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Meic Stevens/Gwymon/2008 sunbeam records SBRCD5046



Outlanderがセールス的に失敗して1971年までにワーナー・ブラザーズは僕に興味を失くしてしまっていた。僕はまだワーナーと契約中だったけど、彼らは僕のウェールズ語のマテリアルについての所有権はなかったんだ。僕はあらゆるテレビ番組(ほとんどがカーディフのBBCとHTV)のためにたくさんの曲を主にウェールズ語で書いていた。深夜の英語による報道番組John Morgan at 10:30みたいなショーのために仕事を続けていたね。金曜の夜にオーディエンスを迎えてライヴを楽しんだよ。ほとんどの人たちが酔っ払っていたね。

1972年の半ば頃までに僕はアルバム1枚分の曲を書き溜めていた。僕はまだロンドン・ワーナーのデモ・スタジオ(デンマーク・ストリートのセントラル・サウンド)を使える境遇にあったから、その夏の初めに2日間スタジオを押さえた。1日はレコーディング、もう1日はミキシングのためにね。僕はバンドを持ってなかったからピート・スウェイルズにビル・ワイマンとチャーリー・ワッツをセッションに呼んでくれないかって頼んだんだ。彼はマドックス・ストリートにあったストーンズのオフィス経営を手伝っていたんだ。“彼らは喜んで行くと思うよ。”彼はそういったんだけど、あいにくストーンズはツアー中だった。というわけで僕はウォードー・ストリートのShipっていうパブに行ったんだ。そこはいつもミュージシャンたちがたむろしていて、僕はベーシストとドラマーを見つけた。ポール・マルチネスとグレアム・スミスだ。ピートはアルバムでミュージカルソー(楽器とする洋式のこぎり)を弾くことになった!僕らはその晩、ラドブルックスのフラットで全曲をリハーサルして翌朝スタジオに向かった。僕らはその日に全曲レコーディングして、僕が次の日ミックスとマスタリングをしたよ。

アルバムはピンからキリまでごたまぜだった。Merch o’r Ffatri Wlanは元々ジョン・モーガンのために英語で書いた曲だった。Galarnadの詞は聖書のエレミヤ書からで、元々はHTVの宗教番組のために書いたんだ。オルガンを弾いたのは誰だったかもう覚えてないな。Daeth Neb Yn Olは僕の父についての曲。気に入っている曲のひとつTreath Yn Obaithは他のテレビ番組のためにEndaf Emlynといっしょに書いた。Carangarwはロンドンのタクシーの中でゲイリー・ファーとレジー・キングといっしょに酔っ払いながら(ラリった状態で)書いた。Shwd Mae? Shwd Mae?は遊び半分だね・・・僕らは当時ほとんどネパールのマリファナでラリッてたから。僕らはよく笑ったし人生を心ゆくまで楽しんでいた。僕らが作った音楽に今なお関心が集まるってのは驚きだよ。

僕はアルバムをGwymonあるいは‘Seaweed’(海草)と名付けた。単にこの言葉が好きだったからだ。ジャケットも僕がデザインした。見開き部分には僕の叔父ウォルターの写真を載せた。彼は戦時中に潜水艦に乗っていて行方不明になったんだ。このアルバムは事実上ひとりの男の努力の成果だった。僕はウェールズでのリリースのためにWrenレコーズにライセンスを与えた。それは1972年9月にカセットと2500枚のヴィニール・レコードでリリースされた。僕のところへは一銭も入ってこなかったけどね。まあそれはそれ!音楽とビジネスってのは仲良くなったためしがない。哀れなアマデウス、ビリー・ホリデイ、エイミー・ワインハウスはいうまでもなくね・・・ 僕はラッキーなひとりだと思ってるよ。夢想家のみんなは気をつけるように!

ウェールズ語で曲を書き歌うことは骨の折れる仕事だけど、すばらしい若者たちには輝く目と手にはギターがあるから今でもなくならないんだ。ありがたいことだよ。彼らの夢を壊す権利なんて僕にはないだろう?

Meic Stevens
Penmon, Anglesea
December 2007


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