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The Moody Blues/A Question Of Balance/2008 Decca Music Group Limited 530 662-6



1969年はムーディー・ブルースにとって重要な年だった。彼らはブリティッシュR&Bグループ(その2年前にナンバー1シングルを放っていた)から、名誉ある真に独創的な2枚のアルバムを創り上げた自信あふれるロック・バンドに変容していた。彼らが上向きになったのは、1967年3月だった。その時、レイ・トーマス(フルート、ハーモニカ、パーカッション、ヴォーカル)、マイク・ピンダー(キーボード、ヴォーカル)、そしてグレアム・エッジ(ドラムス)は、新メンバーのジャスティン・ヘイワード(ギター、ヴォーカル)、ジョン・ロッジ(ベース、ヴォーカル)とともに、初めて次のニュー・シングルを録音するためにウェスト・ハムステッドにあるデッカのスタジオに入っていた。プロデューサーはトニー・クラーク、エンジニアはデレク・ヴァーナルズだった。1966年暮れのベルギーとフランスでの活動によって、ムーディー・ブルースの新しいラインナップはメロトロン・キーボード(テープ・ループを介してオーケストラ・サウンドをシミュレートする扱いにくい楽器)を使用したソングライティングの腕をみがくことになり、ドラマチックな路線変更に乗り出していた。

バンドはデッカ・レコードとの契約上の責務を負い、続く5ヶ月間に2枚のシングル・リリースを行なった―“Fly Me High” b/w “Really Haven't Got the Time”(1967年5月初めのリリース)と“Love and Beauty” b/w “Leave This Man Alone”(1967年9月にDecca F 12670としてリリース)だった。“Love and Beauty”はムーディー・ブルースのレコード上での初のメロトロン登場曲であり、彼らが初めて自作で固めたアルバムをレコーディングするきっかけを作っていた。またデッカは、より大きなチャンネル分離による、新しく開発されたステレオ・レコーディング方法をプロモートすることに躍起になっていた。会社は傘下のデラム・レーベルを通じて、ロックのオーディエンスにそのステレオ・レコーディングを浸透させる機会をうかがっていた。1967年9月、デッカA&Rのボス、ヒュー・メンドルはその新しいレコーディング・システムをプロモートする1つの手段として、オーケストラとともにドボルザークの第9交響曲のロック版をレコーディングするという話をムーディー・ブルースにもちかけた。バンドはデッカの重役たちによる一切の干渉なしに、プロデューサーのトニー・クラークとエンジニアのデレク・ヴァーナルズとともに自由にレコーディングするという条件でそれに合意した。

レコーディング・セッションが始まると同時に、ムーディー・ブルースはさっそくトニー・クラークとオーケストラ・アレンジャーのピーター・ナイトにドボルザーク案を放棄し、その代わりにバンドがていねいに創り上げた連作歌曲をレコーディングしようと説得にかかった。ちょうど3ヶ月間で、アルバムはレコーディングとトラック・ダウンを終えた―セッションはバンドとオーケストラが2つのスタジオで同時進行レコーディングを行ない、すさまじいペースで指揮された。アルバム『Days of Future Passed』は、デッカの重役たちの中ではっきり賛否両論に分かれたが、A&Rのボスのヒュー・メンドルとUSAロンドン・レコードの社長ウォルト・マクガイヤの擁護のおかげで、1967年11月11日に型番Decca SML 707として英国でリリースされた。それはシングル“Nights in White Satin” b/w “Cities”(Deram DM 161)より1日早いリリースだった。

アルバムにおけるシンフォニック・ロック・ミュージック、オーケストラ・アレンジメント、そして朗読の喚起作用あふれるミクスチャーは、すぐに英国のレコード購買層の共感を呼び、新しく開局したBBCラジオ・ワンで広範囲にエアプレイされた。アルバムもシングルも1967年12月27日にUKチャートに入り、アルバムは27位に達した。ジャスティン・ヘイワード作の美しく喚起作用ある“Nights in White Satin”は最高19位だったが、このクラシック・ソングは以後12年間に2度、UKトップ20に返り咲くことになり、1972年にはUSAで3位になった。

アルバム『In Search of the Lost Chord』となるセッションは、1968年1月に始まった。この時に録音されたマテリアルの全体の雰囲気は、前の作品よりも東洋の影響がうかがわれ、明らかに‘サイケデリック’になっていた。ライヴ・アクトとしてのムーディー・ブルースの需要が高まるにつれ、レコーディング・セッションはコンサート日周辺に割り当てられるようになった。結局ツアー・スケジュールの中に明らかな切れ目が生じることになり、多くの強力な新曲を用意していたムーディー・ブルースは、次のアルバムを早く完成させたがっていた。

通常はロック・ミュージックのレコーディングに使用されていたデッカのナンバー・ツー・スタジオでは時間的に限られてしまうため、バンドはデッカの社長サー・エドワード・ルイスに、よく空きになるナンバー・ワン・スタジオを使う許可を与えてほしいと要求した。それが認められたムーディー・ブルースは、次の傑作を完成させるために1968年5月中旬から6週間を費やした。新しく手に入れた8トラック・テープ・マシン‘Studer’を用い、美と複雑性に富んだアルバムができあがった。シングル“Voices in the Sky” b/w “Dr. Livingstone I Presume”(Decca DM 196)が6月終わりにリリースされ、その1ヶ月後にアルバム『In Search of the Lost Chord』(Deram SML 711)がリリースされた。シングル、アルバムともUKチャートに入り、“Voices in the Sky”は27位に達し、それが入ったアルバムは5位まで上がり、トータルで32週間チャート圏内にとどまった。

1968年10月、パリでのコンサート、BBC2のテレビ番組‘カラー・ミー・ポップ’への出演、そして最新LPのアメリカ・リリースに続き、バンドはマイク・ピンダー作の“A Simple Game”を録るために、再び慣れ親しんだデッカ・ナンバー・ワン・スタジオに戻った。そのトラックはすぐに“Ride My See Saw”のB面としてリリースされた(10月25日 Deram DM 213)。この時までに、ムーディー・ブルースはクリームのフェアウェル・ツアーのサポート・アクト含む、広範囲なUSツアーに乗り出していた。『In Search of the Lost Chord』はすぐにビルボード・チャートをかけ上がり、23位に達し、チャート内に29週間とどまった。バンドが英国に戻った時までに彼らには疲労がたまっていたものの、彼らはアメリカでの熱烈な支持を打ち立てることに成功し、それはアルバム・リリースとツアーが行なわれるたびに、どんどんと大きくなっていった。今やムーディー・ブルースは世界的に革新的かつ重要なロック・バンドとしての地位を確立していた。

それらの背後で絶えず増えるレコード・セールスに伴い、ムーディー・ブルースは自らのスケジュールをコントロールすることができるという、恵まれた地位を手に入れた。1969年1月のひと月は、次の待ち望まれていた作品をレコーディングするために空けられていた。信頼のおけるプロデューサーのトニー・クラークとエンジニアのデレク・ヴァーナルズが再度いつもの場所に収まり、本格的に仕事が始まった。バンドのそれぞれのメンバーは、ムーディー・ブルースが今にも大躍進しそうなことを感じとり、その気持ちはレコーディングされた音楽によく反映されていた。前作品ほど明らかに実験的とはいえないものの、その作品はむしろより焦点が定まっていた。アルバム『On the Threshold of a Dream』は、1969年4月に英国でリリースされた。5月3日、アルバムはUKチャートに入り、楽々とナンバー1の座につき、前代未聞の73週間のチャート圏内存続を達成した。

USではアルバムが1969年5月31日に、シングル"Never Comes the Day"が6月28日にリリースされ、それと同時にアメリカでのコンサートが企画された。スリーヴ・デザインはもしかすると、デッカ・レコード作品の中でその時まででもっとも豪華だったかもしれない。歌詞の印刷された冊子と、‘オリヴァー!’などのヒット・ミュージカルで有名なコンポーザー、ライオネル・バートによるライナー・ノーツ含む見開きジャケットは議論の的となった。1969年5月までに、ムーディー・ブルースは世界中から多くの支持者たちによる崇敬を獲得した無敵のバンドとなっていたが、デッカ・レコードのスタッフの多くとの関係はフラストレーションのもとだった。

デッカの社長サー・エドワード・ルイスとの交渉のあと、ムーディー・ブルースはウェスト・ハムステッドにあるデッカのレコーディング施設のスタジオ・ナンバー・ワンを、彼ら専用にすることが認められた。技術的な設備の使用に制限のあったバンドはスタジオ・ワンの設備の改築にとりかかり、自費で最新技術の‘Westlake’オーディオ装置を設置した。重要なのは、EMIレコードの援助によって自身のレーベル、アップルを立ち上げたビートルズにインスパイアされたムーディー・ブルースが、デッカの援助によるスレッショールド・レコードを設立し、ついには自身がアーチスト契約を結んだことだった。

『On the Threshold of a Dream』がUKアルバム・チャートを上がっていた時、ムーディー・ブルースは次のプロジェクトへとりかかった。1969年の夏の間中、レコーディングは続けられ、差し迫っていた人類初の月面着陸が、バンドにとって重要なインスピレーション源となっていた。内在するテーマ―探究、宇宙旅行、そして発見―がその音楽に存在し、アルバム『To Our Children’s Children’s CHildren』は、彼らの立ち上げたレーベルからの第1弾として、1969年11月にリリースされた(型番Threshold THS 1)。10月31日に、シングル“Watching and Waiting” b/w “Out and In”がThreshold TH 1としてリリースされた。アルバムはまたも売れに売れ、UKでは2位に、USAでは14位に達したが、不思議なことに、シングルとしてリリースされた“Watching and Waiting”は、大西洋の両側のチャートにインパクトを与えることはできなかった。

アルバム・リリースに伴い、ムーディー・ブルースはさらなるUSツアーに乗り出し、11月30日のフロリダ、パーム・ビーチでのフェスティヴァル出演でクライマックスを迎えた。そこでバンドはローリング・ストーンズ、テン・イヤーズ・アフター、ザ・バンド、キング・クリムゾン、ジャニス・ジョプリン、アイアン・バタフライ、そしてステッペンウルフといったロックの大物たちとともにビラに載った。

英国へ戻ってからの1969年12月はUKツアーに費やされ、12月12日のロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの忘れられないパフォーマンスによって、ツアーは最高点に達した。そのイヴェントはプロデューサーのトニー・クラーク、エンジニアの2人―ビル・プライスとジョン・パンターによってテープに収められたが、1977年の2枚組アルバム『Caught Live + 5』で日の目を見るまでリリースされなかった。5日後、ムーディー・ブルースは‘デヴィッド・シモンズ・ショー’のクリスマス番組のために、ロワー・リージェント・ストリートにあるBBCのスタジオ、パリ・シネマで記念すべきスペシャル・ラジオ・コンサートを収録した。またその月の27日には、ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ、‘クリスマス・アット・ザ・BBC’がテレビ放映された。

息切れするようなムーディー・ブルースの仕事量は、1970年に入ってもやわらぐ兆候を見せなかった。1月、グループは今度はウェセックス・スタジオで再び仕事に打ち込んでいた。「レコーディング・セッションの最初から、僕たちはみんな簡単にライヴ・パフォーマンスに生かせるようなアルバムをレコーディングすべきだと考えていた」 ジャスティン・ヘイワードは回想している。「ある意味、僕たちはほとんどスタジオでのライヴ録りに立ち戻っていた。オーヴァーダブの世界にはまり込み過ぎないようにね」 この‘バック・トゥ・ベーシックス’のアプローチが採用された最初期のレコーディングの1つが、ジャスティン・ヘイワードの中で最良の作品の1 曲だった。のちに彼は説明した―「僕はレコーディング・セッションの日の朝に“Question”を書いて、ほんの2〜3テイク録っただけだった。僕はアメリカの反戦ムーヴメントをよく認識していた。そのムーヴメントはベトナム戦争のせいでどんどんと大きくなっていた。これは世界情勢についてのプロテスト・ソングで、僕は世界は今でも同じ問題を抱えていると思う」

アルバム『To Our Children's Children's Children』からの“Candle of Life”とのカップリングとなった“Question”は、5月2日に英国シングル・チャートに入り、すぐに2位に達し、UKチャート圏内に12週間とどまった(イングランドのサッカー・チームによるノヴェルティ・ソング“Back Home”によって首位の座は阻まれた)。この歌はその時までで、ムーディー・ブルースのもっとも成功したシングルとなり、USビルボード・チャートでは最高21位まで上がった。この歌は今でもバンド史上、最高の瞬間であり続けている。

その時のセッションで録音されたもう1つの曲が、“Mike's Number One”という仮タイトルのマイク・ピンダー作品だった。これは他のマテリアルを優先したため、不完全なまま棚上げされてしまった。再びコンサート出演が立ちはだかり、レコーディングは中止となった。1970年の3月をほとんどアメリカで過ごしたムーディー・ブルースは、ニューヨークのフィルモア・イーストで3日間プレイし、ロサンジェルス・フォーラムでのコンサートを頂点とする、一連のカリフォルニアでの大成功となったコンサートで、前回の動員記録を更新した。

6月の初め、ニュー・アルバムのためのセッションが、ウェスト・ハムステッドにあるデッカのレコーディング施設のスレッショールド・スタジオで本格的に再開した。その月の終わりまでに、セッションは再びウェセックス・スタジオに移動した。ヘイワード、ロッジ、ピンダー、トーマス、そしてエッジが予想したとおり、レコーディングされたマテリアルはたしかに以前のどれよりもストレートでパワフルだった。“How is It(We are Here)”はマイク・ピンダー作のすぐれた哲学的作品で、彼が初めて初期のムーグ・シンセサイザーを使った歌だ。“And The Tide Rushes In”はレイ・トーマスが前妻との口論のあとに書いた作品だ。のちに彼は冗談めかして回想した―「僕はトニー・クラークが彼女に、僕ともっとけんかするべきだといったことを覚えている。口論のあとにできたグレイト・ソングだと彼は考えていたからね…」

グレアム・エッジは彼の最高傑作の1つである“Don't You Feel Small”を書いた。より大きな進化論に基づいた人類の再評価を求める歌だ。“The Tortoise and the Hare”はイソップの寓話に基づいたジョン・ロッジの手による作品だ。これはすぐに以降のコンサートのセット・リストに現れることになった。アルバムの楽観的なムードは、ジャスティン・ヘイワードの“It's up to You”と、ジョン・ロッジの“Minstrel's Song”で継続している。レコード上での最後のヘイワード作品である、すばらしく意気揚々の“Dawning is the Day”は、マイク・ピンダーの手による暗さを喚起する“Melancholy Man”へと続く。これはマイクの低音のムーグ・シンセのくり返しが危険な雰囲気をかもし出す傑出した作品だ。グレアム・エッジの“The Balance”は、これらすばらしい楽曲集の締めくくりとなる、詩的で気分の高揚する歌だ。

アルバム『A Question of Balance』は8月初めにリリースされ、大絶賛を浴び、ついにはUKアルバム・チャートのトップに立った。アルバム・ジャケットは再びフィル・トラヴァーズが手がけ、仲間のカメラマンであるデヴィッド・ロール(のちにバークレー・ジェイムス・ハーヴェスト、10cc、そしてマンダラバンドで評判になったジャスティン・ヘイワードのコンセプト作品“The Eye of Wender”で働き、レコード・プロデューサー及びエンジニアとなった)の写真をフィーチャーしていた。USAではアルバムは9月に3位に達し、ビルボード・チャートで74週もの間居座り続けることになった。英国でのアルバムの成功は、8月29日にBBCテレビで放映された‘ルル・ショー’への出演と、8月30日の‘1970年ワイト島フェスティヴァル’への出演が大きく作用した。15万と見られる人々が、フレッシュウォーターのイースト・アフトン・ファームに日が沈む中、ビラに載っていたバンドたちが忘れられないライヴを披露した時に、その中の1つだったムーディー・ブルースのステージを目撃した。

この成功の真っ只中、『A Question of Balance』のスリーヴ・デザインが論争を引き起こした。裏ジャケットのデザインは英国の探検家ジョン・ブラッシュフォード・スネル(1968年に青ナイル川を横断した)を描写していた。スネルの描写は米国の月刊誌‘ナショナル・ジオグラフィック’に載っていた写真にインスパイアされていた。そこではソラトピー(日よけ用の白いヘルメット帽)をかぶった探検家が、象に向かってピストルをつきつけていた。スネルはうまくデッカ・レコードとムーディー・ブルースを訴え、アルバム・ジャケットとアートワークの過剰なイメージ使用は、トラヴァーズによってソラトピーなしの人間へと修正された。スリーヴ・デザインの変更に先立って、判決に従い、スネルの顔にインクで黒の四角が塗られた。アメリカではロンドン・レコードが必要な措置を怠り、再びスネルが法的手段に訴え、同様の問題が起こった。

むっとした探検家によるありがたくない介入があったにもかかわらず、大成功を収めたアメリカン・ツアーが9月15日に始まり、バンドは1万を超える人々の前でプレイした。そのツアーは9月27日に、レイ・トーマスがフィラデルフィアの競技場スペクトラムのステージでつまづいてころび、フルートが壊れ、足の指を2本折るという波乱の結果を生むことになった。トーマスはその晩のコンサートを欠場したが、次の晩には復活した。同じツアーで、マイク・ピンダーは声帯に腫瘍ができていたことが発覚し、USAでの手術の後、イタリアン・ツアーのキャンセルとともに何週間もかけて回復を待たねばならなかった。

1970年の11月は次のアルバムにとりかかるために、ウェセックス・スタジオで過ごしたが、『A Question of Balance』でビルボード・チャートでの揺るぎない存在となっていたムーディー・ブルースは、1970年12月に再びUSAに戻らねばならなかった。その11日間のツアーは、彼らが行くたびに破っていた興行記録をまた更新することになった。そのツアーは12月14日のニュー・ヨーク・シティのカーネギー・ホールでの忘れられないソールド・アウト・コンサートをもって締めくくられた。

信じられないことのように思われるが、1971年のムーディー・ブルースは、次のアルバム『Every Good Boy Deserves Favour』のリリースで、さらに大きな世界的人気を博していくことになった。


マーク・パウエル


 
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