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The Moody Blues/Days Of Future Passed/2008 Decca Music Group Ltd 530 663-1



1966年8月はブリティッシュ・ポピュラー・ミュージック史の中できわめて重要な月だった。その音楽があとに続いたグループたちの創造性を大爆発させ、先頭を走っていたビートルズは、傑作アルバム『Revolver』を完成させていた―これはスタジオでの実験という新しい時代を先導し、結果的に草分け的アルバム『Sergeant Pepper's Lonely Hearts Club Band』とライヴ・バンドとしての終焉を呼びこむことになった。

ビートルズのひときわすぐれた功績と音楽的変化は、ポピュラー・ミュージックを未知の領域へとその境界線を押し拡げようと躍起になっていた他の多くのアーチストとともに、ブリティッシュ・ミュージックの中で知らぬふりはできないものだった。リズム&ブルースとビート・ミュージックを背景にもつアーチストたちは、まもなく急速なスタイルの変化を余儀なくされた。ザ・ムーディー・ブルースも例外ではなく、ビートルズ同様、彼らの音楽はいわゆる‘プログレッシヴ’ロックを開拓することになるミュージシャンたちの1つの世代に大きな影響を与えることになった。

グループのルーツは1960年代初頭の健全なバーミンガムR&Bシーンにあった。レイ・トーマス(ハーモニカ、パーカッション、ヴォーカル)、マイク・ピンダー(キーボード、ヴォーカル)、グレアム・エッジ(ドラムス)、デニー・レーン(ギター、ヴォーカル)、そしてクリント・ワーウィック(ベース、ヴォーカル)というラインナップは、その地で最も人気のあるグループの1つに成長した。1964年3月に結成されたグループはデッカ・レコードと契約し、ベッシー・バンクスの“Go Now”によって英国で1位のヒットを獲得していた。ポール・マッカートニーらの支持を受けたそのシングルは世界中のチャートをかけ上り、USAでは10位まで達した。

しかしさい先のよいスタートを切ったにもかかわらず、1966年夏までにグループは岐路に立っていた。続くシングル群は英国での“Go Now”に見合うだけの成功を収めることができず、ヨーロッパではまだ人気のあるライヴ・バンドだったが、ムーディー・ブルースの運命は下り坂にあった。そしてデニー・レーンとクリント・ワーウィックがグループを去り、ジャスティン・ヘイワード(ギター、ヴォーカル)とジョン・ロッジ(ベース、ヴォーカル)が新しいメンバーとして採用された。

ロッジは大学で冶金学(やきんがく:鉱石から含有金属を分離・精製・加工する技術)を勉強するために音楽の道を捨てる前に、El Riot & The Rebelsというバンドでレイ・トーマスといっしょにプレイしていた。大学から資格を得たことを受けて、彼はトーマスとともに再び音楽的交流をあたため、そしてムーディー・ブルースの一員となることを受け入れた。スウィンドン生れのジャスティン・ヘイワードは以前、ブリティッシュ・ロックンロールの草分けだったマーティ・ワイルドとともにプレイし、EMIのパーロフォン・レーベルで2枚のソロ・シングルをレコーディングしていた。彼のエリック・バードン&ジ・アニマルズへの加入応募は、すでにバードンがふさわしいギタリストを見つけていたため遅きに失していたが、バードンは熱烈な推薦でもって彼の詳細をマイク・ピンダーに伝えた。キャバレー回りを余儀なくされたムーディー・ブルースは、イングランド中のクラブで精神を破壊しかねないショート・ツアーに乗り出し、依然としてR&Bベースのレパートリーをこなしていた。

ツアーはR&Bマテリアルを捨て、苦心して彼ら独自のサウンドを創造するという永続的な効果をバンドにもたらしていた。ジャスティン・ヘイワードはのちに回想した―「僕たちは自分たちのキャラクターに合わない音楽をプレイしていた。僕たちは英国の下層中産階級(lower middle class:商店主や下級公務員など)の若者で、アメリカ南部の生活を歌っていたんだけど、それは誠実とはいえなかった。僕たちが自分自身の感情を表現して、自身の音楽を作り始めたとたん、僕たちの運命は変わったんだ」

あるいはムーディー・ブルースのサウンドにおけるドラマチックな変化のほとんどは、メロトロンの購入によるものなのかもしれない。メロトロンはウェスト・ミッドランド(イングランド中西部地域)拠点の会社、Streetly Electronicsが、1960年代初頭に開発したキーボードだった。サンプリング・キーボードの先駆だったその楽器は、同種の楽器チェンバリンに基づいていた。どちらの楽器も、それぞれの鍵盤の下に本物のヴァイオリンやフルートの音を録音したループ・テープが仕掛けられていたところがユニークだった。テープはオーケストラあるいは合唱風なサウンドを配するようにあらかじめ用意され、それぞれのキーを押し下げると、再生ヘッドがほしいサウンドのテープ・ループを作動させるようになっていた。

セミプロのミュージシャンとして商売を営むかたわら、マイク・ピンダーはストリートリー・エレクトロニクス社で働き、楽器を製造していた。キーボードのポテンシャルに気づいていたピンダーは、グループの初期からメロトロンを導入したいと考えていた。UKでの一連のクラブ・ショーのあと、マイクはムーディー・ブルースのサウンドを一変させ、ついにはポピュラー・ミュージックの歴史を変えることになる1本の電話を受けとった。「ストリートリー・エレクトロニクスのレス・ブラッドリーが僕に電話をかけてきて、ダンロップ・タイヤ社の社交クラブにぴったりの楽器を僕のために見つけたといったんだ。僕はそれを見に行って、買わずにいられなくなってしまった。通常は3,000ポンドのところが300ポンドだったから、もうけ物だったね」

ベルギーでの連続公演が要請され、ツアーが計画されていた1966年10月、バンドはMucronの町へ移動した。その地でムーディー・ブルースはメロトロンを大きく生かした多くの新曲を書き、一連のベルギーでのコンサートに乗り出した。この頃のバンドのコンサートは通常、45分セット x 2で構成されていた。第1部は“Go Now”含むバンドの古いナンバーで構成され、第2部はメロトロンとレイ・トーマスのフルートをフィーチャーした新曲群で成り立っていた。トム・ジョーンズのサポート・アクトとしてプレイした1966年終わりのパリでの一連のコンサートで、初めてムーディー・ブルースが正しい道を歩んでいることが示された。自作曲が、まだレパートリーに残っていた古いカヴァー曲よりも大きな喝采を受けた。

イングランドに戻ったムーディー・ブルースは、デッカ・レコードとともに果たす契約上の責務を負っていた。レコード会社に5,000ポンドの借金が存在する中、デッカはニュー・シングルをレコーディングするためにスタジオに入るよう、スタッフ・プロデューサーのトニー・クラークを指名した。1967年3月30日、バンドはシングル“Fly Me High”b/w“Really Haven't Got The Time”をレコーディングするために、ウェスト・ハムステッドのデッカ・スタジオに入った。1967年5月5日に型番Decca F 12607としてリリースされたシングルはチャート入りに失敗したが、多くのラジオでのエアプレイを獲得した。シングルのリリースと同時に、バンドはBBCライト・プログラムの番組‘サタデイ・クラブ’のためにレコーディング・セッションを行ない、ベンジャミン/コールドウェル/マーカス作“Don't Let Me Be Misunderstood”の興味深いカヴァー・ヴァージョンと、ジャスティン・ヘイワードの新曲“Nights in White Satin”を録音した。

十分に満足したデッカは、続くセッションを推し進めた。5月19日、ジャスティン・ヘイワード作の“Long Summer Days”がレコーディングされたが、これは1977年にアルバム『Caught Live + 5』(Decca MB 3/4)で日の目を見るまで、倉庫で眠ることになった。1967年6月29日には、“Leave This Man Alone”とマイク・ピンダー作の“Please Think About It”(これも1977年まで未発表だった)が録られた。その後、1967年7月17日には“Cities”と“Love and Beauty”がレコーディングされ、後者はムーディー・ブルースのデッカ・セッションでの初のメロトロン使用曲となった。これらレコーディングの数々は、バンドが昔のR&Bスタイルを捨て、今や真にユニークでオリジナルな音楽を生み出していたことを示していた。“Love and Beauty”b/w“Leave This Man Alone”は、1967年9月にDecca F 12670としてリリースされた。これをプロモートするためにさらなるBBCセッションが、20日の番組‘イージービート’で敢行され、そこでは“Peak Time”とニュー・シングルの両面がフィーチャーされた。“Peak Time”はバンドが数ヶ月間、コンサートでプレイし進化させていた、次々に変化する連作歌曲だった。これはムーディー・ブルースの運命が変わり始める中で、この頃、運命の女神がほほ笑むことを予兆させる曲だった。

1966年9月、デッカは革新的なポピュラー・ミュージックをリリースする傘下レーベルとして、デラム・レーベルを設立していた。その会社はチャンネルの分離をさらに推し進めることによる、新しく考案されたステレオ・レコーディング方法を促進することにも熱心だった。ロック・ミュージックの世界で起こった音質向上によって、デッカはデラム・レーベルのロックのリスナーに向けてステレオ・レコーディングを促進する機会をうかがい、その自社の革新性に、あまり格好がいいとはいえない‘デラミック・サウンド・システム’という名を与えた。デッカのA&Rのボスだったヒュー・メンデルは、彼らの新しいステレオ・レコーディング・システムをプロモートする手段として、オーケストラを使ったドボルザークの第9交響曲のロック版をレコーディングするというアイデアをもって、1967年9月にムーディー・ブルースに話をもちかけた。バンドはデッカの重役たちによる一切の干渉なしに、プロデューサーのトニー・クラークとエンジニアのデレク・ヴァーナルズとともに自由にレコーディングするという条件でそれに同意した。こうして1967年10月、ムーディー・ブルースは仕事を始めるために、ウェスト・ハムステッドにあるデッカのレコーディング施設に戻った。

レコーディング・スタジオのドアの向こうに腰を落ち着けると同時に、ムーディー・ブルースはすぐにトニー・クラークとオーケストラ・アレンジャーのピーター・ナイトに、ドボルザーク再演のアイデアを放棄し、代わりにバンドが練りに練って作った組曲の数々をレコーディングするよう説得にかかった。ピーター・ナイトはとりわけムーディー・ブルースのその時のオリジナル曲をオーケストラ用に編曲したがっていたため、ちょうど3週間でナイトはオーケストラ・アレンジメントを書き上げ、ニュー・アルバムはレコーディングとミックスが済まされた。セッションはバンドとオーケストラが別々にレコーディングできるように、2つのスタジオが使用され、すさまじいペースで指揮された。

『Days of Future Passed』として知られるようになったアルバム(バンド自身ではなく、デッカ・レコードが考え出したタイトル)の全てのマテリアルは、ツアーで徹底的にプレイされていた。その結果、パフォーマンスのレベルは一貫して高く、レコーディングされた音楽が体に染みついたことによる自信がバンドにみなぎっていた。バンドが蓄積していた曲は、1日の労働をテーマとした大まかなコンセプトを形成していた。アルバムはピーター・ナイトによるオーケストラ・アレンジメントのオープニング・テーマ“The Day Begins”で幕を明ける。これは概念芸術を構成するアルバム全曲のメロディの断片とグレアム・エッジの詩を含んでいて、最初にマイク・ピンダー作の“Dawn is a Feeling”につながる―マイクとジャスティン・ヘイワード両者がダブルでリード・ヴォーカルをとり、魅力的なコンビネーションを生んでいる。

“Another Morning”はレイ・トーマスの手による、1967年夏のムードと一致した気まぐれな1曲で、子供の知覚による世界を描写している。ジョン・ロッジ作のかん高く派手な“Peak Hour”は、路線変更後のライヴ・セット初期から好んでとり上げられ、最初にレコーディングされたのは1967年9月20日のBBCセッションだった。ジャスティン・ヘイワードの“Tuesday Afternoon”が、アルバムB面のオープニング・セクションである‘Afternoon’の出だしを飾っていた。“Forever Afternoon (Tuesday?)”と表記されたこの歌は、“Nights in White Satin”の方が選ばれ、棚上げされる前はシングル・リリース候補として考えられていた。アメリカではその後、状況が逆転し、1968年7月に“Another Morning”とともに“Tuesday Afternoon”がリリースされ、ビルボード・チャートの24位に達した。“Tuesday Afternoon”はジョン・ロッジ作のパワフルな“(Evening) Time to Get Away”へ切れ目なく続いている。これはR&Bに影響を受けたグループとしての日々にすでに完成させていた申し分のないハーモニーを備えたムーディー・ブルースを証明していた。

メロトロンを巧みにあやつるマイク・ピンダーの能力が示された、彼の手によるインド風な“The Sun Set”が、アルバムの‘Evening’セクションの幕開けだった。これはもうひとつのパワフルなライヴ向きナンバーである、レイ・トーマス作の切迫したサイケデリック作品、“Twilight Time”を導いていた。このアルバム・コンセプトの最終セクションが、中でも大傑作だった。みごとな“Nights in White Satin”はジャスティン・ヘイワードがすでに1967年の初めに書いていた。1967年5月のBBCラジオで最初にレコーディングされたこの曲は、ムーディー・ブルースのキャリアとその作者の頂点の1つとしてみなされるようになった。グレアム・ロッジはのちに回想した―「僕が思うに、“Nights”が何か並外れたものだと最初に示されたのが、BBCで録音された時だ。デッカでこの歌を録った時、僕たちはみな何かものすごいものを創り上げたと感じた。初めてこの曲の最終ミックスを聴くことは、全くの情緒的体験だった」 なるほどダブル・トラックによる革新的なメロトロンの使用、忘れられないフルート・ソロ、そしてオーケストラのアレンジメントは、以前には聞いたこともなかったロックとフォークとクラシックの融合音楽となっていた。“Nights in White Satin”の他のミュージシャンへの影響力は、続く何年にもわたって広範囲に及ぶことになった。

‘Evening’セクション及びこのアルバムは、グレアム・エッジのポエム“Late Lament”をもって締めくくられていた。「こっちのポエムも僕が書いたんだ。なぜかっていうと、‘Morning’セクションの方は最初に聞いた時、かなりそらぞらしい感じがしたから。“Late Lament”のポエムは、レコードの終わりにぴったりに思えた。僕はもともとこれを、誰かが曲をつけるっていう前提で書いたんだけど、歌にするには困難なリズミックな構造をもっているから、それでトニー・クラークが朗読でレコーディングしたらどうかって提案したんだ」

多くの時間の成果、努力、そしてかかった金を評価するために、デッカの重役たちがレコーディング・センターにやってきて、プレイバック・セッションが開かれた。集まったデッカの重役たち、バンドのメンバーとその妻たち、そして他の仲間たちは、薄暗いレコーディング・スタジオでアルバムを聴いた。ジョン・ロッジはのちに回想した―「プレイバック・セッションが終わって、スタジオの明かりが点いたあとの僕たちの顔に浮かんだ笑みが全てを語っていた。僕たちは信念を貫いて自分たち自身の音楽をレコーディングするのが正しいと分かっていた」 それでもドボルザークの“新世界交響曲”のロック版とは似ても似つかない音楽に直面させられた重役たちの、アルバムに対する反応はまちまちだった。

デッカの常務取締役は「踊ることはできないし、パーティーでもプレイできないじゃないか」といって難色を示した。しかしヒュー・メンデルとUSAのロンドン・レコード社長ウォルト・マクガイヤの擁護のおかげで、『Days of Future Passed』は1967年11月11日に型番Decca SML 707として英国でリリースされた。それは“Nights in White Satin”b/w“Cities”(Deram DM 161)より1日早いリリースだった。

シンフォニック・ロック、オーケストラ・アレンジメント、そして朗読の喚起作用あるミクスチャーは、新しく設立されたBBCラジオ・ワンによる広範囲なエアプレイを獲得し、すぐに英国のレコード購買層の琴線に触れた。アルバムとシングルは両方とも1967年12月27日にUKチャートに入り、アルバムは27位に達した。ジャスティン・ヘイワード作の美しく喚起作用のある“Nights in White Satin”は最高19位だったが、続く12年間に2度、UKトップ20に返り咲いた。ヨーロッパ中でアルバムとシングルは巨大な商業的成功を収めた。USAでのアルバムのインパクトは、さらに長期間ではあるが、より大きなものとなった。『Days of Future Passed』は1968年5月4日にビルボード・チャートに入り、続く5年の間、なんと103週間チャート内にとどまり、ついには1972年に3位まで上がった。1972年8月、“Nights in White Satin”はUSAでシングルとしてリリースされ、2位となった。

ムーディー・ブルースは1968年2月のユーロヴィジョン・テレビ・ネットワークの特別出演を含む、一連のヨーロッパでのコンサートを引き受けた。しかしこの時までに、すでに彼らは次のデッカ・スタジオ作品『In Search of the Lost Chord』のレコーディングに乗り出していた。プロデューサーは再びトニー・クラークだった。『Days of Future Passed』のインパクトは、巨大かつ長期間にわたることになった。ミュージシャンたちへのその影響力は、ジェネシスやキング・クリムゾンといったロックのヒエラルキーの中で、その存在を認められる運命にあったことは否定できないが、一方で世界中のリスナーたちへのインパクトは測り知れないものだ。35年以上たっても考察の対象となるこのアルバムは注目すべき偉業だ。


マーク・パウエル



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