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Mighty Baby/Mighty Baby/1994 Ace Records Ltd CDWIKD 120



バンドにとってマイティ・ベイビーという名は奇妙な響きを持っている。グループ自身もそれについては容易ならないと感じているようだ。おそらくそれはグレイトフル・デッドへの英国からの回答と言われるにもかかわらず、商業的発展を一度も成し得なかった事に起因しているのだろう。もしくはジミ・ヘンドリックスの華々しいギターやピンク・フロイド(シド・バレット)の不気味さにとりつかれてしまったリスナーにとっては、彼らの洗練された、ウェストコースト・サウンドに影響を受けたサイケデリック・ミュージックは崇高すぎたのだろう。1969年に発表された“Mighty Baby”は、数少ない熱心なリスナーにとっては貴重なレコードで、今では真のコレクターズ・アイテムとなっている。

バンドは2枚のLPを出したが、これは真に優れた最初の1枚である。マイティ・ベイビーは、繊細で驚嘆すべき才能を持ち、印象的なメロディを備えていた。カルト・モッド・バンドだった、ジ・アクションを母体としていることもその証であった。このCDの後半に収められている1968年のアクションのセッションは、モータウンに影響を受けたバンドと、マイティ・ベイビーとして即興演奏を繰り広げるようになる間のミッシング・リンクを示すものである。

アクションの歴史は前身バンドのポスト・マージービート・グループ、ザ・ボーイズに始まる。1967年半ばまでのEMI音源は、ここでなく他でかなり詳細にドキュメントされている。彼らの全パーロフォン・シングルは、エドゼルが1980年にコンパイルした、“The Ultimate Action”に収録されている。そこには未発表曲も含まれていた。しかしマイティ・ベイビーとしてデビューするまでの続く2年間は、謎として覆い隠されていた。未発表に終わったアクションのLPは、アートワークまで完了しながらお蔵入りとなったのである。このことは1985年にDojoが出したミニLP、“Action Speak Louder Than…”によってリスナーたちの苛立ちをさらに悪化させることになった。残念なことに、そこでは1968年の長らく所在不明だったデモ・セッションの、詳細なデータが完全に欠落していた―それらのトラックはここに再録されている。

1965年北ロンドンを拠点にジ・アクションは結成された。ブルービート・レコードのジギー・ジャクソンの勧めで、バンド名をボーイズから改めたのだった。ヴォーカルのレジー・キングは、当時のアメリカのソウルシンガーを理想的に解釈した、才能豊かなシンガーであっただけでなく、曲作りもこなしていた。アラン‘バム’キング(ギター)、ピート・ワトソン(ギター)、ロジャー・パウエル(ドラムス)そしてマイク・エヴァンス(ベース)の強力なサポートによって、レジーのスムースなヴォーカルはロンドン周辺で話題となっていった。

彼らはビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンの目に留まり、彼のエア・プロダクション・オーガニゼイションと契約したのだった。そしてEMIのパーロフォン・レーベルから、1965年暮れから1967年半ばまで不成功には終わったが5枚のシングルを発表した。最初の3枚は優れた創造的なソウル・ナンバー、‘Land Of A Thousand Dances’‘I’ll Keep On Holding On’そして1966年終りの‘Baby You’ve Got It’だ。しかしアクションは自分たちのスタイルを模索し始め、ザ・バーズ、ママス・アンド・パパス、アソシエイションらウェストコースト・サウンドの影響を受けるようになっていった。またしても商業的に失敗に終わったサイケデリックポップ風の‘Never Ever’と‘Something Has Hit Me’はアクションの新境地を示すものであった。しかしバンドは6枚目のシングル、‘In My Dreams’のレコーディングの後EMIから契約を切られることになった。

彼らの激変は、レコード契約を獲得するところまではいかなかった。1966年暮れワトソンが脱退し、しばらくは4人編成でギグをこなしていたが、自称ジャズ狂信者のピアニスト、フルート奏者であったイアン・ホワイトマンを加入させた。“僕はケンブリッジ外の大学生だった。”ホワイトマンは思い起こす。“ジャズバンドに入るためにロンドンに来たんだ。ビル・エヴァンスのピアノにハマっていてね。”彼は結局1965年にベン・カラザーズ・アンド・ザ・ディープとして唯一のシングルを出したにとどまった。“カラザーズはジミヘンの先がけのようだったね。下手だったけど。”カラザーズはジョン・カサヴェテスの映画で主演したカリスマ的なアメリカ人で、あたかもディラン、コルトレーン、マイルス・デイヴィスのような人たちと友人のようであった。“The Man With No Papers”というBBC2のTV映画のテーマがその‘Jack O’Diamonds’だった。シングルはジミー・ペイジ、ニッキー・ホプキンスのサポートとシェル・タルミーのプロデュースにもかかわらず全く売れなかった。

ホワイトマンはヤードバーズ、ホリーズと並んで、オックスフォード大学で催される公式ダンスパーティー、メイ・ボールのためにヴォーカリストのボズと共に寄せ集め的なジャズバンドを結成した。“その時ジャズは諦めたんだ。でメロディ・メーカーのメン募に応募したよ。驚いたね。僕はロジャーとバムと同じ通りに住んでいたんだ。思わぬ出来事だった。僕はハモンド・オルガンを持っててそれがアクションへのパスポートだった。”

ホワイトマンの加入でアクションのアプローチが変化した。楽曲はより柔軟になり、プレイヤー間の即興演奏スタイルが強調されるようになった。ストーンズのブライアン・ジョーンズのようにホワイトマンはアクションの音楽に色をつけ、粗い感触のある広がりをもたらした。この発展はブルース・ギタリストのマーティン・ストーンの加入によってさらに推し進められた。ストーンはサヴォイ・ブラウン・ブルース・バンドの強力なファーストアルバムの前に、ストーンズ・メイソンリィで、マイク・ヴァーノンのブルー・ホライズン・レーベルから、パッとしないシングルを1枚出していた。

残念ながら様々なセッションが67年半ばから68年初めにかけてレコーディングされたが、買い手が見つからなかった。これらの殆んどは当時ポリドールのストラトフォード・プレイス・スタジオのジョージオ・ゴメルスキー指揮により録られていた。ゴメルスキーはマーマレイド・レーベル設立の過程にあり、アクションとの契約を見込んでいたのかもしれない。しかしアルバム用にレコーディングされたトラックは棚上げされてしまった。

アクションの来たるべきデビューLPのためのアートワークを、校正者に依頼までされていた1967年半ばの音源は、このように謎の取り巻く出来事によって、世に出ることなく世間の注目を集め、これら音源はロスト・アルバムとして括られるようになったのだった。そのロスト・アルバムは、未だ魅惑的な内容を伴って語られている。そして80年代後半、それら音源は“A Piece Of The Action”として発表されるはずであったが、悲しいことに契約上のもつれからこのプロジェクトは頓挫してしまった。

レジーの作曲能力、とりわけ“Little Boy”と“Come Around”は当時において強力なナンバーであった。同様に他のメンバーも曲作りに参加するようになり、印象深いナンバーが生み出されるようになっていった。しかしグループ内での緊張関係は、これらセッションの知られざる側面として日に日に増大していった。その結果レジー・キングはメンバーから引導を渡され、1968年春、ソロになるべくグループを脱退した。実のところイアン・ホワイトマンも1967年の終り頃グループを抜けていた。レジーの常軌を逸した振る舞いが原因であったが、その後すぐにグループに復帰したのだった。

レジーはソングライターとしてScreen Gemsと契約し、続く3年間はソロアルバムの制作のために費やした。ロジャー・パウエル、イアン・ホワイトマンそしてバム・キングらのオールゲストによるアクション再編によって、“Reg King”は素晴らしい楽曲集となった。そのうちの2曲は実際アクションの最後のデモ・セッションから収められていた。しかしながらアルバムはレジー自身のプロダクション制作だったため、充分なプロモーションもなされず、色褪せてしまう結果となってしまった。彼はしばらくの間、B.B.Blunderで歌っていたが、自宅での転倒が原因の怪我が長引いてしまい、彼のキャリアは短期間で終わってしまうことになった。

1968年に話を戻すと、レジーが去ったのに引き続いてジ・アクションは、1週間だけグループ名をAzothと変えていた。これはおそらくストーンのオカルト趣味から来ていると思われる。“奇妙なオカルト指向は全てマーティンが持ち込んだものだったよ。”イアンは言う。“Azothっていうのはアリステア・クローリーの魔法といくらか関係があるんだ。そうやって僕らは感性豊かな研究グループのようになっていったね。他のバンドがいろんなレコードを聴く一方、僕らはツアー中いろんな本を読み漁るようになったよ。”

この時までにジ・アクションはウェスト・ロンドンで、ピート・ジェナーとアンドリュー・キングが経営する、ブラックヒル・エンタープライズと関係を持つようになった。彼はピンク・フロイドとティラノザウルス・レックスも扱っていて、ハイドパーク・フェスティバルを企画していた。ジェナーは夏の間、ウェルスデンにあるモーガン・スタジオでアクションのレコーディングを準備したが、グループは代わりのリードシンガーがいないことに将来の展望を見出せないでいた。結果ホワイトマンと‘バム’・キングがシンガーの役を担当することになった。特にホワイトマンのヴォーカルがメインとなり、彼は殆んどの作曲も手がけている。イアンは思い出す。“すごく実験的な試みだったね。ただそれらのトラックは、リリースされることはまずないようなものばかりだった。”

それらは‘A Saying For Today’以外では、強迫観念的な‘Only Dreaming’と穏やかな‘Favourite Things’―これは後の彼らに道を開くようなナンバーだ―だけだったかもしれない。ホワイトマンのジャズ指向が注入されたグループは、レジー・キングが抜けた後の、バンドの次なるステップとして相応しいものであった。よりプリミティブでメローなウェストコーストの雰囲気が漂っていた。“僕らは同時期のアメリカの音楽に信じられないくらいハマっていたよ。”イアンは言う。

マーティン・ストーンを通じて、アクションはジョン・カードと組むことになっていた。彼はかつてのバンドのローディーであり、音楽出版に関わっていた。アクションは彼の新しい出版社Head Musicと正式に契約することになった。続く何年間かはモクシーという奇妙なアーチストの力を借りてギグを続けた。赤毛が腰まで伸びたこのヒッピーの変わり者は、バンドのステージに飛び入りし、ハーモニカソロを吹いたり、Chineiという東洋楽器を演奏していた。モクシーはモーガン・セッションのいくつかでハーモニカをプレイしている。

1968年の1年間、バンドは正式のグループ名を持つことをためらっていた。短期間のAzothという名前の大失敗があったからだ。名前を決めないまま1969年に入り、結局ジョン・カード(ヘッド・レコードを設立していた)がMighty Babyという名を選んだ。このグループ名はホワイトマン曰く、“誰もが容易に思いつくような名前ではなかったね。すらすらと出てくるような語呂がいい言葉じゃなかった。”そうだ。

彼らの微妙にぎこちないあだ名となった“Mighty Baby”の明確なコントラストはしかし、結果的には素晴らしい命名であった。10月に出たヘッド・レーベル2枚目となったデビューアルバムは、完成度高い演奏溢れるものであった。冒頭の‘Egyptian Tomb’を聴くと、その完璧なミックス―想像力と流れるようなギターワーク、ドリーミーなコーラスワーク、喚起させるような詞は見事である。この頃の多くの英国アンダーグラウンド・バンドはより重く、形式ばった領域に停滞していた。レッド・ツェッペリンに代表される、ヘヴィロック・バンドが占め、それは巨大なインパクトゆえ、少々イマジネイションを欠くものとなっていた。一方プログレッシヴ・ロックは、ジャズと古典的クラシックへと領域を広げていったが、奇しくもその結果誇大で気取った音楽になりがちであった。

マイティ・ベイビーもプログレッシヴな側面を持ち合わせていたが、そのスタイルは不恰好なものでもなく、へヴィになり過ぎているわけでもなかった。ホワイトマンがバンドの作曲に大きな一端を担っていたが、彼は共同での作曲の中にアクセントをつけることに力を注いでいた。その結果、“Mighty Baby”に表されている自然な音楽的相互作用は、とりわけ長い曲に顕著に見られる。ウェストエンドのモッズの根城、ザ・シーンのベテランDJ、ガイ・スティーヴンスはスー・レコードのUK地方放送局の設立者で、彼らのプロダクションに手を貸すことになり、才能あるマーティン・シャープは、素晴らしくカラフルなカバーイラストを描いている。しかしこの確かな魅力溢れる“Mighty Baby”は、セールス的には芳しくなかった。

マイク・エヴァンスは、ヘッドのためにいくつかのセッションを行ったが、未だ日の目を見ていないことを覚えている。“アルバムに入らなかったトラックがいくつかあったね。一つは‘Ancient Traveler’だ。ジョン・コルトレーンの‘India’もチェス・レコードのマーシャル・チェスのプロデュースで、オリンピア・スタジオでレコーディングしたよ。”

‘India’は実際マイティ・ベイビーのライヴでのハイライトになった曲だ。ホワイトマンはいつでもジャズにはまっていた―彼は1961年頃、学生の時にキルバーンのゴーモン州で開催された、忘れもしないコルトレーンのショーを見ていた。まぎれもなく‘India’をアクションに持ち込んだのは彼である。マイティ・ベイビーはラジオ・ワンのトップ・ギアにその一部を吹き込んでいる。それは編曲され、‘Blanket Of Muesli’に発展し、シェプトン・マレイでの最初のロック・フェスティバルのドキュメントである3枚組アルバム“Glastonbury Fayre”に収録されている。

しばらくするうちにヘッド・レコードは経営困難に陥っていった。そして1970年の終り、マイティ・ベイビーはレコーディング契約が切れていることに気づく。しかし個々のメンバーは、セッション・ワークで多忙の日々を送っていた。とりわけホワイトマンとエヴァンスは、この頃から数多くのアルバムでプレイしている。ちょっと見渡すだけでも、シェラ・マクドナルド、ジョン・マーティン、キース・クリスマス、レーベル(ヘッド)仲間のロビン・スコット(後に‘M’として名声を得る)、ゲイリー・ファー、アンディ・ロバーツらのLPのクレジットに見つけることができる。リストはまだまだ続くが、このようなマイティ・ベイビーを巻き込んだ様々なアルバムが存在する。

1971年バンドはブルー・ホライズンと契約した。このレーベルは、フリートウッド・マックを獲得した英国きってのブルース・レーベルであったが、マックが去った後、そのグループに代わるようなヘヴィ級グループを見つけるのに躍起になっていた。レーベルのオーナー、マイク・ヴァーノンはストーンズ・メイソンリィの頃からマーティン・ストーンと仕事をしていた。そして1965年彼がまだデッカにいた頃アクションにオーディションを受けさせていた(彼は実際契約したがっていた)。

結果生まれたアルバム“A Jug Of Love”は、マイティ・ベイビーの哀愁を帯びたメロディックな楽曲が多くフィーチャーされていた。しかしファースト・アルバムの延長を期待するには、がっかりするようなアルバムでもあった。セールス的にも、アルバム未収の‘Devil’s Whisper’のシングルでプロモーションされたにもかかわらず、地味なものでしかなかった。このことは、バンドが解散するのに充分な理由となってしまった。

この時までにグループは、よりヘヴィなムスリム信仰へと傾き、1972年アイランド・レーベルのヘルプ(廉価盤レーベル)から、ホワイトマンとエヴァンスが中心となったスーフィー音楽を奏でるハビビヤの“If Man But Knew”が発表された。エヴァンスは続く10年間を世界を旅して回り、帰国するとホワイトマンと共にリチャード&リンダ・トンプソンの1978年のツアーに同行した。バムはエースに落ち着き、‘How Long’のヒットを飛ばすことになる。しかし誰一人としてこのCDに聞けるような魔法を蘇えらせるには至らなかった。

グレイトフル・デッドやカリフォルニアの似たようなグループ同様、マイティ・ベイビーも彼らの真価は、ライヴを体験することによって得られるものであった。英国の失われたアシッド・ロックの一団を楽しむための最も近道である、彼らのギグを見ることができたのは、私がわずか3歳の頃だったのだ。

ジョン・リード、レコード・コレクター・マガジン 1993年

以下の方々に感謝する:イアン・ホワイトマン、マイク・エヴァンス、ジョン・プラット、ブライアン・ホッジ、マルコム・ギャロウェイ、ブライアン・ウィントン



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