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Meic Stevens/Rain In The Leaves:The EPs, Volume 1/2006 sunbeam records/SBRCD5021



ついにデッカとレコーディング契約を交わす前、僕は英国のフォーク・クラブ・サーキットで何年間か歌っていた。1965年のことで僕は23歳だったね。40年以上前のことだ。僕は(デッカの)ディック・ロウと契約した。そう、その数年前にビートルズを蹴った男だ。僕はラッキーだったか、あるいはアンラッキーだったのかもしれないが・・・ デッカからの唯一のシングルは売れなかった。で僕は落ち込んでしまって立ち直るためにウェールズの故郷の村、Solvaに戻ることにした。僕はそこで曲を書き続けて、いくつかは1970年ワーナーから出たアルバム‘アウトランダー’で日の目を見たよ。他の曲はウェールズ語で書いて、うち最も古いのは今回のコンピレーションに入っている。

当時モダン・ウェルシュ・ミュージックなんて事実上存在しなかった。で僕らは楽しみながらそれを創り上げたんだ。ちゃんとしたスタジオに入るために絶え間ないいざこざはあったけどね。ウェールズで手に入る機材はすごく粗雑なものしかなかったから、ベストにレコーディングできたのはロンドンのデンマーク・ストリートにあったセントラル・サウンドで録られたやつだ。僕はその過程でプロダクションについて多くのことを学んだし、すごく楽しい経験でもあった。ここに入ってる曲はものすごく古いから、それをみんなが聴きたがるなんてことは僕にとって驚きだし、こんなうれしいことはないね。

メイク・スティーヴンス、2006年5月、カーディフにて


1. Did I Dream?(Stevens)
2. I Saw A Field(Stevens)


メイク・スティーヴンスは1942年3月、猛烈な雷雨の日に生まれ、ウェールズ、ソルヴァの田園の広がるペンブルックシア村で育った。1950年代半ば、彼はラジオから流れるポップ・ミュージックに興味を持つようになり、祖父母から買ってもらったギターでとりつかれたように曲作りと練習に励むようになった。学生としてカーディフのクラブやバーで音楽的素養を磨き上げた彼はヨーロッパ中をヒッチハイクで回り、60年代初頭ロンドンに落ち着き、ボブ・ディラン、デイヴィ・グレアム、ウィズ・ジョーンズ、ロング・ジョン・ボルドリー、そしてポール・サイモンのような大物たちと共にクラブ出演する日々を送った。1964年暮れ、BBCのDJジミー・サヴィルというタレント・スカウトがマンチェスター・スポーツ・ギルドでみすぼらしいメイクが演奏するのを見て、彼を地方の興行主リチャード・リースエドワーズに紹介し、メイクは彼のアングロ・コンチネンタル・エンタープライズ社と正式に契約を交わした。そしてデッカと一回限りの契約を結び1965年春、シングルがレコーディングされた。Did I Dream?は新曲だったが、I Saw A Fieldは数年前に書かれた曲だった。ジョン・ポール・ジョーンズ(後のレッド・ゼッペリン)がA面のストリング・アレンジを手掛け、両面をプロデュースしたと考えられている。多くの広告が打たれ(メイクは不可解な宣伝文句‘the MANly Mike Stevens’として売り出された)、好意的なレビュー、いくつかのテレビ出演があったにもかかわらず、6月に出たシングルはほとんど売れなかった。メイクはその年続いて何曲かレコーディングしたが、それは2003年Tenth Planetが‘1965年9月のトニー・パイク・セッション(TPO056)’としてリリースしたのみである。とりあえず彼は吟遊詩人のようなきびしく辛い生活を送ることになった。

Mike Stevens(WRE 1045, May 1968)

3. Yr Eryr a'r Golomen(Stevens/Gwynfryn)
4. Ble Mae'r Bore?(Stevens)
5. Ond Dof Yn Ol(Stevens)
6. Tryweryn(Stevens)

1966年の終りには、ひどい地方巡業をするミュージシャンとしてのライフスタイルはメイクには耐え難いものとなり(この時すでに家族があった)、彼は神経衰弱を被ってしまった。彼は子供の頃過ごしたウェールズの田舎で静養することにし、欧米で吹き荒れていたポピュラー・ミュージックと自分のフォーク・ルーツを融合し、故郷のための音楽を創り出そうという考えに至った。この考えに基づいて彼はいくつかの曲をウェールズ語に翻訳してウェールズのフォーク・クラブで歌っていた(地方の詩人W. R. エヴァンスとともに)。そしてウェールズのレーベル、Wrenとコンタクトを取り、レーベル側はEPを出すことに合意し1967年終わりにワン・トラックのフェログラフ(商標:英国製のテープレコーダー)で正式にレコーディングを行った。場所はディラン・トーマスがかの有名な詩をレコーディングしたスウォンジー・スタジオだった。

メイクはセッションを自らプロデュースした(彼は仕事をする上で誰も信頼できなかった)。そしてその原始的なサウンドにもかかわらず、曲は陽気かつ因襲打破的な空気に満ち溢れていた。とりわけ注目すべきはカリプソ風のBle Mae’r Bore?(ジャズメンのJoffre Swalesの威勢のいい木管楽器がフィーチャーされている)、Ond Dof Yn Ol(後にOutlanderでLove Owedとなる曲だ)、そして初めて彼がウェールズ語で書いたTrywerynは人々が住んでいたウェールズの渓谷Cwm Celynを襲った大洪水に対しての怒りと、そこに貯水池をつくるべきだという考えが示されていた。EPは予想外によく売れ、多くのギグと地方のテレビ、ラジオ番組への出演を促すことになった。一人で、もしくは彼の結成したカヴァー・バンド、The Buzzでの出演だったが、このバンドでのレコードは残されていない。

Rhif2(WRE 1053, November 1968)

7. Can Walter(Stevens)
8. Hwiangerdd Mihangel(Stevens)
9. Glaw yn y Dail(Stevens)
10. Lan a Lawr(Stevens)


最初のEPの成功に続いてWrenレーベルはメイクにこの魅力的なレコードを制作させるに至った。メイクはこのEPを‘純粋なムード・ミュージックだ’と述べている。今回はランダフにあるBBCのスタジオでセッションが行われたが(共同プロデューサーとしてGareth Wyn-Jonesが参加した)、技術的にはまだ限られていたので、メイクはベーシック・トラックまでも取り除くことにし、その前の段階のものを使用していた。ここで彼は弟のアーヴィングによるリズム・ギターの伴奏のみで歌っている。結果この4曲はRhif2(もしくは‘ナンバー2’)として彼が作ったレコードの中でも最も美しいもののうちの1枚となった。当時の彼の叔父に捧げられた感動的なCan Walterはメローで思慮深く、これは続くインストのHwiangerdd Mihangel(メイクのティン・ホイッスルがフィーチャーされている)でもそのシンプルでメロディックな部分が維持されている。そしてスリリングなGlaw yn y Dail―これはもちろん明確な‘アシッド・フォーク’だ。しかし多くの人にとってはこれがファイナル・トラックだ。荘厳で柔和なLan a Lawrはメイクのプレゼントといった匂いが強い。曲は彼の大親友で共作者であったゲイリー・ファーのたっての頼みで(ファーがリード・ギターを弾いた彼の69年のLP、Take Something With Youで)、オープン・チューニングで書かれ、一部はリッチー・ヘヴンスにオマージュが捧げられている。そして2002年アイステズヴォッド(毎年8月第一週に南北ウェールズで順番に開かれるウェールズ語だけの音楽、文芸祭)で、BBC National Orchestra of Walesと共に再演した時に熱狂的に受け入れられた。

Mwg(WRE 1073, November 1969)

11. Mwg(Stevens/Jarman)
12. Rhedafi’r Mynydd(Stevens/Jarman)
13. Myfi yw’r Dechreuad(Stevens/Jarman)
14. Tyrd i Lawr i’r Ogof(Stevens/Jarman)


メイクは60年代末の多くをウェールズとロンドンの往復で過ごした。ロンドンでは様々なグループに一時的に参加していた。例えばジョージオ・ゴメルスキーのマーマレイド・レーベルと関係の深いグループやアーチスト、トラフィック、ブロッサム・トウズ、ゲイリー・ファー、ショーン・フィリップス、ゴードン・ジャクソン、レグ・キング、マイティ・ベイビーその他だ。この時期彼は多くの素晴らしいデモを作ったが(1997年Ghost Town―Tenth Planet TP208―として日の目を見た)、切望していたアップル・レーベルとの契約に失敗し、1969年夏、いくらか落胆した彼はSolvaに戻っていった。しかし間もなく彼はCorwenの古いアイステズヴォッドの会場で今までで最大のギグを行うことになった。バックステージで彼は音楽的野心を持つヘザー・ジョーンズとジェレイント・ジャーマンという2人の騒々しいティーンエイジャーと出会った。彼らはメイクのコテージに出入りするようになり、火を囲んでいたある晩、彼ら3人は当時の陳腐なウェールズ・ミュージックをパロディにするという皮肉っぽいコンセプトでポップ・トリオを結成する考えに至った。グループはY Bara Menyn(パンとバターの意)と名付けられ、一握りの曲が書かれた。彼らは主要ウェールズ・チャンネルだったハーレフ・テレヴィジョン(後にHTV)の時間枠を手に入れ、彼らの素性は番組のプロデューサーに知らされないまま、奇抜でおかしなコスチュームで出演し演奏した。当然のことながら彼らはすぐにヒットし、さらに多くのメディアへの露出と、ここには収められていないが2枚のEPの成果となった。ジャーマン(彼は詩人としての才もあった)とメイクのコラボレーションはさらに多くの成果を生むことになり、ハーレフ・テレヴィジョンの要請でポップ・オペラを書くことになった。彼らの選んだテーマは、鉄鋼労働者の単調な工場での仕事から田園への逃避で、タイトルはMwg(‘Smoke’)と名付けられた。これは1970年のセント・デヴィッズ・デイ(3月1日)にテレビ放映され、オーケストラの演奏がついていた(最近この時のレコーディングが発掘された)。しかし当時のリリースはこのEPのみで、メイク一人による演奏だ。明らかに東洋からの影響が感じられるチューニングだ。しかしこれがリリースされるまでに彼はワイト島フェスティヴァルへの出演とメジャー・レーベルとの契約を果たしていた。

Meic Stevens(ND 1, August 1970)

15. Mynd i Bala ar y Cwch Banana(Stevens/Jarman)
16. Nid y Fi yw’r Un i Ofyn Pam(Stevens/Jarman)
17. Mae Gennyf i Gariad(Stevens)
18. Dim Ond Heddiw ddoe a Fory(Stevens/Jarman)
19. Can Mamgu(Stevens/Jarman)

ロンドン進出の中での出来事であるが、1969年秋、メイクは音楽出版業者のブライアン・モリソンのオフィスでゲイリー・ファーを待っていたが、ワーナー・ブラザースのA&Rマン、イアン・サムウェルと談笑する機会に恵まれた。サムウェルはクリフ・リチャード、ジョージー・フェイム、スモール・フェイシズ、ジョン・メイオールその他のプロデューサーとしてよく知られていた。彼はメイクのデモのプロデュースを申し出、彼らはデンマーク・ストリートのセントラル・サウンド・スタジオで落ち合った。数日後ウェールズに戻ったメイクはワーナー・ブラザースのヨーロッパ支社からの一本の電話にびっくり仰天した。なんとワーナーは彼に1枚のアルバム契約の前金として5万ポンドを申し出たのだった。彼はすぐにロンドンに戻り、かの伝説的アルバム、Outlanderのレコーディングに取りかかった。セッションは英語で行われたが、メイクはいくつかのトラックをウェールズ語でもレコーディングした。リズム・ギターはリヴァプール出身の友人、ビル・ラヴラディが担当した。これら(ウェールズ語の)セッションはLP、Y Bara Menynとして予定されていたが、計画は頓挫しレコーディングされたトラックは二つのEPに分けられて収められることになった。一つはMeic(ND1)で、もう一つはヘザー・ジョーンズ(ND2)だ。これらはプライヴェイト・レーベルのNewyddion Daによってきわめて少数のプレスに終わり、1970年8月、アマンフォードで開催されたアイステズヴォッドで、幸運な限られた人たちに配られたのみだ。以前のウェールズ語によるレコーディングよりもサイケデリックな要素の目立つこの音源は彼の筋金入りのファンに言わせれば、メイクのベスト中のベストだそうだが、現存する盤はほとんど知られていない。Outlanderの売れ行きは芳しくなく、メイクと契約してすぐにワーナーはほとんど彼に対する興味を失ってしまった。この経験によって彼はレコード・プロダクションとメジャー・レーベルのたくらみがいかなるものかを身をもって知ったのだった。彼はウェールズに戻り、二度と誰の恩義も受けないことを心に誓った。しかしその代わりに彼はウェールズでレコードを制作し、リリースし続けることが出来たのだ。さらなる音源はもうじきThe EPs−Volume Twoとしてサンビームから届けられるだろう。

リチャード・モートン・ジャック 2006年6月


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