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John & Beverley Martyn/The Road To Ruin/2005 Universal Island Records Ltd. IMCD 318/983 079-5



1960年代中頃のブリティッシュ・フォーク・ブームから現われたミュージシャンの中で、ジョン・マーチンは間違いなく最もプログレッシヴであり、最も影響力を持つ一人である。彼の音楽はフォーク、ブルース、ロックのスタイルに分け入り、続く世代のミュージシャンたちをインスパイアし続けている。マーチンは1948年9月、サリー州ニュー・モールデンにイアン・デヴィッド・マッギーシーとして生まれたが、両親が離婚してからはグラスゴーで育った。15歳で彼はギターを独学でプレイするようになり、17歳で学校を飛び出し、地元グラスゴーのフォーク・クラブで、地元のフォーク・ミュージシャン、ヘイミッシュ・イムラックの庇護のもと、定期的に出演するようになった。イムラックはマッギーシーを理解し、自分の子分としてその音楽的発展を促すべく励ました。マッギーシーはこの段階で自身のスタイルを見つけ、それは古典的な音楽からバロック・フォーク・ギタリストのデイヴィ・グレアムに至る様々なスタイルからの影響を受けていた。また若きマッギーシーは大きな影響力をもつインクレディブル・ストリング・バンドの創立メンバー、クライヴ・パーマーと親しくなった。北方のフォーク・クラブでの評判に勇気づけられた彼はロンドンに進出し、バンジーズやレス・カズンズといったフォーク・クラブでの最初のパフォーマンスで注目を集めることになった。彼の最初のエージェントの提案により、彼は名前をJohn Martynに改めた。姓は彼のお気に入りのアコースティック・ギター・メーカーから取り、“i”の代わりに“y”を使用した。

ソーホー・フォーク・シーンで活動を続けるうち、彼はクリス・ブラックウェルの目にとまった。ブラックウェルはその時、自身のレーベル、アイランド・レコーズの音楽を西インド諸島からブリティッシュ・ロック、フォークへとシフトさせていた。1967年、ジョン・マーチンはアイランド・レコーズと契約を交わした初の英国人となり、158ポンドの予算で、まだ未発達なデビュー・アルバム“London Conversation”をレコーディングした。シンプルで華麗なプレイが聞けるアルバムは、1967年10月にリリースされ称賛を受け、それはマーチンのアイランドとの契約延長に値する十分なセールスを上げた。続くアルバム、1968年12月にリリースされた“The Tumbler”は飛躍的な創造性を示し、ジャズの影響が聞けるマーチン最初のレコードとなった。仲間のフォーク・ミュージシャン、アル・スチュワートがプロデュースを担当し、才能あるジャズ・フルート奏者ハロルド・マクニアをフィーチャーしたアルバムは、“Dusty”、“Flying on Home”そして“Hello Train”といった素晴らしいマテリアルをフィーチャーしていた。

1969年1月、マーチンはチェルシー・カレッジ・オブ・アートでのUSシンガー、ジャクソン・フランクのサポート・アクトを務めていたベヴァリー・カットナーと出会った。べヴァリーもまたロンドン・フォーク・シーン出身で、その時ロンドンに滞在していたアメリカ人シンガーソングライター、ポール・サイモンと友人同士になっていた。アート・ガーファンクルとともに成功を収めたあと、サイモンは1967年のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルに彼女を出演させることを確約していた。彼女がジョンと会った時、彼女はプロデューサー、ジョー・ボイドのウィッチシーズン・プロダクションズのためにソロ・マテリアルにとりかかり、共に働いてくれるミュージシャンを探していた。彼女はのちに回想している。“彼は独特で、しゃれてて、笑顔の似合うカーリー・ヘアだったわ。彼は理想的な男性に見えた。そしてもちろん彼のことばかり考えるようになったわね。” ジョンとべヴァリーはすぐにロマンスに落ち、1969年に結婚した。ジョー・ボイドはアメリカのワーナー・ブラザーズ・レコードからべヴァリーのアルバムをリリースする意向を伝えられていたが、すぐにボイドは夫妻がデュオとしてレコーディングするのが創造的成果を生むに違いないと確信した。

ワーナーとの交渉を終え、1969年初夏、ジョンとべヴァリーはUSAに飛び、ニューヨーク州北部のミュージシャンの聖地ウッドストックを彼ら自身の拠点とした。そのエリアはその年に行なわれることになった名高いロック・フェスティヴァル、ボブ・ディランとザ・バンドが住み着きレコーディングした悪名高い“basement tapes”セッション、そしてザ・バンドが傑作“Music from Big Pink”(当時ジョンに大きな影響を与えた)を生み出したことにより世界的に有名となった。ジョンとべヴァリーはすぐに地元の音楽的、社会的シーンに溶け込み、ザ・バンドのドラマー、リヴォン・ヘルム、週末の隣人ジミ・ヘンドリクスと友人同士になった。ジョンはのちに回想した。“ヘンドリクスは実際僕らの隣に住んでいたよ。彼は毎週木曜日になると紫のヘリコプターでやってきて週末を過ごし、月曜になると去って行ったね。”

ウッドストックでデュオは音楽的アイデアを練り、新曲を書き、その年(1969)初めにイングランドで書いた曲を手直しした。数週間のうちに、ジョンとべヴァリー・マーチンは彼らのファースト・アルバムを録音するために、プロデューサーのジョー・ボイドとともにニューヨークのA&Rスタジオにこもった。録音された大部分の曲はジョン・マーチンが手がけ、あるいはデュオ内では彼の音楽的影響が支配的に現われているかもしれない。ちょうど6日間で10曲が録音され、様々なゲスト・ミュージシャンがフィーチャーされた―リヴォン・ヘルム、マザーズ・オブ・インヴェンションのドラマー、ビリー・マンディ、パーカッショニストのハービー・ラヴェル、ベース・ギタリストのハーヴィー・ブルックスとキーボード・プレイヤーのポール・ハリス(ザ・ドアーズとジョン B. セバスチャンとの仕事で知られていた)などだ。ハリスの高度なオリジナル・アレンジメントと音楽的方向性はアルバムの特徴を決定づけていた。

ジョン・マーチンはのちに指摘している。“このセッションでは多くのことが実現できた。それ以前ではアコースティック楽器とドラムスを両立させることは誰も考えたことはなかったんだ。ちょっとうぬぼれた考えのように見えたね。でも僕はこのアルバムはかなり時代の先を行っていたと思う。” これはまたマーチンが使用することになるエコープレックスというテープ・ループ・ディレイ・ユニットの初登場となった作品だった。それは数年間に渡り、彼のギター・サウンドと音楽を特徴づけることになった。1970年2月にリリースされた“Stormbringer”は名高いNigel Waymouth of HapshashとColoured Coatによる印象的なスリーヴ・デザインが施され、かなりの称賛を受けたが、英米両国のアルバム・チャートを上ることはなかった。彼のギター・プレイとヴォーカルに焦点を合わせたアルバムへの大きな称賛によって、ジョンは再びソロ・アーチストとして独立しようとするプレッシャーに抵抗していたが、アイランド・レコーズはデュオの音楽をサポートし続けることに十分力を注いでいた。そして二人は次のアルバムのための新曲を書くことに専念した。1970年の春おそく、再びジョー・ボイドがプロデューサー、ジョン・ウッドがエンジニアリング担当としてサウンド・テクニクス・スタジオで仕事が始まった。

レコーディングが始まった当初から、音楽のプロダクション・スタイルをめぐってジョン・マーチンとジョー・ボイドの間にかなりの意見の対立があることが表面化した。マーチンは技術的な完璧さよりも、その場の雰囲気を大事にし、自発的なレコーディング・アプローチをしきりに試みようとしていた。ジョンはまた他の音楽的方向性と影響を取り入れようとしていた。のちのインタビューで彼は回想している。“べヴァリーと僕がセカンド・アルバムを録音した時までに、僕の耳はもっとオープンになっていて、僕はより多くの音楽を聴くようになっていたんだ。僕はたくさんのギグをやっていたし、次から次へと他のミュージシャンと付き合うようになっていた。僕は誰かのレコード・コレクションやその人たちが連れて行ってくれたギグや、自分自身で見に行ったギグなんかを通して、毎日より多くの音楽にさらされていたからね。”

録音されたマテリアルは彼らのデビュー・アルバムよりも、デュオの間に合作的な肌触りをもっていた。“Auntie Aviator”、“Sorry to be so Long”、そして“Say What You Can”は二人の共作だった。べヴァリーは見事な“Primrose Hill”を提供した。一方、ジョンは素晴らしい“Parcels”、“New Day”、“Tree Green”そして“Road to Ruin”を書いた。ボイドはこのレコーディングをアシストする名高いセッション・ミュージシャンたちを雇い入れた。中でも注目すべきは、ジャズ・ミュージシャンのレイ・ウォーレイとリン・ドブソン、そしてベーシストのデイヴ・ペグだ。

振り返れば、セッションはそのあと5年に渡るジョンのソロ・キャリアのスタート地点であり青写真であった。“New Day”のレコーディングは、最初のダニー・トンプソン(元ペンタングルのダブル・ベーシスト)とのスタジオ・セッションであり、ジョンにとって不変の響きを持ったトラックだ。トンプソンの独特なスタイルは10年間に渡って、ジョンのレコーディング作品に色を添え、彼は公私にわたって価値ある音楽的パートナーであることを証明してみせた。他の注目すべきトラックが“Give us a Ring”だ。これはジョンの友人であり音楽仲間だったニック・ドレイクを歌ったものだ。

セッションはべヴァリー・マーチンの“Here I am Now”がレコーディングされた1970年7月まで続いた。このトラックだけが、お蔵入りとなる前にモノ・ミックスを施された。35年を経て、これは今回の拡大版CDリイシューのボーナス・トラックとしてついにその価値にふさわしいリリースとなった。“The Road to Ruin”(Island ILPS 9133)は1970年11月にリリースされ、印象的なスリーヴは再びNigel Waymouthによるものだった。おかしなことに、“Say What You Can”はオリジナルのレコードでは“Let it Happen”とクレジットされていた。いくらかの素晴らしく好意的なレビューにもかかわらず、アルバムはUKアルバム・チャートでブレイクすることはなく、前作と同じ運命を辿ることになってしまった。

ジョンは間もなくいつもの誠実なやり方で、その結果についての不満を公然と述べ始めた。“僕はアルバムが自発性という点において妥協してしまったと考えている。” のちに彼はいっている。“ところどころオーヴァーダビングがはっきりとし過ぎていて、時折とっ散らかったように聞こえるんだ。レコードの‘肌触り’と、僕ののちのアルバムの中に豊富にあった自信を奪うようなね。”

あとになってみれば、彼のコメントはむしろ公正なものではないように思える。ここに詰め込まれた音楽的情報は絶対的に高水準であるし、アルバムはジョンのキャリアの中で、今見れば重要なポイントに当たるものだ。1971年に入って数ヶ月でベヴァリー・マーチンは2番目の子供を妊娠し、彼女が音楽的キャリアを続けられる見通しは薄いものとなった。“Stormbringer”と“The Road to Ruin”のセールス的失敗を案じたアイランド・レコーズは、ジョンに元のソロ・アーチストへ戻るように圧力をかけ始めた。“レコード会社はべヴァリーにあまり関心を持っていなかったんだ。” のちに彼は回想している。“彼らは僕にソロ・アルバムを作るようプレッシャーをかけ始めた。” アイランド・レコーズに向かってソロかデュオかを決める立場になかったジョンには、ソロ・アルバムを録音するための準備が整えられた。彼の家族はヘイスティングスの港町に引越し、ジョンはアルバムのための新曲にとりかかった。彼の最初の奇跡のような大傑作アルバム、“Bless the Weather”のためであった。

マーク・パウエル


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