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Meic Stevens/Sackcloth & Ashes:The EPs, Volume 2/2007 sunbeam records SBRCD5033



昔はウェールズでモダン・ミュージックを作ることは困難だった。大部分はお金と機材の問題だったね。僕はでっかくて金を持ってる国際的なレーべルと契約したから、そこの機材を使う特権を与えられたし、他の人のレコードをプロデュースすることもできた。いくつかはいい出来だったし、いくつかはそうでもなかったし、いくつかはホントにひどい代物だったけどすごく楽しんだよ。僕は養わなきゃいけない家族がいたから、お金を稼がなきゃいけなかった。それが結局僕にウェールズ語で曲を書かせ、レコーディングさせた源だ。当時ここでは新しい音楽に対する大きな渇望があった。BBCウェールズは手に入れられるものなら何にでも興味を持っていたから、僕が書いたりレコーディングした曲なら何でもラジオで流してくれた。その結果印税が入ってくるようになったね。TVショーのためにたくさんの曲を書いた。それに音楽番組以外でも、おしゃべり番組、子供番組、ドキュメンタリー、コメディーでさえ書いた。全てが利益となった―ほとんどは再びレコーディングされたり、商業ベースのリリースをされることなく一夜のうちに消えていったけどね。

1970年までに僕は、僕に興味を失ったワーナー・ブラザースと問題を抱え始めていた。で僕は今回のコレクションのほとんどを録ったデンマーク・ストリートにあったセントラル・サウンドの彼らのボロボロのデモ・スタジオは使わないことにしたんだ。デイヴ・エドマンズとチャールズ、キングスレイ・ワードがモンマスで16トラックのロックフィールド・スタジオを経営していたから、僕は代わりにそこへ行ってた。The Byw yn y WladとDiolch yn FawrのEPはそこで録ったんだ。地方のミュージシャンを使ってね。ここでボーナスとして入ってる未発表EPだけはセントラル・サウンドでレコーディングして、それはカンブリアン・レコーズのヨシア・ジョーンズ(今は故人)に売られたんだ。彼はその後すぐに亡くなってしまって、テープはどこかに隠されて忘れ去られてしまった。The Disc A Dawnのレコーディングは(これもここのボーナス・トラックに入っている)、カーディフのBBCで1970年に行われた。そこだけ4分の1インチのモノ・レコーダーがあったんだ。またハウス・バンドを使わなきゃならなかった。僕の考えじゃなかったんだけどしょうがなかったんだ。

僕はまだ当時西ウェールズの農場に住んでいて、家族は大きな問題を抱えていたんだ。問題を解決するには時間が必要だったから、まず僕らは1971年カーディフに移り住むことにした。そこで僕はテレビのために曲を書き続けたよ。ロンドンのセントラル・サウンドの最後のレコーディングは結局Gwymon(‘Seaweed’)というアルバムになった。それは1972年に日の目を見たけど、今年暮れにサンビームからまたリリースされる予定だ。

メイク・スティーヴンス
2007年4月、カーディフにて


Y Brawd Houdini(SAIN 004, Spring 1970)

1. Y Brawd Houdini(Stevens/Jarman)
2. Nid i fi Mistar MP(Stevens/Jarman)
3. Rhyddid Ffug(Stevens)
4. Jam Poeth(Stevens)

1966年の終りには、ひどい地方巡業をするミュージシャンとしてのライフスタイルはメイクには耐え難いものとなり(この時すでに家族があった)、彼は神経衰弱を被ってしまった。彼は子供の頃過ごしたウェールズの田舎で静養することにした。そして欧米で吹き荒れていたポピュラー・ミュージックと自分のフォーク・ルーツを融合し、故郷のための音楽を創り出そうという考えに至った。この考えに基づいて彼はいくつかの曲をウェールズ語に翻訳してウェールズのフォーク・クラブで歌っていた(地方の詩人W. R. エヴァンスとともに)。そしてウェールズのレーベル、Wrenと接触し、レーベル側はEPを出すことに合意し1967年終わりにワン・トラックのフェログラフ(商標:英国製のテープレコーダー)で正式にレコーディングされた。場所はディラン・トーマスがかの有名な詩をレコーディングしたスウォンジー・スタジオだった。
メイクはセッションを自らプロデュースした(彼は仕事をする上で誰も信頼できなかった)。そしてその原始的なサウンドにもかかわらず、曲は陽気かつ因襲打破的な空気に満ち溢れていた。とりわけ注目すべきはカリプソ風のBle Mae’r Bore?(ジャズメンのJoffre Swalesの威勢のいい木管楽器がフィーチャーされている)、Ond Dof Yn Ol(後にOutlanderでLove Owedとなる曲だ)、そして初めて彼がウェールズ語で書いたTrywerynは人々が住んでいたウェールズの渓谷Cwm Celynを襲った大洪水に対しての怒りと、そこに貯水池をつくるべきだという考えが示されていた。EPは予想外によく売れ、多くのギグと地方のテレビ、ラジオ番組への出演を促すことになった。一人で、もしくは彼の結成したカヴァー・バンド、The Buzzでの出演だったが、このバンドでのレコードは残されていない。

Wren45(WSP 2005, August 1970)

5. Nid Oes Un Gwydr Ffenestr(Stevens)
6. Rhywbeth Gwell i Ddod(Stevens/Jarman)

1970年の夏までにメイクとワーナー・ブラザースとの関係は終わりを迎えた。メイクがワーナーと共に過ごした期間は、絶え間ないロンドン〜ウェールズ間の往復であり、彼の脆弱な故郷の生活に害をもたらすものだった。(ワーナーの)イアン・サムウェルはアメリカに移住し、彼はレーベルでの重要な支援者を失ってしまった。Outlanderは貧弱な流通体制とプロモーション不足がたたってほとんど売れなかった。メイクは二度と誰の恩義も受けまいと決めウェールズに戻った。しかしロンドンでの生活と仕事の経験は否定的なものではなかった。シド・バレットとジョー・ハリオットのような様々なミュージシャンと親交を深めたことに付け加えてメイクはいう。“ロンドンでの経験によって僕はレコーディングに関して多くを学んだし、バンドと一緒にどうやってレコードを作るかを学んだ。”ビート・インストゥルメンタル誌は1970年8月の彼へのインタビューの中で読者に向けていっている。‘彼の今の関心事は常にウェールズとともにある。ウェールズ内のウェールズ文化において、彼は間違いなく音楽的リーダーだ。’メイクはつけ加える。“僕はウェールズに恩返しをしたいんだ。メアリー・ホプキンやトム・ジョーンズのようなウェールズのアーチストは何もしないからね。ウェールズ人はぼろきれになった自分たちの文化を回復させるために戦っているんだ。悲しいことだよ。”彼はレコーディングした一握りの曲を携えてロンドンから戻ってきてすぐにWren, Newyddion Da, そしてCambrianレーベルとライセンス契約を結んだ。Wrenは安定したローカル・レーベルで、すでにメイクの最初の3枚のEP(The EPs, Volume One―SBRCD5021でリリース済)をリリースしていた。TVオペラのMwgでは別テイクがフィーチャーされていたが、ここで使われたヴァージョンはマスタリングかカッティングの段階でかなり劣化し、‘ローファイ’サウンドとなっている。Rhywbeth Gwell i Ddodは1969年2月にリリースされたデビューEP、Y Bara Menynで発表済みだった曲だ。シングルのリリース日がアマンフォードのアインステズヴォッド(ウェールズ語のみによる音楽、文芸祭)と重なったため、Newyddion DaのEP、Meic Stevens(SBRCD5021に収録)によって祝うことになった。一方、Cambrianは何らかの理由で予定されていたEPの権利を放棄した。それはここでのボーナス・トラック、17〜20に当たる。Dau Rosyn Cochはファンにはよく知られたOutlanderからの曲だ。Dos I GysguはEP、Meic Stevensで発表されたCan Mamguのことだ。

Byw yn y Wlad(WRE 1107, July 1971)

7. Byw yn y Wlad(Stevens)
8. Sachliain a Lludw(Stevens)
9. Y Misoedd(Stevens)
10.Rwy’n Crwydro Y Byd(Stevens)

メイクのウェールズへの帰郷は、彼の小さな娘たちIsabelとBethan(このEPに全員写っている)の母親であるテッサと(つまり妻)、1969年暮れ、イアン・サムウェルのハヴァーストックにあるフラットで出会ったキャロル・アンという美しいテキサス出身のヒッピー娘との三角関係で複雑な事情になっていた。メイクとキャロルはともに神秘主義にイカレていた。この難題はテッサの精神分裂症を引き起こし、キャロル・アンが持っていた容器いっぱいのグレイトフル・デッド用LSDは、彼女がすぐに飲み干してしまい、メイクのレコーディングはほぼ1年間台無しになってしまった。このEPはキングスレイとチャールズのワード兄弟によって設立されたモンマスシアのロックフィールド・スタジオで二人のローカル・ミュージシャンのバックでレコーディングされた。このスタジオはウェールズ初のしっかりと機材の揃ったレコーディング施設で、メイクが過去被ってきた原始的なレベルでのレコーディング方法は永遠に葬り去られることになり、当時のウェールズ・ミュージックを刷新するほどの大転換となった。メイクによるプロデュースとキングスレイ・ワードによるエンジニアリング(デイヴ・エドマンズの助けも借りて)で、EPは象徴的に様々なタイプの楽曲が選ばれた。全員で歌うタイトル・トラックから哀愁を帯びたY Misoedd、そしてブルージーなロック、Sachliain a Lludwまでといろいろだ。後者は1971年8月の第1週、町にアイステズヴォッドが来ていた期間にバンガー技術大学で開催された一連のコンサートの名でもあった。メイクはイヴェントのプロデュースをシアター・カンパニー・オブ・ウェールズから依頼されTV出演していることはよく知られており、彼はローカル・ミュージック・シーンにおける同世代のアーチストたちへの呼びかけを行った。“フィナーレの時は聴衆がステージ上に押し寄せてきて、プレイヤーたちほとんど身動きがとれなくなったよ。僕のうちは酒を飲んで歌って腰をくねらせるダンサーで狂乱の渦になってしまったね。”彼は自伝で皮肉交じりに回想している。そのEP(タイトルは“田舎暮らし”の意だ)が出るまでに、メイクの仕事と家族を取り巻く状況によって、幼少の頃過ごしたソルヴァ村Caerforiogに現存した牧歌的な田舎の生活はあきらめることを余儀なくされた。その騒々しい酒飲み大会に参加する一方で彼は、カーディフのためにそこでBBCのレギュラーの仕事を続けた。

Diolch yn Fawr(SAIN 13, mid-1971)

11. Pe Cawn Dy Gwmni Di(Stevens)
12. Bryn Unigrwydd(Stevens)
13. Breuddwyd(Stevens)
14. Diolch yn Fawr(Stevens)

1971年の初めまでに、メイクの関心はかなり多様化していた。毎週HTVの最新情報番組John Morgan At 10:30にトピックソングを書くことに加えて、彼はハーレフ・テレヴィジョンと契約し、The Dewsland Rakeで彼の叔父に捧げる哀歌調の叙事詩を朗読した。そして芝居もやり始め、モリエールのThe Hypochondriac(彼は音楽も監督した)をプロデュースしたウェルシュ・シアター・カンパニーで演じたパンチネロ(あやつり人形の道化役)の役は高い評価を受けた。加えてヒットした歴史TVドラマArthur of the Britons、ロマン・ポランスキーのMacbeth(マクベスはDVDで見れる!by訳者スワブ)にも乗用馬係の役で出演した。これらの活動の合間に彼はこのEPをロックフィールドで制作した。今までどおりメイクは自分の過去のレパートリーからネタを引用している(Bryn Unigrwyddはデッカからの1965年6月のデビュー・シングルのA面Did I Dream?と同じだ。Pe Cawn Dy Gwmni Diが最初にレコーディングされたのは、1965年9月、ロンドンでのトニー・パイク・プロデュースのセッションだった)。一方タイトル・トラックはウェールズ語を習う幼児に向けて書かねばならなかった曲の一部だった。メイクはBBCウェールズの最も人気のある音楽番組、Disc A Dawn(‘Disc and Talent’)へのレギュラー出演によって、すでにウェールズの若者によく知られていた。

“ショーはウェールズのポップ・ミュージック・シーンを象徴していた。そこでは大部分がアマチュア・ミュージシャンだったね。”今日彼は言っている。“プロダクションチームはベストを尽くしたが、結局音楽的クォリティは高くはなかったな。”1970年1枚のLPが、より人気のあるゲストをフィーチャーしてリリースされた。それを示すのが、堂々としたメイクのパフォーマンス2曲だ(このCDではボーナス・トラック15と16だ)。ライナーノーツはメイクのことを次のように述べている。‘シーンで唯一無二の神秘的な人物だ。様式、アレンジ、そして詞における彼の実験精神、作曲能力とギタリストとしての素晴らしさを兼ね揃えている。世界的な名声を得る日は近いだろう。’感動的なバラッド、Nid y Fi yw’r Uni Ofyn Pamの別ヴァージョンはEP、Meic Stevensで聴ける。一方Dwyn Y LeinはDyfed Glyn Jonesと共作した、頭がくらくらするようなジャズ・ポップ・ソングで、これはBBCウェールズの子供向け番組のオープニングで使われた。大変な仕事量にもかかわらずメイクの詩神は途絶えることなく活動し続け、1971年の幕を引くことになった。数週間後、彼は最後となるロンドン録音へ向かった。伝説的LP、Gwymon制作のためであった。その作品も間もなくサンビームからリリースされる予定だ。

リチャード・モートン・ジャック 2007年4月


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