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Dave Mason/It’s Like You Never Left/2005 Repertoire Records RES 2320



デイヴ・メイソンは、輝ける60sミュージックが生んだ最高のアーチストの一人であった。素晴らしいシンガーであり、ギタリストであり、コンポーザーであり、プロデューサーであった彼は、あるいはロック・バンド、トラフィックの最大のヒット曲によって最も知られているかもしれない。それはメイソンが書き歌った‘A Hole In My Shoe’のことだ。この一種独特なポップ・アンセムは、のちにBBCテレビのコメディ・チーム、The Young Onesによってリヴァイヴァル・ヒットした。トラフィックの‘A Hole In My Shoe’は1967年UKチャート2位に上るヒットとなり、その17年後にもThe Young Onesの‘Neil The Hippie’によって2位になったのである。

しかしながらメイソンのその商業的成功は、早くもトラフィックからの旅立ちを促すことになった。トラフィックは彼がジム・キャパルディ、スティーヴ・ウィンウッドそしてクリス・ウッドと結成したバンドであった。音楽的ポリシーについてのウィンウッドとの対立によってメイソンはバンドを脱退し、アメリカに移り住むことになった。そこで彼はソロ・キャリアをスタートさせ、成功を収めた。その中の一枚が、この‘It’s Like You Never Left’だった。このそうそうたるメンツが多数参加した‘Gold’アルバムは、グレアム・ナッシュ、ジョージ・ハリスンというスターを含んでいる。

メイソンの魅力的な歌詞、ヴォーカル・ハーモニー、そしてブルージーなギターは、このアルバムよりもずっと以前に確立されていた。1945年5月10日、イングランド、ウスターシア州のウスターに生まれた彼は、学生時代に歌とギターを始めた。イングランド中部で栄えていたミュージック・シーンを享受しながら育った彼は、しばらくの間スペンサー・デイヴィス・グループのロード・マネージャーとして働いていた。このバーミンガム出身のグループは、17歳のスティーヴ・ウィンウッドをリード・シンガー、ギタリスト、そしてキーボード・プレーヤーとしてフィーチャーしていた。彼らは‘Keep On Runnin’’(1965)と‘I’m A Man’(1967)含む一連のヒット曲によって国民的人気を博していた。ウィンウッドがスペンサー・デイヴィス・グループを去る決意をした時、彼は次のステップとして、以前ザ・ヘリオンズというグループでデイヴ・メイソンと一緒に活動していたジム・キャパルディ含むミッドランド(イングランド中部)仲間たちとチームを組むことを考えていた。デイヴ、スティーヴ、ジムそしてクリス・ウッド(フルート)というメンツの新しいバンドは、クリス・ブラックウェルが新しく設立したアイランド・レコードと契約した。

クリス(ブラックウェル)はトラフィックにバークシアにある元猟場番人の小屋を提供し、そこで彼らは共に生活し、デビュー・アルバム‘Mr. Fantasy’のために曲を書きリハーサルを行なった。その栄光の1967年夏、私は小屋を訪ね、スティーヴのハモンド・オルガンとジム・キャパルディのドラムスのプレイを楽しんだ。彼らの名高い野外ジャム・セッションのひとつだ。それは本当に楽しかった―ジムが現れてドラム・キットをあやつる間ずっとだ。口ひげをはやしたデイヴ・メイソンは、奇妙でおかしな雰囲気を持っていて、トラフィックのジャズロック風なジャム・セッション的側面からは、わずかばかり距離を置いているように見えた。個人的にもミュージシャンとしても、より自身のスタイルを保持していた彼は、デビュー・シングル‘Paper Sun’のようにバンド初期のマテリアルがメンバー全員の共作によるものではあったが、自分の曲を書くことに執着していた。スティーヴがリード・ヴォーカルをとる‘Paper Sun’は、1967年7月にリリースされた。しかしながら次のシングル、‘Hole In My Shoe’のリード・ヴォーカルはデイヴがとり、10月にリリースされチャート上でさらによい結果となった。

その年の暮れまでに、高まっていた緊張によってメイソンはトラフィックを脱退し、アメリカでデラニー&ボニーに加入することになった。代わりのメンバーは入れず、トラフィックはウィンウッド、キャパルディそしてウッドのトリオで続けることにした。しかし翌夏、デイヴはセカンド・アルバム‘Traffic’(1968)のレコーディング・セッションのために再加入した。そのアルバムの中で忘れられない2曲が、‘You Can All Join In’と‘Feelin’ Alright’で、後者はジョー・コッカーにカヴァーされた。しかしながらサード・アルバム‘Last Exit’(1969)のレコーディング中、メイソンは再びトラフィックを去った。この時点でトラフィックは解散し、しばらくの間スティーヴは、エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーの短命に終わった‘スーパーグループ’、ブラインド・フェイスに参加した。

イングランドに戻ったデイヴ・メイソンは、メイソン・キャパルディ・ウッド&フロッグというバンドを結成した。‘Frog’はオルガニストのミック・ウィーヴァー(元Wynder K. Frog)のことだ。半月以内にトラフィックはキャパルディ、ウィンウッド、ウッドそしてリック・グレッチという布陣で再び集まり、アルバム‘John Barleycorn Must Die’(1970)を制作した。1971年5月、デイヴ・メイソンは最後となるトラフィックへの三度目の加入を果たした。アルバム‘Welcome To The Canteen’(1971)への参加のためだった。その年の12月彼は脱退した。これが最後の脱退であった。トラフィックは70年代を通じてアルバムのリリースとツアーを続けた。一方のメイソンは、その時までにロサンゼルスに永住していた。彼はデビュー・ソロ・アルバム‘Alone Together’をブルー・サム・レーベルからリリースした。これはUSトップ30に入るヒットとなり、彼の最初のゴールド・ディスクとなった。このレコードは彼の友人であるジム・キャパルディ、レオン・ラッセルそしてデラニー&ボニーに少し助けを借りていた。

彼はまた、ママス&パパスにいたシンガー、キャス・エリオットと共にアルバム‘Dave Mason And Cass Elliott’(1971)をリリースした。長びくことになった法的論争のあと、デイヴ・メイソンはコロンビアと契約を交わし、一連の‘カヴァー’とオリジナル作品両方をフィーチャーしたポップ/ロック・アルバムを制作することになった。

1973年5月、デイヴはライヴ・アルバム‘Dave Mason Is Alive!’をリリースした。12月には彼の最初のコロンビアからのリリースで3年ぶりとなるスタジオ・アルバム、‘It’s Like You Never Left’(1973)をリリースした。彼はホリーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングで有名なグレアム・ナッシュをヴォーカルで迎え入れた。スティーヴィー・ワンダーも参加し、ジョージ・ハリスンは‘Son Of Harry’という名でギターを弾いている。レギュラー・バッキング・ミュージシャンには、ベースにカール・ラドル(レイドル?)、ドラムスにジム・ケルトナーとジム・ゴードンらが含まれていた。アルバムを占める10曲のメイソンの手によるナンバーは、あたたかさとリラックスしたウェスト・コースト・フレイヴァーがにじみ出ている。‘Baby…Please’はあざやかなブルース・リード・ギターの入った陽気なナンバーだ。‘Every Woman’はスローでソウルフルなヴォーカル・ハーモニーと感受性豊かな詞を持っている。デイヴは気づかうように歌っている:‘君は僕にとって世界の全て、そして僕が通り抜けてきた全ての季節・・・’ ‘If You’ve Got Love’はカントリー・スチール・ギターの感触と巧みなヴォーカル・ラインのフックが効いている。一方‘Maybe’はかなり悲痛な詞、‘あるいは僕らは死ぬまで他人かもしれない・・・’を持つバラッドだ。‘Head Keeper’はより活発なロック・ナンバー、そして‘Misty Morning Stranger’は楽しげなヴォーカルが愉快なナンバーだ。‘Silent Partner’は少しだけCSN&Yとトラフィックが混ざったようなサウンドだ。‘Side Tracker’は粋なリード・ギターを伴ったスロー・ジャム、‘The Lonely One’は騒々しいギターとピアノの調和が聞ける。

1974年12月、デイヴは‘Dave Mason’をリリースし、これは彼の二度目のゴールド・ディスクとなった。1975年11月にはゲストにマンハッタン・トランスファー、デイヴ・クロスビーそしてグレアム・ナッシュを迎え‘Split Coconut’がリリースされた。1977年6月の‘Let It Flow’はまたしてもゴールド・ディスクとなり、同年のソロ・シングル、‘We Just Disagree’は彼自身最大のヒットとなった。これは11月にUSビルボード・チャートの12位に達した。1978年7月、彼はシュレルズのヒット曲、‘Will You Still Love Me Tomorrow’のカヴァーでもヒットを放った。

1980年、デイヴは彼の最後のヒット・チャート・アルバム‘Old Crest On A New Wave’を出し、これはUSでマイナー・ヒットとなったシングル‘Save Me’を生んだ。以降の彼は成功に恵まれなかったがライヴ活動を続け、1994年フリートウッド・マックのワールド・ツアーに参加した。彼はまた自身のDave Mason Bandでも幅広くツアーして回った。

2005年1月28日、デイヴの耳に旧友ジム・キャパルディの死という悲しい知らせが届いた。デイヴとジムは1998年にUSツアーで一緒に仕事をしたのが最後だった。1983年のクリス・ウッドの死以降、今ではデイヴ・メイソンとスティーヴ・ウィンウッドだけがオリジナル・トラフィックの生き残りメンバーとなってしまった。しかし2004年3月、トラフィックがロックンロール・ホール・オブ・フェイムの殿堂入りを果たした時、少なくともデイヴ、ジム、スティーヴの3人が今なお続くトラフィックの栄光を祝福することができたのだ。

クリス・ウェルチ 2005年3月、ロンドンにて


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