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The Moody Blues/In Search Of The Lost Chord/2008 Decca Music Group Ltd 530 706-9



1967年はムーディー・ブルースにとってかなめの年だった。グループはブリティッシュR&Bビート・グループ(2年前に1枚のナンバー1シングルを獲得していた)から、真に革新的な自らのアルバムを創り上げた自信に満ちたロック・バンドへの変容を遂げたあと、不確かな未来に向かってその年をスタートさせていた。その年の3月、レイ・トーマス(フルート、ハーモニカ、パーカッション、ヴォーカル)、マイク・ピンダー(キーボード、ヴォーカル)、そしてグレアム・エッジ(ドラムス)は、新メンバーのジャスティン・ヘイワード(ギター、ヴォーカル)とジョン・ロッジ(ベース、ヴォーカル)を加えた最初のシングルをレコーディングするために、プロデューサーのトニー・クラーク及びエンジニアのデレク・ヴァーナルズとともにウェスト・ハムステッドのデッカのスタジオに入っていた。1966年の終わりに、ベルギーとフランスで一定期間すごし、働いたことによって、ムーディー・ブルースの新しいラインナップはメロトロン・キーボード(テープ・ループによってオーケストラ・サウンドをシミュレートする扱いにくい楽器)を使って自分たちのソングライティングの腕をみがくことになり、ドラマチックなスタイル変更に踏み出していた。

バンドはデッカ・レコードとの契約上の責務を負っていた。デッカはグループとともにニュー・シングルをレコーディングするよう、スタッフ・プロデューサーのトニー・クラークを指名した。1967年3月30日、バンドはシングル“Fly Me High” b/w “Really Haven’t Got the Time”をレコーディングするために、ウェスト・ハムステッドにあるデッカのスタジオに入った。1967年5月5日にDecca F 12607としてリリースされたそのシングルはチャート入りに失敗したが、英国のラジオで数多く流された。十分に喜んだデッカは、続くセッションを推し進め、次のシングルは“Love and Beauty” b/w “Leave This Man Alone”(1967年9月にDecca F 12670としてリリース)となった。シングルA面はムーディー・ブルースのレコードにおける初のメロトロン登場曲で、それは彼ら初の自作曲アルバムのレコーディングを間接的に導くことになった。

1966年9月、デッカは革新的なポピュラー・ミュージックのリリースを専門とするデラム・レーベルを傘下に設立した。またその会社は、ステレオのチャンネルをより大きく分離した新しいレコーディング方法をプロモートすることにも躍起になっていた。ロック・ミュージック界で起きた音質向上によって、デッカはデラム・レーベルのロック・リスナーに向け、ステレオ・レコーディング作品をプロモートする機会をうかがっていた。そして彼らはその革新的なレコーディングに、‘デラミック・サウンド・システム’というセンスの悪い名称を与えた。1967年9月、デッカのA&Rのボス、ヒュー・メンデルは彼らの新しいステレオ・レコーディング・システムをプロモートする1つの手段として、オーケストラを使ってドボルザークの第9交響曲のロック版をレコーディングしようという話をバンドにもちかけた。バンドはデッカの重役たちの一切の干渉なしで、プロデューサーのトニー・クラーク、エンジニアのデレク・ヴァーナルズとともに自由にレコーディングするという条件でそれに同意した。こうして1967年10月、ムーディー・ブルースは仕事を始めるために、ウェスト・ハムステッドのデッカのレコーディング・センターに戻った。

レコーディング・スタジオの防音ドアの向こうに腰を落ち着けるやいなや、ムーディー・ブルースはすぐにトニー・クラークとオーケストラ・アレンジャーのピーター・ナイトに、ドボルザークのロック版を放棄し、代わりにバンドが丹念に創り上げた楽曲の数々をレコーディングするよう、説得にかかった。ちょうど3週間で、アルバムはレコーディングとトラック・ダウンを終えた―セッションはバンドとオーケストラが別々にレコーディングできるよう、2つのスタジオが使用され、すさまじいペースで指揮された。続いて行なわれたデッカの重役たちのためのプレイバック・セッションでは、『Days of Future Passed』ははっきりと賛否両論に分かれた。デッカの常務取締役は感銘を受けたわけではなかったが、ヒュー・メンデルとUSAロンドン・レコード社長ウォルト・マクガイヤの擁護のおかげで、アルバムは型番Deram SML 707として、1967年11月11日に英国でリリースされた。それはシングルの“Nights in White Satin” b/w “Cities”(Deram DM 161)よりも1日早いリリースだった。

アルバムにおけるシンフォニック・ロック・ミュージック、オーケストラのアレンジメント、そして朗読の喚起作用あるミクスチャーは、すぐに英国のレコード購買層の共感を呼び、新設されたBBCラジオ・ワンで広範囲なエアプレイを獲得した。アルバムとシングルはどちらも1967年12月27日にUKチャートに入り、アルバムは27位に達した。ジャスティン・ヘイワードの手による美しく喚起作用ある“Nights in White Satin”は最高19位だったが、このクラシック・ソングは続く12年の間に2度UKトップ20に返り咲いた。アルバムとシングルはヨーロッパ中で巨大な商業的成功を収めた。USAでのアルバムのインパクトは、さらに長い期間ではあるが、より大きなものとなった。『Days of Future Passed』は1968年5月4日にビルボード・チャートに入り、続く5年間になんと103週間、チャート圏内に居座り続け、ついには1972年に3位にまで達した。ムーディー・ブルースは1968年2月初旬に放映されたユーロヴィジョン・テレビ・ネットワークで最新の傑作アルバムを披露し、それを含む一連の広範囲なヨーロッパ・ツアーに乗り出した。この時までに、彼らはすでに再びプロデューサーのトニー・クラークと組み、デッカのスタジオで次の作品のレコーディングに踏み出していた。

『Days of Future Passed』の世界的成功と、あふれるほどの批評的称賛のおかげで、デッカはムーディー・ブルースと彼らのテクニカル・チームに、レコーディング・スタジオでのさらにいっそうの自由を保証した。ジョン・ロッジはのちに回想した―「僕たちは前のアルバムでオーケストラを使ったけど、次のアルバムでは自分たちだけでやりたいと感じていた。僕たちは自分たちのレコーディング・セッションに自立したアプローチをとった。もしあるトラックに、ある特定の楽器を使いたければ、メンバーの誰かがそれをどうプレイすればいいかを見つけ出していた。僕たちは自分たちの能力にたっぷりの自信をもっていた」 たしかにレコーディング・セッションではオーボエからフレンチ・ホルン、シタール、チェロ、その他挙げきれないほどの33の異なった楽器が使用された。

最初期に録音された1曲が、サンフランシスコ拠点のアメリカン・ヒッピー・ムーヴメントと、その指導的人物のひとり、ティモシー・リアリーに触発されたレイ・トーマスのすばらしいナンバーだった。その“Legend of a Mind”は1968年1月13日にレコーディングされ、マイク・ピンダーによる、なにかにとりつかれたようなメロトロンの巧みな操作とスタジオでの広大な実験をフィーチャーしていた。あるいはその時点まででムーディー・ブルースによって試みられていたもっとも野心的なレコーディングの1つかもしれない“Legend of a Mind”が、創造的自由を最大限に発揮しようとしていた彼らの姿勢を明確に示していた。録音されたマテリアルの全体の肌触りは、より東洋的な影響と、ムーディー・ブルースの以前の作品よりもさらに公然と‘サイケデリック’色があらわれていた。ジャスティン・ヘイワードはジョージ・ハリソンの音楽的融合の試みと、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズのそれにインスパイアされ、大いに塾達したシタール・プレーヤーとなっていた。一方でマイク・ピンダーはもう1つのインド楽器タンブーラの基本をすぐに習得した。

ライヴの呼び物としてムーディー・ブルースの需要が増してくるにしたがい、レコーディング・セッションはコンサート日周辺に充てられていた。1月28日、ジャスティン・ヘイワードの“What Am I Doing Here”を録音するために、さらなるセッションがデッカのスタジオで始まった。これは倒れた兵士への深い思いをつづった哀歌だった。すばらしい歌だったにもかかわらず、これはデッカの倉庫に眠ることになった。1968年11月17日にさらなるオーヴァーダブが加えられることになったが、“What Am I Doing Here”は1977年にリリースされた『Caught Live +5』(Decca MB 3/4)で日の目を見るまで未リリースだった。同じような運命をたどったのが、同様にジャスティンの感動的なソングライティングの光る“King and Queen”(1968年2月13日録音)と、ジョン・ロッジ作の“Gimmie a Little Something”(1968年3月17日録音)だった。さらなるアルバムのレコーディング・セッションは3月22日にコヴェント・ガーデンのミドル・アースで終了する一連の英国内ツアーの間にはさまれた。

ムーディー・ブルースにはツアー・スケジュールの中に確実な途切れがあった。多くの強力な新曲を書いていたバンドは、次のアルバムを早く仕上げたいと切望していた。通常はロック・ミュージックの録音に充てられていたデッカのナンバー2スタジオでは時間的制約があるため、グループは空きのあるナンバー1スタジオをもっとひんぱんに使わせてほしいことを、デッカの社長サー・エドワード・ルイスに懇願した。その要求が聞き入れられ、ムーディー・ブルースは次の傑作を仕上げるために、1968年5月中旬から6週間を費やした。新しく手に入れた‘Studer’8トラック・テープ・マシンを使い、並外れた美と複雑性に富んだアルバムは創り上げられた。

アルバムは60年代後半のコズミック・サイケデリア―グレアム・エッジのポエム、“Departure”で幕を明けていた。それはエッジの可笑しく気がふれたようなパフォーマンスをフィーチャーし、もっとも純粋な旋律を探しに出かける旅を告げていた。これは切れ目なく次のジョン・ロッジ作のロック・ナンバー、“Ride My See Saw”へつながる―35年以上たったムーディー・ブルースのステージでアンコールとして現在もプレイされるナンバーだ。「これは僕が個人的にもムーディー・ブルースの一員としても手に入れたと感じた自由についての歌だった」 ロッジはのちに語った。“Dr. Livingstone I Presume”はレイ・トーマス作のからかいソングだった―「シリアスな歌が並ぶアルバムの中でのちょっとした遊びだったんだ」 のちに彼はそういった。これはしばらくの間、バンドのステージで重要なレパートリーになった。

ジョン・ロッジ作の大作“House of Four Doors”は、あるいはアルバム中、もっとも複雑な1曲かもしれない。「僕はあのトラックでチェロを弾いたんだけど、ベース・ギターと同じようにチューニングしていたんだ。つまり僕はチェロのチューニングの仕方を全く知らなかったんだけど、僕たちが望んでいたサウンドをものにしてしまった!」 革新的な編集テクニックをフィーチャーし、ドアの開く音がするたびにさまざまな音楽的テーマが現われる―テープ・ループを介したメロトロンで手に入る全てのサウンドを探求したマイク・ピンダーの貢献が光っている。最後のドア音はレイ・トーマスの“Legend of a Mind”を導き、そのあと再び“House of Four Doors”が続いた。アルバムのB面はジャスティン・ヘイワードの楽しげな“Voices in the Sky”で始まっていた。感受性の鋭い彼のソングライティングの特徴が出たナンバーだ。完成後数週間位内にこの曲は“Dr. Livingstone I Presume”とカップリングされ、1968年6月28日に型番Deram DM 196としてシングル・リリースされた。その翌日、ムーディー・ブルースはロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで無類のコンサートを行なった。そこでは最大限の効力を発揮した多彩なエレクトロニック・サウンドを伴ったマイク・ピンダー作の驚くほどのサイケデリック・ソング、“Thinking is the Best Way to Travel”含む、多くの新曲がプレイされた。

ジャスティン・ヘイワードとレイ・トーマスの共作であるインド風の“Visions of Paradise”は、トーマスによる喚起作用あるフルート・プレイとともに、シタール・プレーヤーとしてのジャスティンの才能が表われていた。アルバムの中では最後に位置するヘイワード作の“The Actor”―英国独特の内省的な面の好例だ―は、彼の悟りきった歌詞と最高のヴォーカル・パフォーマンスをフィーチャーしている。

失われたコードの旅における2つ目のグレアム・エッジのポエム、“The Word”は、アルバム最後のマイク・ピンダー作“Om”のふさわしいイントロダクションだ。あるいは“Om”はインドの楽器編成(ヘイワード、ピンダー、そしてエッジによる)とヴォーカル・ハーモニーのコンビネーションによって、完成品としてのレコード上で最大の効果を上げているかもしれない。

『In Search of the Lost Chord』はDeram SML 711として1968年7月終わりにリリースされた。カヴァーは以降バンドの6枚のアルバムを手がけることになる、フィル・トラヴァーズによってデザインされた印象的な絵で飾られていた。彼はその音楽自体と同様に、ムーディー・ブルースのイメージに不可欠なデザインを提供することになった。シングルとアルバムはどちらもUKチャートにインパクトを与え、“Voices in the Sky”は27位に達し、それが入ったアルバムはチャート内にトータルで32週間とどまり、最高5位まで上がった。1968年7月16日、アルバム・リリースと同時にジョン・ピールの番組‘トップ・ギア’でBBCラジオ・セッションが録音された。

1968年8月には、チェコスロバキアの共産党第一書記アレクサンダー・ドゥプチェクにプラハ公演を招待されるほど、バンドの人気は高まっていた。ドゥプチェクの共産党政府は、西側諸国との密接な関係を重視し、その結果、国へのブリティッシュ・ロック・ミュージシャンの最初の訪問を許可していた。しかしムーディー・ブルースがプラハに到着した数時間内にロシア軍がソヴィエト寄りの1人の指導者を伴い、ドゥプチェク体制を転覆させようとチェコスロバキアに侵入し、大衆の集まりを禁じてしまった。その結果、バンドは英国大使館の指示によってイングランドに送還させられた。

1968年10月、パリ公演に続き、BBC2のテレビ番組‘カラー・ミー・ポップ’への出演と最新アルバムのアメリカ・リリースを果たしたバンドは、マイク・ピンダーの“A Simple Game”を録るために、もう一度慣れ親しんだデッカ・ナンバー・ワン・スタジオに戻った。その曲は“Ride My See Saw”(Deram DM 213)のB面としてすばやく10月25日にリリースされた(1972年にモータウンの伝説的なソウル/R&Bグループのフォー・トップスがカヴァーし、さらに長持ちすることになった)。

この時までにムーディー・ブルースは広大なUSAツアーに乗り出し、それはクリームのフェアウェル・ツアーのサポート・アクトとしての出演も含まれていた。『In Search of the Lost Chord』はすぐにビルボード・チャートをかけ上がり、23位に達し、チャート圏内に29週間とどまった。へとへとに疲れていたものの、英国に戻った時までに彼らは熱誠のこめられたアメリカでの大きな支持を確立していた―それはアルバム・リリースとツアーのたびに増大し続けることになった。今やムーディー・ブルースは世界でもっとも革新的で指導的なロック・バンドの1つとしての地位をしっかりと確立していた。1969年はさらに大きな称賛と2枚のすぐれたアルバムが続くことになった。


マーク・パウエル



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