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Mighty Baby/A Jug Of Love/2006 sunbeam records SBRCD5026



マーティン・ストーン(以下MS):1stを出した後、僕らはアンダーグラウンドに深く関わるようになって、再び表舞台に戻ってくることができなくなったね。

マイク・エヴァンス(以下ME):当時僕らの音楽的興味は常に広がっていたね。Bam(アラン・キング)と僕は学生時代、ジャズに興味を持ってたけど、難しくてできないから代わりにロックンロールをやってた。アクションのライヴでは僕らの'Dansette’からジョン・コルトレーンなんかやってたけどね。イアンの加入はとんでもない出来事だったよね。アドリブが得意だった。実際Bamと同じ通りに住んでたんだよね。サックスとキーボード担当ですぐに僕らはインド音楽とジャズっぽいことをやり始めた。

ロジャー・パウエル(以下RP):イアンが入ってより複雑な演奏をするようになった。小さなフェンダーアンプを買って、音が聞き取れる範囲で小さな音量でやり始めたんだ。サンディ・デニーやアルビオン・バンドなんかのフォーク系ミュージシャンともセッションしてたね。よりアコースティックな音も理解されるようになった頃だ。

ME:あらゆるところでジャンルのミクスチャーが進んでた。僕らは特にザ・バーズのカントリーミュージックとサイケデリックロックの融合が大好きだった―グラム・パーソンズが入ってからの最初の2枚同様、ライヴを観た時は仰天したね。

イアン・ホワイトマン(以下IW):ミドルアースで観たグラムのいるバーズは僕らにとんでもない衝撃を与えたね。

RP:ロンドンでバーズの前座を務めて衝撃を受けて、僕らはカントリーロックに興味を持ち始めたんだ。すでにグレイトフルデッドみたいなレイドバックしたウェストコースト風なバンドになってたからね。

IW:僕はマーティンよりちょっと前に入った。彼が入ってからはモータウン・ソウルはやらなくなったね。彼の音楽的指向はごった煮だった。ブルース、カントリー、ロックンロール、シタールってね。彼が僕らを全く違うバンドに変えたよ。魔法使いのようだった。あらゆる本を読んでたね―グルジェフ、クローリー、易経とか僕らのヴァンはさながら移動図書館のようだったよ。

アラン・キング(以下AK):マーティンはいつもいい奴だったけど、彼を理解するのは難しかった。思慮深くて活字中毒者だった。いつも哲学書を漁ってたね。

MS:その後ファーストアルバムが出て、僕はアンダーグラウンド雑誌のインタビューを受けたんだ。僕がインタビュアーにグルジェフにハマッてるって言ったら、彼はグルジェフのスーフィーのルーツを教えてくれたんだ。みんなにすぐ伝えてBam以外はダルウィーシュ教団に入ったんだ。A Jug Of Loveはスーフィーアルバムだね。詞は僕らの精神的覚醒から来ている。

AK:だんだんいろんな意味で僕は部外者になっていったよ。なぜなら僕は宗教心はまるでなかったからね。子供の頃から知ってるマイクとロジャーはまるっきり変わってしまった。それも一週間で生活態度から音楽やそれ以外の興味も、彼らの名前までもね。

MS:1971年までに僕らはサイケを捨てて、よりルーツミュージックを指向するようになった。酒もドラッグも無用になったね。でセカンドはくすんだジャケットになった。

AK:サイケ色はなくなってきたけどヒッピーの影響はまだ残ってたね。最前列の客が皆マリファナを吸ってたのを覚えてるよ!

MS:僕らはギグを続けてたけど、スポンサーもちゃんとしたマネージャーもいなかったから、40日間ツアーをやってるような感じはしなかったね。そのうち座って演奏したり、その場で曲を作ったりするようになった。いくつかは詩から生まれた曲だ。僕らはたくさんのブルーグラスやカントリー―ディラード&クラーク、ザ・バーズ、フライング・ブリトー・ブラザースあともっとトラディショナルなやつを聴いていた。その効果だと思うね。

ME:僕らのライヴパフォーマンスはよりセッションぽくなっていった―巨大なアンプを積み重ねてどやしつけるんじゃなくて、いくつかの小さなアンプを使って親密な演奏を大きなPAを通して聞かせていたね。その方がアコースティック感が出たし、ホールによって全然違う雰囲気になった。

AK:僕らは徐々に自己中心的に内省的になっていった。時々ワンステージまるまる1曲で通したね。まるで自分たちがプロになる前のリスナー時代のようにね。それはアクション時代とは正反対のアプローチだった。

IW:多くのナンバーは、プレイするには厄介だった。僕らは夢のような計画にとりつかれて、商業的成功を望むのをやめたんだ。最初の頃はドラッグもやっていたし、A Jug of Loveの頃まではちょっとしたカルトバンドだったな。マーティンが僕らのイデオロギー的リーダーだった。みんな学者臭くなってバンドとしての慣習にとらわれなくなった。

ME:セカンドアルバムを出す頃にはファーストからの曲はやらなくなってたね。あの頃はミュージシャンたちの入れ代わりが激しい時代で、シーンは活発に進化し続けていた。

MS:セカンドは僕らのライヴサウンドとはかけ離れていた。いつもステージではエレクトリックギターだったし、アコギは使ったことがなかった。たまにマイクのマンドリンは弾いたけど(これはシリル・デイヴィスから買ったんだ!)。アコースティックナンバーは完全にアルバム用だったね。(このCDに入っている)ヴァージン・スプリングのシングルヴァージョンがステージに近い演奏だ。

RP:A Jug of Loveまでには僕らのサウンドは、個人の内省的思考からより落ち着いた感じになっていった。ツアー中の楽屋やホテルで曲は進化していったね。みんなアイディアを出し合って発展させていったんだ。

AK:どの曲もある共通した雰囲気を持っていた。いくつかは内向的ナンバーで、レコードでは上手く行ってない部分もある―でも上出来だと思うよ。僕らにはリードシンガーがいなかったから、イアンと僕のハーモニーでそういった欠点を補ってたね。メンバーの中では様になってるだろ!

IW:ファーストアルバムは即興ライヴだった。でも1971年にマーティンがカントリー志向へ持っていったんだ。初期のノリは抑制されていった。A Jug of Loveのリハーサルは北ロンドンのハーレーロードにある友人宅が拠点になった。ホントに同時に起こったことだねそれって。

RP:僕らが発展させていった曲は複雑でそれぞれが一定の方向性を持っていた。僕らはお互い重要な役割を担ってたよ。誰も入り込める余地はなかったね。全曲好きだね、グレイトだ。

MS:僕はブルースフリークだった10代の頃からマイク・ヴァーノンを知ってた。で彼がアルバムを作ろうといってくれた時、僕らの音を気に入ってくれてたのは分かったけど、多分もうちょっとハードなプレイを期待してたんだと思う。僕らのスタイルは彼の想像からはかなり変化していたからね。

AK:彼は僕らの意見をぶつけてみる価値のある好人物だった。ブルースを愛していてミュージシャンを理解していた。それに僕らの風変わりな考えとより主流のサウンドの間でよく思案していたよ。よく覚えているのは僕たちが決まった時間に演奏をやめて10分間みんなが瞑想をすることだ。これは彼を悩ませたと思うね。

IW:マイク・ヴァーノンは本当は僕らの波長には合わなかったんだ。でも実際殆んどの人たちにとって僕らは宇宙人のようなものだった。彼はポップバンドが欲しかったんだろう。アルバムは殆んど売れなかった。本当は僕らも期待してたんだけどね。セッションは早めに切り上げていたね。多くの人たちが立ち寄っては泊まっていたよ。

ME:マイクとジェリーボーイズは僕らの最良のサウンドを引き出していたと思う。僕らは自分たちの納得のいくテイクが録れるまでセッションを続けさせてくれるプロデューサーが必要だった。セッションはメローで自然な形でアルバムに表れていると思う。マーティン・カーシーが一瞬出てくるんだよね。どこに入ってるかは神のみぞ知るだな。

MS:僕らは全ての曲をギグで披露した。どれもスタジオで書かれたものだね。スタジオの方が早かった、1週間もあればね。僕らにはスタジオの中ではマクディシー(アラブの地理学者?)がついていた事を覚えているよ。彼はスーフィー王族の代表で、ダルウィーシュの長老だった。後から思うと僕はもっと時間をかけてアルバムを小奇麗にしたかったな。でも時間も金もなかった。

RP:セッションはだらしなくだらだらとしていた、ファーストと比べれば。でも知られてないと思うけど、僕らは制限時間内にうまくいくようにしてたよ。それはアビーロード時代のアクションと全く同じだったね。

AK:僕らは何とかセッション時間を短くするよう制限されてたね。その中でいかに自由にできるかが問題だった。みんな自制しなきゃいけなかったけど、たくさん予想だにしなかったことが起きて、即興になっていった。僕自身はうまくやってのけると確信してたよ。

MS:LPが出るちょっと前にThe Devil's Whisperのシングルを発表したんだ。‘ファミリー’から僕らの友人、ジョン‘ウィリー’ウェイダーが参加してフィドルを弾いてくれた。ミックスでは小さくて殆んど聞こえないけど、僕のお気に入りナンバーの1曲だ。でも誰も買わなかった、アルバムもね(タイトルは偶然にも‘神の愛’に対するスーフィーの暗喩だった)。LPはちょっとだけレコード店で見かけたよ。たまにギグでサインを求められることがあったけど、一般には殆んど紹介されなかった。

IW:多くのレコード同様、A Jug of Loveもその時一瞬現れて消えていった1枚だね。あのアルバムは僕らが長い間かけて成し遂げた集大成だった。本当に素晴らしいアイデアが詰まっていたよ。でもレコーディングしてた頃はすごく情熱的で気まぐれで、いろんな意味でおっかなくさえあった。音楽は滑らかじゃなかったし、僕には痛みの部分が多く聞き取れるね。

AK:アルバムはよろよろ進んではまた戻るような内容だった。ラジオで聞いたことは一度もなかったね。

RP:当事はジョン・ピールとジ・オールド・グレイ・ホイッスル・テスト(僕らはそこでKeep On Juggingをプレイした)を除けば、ヒットを出さない限りオンエアされる機会はなかったね。世間には知られていなかったし、僕らはとにかく批評に無関心だった。一度はレビューされたと思うけど、その時にはもう別のプロジェクトに進んでいたね。

MS:僕らは決して満足せず常に違うレコードを作ろうとしていた。バンドが技術的要素によって左右されるなんて事は考えず、一度に無計画なライヴサウンドを指向したことが、レコードがコケてしまった理由かもしれない。

ME:レコードを聴くと、その複雑なアレンジに驚いてしまうよ。この中の1曲として他人にカヴァーされるのを拒否してるみたいだ!

MS:A Jug of Loveは失われたアルバムだね。僕は永遠のフェイヴァリットアルバムだと言ってくれる人にも会ったし、最悪だと評されたレビューを読んだこともあるよ。多分真実はどこかにあるんだろう。あるファンが最近僕に言ったことがあるんだ。アルバムの1曲The Happiest Man In The Carnivalが彼を自殺から救ってくれたってね。それは僕にとって今までで最高の賛辞だったね。この中での自分のプレイにはいつもうんざりさせられてたからね。もう自分を許そうって気になったよ。

AK:僕は今ではこれを聴いて楽しめるよ。聴くとノッちゃうなあ。

RP:僕は当時もそうだったよ。今でも充分楽しめる。

ME:出た当時物事はなかなかうまく進まなかった。でも僕はみんなと一緒に音楽を発展させることに満足していたね。いつも一緒にプレイを楽しんでたし、誰か一人でも欠けたらその時はプレイしなかったね。

IW:僕らはすごく感情移入の強いバンドだった。全員トップミュージシャンとも仕事をしてた(それが今でも生きていられる要因だと思う)けど、自分のバンドのメンバーがやっぱり一番だったね。強烈な化学作用があって、これは他のセッションでは得られないものだった。

AK:最後は2週間のオランダツアーだった。1971年の冬だ。ラマダーンに出会った年だ。しきたりっていうのがあって、一晩中祈ることだった。ツアー中僕はローディーのマウスと一番前に座ってマリファナとかやってたな。ヴァンの後ろにフードボックスがあったんだ。午後6時になるとみんなそれに飛びつくんだ。ランチタイムと夜のギグの時、僕以外のメンバーは体力を使い果たしてた。その時これはもう続けていけないなと悟ったんだ。みんなうちに帰った時にはボロボロだったね。再びお互い連絡を取るまで何年も何年も過ぎていった。

MS:ムスリムの修行とヤクとビール漬けの中でいさかいがあったんだ。で1971年の終りに僕らはバラバラになった。

ME:また今マイティ・ベイビーとしてプレイできるのは素晴らしいことだよ。このバンドでプレイできるのは栄誉あることだと感じていたし、今でもそうだね。再び一緒にできるのを文字通り夢見ていたね。ただ実現したのは偶然とは思えないね。

IW:A Jug of Loveはミュージシャンたちが共に神秘的な旅をした最後の作品、つまり遺作ということになるね。その旅にはいろんな秘密が詰まってるよ。時々このバンドは他のどんなチャリティよりも自発的な集まりだと思うことがあるね。マイティ・ベイビーは僕ら全員にとってやりがいのある興味深い体験をさせてくれる集団だったね。あの頃の事は後悔してないよ。

マイク・エヴァンス/アラン・キング/ロジャー・パウエル/マーティン・ストーン/イアン・ホワイトマン 2006年8月


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