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The Moody Blues/Every Good Boy Deserves Favour/2008 Decca Music Group Limited 530 662-7



ーディー・ブルースにとって、1970年代はアルバム『A Question of balance』と、ヨーロッパ、アメリカでの一連のソールド・アウト・コンサート両方において、それまでで最大の成功を享受したことによって幕を明けた。たったの3年間で、彼らはブリティッシュR&Bグループ(その2年前にナンバー1シングルを放っていた)から、名誉ある真に独創的なアルバムを創り上げた自信あふれるロック・バンドに変容していた。彼らが上向きになったのは、1967年3月だった。その時、レイ・トーマス(フルート、ハーモニカ、パーカッション、ヴォーカル)、マイク・ピンダー(キーボード、ヴォーカル)、そしてグレアム・エッジ(ドラムス)は、新メンバーのジャスティン・ヘイワード(ギター、ヴォーカル)、ジョン・ロッジ(ベース、ヴォーカル)とともに、初めて次のニュー・シングルを録音するためにウェスト・ハムステッドにあるデッカのスタジオに入っていた。プロデューサーはトニー・クラーク、エンジニアはデレク・ヴァーナルズだった。1966年暮れのベルギーとフランスでの活動によって、ムーディー・ブルースの新しいラインナップはメロトロン・キーボード(テープ・ループを介してオーケストラ・サウンドをシミュレートする扱いにくい楽器)を使用したソングライティングの腕をみがくことになり、ドラマチックな路線変更に乗り出していた。

バンドはデッカ・レコードとの契約上の責務を負い、続く5ヶ月間に2枚のシングル・リリースを行なった―“Fly Me High” b/w “Really Haven't Got the Time”(1967年5月初めのリリース)と“Love and Beauty” b/w “Leave This Man Alone”(1967年9月にDecca F 12670としてリリース)だった。“Love and Beauty”はムーディー・ブルースのレコード上での初のメロトロン登場曲であり、彼らが初めて自作で固めたアルバムをレコーディングするきっかけを作っていた。またデッカは、より大きなチャンネル分離による、新しく開発されたステレオ・レコーディング方法をプロモートすることに躍起になっていた。会社は傘下のデラム・レーベルを通じて、ロックのオーディエンスにそのステレオ・レコーディングを浸透させる機会をうかがっていた。1967年9月、デッカA&Rのボス、ヒュー・メンドルはその新しいレコーディング・システムをプロモートする1つの手段として、オーケストラとともにドボルザークの第9交響曲のロック版をレコーディングするという話をムーディー・ブルースにもちかけた。バンドはデッカの重役たちによる一切の干渉なしに、プロデューサーのトニー・クラークとエンジニアのデレク・ヴァーナルズとともに自由にレコーディングするという条件でそれに合意した。

レコーディング・セッションが始まると同時に、ムーディー・ブルースはさっそくトニー・クラークとオーケストラ・アレンジャーのピーター・ナイトにドボルザーク案を放棄し、その代わりにバンドがていねいに創り上げた連作歌曲をレコーディングしようと説得にかかった。ちょうど3ヶ月間で、アルバムはレコーディングとトラック・ダウンを終えた―セッションはバンドとオーケストラが2つのスタジオで同時進行レコーディングを行ない、すさまじいペースで指揮された。アルバム『Days of Future Passed』は、デッカの重役たちの中ではっきり賛否両論に分かれたが、A&Rのボスのヒュー・メンドルとUSAロンドン・レコードの社長ウォルト・マクガイヤの擁護のおかげで、1967年11月11日に型番Decca SML 707として英国でリリースされた。それはシングル“Nights in White Satin” b/w “Cities”(Deram DM 161)より1日早いリリースだった。

アルバムにおけるシンフォニック・ロック・ミュージック、オーケストラ・アレンジメント、そして朗読の喚起作用あふれるミクスチャーは、すぐに英国のレコード購買層の共感を呼んだ。アルバムもシングルも1967年12月27日にUKチャートに入り、アルバムは27位に達した。ジャスティン・ヘイワード作の美しく喚起作用ある“Nights in White Satin”は最高19位だったが、このクラシック・ソングは以後12年間に2度、UKトップ20に返り咲くことになり、1972年にはUSAで3位になった。

アルバム『In Search of the Lost Chord』となるセッションは、1968年1月に始まった。この時に録音されたマテリアルの全体の雰囲気は、前の作品よりも東洋の影響がうかがわれ、明らかに‘サイケデリック’になっていた。ライヴ・アクトとしてのムーディー・ブルースの需要が高まるにつれ、レコーディング・セッションはコンサート日周辺に割り当てられるようになった。結局ツアー・スケジュールの中に明らかな切れ目が生じることになり、多くの強力な新曲を用意していたムーディー・ブルースは、次のアルバムを早く完成させたがっていた。

通常はロック・ミュージックのレコーディングに使用されていたデッカのナンバー・ツー・スタジオでは時間的に限られてしまうため、バンドはデッカの社長サー・エドワード・ルイスにより、‘クラシック用の’スタジオを使う許可を与えられた。ムーディー・ブルースは、次の傑作を完成させるために1968年5月中旬から6週間を費やした。新しく手に入れた8トラック・テープ・マシンを用い、美と複雑性に富んだアルバムができあがった。

1968年の秋、ムーディー・ブルースはクリームのフェアウェル・ツアーのサポート・アクト含む、広範囲なUSツアーに乗り出していた。『In Search of the Lost Chord』はすぐにビルボード・チャートをかけ上がり、23位に達し、チャート内に29週間とどまった。バンドが英国に戻った時までに彼らには疲労がたまっていたものの、彼らはアメリカでの熱烈な支持を打ち立てることに成功し、それはアルバム・リリースとツアーが行なわれるたびに、どんどんと大きくなっていった。今やムーディー・ブルースは世界的に革新的かつ重要なロック・バンドとしての地位を確立していた。

それらの背後で絶えず増えるレコード・セールスに伴い、ムーディー・ブルースは自らのスケジュールをコントロールすることができるという、恵まれた地位を手に入れた。1969年1月のひと月は、次の待ち望まれていた作品をレコーディングするために空けられていた。信頼のおけるプロデューサーのトニー・クラークとエンジニアのデレク・ヴァーナルズが再度いつもの場所に収まり、本格的に仕事が始まった。バンドのそれぞれのメンバーは、ムーディー・ブルースが今にも大躍進しそうなことを感じとり、その気持ちはレコーディングされた音楽によく反映されていた。前作品ほど明らかに実験的とはいえないものの、その作品はむしろより焦点が定まっていた。アルバム『On the Threshold of a Dream』は、1969年4月に英国でリリースされた。5月3日、アルバムはUKチャートに入り、楽々とナンバー1の座につき、前代未聞の73週間のチャート圏内存続を達成した。

USではアルバムが1969年5月31日にリリースされ、それと同時にアメリカでのコンサートが企画された。スリーヴ・デザインはもしかすると、デッカ・レコード作品の中でその時まででもっとも豪華だったかもしれない。デッカの社長サー・エドワード・ルイスとの交渉のあと、ムーディー・ブルースはウェスト・ハムステッドにあるデッカのレコーディング施設のスタジオ・ナンバー・ワンを、彼ら専用にすることが認められた。技術的な設備の使用に制限のあったバンドはスタジオ・ワンの設備の改築にとりかかり、自費で最新技術‘Westlake’オーディオ装置を設置した。重要なのは、EMIレコードの援助によって自身のレーベル、アップルを立ち上げたビートルズにインスパイアされたムーディー・ブルースが、デッカの援助によるスレッショールド・レコードを設立し、ついには自身がアーチスト契約を結んだことだった。

『On the Threshold of a Dream』がUKアルバム・チャートを上がっていた時、ムーディー・ブルースは次のプロジェクトへとりかかった。1969年の夏の間中、レコーディングは続けられ、差し迫っていた人類初の月面着陸が、バンドにとって重要なインスピレーション源となっていた。内在するテーマ―探究、宇宙旅行、そして発見―がその音楽に存在し、アルバム『To Our Children’s Children’s CHildren』は、彼らの立ち上げたレーベルからの第1弾として、1969年11月にリリースされた。アルバムはまたも売れに売れ、UKでは2位に、USAでは14位に達した。アルバム・リリースに伴い、ムーディー・ブルースはさらなるUSツアーに乗り出し、11月30日のフロリダ、パーム・ビーチでのフェスティヴァル出演でクライマックスを迎えた。そこでバンドはローリング・ストーンズ、テン・イヤーズ・アフター、ザ・バンド、キング・クリムゾン、ジャニス・ジョプリン、アイアン・バタフライ、そしてステッペンウルフといったロックの大物たちとともにビラに載った。

英国へ戻ってからの1969年12月はUKツアーに費やされ、12月12日のロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの忘れられないパフォーマンスによって、ツアーは最高点に達した。そのイヴェントはプロデューサーのトニー・クラーク、エンジニアの2人―ビル・プライスとジョン・パンターによってテープに収められたが、1977年の2枚組アルバム『Caught Live + 5』で日の目を見るまでリリースされなかった。

息切れするようなムーディー・ブルースの仕事量は、1970年に入ってもやわらぐ兆候を見せなかった。1月、グループは今度はウェセックス・スタジオで再び仕事に打ち込んでいた。「レコーディング・セッションの最初から、僕たちはみんな簡単にライヴ・パフォーマンスに生かせるようなアルバムをレコーディングすべきだと考えていた」 ジャスティン・ヘイワードは回想している。「ある意味、僕たちはほとんどスタジオでのライヴ録りに立ち戻っていた。オーヴァーダブの世界にはまり込み過ぎないようにね」

この‘バック・トゥ・ベーシックス’のアプローチが採用された最初期のレコーディングの1つが、ジャスティン・ヘイワードの中で最良の作品の1 曲だった。のちに彼は説明した―「僕はレコーディング・セッションの日の朝に“Question”を書いて、ほんの2〜3テイク録っただけだった。僕はアメリカの反戦ムーヴメントをよく認識していた。そのムーヴメントはベトナム戦争のせいでどんどんと大きくなっていた。これは世界情勢についてのプロテスト・ソングで、僕は世界は今でも同じ問題を抱えていると思う」

アルバム『To Our Children's Children's Children』からの“Candle of Life”とのカップリングとなった“Question”は、5月2日に英国シングル・チャートに入り、すぐに2位に達し、UKチャート圏内に12週間とどまった。この歌はその時までで、ムーディー・ブルースのもっとも成功したシングルとなり、USビルボード・チャートでは最高21位まで上がった。この歌は今でもバンド史上、最高の瞬間であり続けている。

1970年の3月をアメリカ・ツアーで過ごし、短期間の中断があったのち、セッションは6月に再開された。アルバム『A Question of Balance』は8月初めにリリースされ、大絶賛を浴び、ついにはUKアルバム・チャートのトップに立った。アルバム・ジャケットは再びフィル・トラヴァーズが手がけ、仲間のカメラマンであるデヴィッド・ロール(のちにバークレー・ジェイムス・ハーヴェスト、10cc、そしてマンダラバンドで評判になったジャスティン・ヘイワードのコンセプト作品“The Eye of Wender”で働き、レコード・プロデューサー及びエンジニアとなった)の写真をフィーチャーしていた。USAではアルバムは9月に3位に達し、ビルボード・チャートで74週もの間居座り続けることになった。英国でのアルバムの成功は、8月29日にBBCテレビで放映された‘ルル・ショー’への出演と、8月30日の‘1970年ワイト島フェスティヴァル’への出演が大きく作用した。15万と見られる人々が、フレッシュウォーターのイースト・アフトン・ファームに日が沈む中、ビラに載っていたバンドたちが忘れられないライヴを披露した時に、その中の1つだったムーディー・ブルースのステージを目撃した。

大成功を収めたアメリカン・ツアーが9月15日に始まり、バンドは1万を超える人々の前でプレイした。そのツアーは9月27日に、レイ・トーマスがフィラデルフィアの競技場スペクトラムのステージでつまづいてころび、フルートが壊れ、足の指を2本折るという波乱の結果を生むことになった。トーマスはその晩のコンサートを欠場したが、次の晩には復活した。同じツアーで、マイク・ピンダーは声帯に腫瘍ができていたことが発覚し、USAでの手術の後、10月のイタリアン・ツアーのキャンセルとともに何週間もかけて回復を待たねばならなかった。

1970年11月、レイ・トーマスとマイク・ピンダーの完全復帰をもって、ムーディー・ブルースはプロデューサーのトニー・クラークとともに6枚目のアルバムを制作するため、ウェセックスのスタジオに集まった。11月4日に始まったこれらセッションは、未来のジャスティン・ヘイワードのクラシックとなるにぎやかな“The Story in Your Eyes”と、レイ・トーマス、ジャスティン・ヘイワード共作で、35年間テープ倉庫に眠ることになる“The Dreamer”を生み出した。彼らの最新アルバムで試みられていた‘バック・トゥ・ベーシックス’スタイルは、ライヴ・パフォーマンスにうまく生かせるアルバムを作るという意志により、再びくり返された。ジョン・ロッジはのちに回想した―「僕たちのニュー・アルバムは『A Question of Balance』で僕たちがなし遂げたことの継続だった。僕たちはうまくできれば、ロードに出て続けるべきだと考えたんだ」

そのセッションはいつもの環境であるロンドン、ウェスト・ハムステッドのデッカのスタジオ施設外で、ムーディー・ブルースが多くの作品を創り出す機会を与え、彼らは他のエンジニアたちとともに働き、結果、彼らの作品に異なったサウンドをもたらすことになった。のちにジャスティン・ヘイワードは表明した。「ほとんど僕たちの反抗みたいなものだったんだ。他でレコーディングした方がいいかもしれないと僕らが不審に思ったように、それは本当に変化のための変化だった。それに僕たちは自分たちの音楽がもはや‘アンダーグラウンド’ではないっていう事実を受けとめようとしていて、すでに新しい段階に入っていたし、アメリカでは大きな競技場でプレイしていた。僕たちの新曲は、あの当時のアプローチ自体がほとんど弁解みたいなものだった」

新曲をレコーディングする時間がわずかしかないまま、ムーディー・ブルースはさらなる一連のソールド・アウト・コンサートを敢行するために、12月にアメリカへ戻り(スレッショールド・レーベル所属のトラピーズのサポート・アクトによって)、その月14日のニューヨーク、カーネギー・ホールでのパフォーマンスでクライマックスを迎えた。

1971年1月、ロンドンのウェセックスのスタジオで再びセッションが本格的に始まった。『A Question of Balance』に倣い、レコーディング・セッションはメロトロンの使用が抑えられたが、その分ムーグ・シンセサイザー、オルガン、そしてピアノが大きくフィーチャーされた。ムーディー・ブルースの全メンバーがスタジオにそれぞれの新曲をもちこんだ。レイ・トーマス作品はアルバムの中で、それほど対照をなしていないかもしれない。“Our Guessing Game”は濃厚で内省的であった一方で、“Nice to Be Here”は女流児童文学作家で挿絵画家のベアトリクス・ポッターにインスパイアされ、森の中でコンサートを開く動物たちのシーンを思い浮かべた風変わりな歌だ。トーマスはのちに回想した―「あの歌をレコーディングした時はすごく楽しかったね。実際、ジャスティンには歌詞に出てくるカエルみたいに、弦を1本だけ使ってギター・ソロを弾いてもらおうとしたんだ。彼はなんとか2本だけ使ってやり遂げてしまった!」

ジャスティン・ヘイワード作の“The Story in Your Eyes”は、前年の11月にすでにレコーディングされ、一方で“You Can Never Go Home”はすぐれたリード・ヴォーカルと想像力あふれるギター・ワークをフィーチャーした、物思いにふけるメランコリックな作品だ。ジョン・ロッジの手による“Emily’s Song”は、彼の娘に捧げられた繊細な作品だった。“One More Time to Live”は社会的で環境保護意識の進化の時代を問うた、崇高な仕事だ。グレアム・エッジ作の“After You Came”は、レイ・トーマス、ジョン・ロッジ、マイク・ピンダー、そしてジャスティン・ヘイワードのリード・ヴォーカルをフィーチャーしたすばらしいアップテンポのロック・ナンバーだ。

マイク・ピンダー作の“My Song”はひょっとすると、今なおメロトロン使いの天才であった彼によって編み出された、もっとも手の込んだ作品かもしれない。スピリチュアルな自然を歌った、とても濃厚な“My Song”は、想像性に富んだ楽器編成、ヴォーカル、レコーディング・エフェクト類の使用とともに、セッションでふんだんにメロトロンをフィーチャーさせていた。

レコーディングにおける複雑性を示した作品が“Procession”だった―新しい電子楽器を使用し、アルバムのトップを飾った音楽的コラージュだ。のちにグレアム・エッジはそのレコーディング・プロセスを次のように説明した―「当時の僕たちはずぶとかったね!僕たちは音楽的進化の歴史を表現するやつを作ることができるんじゃないかと思った。僕たちはうめき声と、くり抜いた丸太を打つ音で始めて、これが東洋音楽に発展して、最後には西洋音楽に変わっていった。僕はあのセッションで電子ドラム・キットを使った―サセックス大学教授のブライアン・グローヴズが考案したやつだ。僕は目の前にコントロール・パネルを置いた。そこにはうしろに銀紙を貼ったゴム版があって、中に信号を発信する磁石のついたコイルがあちこちと動いていた。うまくいく時はすばらしいんだけど、供給電力の増加や変化にすごく敏感だったんだ。ステージでそれを使おうとした時は、誰かがステージ・ライトをつけたり消したりすると、すぐにいかれてしまった。スタジオでの使用はオーケーだった。もしいかれてしまったら、スイッチをオフにしてもう一度やり直せばいいからね!」 3月にセッションを完了したムーディー・ブルースは、4月いっぱいをアメリカ両海岸のツアーですごすために、再び大西洋を渡った。

アルバム『Every Good Boy Deserves Favour』(Threshold THS 5)は1971年7月23日にリリースされ、すぐにUKチャート1位となり、アルバム・チャートに21週間居すわった。アメリカでは最高2位まで上がり、ビルボード・ホット100に43週間居すわるという驚異的な数字を残した。

1971年9月、ムーディー・ブルースはブリティッシュ・ツアーのために帰国する前に、なおも一連のアメリカでのコンサートに乗り出した。ロンドンとオックスフォードでの2回のみのコンサートののち、さらなる5回のコンサートは、ジョン・ロッジが胃腸炎にかかったためキャンセルとなった。にもかかわらず、続くマンチェスター、リーズ、バーミンガム、そしてロンドンでのコンサートはソールド・アウトとなり、最後は11月16日のハマースミス・オデオンで締めくくった。すさまじい仕事量は個々のメンバーに代償をもたらし始めていた。燃え尽きる危険のある中、1971年の残りの週は長年にわたる重労働からの息抜きと回復に充てられた。

「『Every Good Boy Deserves Favour』は探求、追求することができるレコードだと思う」 のちにジャスティン・ヘイワードは回想した。「僕たちは続けざまに巨大な成功をものにしてしまったけど、それは成功に伴う罪悪感と欠陥と自己疑念を引き起こしてしまった。終止符となる次のアルバムの方向性を示したほろ苦いレコードだね」 高まる緊張にもかかわらず、新年はもう1枚のすばらしいアルバムが生まれることになった。


マーク・パウエル


 
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