Welcome to my homepage


Meic Stevens/Ghost Town/1997 Tenth Planet TP 028



ワーナー・ブラザーズが1969年にロンドン支社を構えた時、彼らが抱えたアーチストにはヴァン・モリソン、ジョ二・ミッチェル、ジョン・セバスチャン、アーロ・ガスリーらがいた。‘現場の人間’として、新しい才能に目をつけるのが私の仕事の一部だった。私はワーナーにロッド・スチュワート、リンダ・ルイス、アメリカ、そしてマイク・スティーヴンスというウェールズ出身のすばらしい1人の若いフォーク・シンガーを紹介した。私は彼のデビュー・アルバム、‘Outlander’をプロデュースし、とても楽しい時間を過ごした。このレコードは現在、コレクターズ・アイテムとして大きな人気がある。互いに6000マイルも離れたところに住んでいるマイクと私が、今も友人同士であるのはとてもうれしいことだ。60年代後半にレコーディングされたマテリアルを集めたこの新しいコンピレーション盤をあなた方が楽しんでくれるものと信じている。

イアン・サムウェル 1997年1月


私が最初にマイク・スティーヴンスをその時の彼のガールフレンド、グウェンリアン・ダニエルに紹介されたのは、1977年の寒い冬の晩だった。私はスウォンジー、PontardaweのTrwynau Cochのギグで、彼がアルバム‘Gwymon’から何曲かプレイして以来の数年間、彼のファンになっていた。私は彼についての荒っぽい話をたくさん聞いていたから、正直、彼と会うのは本当に怖かったんだ。多分、彼の私に対する第一印象は、わけのわからないマヌケな奴ってところだっただろう。しかし何年も経つうちに、私は彼のイメージの裏に隠されたものがあることが分かった。彼はとても物静かで敏感な性格の持ち主だった。私たちが初めて会ったころ、マイクは5年間でファースト・アルバムを1枚リリースしたきりだった。彼は音楽に幻滅し、長い間、自らブルターニュへ逃れ、多くの時間をプロ級の腕前だった絵画活動をして過ごしていた。しかしその7年前のマイクは大成功を収めていたかのようだった。トラフィック、ブロッサム・トウズ、シド・バレットらの音楽を混ぜ合わせたマイクは、そのころ巨大なワーナー・ブラザーズと複数のアルバム契約を結んでいた。彼は全盛期へと向かっているかのようだった。しかし何が起こったか?以下を読めば謎は解けるだろう・・・

マイク・スティーヴンスはウェールズ南西部ペンブルックシアの小さな村ソルヴァのコミュニティで育った。そこは漁業を生業とした地域だった。海はマイクの素晴らしい楽曲の数々にインスピレーションを与えただけでなく、彼の人生観の形成にも役立つことになった。若き日のマイクは、地元の船員たちがアメリカから持ち帰った最新のロックンロール、リズム&ブルース、フォークのレコードを聴くようになり、アコースティック・ギターでコードを拾うようになっていった。まもなく彼は勇気を奮い起こし、うす暗い村のパブで友人たちに向かってそれらの曲をプレイするようになった。1950年代終わりになると、多くの同世代の者と同様、マイクは最も近いところにあった芸術大学に入学した。彼はカーディフに移り住んだが、夜間勉学に励むことはなく、地元のトラッド・ジャズ・バンドでバンジョーをプレイしていた。そのバンドを率いていたのが、ウェールズの伝説的ジャズマン、マイク・ハリーズだった(ちなみに彼は素晴らしいバンド、Root Doctorsと共に今でも町の中心地で定期的にプレイしている)。しかし時代の移り変わりによって、マイクはThe University of Manchester Folk Clubで司会及び出演者となった。

1965年の上記の会場に出演していた時に、マイクはジミー・サヴィルに‘発見’され、まもなくロンドンへのお抱え運転手となり、ロンドンで最新のカウボーイ・スタイルの服を着せられ、デッカの悪名高いディック・ロウと1枚のシングルの契約を交わした。ロウはマイクにきっぱりと第二のドノヴァンにしてやろうと言った!そのシングルが‘Did I Dream’b/w‘I Saw A Field’(Decca F12174)で、プロデューサーは未来のレッド・ツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズだった。不幸にもそのシングルは失敗したが、マイクはロンドンの酒とボヘミアンのライフスタイルに全霊を傾けるようになった。時は1965年、フォーク・ブームの巨人たち―ポール・サイモンやジャクソンCフランクのような伝説的人物となる者たち―が、ソーホーのクラブ地区で小銭のためにプレイしていた頃だ。しばらくの間、ロング・ジョン・ボルドリー(マイクが最も尊敬していた人物)とともにプレイしたマイクは、レジー・キング(惜しくも無名に終わったジ・アクションのリーダー)、T-ボーンズのゲイリー・ファー、そしてブロッサム・トウズの連中のような伝説的人物たちと行動を共にした。音楽と交流のあわただしい期間が続き、狂ったようなパーティーのない週末など存在しなかった―たいていのパーティーは、ヤードバーズの黒幕ジョージオ・ゴメルスキによって主催されていた。

マイクは依然未契約状態だったが、1968年にウェールズの小さな独立レーベル、Wrenと契約を交わし、続く3年間以上に渡って成功を収めることになった。その時までにマイクは妥協なきアーチストとして名を揚げ、他のアーチストのレコードの参加オファーを受けるようになっていた。彼はゲイリー・ファーのファースト・ソロ・アルバム、‘Take Something With You’と、ゴードン・ジャクソンの‘Thinking Back’(1969)で見事なギターをプレイした(もっともなことだが、どちらもゴメルスキのマーマレイド・レーベルからのリリースだった)。後者はトラフィックのメンバーをフィーチャーしていた。また同年、彼はワイト島フェスティヴァルにファーと共に出演し、ボブ・ディランは‘英国最高のシンガーソングライターの1人’として彼を称賛した。またこの時期に、彼はブライアン・モリソン/ディック・レーヒーのエージェンシーと契約を結んだ。そのエージェンシーのクライアントの中には、シド・バレットやマーク・ボランのような異端者たちが含まれていた。実際モリソン・コネクションを通じ、シド・バレットは1969年にマイクのウェールズの農場家屋で週末を過ごしていた―シドはこの訪問をほとんど公言しなかったようだが、彼の荷物は現金がいっぱいに詰まったスーツケース1つだけだった!

その時までに、マイクは故郷のソルヴァに落ち着き、定期的にロンドンとの間を往復するようになっていた。彼の忍耐力はついにワーナー・ブラザーズとのアルバム5枚契約となって実を結んだ。その成果が今や伝説的アルバムとなった無類の‘Outlander’だったが、不幸なことにほとんどプロモートされず、跡形もなく市場から消えてしまった。素晴らしいLP未収シングル、‘Old Joe Blind’は、振り返ってみればチャートを上がるようなナンバーだったが、これもセールス的に失敗してしまった。その時までにマイクは芽吹きつつあったウェールズ語の音楽シーンへ重点を置くようになり、Sainレーベルの設立に少なからず関与していた。彼はまだ地元のレーベルとウェールズ語によるEPのレコーディング契約を続行中であり、ワーナーとも契約していた。彼はワーナーから、全て英語による作品を制作せず、自らの伝道師的活動を続けるのであれば、契約を打ち切るといった最後通牒を受け取った。これがウェールズ語によるロック・シーンの発展の決定的瞬間だった(いうまでもなく大きなキャリア転換への彼の勇敢さを示した瞬間であった)。マイクは故郷に目を向ける決心をした。

1972年には、多くの者がマイクの中で最も親しみやすく価値のあるものとして認めるWrenからのリリースがあった。アルバム‘Gwymon’(‘Seaweed’:海草)は彼の幅広い音楽的才能が最もよく表れていた。そこにはブルース、フォーク、サイケデリックの要素が散りばめられていた。またこの時期、SainからNewyddion Daに至る様々なレーベルから、何枚かのEPがリリースされた。それら全ては今日、ウェールズ語ロック・ミュージック史上における画期的事件としてみなされている。しかしながらマイクは、70年代半ばをほとんどブルターニュで‘亡命者’として過ごしていた―その間に行なったギグと絵画活動は、彼の英気を養うものだった。まもなくウェールズの魅力が彼を引き戻し、1977年、‘Gwymon’以来となるアルバムのレコーディングをするために、彼は再びSainと契約を結んだ。その結果生まれたきわめて強力なアルバム、‘Gog’(‘Cuckoo’)は、ウェールズで大ヒットとなり、ウェールズ最高のシンガーソングライターとしての名声が復活することになった。1年後、彼はファーナム(イングランド南部)のヤコブズ・スタジオで、Racing Cars関連の音楽のためにアルバムをレコーディングした(Racing Carsには忘れられないヒット・シングル‘They Shoot Horses Don’t They?’がある)。残念ながら、このアルバムはリリースの機会を逃してしまったが、6曲は1990年代初頭のコンピレーション盤‘Retro Voodoo Blues’で日の目を見た。

80年代のマイクはウェールズでの地盤固めに向かい、例年の‘Sgrech’賞のセレモニーでは、5年間の一貫した活動を称えられ、ベスト男性ヴォーカリスト賞を受賞した。1982年に彼は高く評価された‘Nos Du, Nos Da’(‘Black Night, Good Night’)を制作した。手を抜くことのない全力を傾けた作品集だった。80年代後半にさらに数枚のアルバムをリリースしたのち、マイクは再び元ブロッサム・トウズのギタリスト、ブライアン・ゴディングと手を組み、カセット・オンリーの‘Gwin A Mwg A Merched Drwg’(‘Wine and Smoke and Naughty Girls’)をレコーディングした。マイクは初のCDリリースによって、90年代の着手に乗り出した(いわば、その10年間は彼の時代ではないのである)。その素晴らしいCD、‘Whare’n Noeth’(‘Playing Naked’)は、マイクがフランスのシンガーソングライター、Felix Ubert Thiefaineと独自にコラボレイトを試みたものだった。1993年リリースであるCraiレーベルでの‘Er Cof Am Blant Y Cwm’(‘In Memory of the Children of the Valley’)は再びマイクが活動を続行していくだけの大傑作となったが、そこには‘Rowena’(傑作‘Outlander’収録のハイライトの1曲)の力強い焼き直し版、‘Morwen Y Medd’が入っていた。

彼と同世代の60年代のアーチストたちが、70年代と80年代にまるくなり、彼らの初期のピークがほとんど感じられない作品を機械的に作り出していったのと違い、マイクのベスト・ワークは依然先に控えているかのように思える。マイクは1曲の傑作、あるいは2曲でも3曲でも書き上げるや、すぐに次のアルバムで発表してしまう。彼が、60年代後半に築き上げたフォーカデリック・スタイルをあとにしたのは事実であるが、彼の新しいマテリアルは制作技術の向上によって、より豊富なものとなった。一方で彼の詞的才能は、1985年のナショナル・アイステッドファッド(Eisteddfod:8月初週に南北ウェールズで順番に毎年開かれるウェールズ語だけの音楽・演劇・吟唱大会)で、誠実な役員として選ばれるほどまでに磨かれていった!さらに重要なこととして、彼は現在の音楽シーンに至るまで長期に渡って影響力を発揮してきた数少ない60年代組の1人である。彼は現在のウェルシュ・バンドの多くにとってのフォーク・ヒーローだ。1996年11月のBBCのラジオ・ワン・イヴニング・セッションで、マイクの‘Y Brawd Houdini’をカヴァーしたスーパー・ファーリー・アニマルズのリード・シンガー、Gruff Rhysは、‘伝説のマイク・スティーヴンス’として紹介し、彼に捧げた(ちなみにその曲の英語版‘The Great Houdini’は‘Old Joe Blind’に続くシングルの予定だった)。ザ・60フット・ドールズはマイクのファンとして知られ、一方でゴーキーズ・ザイガティック・マンキは彼の曲をカヴァーし、最近のメロディ・メーカー紙のインタビューで、マイクが彼らに大きな影響を与えたことを認めた。彼が最初のレコードを作ってから30年以上経ち、おそらく今のマイクがキャリア史上、最重要人物だろう。

お高くとまることを望むのではなく、マイクの詞を理解することは、彼の歌に宿る批判精神を理解することであり、確かに有益なことだろう。そういった意味では、この‘Ghost Town’は、彼が英語を使って書いた最高の作品の数々がリスナーに届けられるという点で無類の1枚だ。全てのトラックはマイクの創造性がピークにあった60年代後半にレコーディングされた。何曲かはのちにウェールズ語によってSainとWrenレーベルのアルバムで再録されることになった。またここには3曲の初期デモ・レコーディングが含まれている―叙事詩である‘Yorric’、‘Ghost Town’、そして美しい‘Love Owed’だ。これらは‘Outlander’に収録されることになった(とりわけ‘Yorric’を聞けば、その目に浮かぶような詩的な歌詞が、彼にとっての第二外国語で書かれたという事実に驚いてしまう)。‘Factory Girl’は‘Outlander’への収録候補だった。また60年代後半マイクのピーク時に、ウェールズ語でレコーディングされた2曲がさらにこのコレクションを強化している。それらは元々、地元の小さなレーベルからリリースされたEPでのみ聞けるものだった。

私は20年前の寒い冬の夜に、マイクと会う機会が持てたことをうれしく思う。そしてあなたたちがこのアルバムを聞いてマイクのことを知ってほしいと願う。信念を守り通したTenth Planetのみなさん、とりわけ熱心にがんばってくれたデヴィッド・ウェルズに感謝する―あるいは多くはマイクに捧げられねばならないのかもしれない。

GARI MELVILLE
1996年Pontardaweにて

ホームへ