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The Monochrome Set/The Independent Singles Collection/2008 Cherry Red Records CDMRED 350



ザ・モノクローム・セットの細く長い歴史はいくらか約束されたものであり、ひょっとしたらそもそも思慮あるアイデアでさえなかったのかもしれない。あるいは我々は最初に頭の中から義務的な形容詞を捨て去るべきなのかもしれない。耳当たりのいい、小粋な、垢抜けた、などなど。または軽蔑的に使う‘傲慢な’とか。ある意味彼らは貴族的な上品さよりも前に、少なくともみながいうように‘すてき’であった。ザ・モノクローム・セットはやすやすと発明の才と教養を使い、それを曲の中で完璧に保っていた。そして彼ら自身の話術を様々に垣間見ることのできるバンドとして、その内面的対話法を身につけていた。彼らはわかりやすい言葉を使いながらも、他のどんなバンドにも似ていなかった。もし同時代的な関心事に欠ける面があるとするなら、それは彼らが当時の他の同業者からのプレッシャーに全く悩まされていなかったからだ。それよりも彼らのサウンドは、ブリティッシュ・ポップ・ソングライターの黄金時代に立ち戻っていた。しかし彼らのその努力は退行的なものでは全くなかった。彼らは気晴らし的にドラマやPearl & Dean(英国の映画広告宣伝会社)のインターヴァル・テーマなどの曲を書き、それは子守歌からマンボ、ハーモニック・ポップへと方向を変え、豊富なメロディと抗しがたい陽気な歌詞は一方で極端に病的状態であり、他方では完全に風刺的側面を持ち合わせていた。

バンドの歴史は全く当然のことながらアート・スクールから始まった。正確にいうとホーンジー・スクール・オブ・アートにおいてだ。学生にはカナダ人のギタリスト、レスター・スクエア(元の名をトーマス・ハーディ)とスチュアート・ゴダード(のちのアダム・アント)がいた。彼らはthe B-Sidesを結成し、メロディ・メーカーの募集広告を通じてアンディ・ウォレンが参加することになった。続いて数ヵ月後、彼の友人だったビド(本名はGanesh Seshadri)が加入した。“僕はB-Sidesのために曲を書いたことはなかった。ほとんど全ての曲がアダムの書いたものだったね。もし当時僕が書いたとしても採用されるかどうかは分からなかったな。なぜなら完全にアダムのワンマン・バンドだったから。確実にいえるのは―彼は他の誰よりも先を行っていたってことだ。”

実のところ、初期モノクローム・セットに受け継がれていったB-Sidesの楽曲は、ゴダードが無力な存在になっていた時に書かれたものだ。“1977年の初め、僕たちはドラム・マシンと4人の編成で、スチュアートが曲を書いていたんだけど、僕らで何かをしようとすると彼は姿を消してしまうんだ。後で聞いたと思うんだけど、彼は神経衰弱になっていたみたいだった。僕たちは特に理由もなくリハーサルを続けて同時に曲も書き始めたよ。モノクローム・セットのナンバーとなる‘He’s Frank’と‘Goodbye Joe’が最初期に書かれた曲だ。スチュアートは戻ってきたが彼はもうB-Sidesにはいたくなかったんだ。彼はAntz(元々彼らはこう呼ばれていた)に入りたかったんだ。彼は自分のことをアダムと呼んでいた。で、彼の妻はイヴだよ。相当なアホだ!僕はジェレミー(・ハリントン;元Mean Street、Gloria Mundi)に出会って、のちに彼はモノクローム・セットのベース・プレイヤーになった。僕は彼としばらく一緒にバンドにいたな。でもそのバンドはバラバラになって、僕はレスターがAntzを抜けたことを知って彼とバンドを組んだんだ。”

アンディ・ウォレンはAntzのファースト・アルバムのためにアダムと連絡を取っていたが、2つのバンド・メンバーの入れ替わりのあと、ギターとヴォーカルにビド、ギターにレスター・スクエア、ベースとヴォーカルにチャーリー・ハーパー(別名チャーリーX;UKサブスのフロントマンとは別人)、ドラムスにジョン・ヘイニー(別名JD ヘイニー)という布陣でザ・モノクローム・セットが結成された。1978年の半ばまでにハーパーがThe Brides Of Christへと去っていき、代わりにサイモン・クロフトが加入した。

サイモンは1978年夏、最初のバンドの本格的なデモ・レコーディングに参加した。“僕たちはラフ・トレードに3曲のシングルを吹き込んだ。そのあと(ヴァージン傘下の)Din Discに移ったんだ。デモの‘He’s Frank’、‘Silicon Carne’、‘Fall Out’をDisque Bleu Labelからリリースしたいと思っていたヤツがいたんだけど、あいにくその3曲はまだラフ・トレードが権利を持っていた。そんなわけで‘He’s Frank(Slight Return)’が1年半後にリリースされたっていうわけ。でもこれも初期音源だよ。”デモ・レコーディングのプロデューサーはヴァイブレーターズのジョン・エリスで、他のアート・スクールのコネクションだった。“彼はトムとフラットで同居していたんだ。”ビドはつけ加える(訳注:トムはレスター・スクエアのこと)。

彼らの正式なデビュー・アルバムは1979年1月、ラフ・トレード・レコーズからリリースされた。この時までにハリントンはクロフトと交代していた。“ビドが電話をしてきたんだ。”ハリントンはいう。“彼の家に行ってトムとジョンに会った。‘He’s Frank’をリハーサルした時に僕はこう思ったのを覚えているよ。‘これだ、これが僕のやりたいことだ。’ってね。他の何とも似ていないサウンドだった。強いてあげるなら初期のナンバーはTrout Mask Replica(キャプテン・ビーフハート)を思い出させるね。”

グループが自身でプロデュースを行なったセカンド・シングル、‘Eine Symphonie Des Grauens’は‘Lester Leaps In’をB面に1979年6月にリリースされた。“‘Eine Symphonie’が最初のモノクローム・セットのシングルという感じがする。‘He’s Frank’はモノクローム・セットを象徴するものとは思わないな。バンドを強く連想させるナンバーにはなったんだけどね。‘Eine Symphonie’はニュー・ウェイヴを意識した最初のナンバーで、わずかにアヴァンギャルド・ポップなところが僕たちを特徴づけたんだ。”

バンドの1979年最後のシングルは10月にリリースされ、タイトルはシンプルに‘The Monochrome Set’、B面はレスターの‘Mr. Bizaro’だった。“あれはバカバカしい曲だったね!なぜあんな曲を書いたのか全然わからないよ。僕らは当時モンキーズのことを考えていたんだ。よし、‘僕たちの歌’を書こうってね。”

この頃ハリントンはpragVECに加入するためバンドを去った。そして旧友のアンディ・ウォレンが代わりにAntzから戻ってきた。さらに重要なこととして、モノクローム・セットは自らのインデペンデント・ルーツ(一時的な契約であったにせよ)から抜け出し、ヴァージン・レコーズ傘下のDin Discと契約を結んだ。

しかし彼らの新しいメジャー・レーベルは、バンドのシングルをタイミングよくリリースすることをほとんどしなかった。“僕たちは実にひどいシングルズ・バンドだった。なぜなら僕らは誤った選択をたくさんしてしまったから。‘Strange Boutique’はひどいシングルだった。ボブ・サージェントは‘Expresso’にすべきだったといった。でもStrange Boutiqueはトータル・アルバムだからシングル・カットなんて本当はできなかったんだ。僕はこのアルバムがザ・モノクローム・セットの作った最高の完成品だと思っているよ。”

1981年までにザ・モノクローム・セットはレコード契約を失効し、JDヘイニーが学問のためにアメリカに旅立ったことでドラマー不在となった。代わりに新しいデモのためにレキシントン・クレインが加入した。“僕らが‘Ch’(Cherry Red Label)と契約するまで、アンディと僕がインデペンデント・レコード・レーベルのA〜Zを読んでいたって話は本当だよ。僕らはいくつかのレーベルから逃げ出したりもしたね。次のページに載っていたのはCunt Records(ま○こレコード)だった・・・。で、ついにマイク(・オールウェイ:チェリー・レッド)が現れたんだ。彼はすでに僕らのファンだったね。”

マイク:“最初のレコード(ラフ・トレードでの)は驚くほどオリジナルなものだ。彼らの土地言葉を使ったその言い回しは審美的で、ヴォーカルのクォリティは全くもって格調高かった。思うにビドはポップ界のメル・トーメかほとんどシナトラだった。ちょっと変なね。モノクローム・セットは大きくなろうとしていた。ビドは完全に違う世界にいたんだと思う。彼はあらゆるものを持っていた―インテリジェンス、抜群のルックス、姿勢、ユーモア、正当なバックグラウンドを持っていたし、強靭だったしチャーミングにもなれた。彼は何でも備えていたんだ。彼らは僕にとって様々な要素を持ったバンドだった。モノクローム・セットが明示したものは、私が今まで聴いてきた音楽全てが内包されていた。弦はよく響き、ポップで、映画のサントラのようでもありサイケデリックでもあった―それでもこれは彼らの音楽のごく一部だけどね。”

実際彼はel Records(彼の興したレーベル)の価値観は、全てモノクローム・セットをモデルにするとまで言った。“完全には真実ではないよ。”ビドは主張する。“彼はなにかちょっとモノクローム・セットをひな型にしすぎたような気がする―彼は僕をモデルにして、モノクローム・セットを彼の考える理想的なポップ・バンドに向かわせ始めたんだ。僕らは確かにお互いに影響を受けあっていた。”

バンドとチェリー・レッドのコンビは‘The Mating Game’のリリースによって告げられた。陽気な曲だった―一方で詞の主題は動物力学のあからさまな表現だった。それはビドのブランドである超然とした無頓着さをよく伝えていた。エンディングに挿入されるla-la-laがスリリングだ。

“僕たちは全然シングルにしようなんて考えてなかったね。”ビドは笑う。“僕らは自分たちのどのシングルさえ売れてラジオでかかるなんて想像もしてなかった。で、いつもレコード会社が僕らに‘何をB面にするんだ?’って本当に苛立ちながら尋ねるのを感じていた。僕らはいつもこういうんだ、‘何のB面?’ってね。”

Eligible Bachelorsリリース後、クレインの代わりに元ソフト・ボーイズのドラマー、モリス・ウィンザーが加入し、1982年の半ばレスター・スクエア脱退後、フルート、オルガン、ヴォーカルのキャリー・ブースが加入した。そして10月、‘Cast A Long Shadow’が冗談風の‘The Bridge’をB面にリリースされ、1983年5月に3曲入りEP、‘The Jet Set Junta’がリリースされた。

バンドはメンバー交代真っ只中に、ワーナーがバックアップしたマイク・オールウェイの新しいレーベル、Blanco Y Negroに移籍した(ビドとアンディはNMEのフォトグラファー、ニック・ウェゾロウスキをドラムスに、ジェイムス‘Foz’フォスターをギターに迎え、ブースはThe Sing Marketに加入した)。しかしどういうわけか再びモノクローム・セットがブレイクすることはなかった。“ワーナーは‘Jacob’s Ladder’で完全に大チョンボをやらかしてしまったんだ。”ビドは思い起こす。アルバムThe Lost Weekendがセールス的に期待通りうまく行かず、1985年バンドは解散した。

ビドはel Recordsにソロ及びThe Raj Quartetの一員として短期間在籍した。ザ・モノクローム・セットは1989年の終わりに再結成された。メンバーはビド、レスター・ヤングそしてアンディ・ウォレンに、ギター、キーボード・プレーヤーのオーソン・プレゼンスとドラマーのマイク・スローカム(すぐにトレヴァー・レイディと交代)だった。彼らは1991年11月にEP‘Killing Dave’とアルバムJackを自身のHoneymoon Recordsからリリースした。しかし1993年までに彼らは再びチェリー・レッドと契約した。我々は最後のCD EP、‘Forever Young’(1993年3月)と‘I Love Lambeth’(1995年9月)をここに収録した。

我々は今ノーマン・クック、別名ファットボーイ・スリム―長年のバンドのファンだ―がカヴァーした‘He’s Frank’を聴いている。ゲスト・ヴォーカルはイギー・ポップだ。改題されたタイトルは‘Shoreham Port Authority’で、ノームの快適なフラット近くに建設される巨大な燃料工場に反対の異を表明したものだ。ザ・モノクローム・セットの持つユニークで極上のきらめきが一瞬でもリスナーの記憶に呼び起こされるのなら素晴らしいことである。

アレックス・オッグ 2007


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