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The Monochrome Set/Strange Boutique/2012 Water water248



モノクローム・セットの歴史は、厳密には70年代初頭、ロンドンのバタシー・グラマー・スクールに通う友人同士だったアンディとビドによってスタートする。2人は共通の音楽的嗜好をもち、共に2つのスクール・バンドでプレイし、レコーディングを行なっていた。1976年の秋までに2人は学校を卒業し、水曜日のある日、メロディ・メーカーの小さな広告欄に目を通していたアンディは、“ザ・Bサイズでベースを刻んでほしい”というメンバー募集広告に気づいた。彼は電話をかけ、スチュアート・ゴダードという男を呼び出した。その男はロンドンのマーキー・クラブの前で会って話をしようと提案した。

会って話をしたアンディは、Bサイズが実際にはコンセプトにすぎず、バンドのメンバーはヴォーカリストのスチュアートと、ギタリストのレスター・スクエア(その時、彼はありそうもない名前の“トム・ハーディ”を名乗っていた)の2人しかいないことを知った。とはいうものの、スチュアートはすでにバンドの未来について強力なアイデアを練り上げ、彼はアンディにそれを説明した。Bサイズはもっぱらカヴァーをプレイし、それらの曲はヒット・レコードのAサイド(A面)ではなく、まさにBサイド(B面)ばかりだった。

スチュアートが目指していたのは負け犬バンドとなることであり、失敗することがバンドの大成功を意味していた。これはアンディの興味をひき、3人はサウス・クラパムにあるアンディの両親のところでリハーサルを始めた。数週間以内にビドがセカンド・ギタリストとしてラインナップに加わるようになり、まもなくもう1人の友人がドラムの椅子に座った。それから1976年の終わりにかけ、スチュアートが姿を消し、その穴を埋めるためにビドがギター兼ヴォーカルの役目に回った。

1977年初頭までに、彼らは新しいグループ名としてZarbies(ザービーズ?)を採用していた。この時点で彼らはデモ録音を行ない、2つのライヴ・ショーを行なった―最初がZarbiesとして、次がEctomorphs(エクトモーフス)としてだった。

1977年の晩春のある日、スチュアートが再び現われた。彼はその時、自分のことを“アダム”と名乗り、パンクに沸いていたミュージック・シーンに夢中になっていた。彼はアダムのあとに“アンツ”をくっつけ、新しいプロジェクトを立ち上げると宣言し、レスターとアンディに彼と手を組む気がないか尋ねた。いくつかリハーサルをこなしたのち、グループはその時パンク・グループ、ザ・ダムドのマネージャーだったアンディ・チェゾウスキにせん索されていることを知った。彼はずる賢くアダムをわきへ呼び、“ギタリストをクビにしろ”とほのめかし、その結果レスターは去って行った。しかしアンディはグループの支柱となるべくその場に残った。1977年6月からアンツはロンドン・パンク・サーキットの常連となり、その年の終わりまでに町中でヘッドライナーを務めるようになった。

そうこうするうち、ビドとレスターは再びバンドを結成し、数ヶ月内にモノクローム・セット(白黒テレビの昔の呼び名だ)として活動を始めた。当時ビドはサウス・ロンドンのブリクストン地区の空き家に無断で住んでいた。またそこはバンドのリハーサル・スペースとしても利用できた。その頃、無断居住はミュージシャンや芸術家たちに人気があった―それは“ただ部屋”だったからだけではなく、ただで練習でき、スタジオとしてのスペースも兼ねていたからだ。

ブリクストンの無断居住地区をしばしば訪れていたのが、JDヘイニーだった。彼はその頃解散してしまったアート・アタックスというコンボのドラマーだった。そしてやがて彼はいつの間にかグループに加わっていた。

また近くには、フィルム製作者のトニー・ポッツが住んでいた。トニーは連中に興味をもち始め、将来のライヴ・ショーの一環として、フィルムと他の媒体を使うことを提案した。厳密には彼は1年を超えて実際にバンドには加わらなかったが、彼のアイデアを通じ、トニーは最初期の日々に事実上かかわっていた。ラインナップの最後のコマがベーシストのチャーリー・ハーパー(チャーリーX)で、彼は音楽紙の広告を経てバンドに加入した。

1978年2月、モノクローム・セットはノース・ロンドンのウェストフィールド大学でデビューを果たした。やがて彼らは、晩春までにチャーリーXがサイモン・クロフトと交代していたが、定期的にギグをするようになっていた。その夏、グループは最初のデモ・テープを作り、2ヵ月後にはジェレミー・ハリントンがサイモン・クロフトと交代した。1978年が終わるまでに、グループは28回のライヴを行なっていた。また駆け出しの独立レーベルだったラフ・トレードとレコーディング契約の交渉をしていた。

バンドのファースト・シングル、“He's Frank”/“Alphaville”は1979年にリリースされ、すぐにNMEによる“今週のイチ押しシングル”に選ばれた。1979年7月、モノクローム・セットはセカンド・シングルの“Eien Symphonie Des Grauens”/“Lester Leaps In”を再びラフ・トレードから出し、これもすばらしいプレス・レビューを受けた。続く8月にバンドはラフ・トレード・レーベルのアーチストの一員として初のUKツアーを引き受け、9月の初めには名作サード・シングル、“Monochrome Set”/“Mr Bizarro”をリリースした。これも音楽紙で非常に好意的なレビューを受けた。

そうするうち、ラフ・トレードのパッケージ・ツアーは大西洋を越え、バンドはカナダとアメリカでの一連のショーに着手した。ツアーの終わりに、ベーシストのジェレミー・ハリントンが、アダム・アンド・ジ・アンツを抜けたばかりだったアンディ・ウォレンと交代した。

1979年が終わりに近づくにつれ、モノクローム・セットはファーストLPのレコーディング計画を進めていたが、ラフ・トレードがグループとの契約続行を望む一方で、ヴァージン・レコード傘下のディンディスクが彼らへの興味を表明した。ラフ・トレードとは長期契約を結んでいなかった(それぞれのシングルは両者合意によるワン・ショット・リリース)グループは、後者のレーベルを選択した。

ディンディスクとの交渉が進行中だった時に、モノクローム・セットは自身のレーベル、Disque Bleuを立ち上げ、3曲入りのEP、“He's Frank (Slight Return)”をリリースした―1978年夏に行なわれたデモ・レコーディングから成り立っていた。NMEは月間シングルに選出し、“ジャングル・ギターにあふれた弾むようなダンス・ミュージック”と評した。

EPが注目を集める中、モノクローム・セットはファーストLP『Strange Boutique』の準備とレコーディングのために、4ヶ月間ツアーから退いた。プロデューサーに選ばれたのがボブ・サージャントだった。彼はすでに前年に2つのBBCラジオ・ショー(ジョン・ピール・セッション)でバンドをプロデュースしていた。アルバムはロンドンのカムデン・タウンにあるスタジオ、サウンド・スートでレコーディングされ、1980年4月18日にリリースされた。

3つのラフ・トレード・シングルとDisque Bleuの成功に続き、『Strange Boutique』は称賛され、NMEのポール・ジュ・ノイヤーはアルバムを“下水溝から聞こえてくるセレナーデのようだ・・・奥底にやっかいな感情の流れるエレガントな娯楽である”と評価した。一方で月間アルバムに選んだサウンズ紙は、次のように書いた―“歌詞カードが付いていればよかった・・・とてもとても強力なアルバムだ―私はこれから長い間、おかしくなっていく自分を楽しむことになるだろう。心地よい逸脱である。”

英国以外でも『Strange Boutique』は称賛された。アメリカのトゥラウザー・プレス―“・・・天才・・・”、日本の音楽雑誌、“音楽専科”はこう書いた―“シュールな啓蒙が仕組まれたオルタナティヴ・ミュージックは、あなたに圧倒的な存在感を見せてくれるだろう。私はめったに5つ星はつけないが、このぞくぞくするような音楽には5つ星しかありえない。これは聴くべき!”

リリース当時、アルバムはディンディスクが望んでいたほど売れなかったが(UKアルバム・チャートの62位が最高だった)、バンドは正しい道を歩んでいたようだった。未来は明るく見えた・・・

―Alberto Umbridge


Monochrome Set/Love Zombies/2012 Water water249


好評だったラフ・トレードからの3枚のシングルと、自身のDisque Bleuレーベルから出した1枚のEPのあと、モノクローム・セットのファーストLP、『Strange Boutique』は1980年4月にリリースされた。以前のレビューの勢いに乗った『Strange Boutique』も称賛され、UKツアーでの10日間は全てがソールド・アウトとなった。2ヶ月以内に、ディンディスクは次のシングル、“405 Lines”をリリースした。これは英国のテレビのアナログ・テスト・パターン(受像調整用図形)にささげた音楽的オマージュだった。アメリカの“ニューヨーク・ロッカー”は、このシングルを次のように評した―“・・・合成の傑作だ。レイビーツ(Raybeats:同時期の米ネオ・サーフ・ロック・バンド)が得意とするクリーンなインストゥルメンタル・ロックである。”

1980年初秋、モノクローム・セットはUKテレビ・デビューを果たし、BBC2のオールド・グレイ・ホイッスル・テストで3曲をプレイした。9月になると、バンドはオランダ、ベルギーのブリュッセル、パリへの5日間のショート・ツアーに乗り出した。

ヨーロッパ・ツアーに向かう前に、グループは3度目のBBCラジオのジョン・ピール・セッション(前の2つは1979年にレコーディングされた)を収録した。そこでは4つの新曲が披露された。2週間後、バンドはロンドンのキャピタル・ラジオのために、さらに3つの新曲をプレイした。モノクローム・セットが2度目のUSツアーを始める1週間前の10月2日、ディンディスクは3枚目のシングル―“Apocalypso”をリリースした。その2週間後の10月17日には、グループのセカンドLP―『Love Zombies』が続いた。『Strange Boutique』の時と同様、『Love Zombies』もカムデンのサウンド・スート・スタジオでレコーディングされ、ミックスされたが、今回のみ、ボブ・サージャントが確保できなかったため、プロデュースはアルヴィン・クラークが行なった。彼は『Strange Boutique』でエンジニアを務めていた。

バンドが10日間のアメリカ・ツアーに出ている間に、シングルとLPに対するレビューがUSプレスに載り始めた。“Apocalypso”に対するニューヨーク・ロッカーのとても前向きなレビューには、おもしろい表現が含まれていた―“ハルマゲドン(世界終末戦争)と、その時にどう着飾るかについての歌だ。” 一方でトゥラウザー・プレスは『Love Zombies』をこう評した―“バンドのデビュー作よりもスムーズで、より親しみやすいサウンドである。” トーク・トークも前向きなコメントをした―“ベスト・モダン・ポップ・バンドであることの彼らの信頼性をさらに強化するものだ。”

しかしUKプレスはシングルもLPも批判の集中砲火で迎え入れた。“少しでもやる価値のないことなら立派にやる価値もないだろう”から、“『Strange Boutique』のヘタなコピー”まで様々だ。そしてその一方で数ヶ月前のメロディ・メーカーによる『Strange Boutique』のレビューはこうなっていた―“モノクローム・セットに感じるあらゆるいらだたしさが、このアルバムに見られるかもしれないが、それでもみごとな出来映えだ。” 英国のジャーナリストにとっては、まるでバンドが単にいらつかせていただけのように思われた。

しかし32年たった現在、『Love Zombies』はグループの最重要かつ親しみやすい作品として崇められている。振り返って考えてみれば、もしかすると当時大いに驚いた英国の評論家たちはこれが嫌いだったのではなく、これを憎んでいたのかもしれない。なぜそうなったのかを理解するには、その時の時代背景を考慮に入れる必要がある、というのが私の見解だ。

知ってのとおり、あの時の英国の音楽ライター―旬の時代であり、ひとりよがりな者の集まりで悪名高かった―は、3年ほど前に“パンク”によってひっきりなしに不意をつかれていた。こうしてパンクが多様化し始めた時、メインストリームの外側のあらゆるものが、“ポスト・パンク”という名の傘の下にまとめられた。しかし状況は急速に進展していき、1980年の半ばまでに“ポスト・パンク”自体が無数のスタイルに多様化していた。常にみずからを“センスの権威”として位置づけていた英国の音楽プレスは、このどんどんと出てくる新しいスタイルを分類し、カテゴライズする必要に迫られ、徐々に硬直状態に陥っていった。そこのところに問題があった。

モノクローム・セットは誰にも似ていなかった。彼らジャーナリストにとっては、あとにも先にも似たグループは存在しなかった。たしかに1980年を振り返ると、彼らから離れたところにさえ、彼らのようなグループはどこにもいなかった。こうして、ジャーナリストにとってモノクローム・セットはジレンマを引き起こしていた。簡単に分類できないバンドにとっては、もはや業界の分類法によって位置づけられる場所などなかったし、ジャーナリストたちにとっては、精巧に練られたポップ、インテリジェンスあふれる発明者として彼らを称賛するよりも、ひとりよがりで芸術家気取りで、わがままなミュージシャンの一団としてモノクローム・セットをこきおろす方がはるかに簡単だった。

あの頃を振り返ると、『Love Zombies』の評価は、決して“ひどい”レコードとして扱われたものではなかったように思える。むしろそれは評論家たちにとっては、その時のどんなスタイルにもフィットしないモノクローム・セットを攻撃するための言い訳だった。

しかしジャーナリストたちが当時、どんなことを考えようと、バンドがプレイしたあらゆるショーはソールド・アウトだった。グループはすでにかなり大きなライヴの支持を受けていたし、さらに新しいファンをひきつけ、その中からは成功するバンドが生まれていった。さらに重要なのは、それらのバンドがインタビューなどでモノクローム・セットに言及したことで、最終的にプレスに対して彼らへの認識を変えることをうながした点だ。それでもしばらくの間オフが続くことになったが、“Apocalypso”と『Love Zombies』の批評は、グループにとって波乱の2年間の始まりに過ぎなかった。

自分たちで発明した分類法にのぼせあがっていた英国プレスに話を戻すと、モノクローム・セットを彼らの法則にのっとって位置づけることができるだろうか?当時、事実上無名だったスティーヴン・パトリック・モリッシーのケースを引用させてもらうと、ザ・スミス以前の1980年にすでにバンドの献身的なファンだったモリッシーはこう書いている―“今日僕はモノクローム・セットの『Love Zombies』を買ってきた。これはとてもすばらしいレコードだが、もし僕が長いレインコートをもっていれば、もっとこれを楽しめると思う。実際、僕は3つもっているけれど。これは陰気なインダストリアル系?”

インダストリアル?ハハハ。それは全く見当違いだ。それでもおもしろいことに、ニュー・ロマンティック、モッド、オイ(Oi)とスカ、インダストリアル(スロビング・グリッスル、キャバレー・ボルテール、そしてジョイ・ディヴィジョンが存在していた)を並べて分類してみると、たしかにモノクローム・セットをそこにジャンル分けするのが最も安全な賭けのように思われる。ありそうにもない話だが、個人的体験からいわせてもらうと、私は1980〜83年にかけての数多くのモノクローム・セットのショーをよく覚えていて、そこにはだらりと垂れた前髪に長いレインコートを着たファンたちが集まっていた。しかしその時、ファイルできないものをどこにファイルしたらいい?

1980年10月27日、ニューヨークから戻って3日後にモノクローム・セットは10日間の“ラヴ・ゾンビーズUKツアー”に乗り出した。再びほとんどのショーが満杯になった。ツアーは11月11日にソールド・アウト・ショーとなった“サンダウン”―ロンドンのチャリング・クロス・ロードにある大きなディスコだ―で終了した。その晩にはいくらか予期しない出し物が2つあった―コンサート中盤に、ステージに出てきたフラメンコ・ダンサーと、数曲でバッキング・ヴォーカルを担当した女性3人組だ。そのトリオはすでにバナナラマとして知られていて、これが彼女たちのファースト・ギグだった。80年代後半、彼女たちは空前のレコード売上げを誇るガール・グループとなっていった!

1980年が終わりに近づいた時、バンドがディンディスクを去っていたという告知が、音楽プレスに載った。ありがたいことに、モノクローム・セットはすでに契約を履行していたが、この時までにヴァージンはすでにレーベルから資金を回収していた。さらに悪いことにバンドは文無しだった。過去2年間にわたり、モノクローム・セットはハードに働いてきたが、財政的には最小限であったし、彼らの手元には全く金が残らなかった。Preレコードとのつかの間の出会いがそれに続き、シングルの“Ten Don'ts For Honeymooners”が生まれた。そのあとドラマーのJDヘイニーが“主婦”業に専念するために去って行った(そう、これはプレスが公言したことばだ!いや、正直なところ、それは本当だった!)。フィルムメーカーで映写技師のトニー・ポッツもまたこの頃にバンドのもとを去った。それでモノクローム・セットは?UKプレスがかしこくなるのに2年間を要することになったが、その間にバンドはさらに力をつけ、前進していくのみであった。

―Alberto Umbridge


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