向に入り込み、バンドとしても同様にザ・ムーヴはくせのある個性的な存在となっていた。このことが続く2年間以上、大きな問題となるのである。

[全てはムーヴのセカンド・アルバム、‘Shazam’のスリーヴノーツに掲載されているとおりだ・・・]

Mark Paytress, May 2007
素晴らしいマテリアル・リサーチと追加情報をくれたRob“Oracle”Caigerに感謝する



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