Welcome to my homepage


Kate & Anna McGarrigle/Tell My Sister/2011 Nonesuch Records Inc. 7559-79770-8



アンナ・マッガリグル

1969年暮れのある時、私は大胆不敵なケイトから1本の電話をもらった。彼女と彼女の仲間のミュージシャンだったローマ・バランは、じかにフォーク・シーンを観察するためにニューヨーク・シティにいた。彼女たちはピアノとギターでやる初期のブルース・チューンをものにしていて、互いに自分たちのことをキャサリン(愛称がケイト)・カー、ローマ・ブラックウェルと呼び合うようになっていた。つまりリロイ・カーとスクラッパー・ブラックウェル(戦前のブルース・デュオ)の娘たちってことでね。

ケイトは電話でこういっていた―「ここにいる人たちは自分たちで書いた歌を歌っているわ」 私はアート・スクールを出たばかりだった。そこで大事なこととして学んだのは、テクニックじゃなくて自己表現だった。それでその精神にならって、私は“Heart Like a Wheel”を書き始めたの。のちにケイトとローマがピアノとチェロでプレイするようになって、最後にはリンダ・ロンシュタットが取り上げるようになった歌ね。

5年後に私は再びケイトから電話をもらった。その時は結婚して子供が1人いて、あまり活動していなかった彼女は、LAでマリア・マルダーといっしょにレコーディングをしていた。マリアはすでにケイトの“Work Song”をカヴァーしていた。その歌は昔の吟遊詩人の歌やパーラー・バラッド(家族で歌うようなやや娯楽向きのバラッド)を称えたブルージーなゴスペル・ナンバーだった。ジョー・ボイドとグレッグ・プレストピーノ含むプロダクション・チームと彼女は、ちょうど“Cool River”のレコーディングにとりかかろうとしていた。私が友人のオードリー・ビーンと共作した歌よ。

ケイトはこういった―「急いでこっちへ来たほうがいいわ。誰もコードが分からないのよ」 私は彼女のいうとおりにした。私はあの歌で自分の知るかぎりのコードをめいっぱい使っていた。LAにいる間、私たちはワーナー・ブラザーズのためにデモを作るように求められた。ケイトは彼女の初期のデモで明らかなように、簡単にソロ・キャリアを始めることができたんだけど、私にこういった―「私は1人でやりたくないのよ」ってね。それで私は自分のあやつり人形としてのキャリアを延期することにした。彼女の“Blues in D”でいいかえれば―「私にはかわいそうな女の子をがっかりさせることはできない」ってことね。妹にはありがとうといいたいわ。


グレッグ・プレストピーノ

私は1971年の秋にボストンで初めてケイトに会った。ある晩のディナーのあと、私は朝の4時まで彼女の歌とピアノを聴いていた。私はケイトの詞と曲と声に驚いて、釘付けになってしまったね。アンナがモントリオールから訪ねてきた時、ケイトは彼女に私を紹介した。2人がいっしょに歌う場に居合わせるのはとんでもない体験だった。私は彼女たちといっしょに働きたくなったね。でもどうやって?

1年後、私はロサンゼルスでマリア・マルダーといっしょに彼女のファースト・アルバムのために働いていて、彼女にケイトの“Work Song”をカヴァーすることを勧めたんだ。私はケイトとアンナをワーナー・ブラザーズと契約させるために、レニー・ワロンカーに頼み込んだ。1年ほどたって、ついにレニーは屈服して、ジョー・ボイドと私が共同プロデュースするならレコードを作ってもいいと同意してくれたんだ。


ジョー・ボイド

レニー・ワロンカーと私は、マリア・マルダーのセカンド・アルバムに入っている“Cool River”が大好きだった。もともとのテープはケイト・マッガリグルから送られてきたから、私たちはそれが彼女の歌で、彼女の声が何度か重ねられてあのかぐわしいハーモニーができ上がっていると思っていた。私たちはケイトに、ニューヨークからロサンゼルス行きの飛行機のチケットを送り、ハリウッドの高級ホテル、シャトー・マーモンに彼女のために予約をとった。彼女が姉のアンナを連れて行っていいかと尋ねた時、私たちはレコーディング中に生まれた赤ん坊の世話をするためだと思ってオーケーだといった(“黄金の70年代”だった。少なくともその頃のレコード業界は金が目的ではなかった)。

あの忘れられない午後のアミーゴ・スタジオに3人が現われ、ケイトとアンナはピアノのそばに立ってマリアといっしょに歌った。一方で赤ん坊のルーファスは隅っこのカゴの中で大人しくしていた。その歌はアンナ作であることが判明して、そのハーモニーはオーヴァーダブではなく、彼女たちが生で歌っていたことが分かった。姉妹による倍音はマイクロフォン周囲の空気の中で振動し、2つの声はまるで大勢が歌っているかのように聞こえたね。

私たちは彼女たちに、アルバム1枚分の曲を持っているかどうかを尋ねた―答えはイエスだった。ワーナー・ブラザーズは彼女たちのためにスタジオを押さえ、彼女たちはまさにその週末にグレッグ・プレストピーノといっしょにスタジオに入った。ノー・オーヴァーダブ、直にステレオで録った。“Mendocino”が最初にレコーディングされた(スタジオに向かうハーモニー・シンガーたちへ:別々に録ったヴォーカルではあの調和したサウンドに近づくことはできないだろう)。

ワーナーは彼女たちに契約書を手渡した―グレッグと私の共同プロデュースで、エンジニアがニック・ドレイクなんかでいっしょに働いた私の旧友のジョン・ウッドだった。私たちはニューヨークのA&Rスタジオを押さえ、リズム・セクションとしてトニー・レヴィンとスティーヴ・ガッドを雇った―当時の業界ではベストと考えられていたリズム隊だ。特に私は“Jigsaw Puzzle of Life”と“My Town”でのワルツをプレイする“ガッド・ザ・ファンク・ゴッド”を楽しんだね。ジョン・ウッドは私が覚えていないことを覚えている―例えば、アンナが“Jigsaw”のトラックは自分の足が踊り出したくなるようなグルーヴがないと不満をいったりしたことだ。

ガッドはうなずいて、次のテイクで各小節の頭を微妙に強調して、歌を穏やかに地面から浮かせるような感じにした。コントロール・ルームにいた見物人たちはみんなワルツのリズムをとり始めたね。

ロサンゼルスのサンウェスト・スタジオに続いて、伝説的なライヴ録り用スタジオのあるニューヨークに移って、そこで私たちはレコーディングを完了し、アルバムをミックスダウンした。ケイトは“Go Leave”を後回しにし続けていたが、ベーシストのレッド・カレンダーとクラリネット奏者のジョエル・テップとのすばらしく歓喜に満ちた“Blues in D”のセッションのあとで、雰囲気は最高だった。彼女は“Go Leave”をワン・テイクで録り終えてしまった。誓っていうが、今でも私には彼女のギターのてっぺんに落ちる涙の音が聞こえるね。

デモとレコーディングの間に、ケイトは夫のラウドン・ウェインライトと別れたが、アルバムがリリースされる前に再びいっしょになった。その結果、ケイトはマーサを身ごもり、プロモートのためのツアーを続けることができなくなってしまった。理由はどうあれ、アルバムは売れなかった―私の人生の数ある大きな失望のうちの1つだ。

私はデモ音源を用心深く聴いた―2人の姉妹がピアノに並んで座り、女神のようなハーモニーを聞かせるすばらしさに比べ、私たちのプロダクションが過剰になりやしないかと恐れながら。しかし私にとって、その簡素さと極上の響きは、37年たった今もグレイトだ。

単に耐久性ある歌唱とプレイだということではない。アンナの比喩的表現は時間を超越する。不釣合いな恋人たちの出会いは―“秋風に吹かれる雑草の種のよう”、また壊れた車輪のような心は―“曲げてしまえば直せない”などだ。ケイトのピリッとしたウィットとパッションは、何10年も燃え続ける。優しい声をもつ南部の若者たちは―“愛のことばを口にする時も最新の人種差別ジョークをささやく時も”、あるいはハラハラするような3つのライム―“Go Leave”に出てくる“ears”、“years”、そして“tears”などだ。

アルバム『Dancer with Bruised Knees』については残念に思うことがある。サウンドがあまり良くないんだ(ジョン・ウッドはミックスのみを担当していた)。しかしマスタリング・ルームで働くのは今でも楽しいね。唯一の問題が、次に出さなきゃならないアルバムだった。デモの入ったディスクではさらなる喜びを見つけることができる。ノース・ハリウッドでのその日から3年前の1971年に、契約を手に入れようとがんばっていたピアノを弾くケイトだ。そのパフォーマンスの猛烈なエネルギーは息を呑むほどだ。

それから、本気でファースト・アルバムにとりかかる前に、私たちがニューヨークで録ったラフ録音がいくつかある。ローマ・バランは“Willie Moore”と“Kiss and Say Goodbye”でギターと、まるでマッガリグル姉妹のような歌で参加している(“Willie Moore”の3声進行の2番目が彼女だ)。“麻薬と欲望”について歌ったケイトのショート・ストーリーである“Saratoga Summer Song”は、今では歌詞にあるように“風の影響でゆらゆらと揺れる”寂しげなSwimming-hole(水泳のできる深み)のロープを懐かしく振り返っている。

私も今似たような切ない思いで、ケイトを知り、いっしょに働いた数10年を振り返っている。彼女とアンナは、私たちを違う時代の感性へと導いてくれた。彼女たちはモントリオール北にある一軒の家で育った。そこにテレビはなく、1台のピアノに19世紀生まれの父親がいた。両親と上の姉のジェイニーは夜になると歌を歌い、ハーモニー・パートを見つけ出すことが、両親たちの承認を得る方法だった。

それでもケイトとアンナはフォークに分類されることに抵抗していたし、彼女たちは正しかった。彼女たちはポップ・スターではないかもしれないが、2人はコール・ポーター、ケベック(フランス系)の伝統、ステファン・フォスター、そしてフォーク・リヴァイヴァルの無邪気な初期の日々の境界線上にある未踏の領域を占めている。あなたがどこへ位置づけようと、ノース・アメリカン・ソングの本質は近くにあるだろう。

2010年1月18日、ケイトは家族に見守られながら息を引き取った。全員が最後の最後まで歌っていた。彼女のスピリットと豊富な遺産は、これらレコーディングの数々の中に、姉のアンナ、彼女の子供たちであるルーファスとマーサの音楽の中に今も生きている。


ホームへ