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John Martyn/London Conversation/2005 Universal Island Records Ltd. IMCD 319/983 073-3



ジョンのデビュー・アルバム、London Conversationは、158ポンドの費用でマーブル・アーチのパイ・スタジオでモノ録音され、1967年10月にリリースされた。アルバムの純真な歌の数々は音楽プレスから称賛を勝ちとり、それは2000年代にまで及ぶキャリアの出発点となった!

音楽は絶えずことばを進化させ、創造的風景を様々に変化させるものだ。そこからアーチストたちが現れ、評価を受け、時に難解さへと沈みこんだりする。この創造的風景をうまく横断し、その価値ある革新性に対する認知を与えられるアーチストはほとんどいない。おどろくべき才能をもち、あわれみ深く、そして時にずばりとものをいうジョン・マーチンは、続く新しい世代すべてに影響とインスピレーションを与え続けてきたアーチストの1人だ。

あなたが彼の提示するもの全てを感じ取り、ついにはそれに釘付けとなり、彼の音楽をカテゴライズしたとたんに、彼は他のものに変身してしまう。ジョンはいかなる特定の音楽ジャンルにも従うことを拒否しながら、同時にそれら全てに取り組んでいる。彼のギター・プレイは何年にもわたって進化してきた―60年代のアコースティック・ギターから、ワウワウ・ペダル、ファズ・ボックス、そしてエコープレックスを用いた70年代のエレクトロ・アコースティックへ、フルバンドの一員としてほとんど全面的にエレクトリック・ギターをプレイした80年代へ、そしてトリップ・ホップとファンクを取り入れた90年代まで。

ジョンに魔法使いがついているはずはなく、彼のギター魔法は独学だ。慣れ親しんだサウンドとともにひとところに決してとどまらない真にプログレッシヴなアーチストは、探求と実験を好み、新しいアイデア、色彩、質感を音楽に取り入れ、新しい地平を開拓するものだ。彼のライヴ・パフォーマンスは伝説であり、ジョンのスタジオ・アルバムに収められた歌の多くは、その自由で構造化されないライヴ・パフォーマンスの中で、探求から発展したり、すでに認められた音楽的領域に戻っていったりする。

ジョンは心から歌を歌う根っからのロマンチストだ。このような献身と熱意を持って歌うアーチストは他にいない。人々は彼の深い感受性を伴ったマジカルな歌を好きになったり嫌いになったりする。ジョンの音楽は私たちの心の状態を示すバロメーターだ。私たちの幸福は彼の歌によって測ることができる。感情と精神性はそれら全ての歌の中心にあり、彼自身の中心にあるものだ。

ジョン・マーチンは1948年9月11日にイアン・デヴィッド・マッギーシー(McGeachy)として、サリー州ニュー・モールデンのビーチクロフト・アヴェニューで生まれた。彼は2人の輝かしいオペラ歌手、トーマス・パターソン・マッギーシーと、ベアトリス・ジューイットの間に生まれた1人息子だった。ジョンの両親は彼がまだ幼い頃に離婚し、彼は幼少期を父親と祖母とともにグラスゴーで過ごした。彼の祖母は伝統的なスコティッシュの血の染みついた人間だった。「僕は祖母と父親に育てられたんだ。それはすばらしいことだったと思ってるし、とても貴重な時間を過ごしたね。学校は歩いて行ける距離にあったし、祖母はすごく古いタイプの上品なヴィクトリアンで、僕をとても大事に扱ってくれた」 父親から教わったものは?―「釣りとバイクとf*ck!」

グラスゴーはその造船技術の産業都市として知られていたが、1950年代までに貿易と造船への需要は衰えていた。その斜陽都市はもはや魅力的なところではなくなり、多くの冬の晩には厚いスモッグが街を覆い、ほとんど数ヤード先も見えないほどだった。オスカー・マーツァロリが撮った印象的な写真に写っていたゴーバルズ区(グラスゴーのクライド川南岸にある地区:かつてはスラム街が多かった)の古い石造りの家屋は破壊され、高くそびえるレンガ造りの家に取って代わられた。ジョンは当時の荒っぽい環境を回想する―「数人の悪ガキを蹴飛ばしに行くんだ。さもないとホモと見なされていたね」

ジョンはモス・サイド・ロードのShawlands Academyの学校へ通い、それからグラスゴー・スクール・オブ・アートへ進んだが、2ヵ月後に追い出されてしまった!「僕はボヘミアンになることばかり考えていた。一日中ローリング・ストーンズを聞いて、マリファナを吸って、コーヒーを飲んでね。それが僕のライフ・スタイルになりつつあった。思いどおりにはいかなかったけど」 彼の音楽への関心は両親からきていたが、両親の専門だったオペラからではなかった。「僕の親父はちょっと放蕩者っぽい人間だったんだ・・・親父はデイヴィ・グレアムのレコードを持っていたんだ!」 デイヴィ・グレアムはジョンの音楽に大きな影響を与える1人となるミュージシャンだった。

私はジョンに少年時代のことを尋ねたことがある。「僕はカブスカウト(ボーイスカウトの幼年団員:英では8〜11歳)だったんだよ!」 彼は大声で言っていた。学校が休みに入ると、ジョンは母親のところで過ごしていた。「家族はサリー州のテムズ・ディットン沿いのテムズ川にハウスボートを持っていた。そのあとはシェパートンのシップ・ホテルの向かい側にね。そこのパブは近くの映画撮影所から集まってくる俳優たちでごった返していた・・・とても奇妙な一団だったね」 彼はクスクス笑いながらつけ加えた。

ジョンはギターを買うために新聞配達をして金を貯め、15歳の時にギターをプレイするようになった。17歳の時に彼は学校を去り、ヘイミッシュ・イムラックの庇護のもと、地元のフォーク・クラブに出演するようになった。イムラックは彼を励まし、彼に多くの様々な音楽ジャンルを紹介した人物だ。ジョンの中に才能と可能性を見出していたイムラックは、カルカッタ生まれの温和で寛大な男であり、かなりの名声をもったシンガー/ブルース・ギタリストだった。

フォーク、ブルース、ジャズの境界線をあいまいにしたことで名高い草分け的ミュージシャンであるデイヴィ・グレアムは、ジョンにとって最初のヒーローの1人だった。「僕は彼のプレイにとてつもない感銘を受けて、僕もギターをプレイしようと決心した。実際、僕は1965年までに彼を聞いてとても感動したから、デイヴィ・グレアムになりたいと思ったほどだったね。彼になれないとしても、彼からはなれたくなかったから僕はギターを買ったんだ」 ジョンの最初のギグは、いくらか思わぬところから実現した。「ジョッシュ・マクレーがパブで酔っ払って出演できなくなったんだ。それで僕がやることになった。なぜかっていうと、ギターを弾いて歌えるのはオーディエンスの中で僕だけだったからだ。約4ヵ月後にスターリング(スコットランド中部)外側のダラーにあるブラック・バルっていうところでプレイした。11ポンドのギャラをもらったけど、そりゃうれしかったね」

グラスゴーのソーキホール通りにあるクライヴズ・インクレディブル・フォーク・クラブを経営していたクライヴ・パーマーは、60年代中頃にロビン・ウィリアムソンとともにインクレディブル・ストリング・バンドを結成し、ジョンの親友になった。「僕が聞いた中で最高のバンジョー・プレーヤーで、素晴らしい男だね」 ジョンとクライヴはフラットを共有し、音楽パブやクラブによく出入りしていた。「当時は本当に騒々しい日々だった。クライヴは驚くべき男で、グレイトなミュージシャンで、ちゃんと地に足がついていた。彼は全くはったりなんてなしに僕にプレイに関して多くのことを教えてくれた」 それから彼らはカンブリア(イングランド北西部)のボロボロの小屋に移り住んだ。ジョンは回想する―「電気も水もなかったけど、僕たちは1日中ギターを弾いていた。外に出ても何もなかったね。あるのは湿地だけだった。湧き水を飲んでいた。素晴らしい日々だったな」

北方でのクラブ・サーキットで名声を高めていたジョンは、ロンドンに進出すべき時がきたと判断した。ロンドンにはわくわくするような音楽シーンが盛り上がり、24時間営業の新しいクラブができ始めていた。「僕はどこでも適当な場所で寝泊りしていた。トラファルガー広場で寝たり、警官に追い払われたりね」 彼は最初のエージェントだったサンディ・グレノンの提案で、名前をジョン・マーチンに改めた。姓は彼のお気に入りのアコースティック・ギター・メーカーからとり、“i”の代わりに“y”を入れた。ファースト・ネームは単純明快でありふれた名前以外の理由はないと思われる。ジョンはグリーク・ストリートのレス・カズンズ、バンジーズ、キングストン・フォーク・バージのようなロンドン中のクラブでギグを始めた。

「僕がキングストンのフォーク・バージっていうクラブに出演していたら、セオ・ジョンソンっていう1人の太った男が近づいてきて僕にこういった―‘君をスターにしてやろうじゃないか’一語一句そのとおりにいったんだ!僕は興奮して‘話を続けてくれよ’っていった。それから彼は僕の2曲のデモ・ディスクを作って、クリス・ブラックウェルのところへ持っていって僕に紹介した。ほらいったとおりだろ!ってね」 ジョンによれば、レス・カズンズは本当にがやがやと騒がしく素晴らしい場所だったらしい。大農園オーナーの息子だったクリス・ブラックウェルは、1959年にジャマイカでアイランド・レコーズを立ち上げた。レーベル名は英国の小説家アレック・ウォーの小説Island in the Sun(1956年作品)から付けられ、初期のリリースは西インド諸島のミュージシャンで占められていた。ジョンはレーベルと契約を交わした初の白人アーチストの名誉を授かることになった。ブラックウェルは回想している―「私は彼のことも彼の声も好きだったから契約したんだ」

London Conversationはクリス・ブラックウェル監督のもと、セオ・ジョンソンによってプロデュースされ、ジョンがまだ19歳の時にリリースされた。アルバムはすぐれた詞と、シタールとフルートを使ったRolling Homeのようなジャジーな演奏を含むフォーク・トラディションにのっとっている。そのジャジーな側面は、当時のフォーク・サーキットの中でジョンの特徴を際立たせる要素となった。

Back To Stayは切ないメロディを伴った美しいラヴ・ソングであり、のちのジョンのアルバム群を予兆させるものだ。

僕はひとりぼっちの夜をたくさん過ごしていたけれど
僕がきょう戻ってくることを君は分かっている
僕は君を抱きしめるために戻ってくる
僕はあちこちうろうろと好きなように生きてきたけれど
それは君のいない世界
ハニー 僕のやることには何の意味もありはしない
だから僕のために泣かないでおくれ・・・

僕の人生には他の誰かがいるのかもしれない
ハニー 僕の心の中にはね
君はいつもひとりぼっちだと思うだろう
君はどこか外国へ旅に出たいというけれど
僕は君を忘れないだろう
そう 君の記憶に僕はとどまり続けるだろう
だから僕のために泣かないでおくれ・・・

やっとのことで
君がさまよいながら僕のところへ戻ってきたとき
僕は君を見つめるだろう
でもその間には何週間もの月日がたっているだろう
僕が君を抱きしめたとき それはもう僕の君じゃないかもしれない
過ぎ去った日々の君とは
僕たちは新しく生まれ変わるのかもしれない
だから僕のために泣かないでおくれ・・・


ジョンは、女性アメリカ人シンガーソングライターのロビン・フレデリックがニック・ドレイクについて書いたSandy Greyをレコーディングした。彼女はフランスのエクサン・プロヴァンスに住み、フォーク・ソングを歌っていたが、のちにジョンとともにタイトル・トラックのLondon Conversationを共作するジョン・サンデルといっしょに彼女の歌を歌っていたことがあった。ニック・ドレイクはクラブ・デ・ラ・タータンで彼女と出会い、2人はとても親しくなった。

ある時ニックとロビンはあるカフェで会うことになっていたが、ニックは現れなかった。そのことで深く傷ついたロビンはSandy Greyを書いた。1967年の夏、彼女はヒッチハイクでロンドンへ行き、そこでジョンと会い、共に時間を過ごした―「サージェント・ペパーとインクレディブル・ストリング・バンドを聞いて、10分くらいでジョンがシタールをプレイできるようになるのを見たわ。彼がファースト・アルバムのLondon Conversationをレコーディングしている間は、トーストとお茶だけで生活していた」 当時ジョンは、彼女の書いたSandy Greyが、ニックに会えなかったことについての歌だとは知らなかった。数年後、ジョンとニックは親友同士となり、ジョンはニックについての歌であるSolid Airを書き、同タイトルのアルバムが1973年にリリースされた。

私はジョンがニックのことについて話すことを好まないのは知っていたが、機嫌がよさそうだったので、彼らがどうやって知り合ったのかを尋ねてみたことがある。彼は話してくれた―「ニックはポール・ウィーラーの友人で、僕たちはケンブリッジのフォーク・クラブで会ったんだ。ニックのBryter Layterが出る数ヶ月前だった。僕はその前にも彼を見たことがあったんだけど、それほど注意を払っていなかった。彼はとてもハンサムで魅力的な奴で、よくハムステッドのベヴ(べヴァリー・マーチン)と僕のうちでいっしょに過ごしたね。とても仲のいい友人だった・・・」 それからジョンはニックとの個人的な思い出を自分の中へ引っ込め、その顔にはそれ以上ニックのことについて話すのに気が進まないような表情が現れていた。

ジョンは子供が夢に見るような星、虹、小妖精をつかまえる美しく魅惑的なFairy Tale Lullabyを歌っている。

もし虹に乗りたいのなら 僕についておいで
僕が君を魔法の深紅色の海へ連れて行ってあげよう
もしかしたら砂糖でできた1000匹の魚が見つかるかもしれない
君がそれを食べると彼らは君の願いを何でもかなえてくれるんだ
もし君に友達がほしければ
彼らが連れてきてくれる・・・


She Moved Through The Fairは、スタジオに保管されていたオリジナル・モノ・マスターから発見され、今回初めてここでボーナス・トラックとして収められた。この歌の起源は中世の時代にさかのぼり、多くのヴァージョンが残されているが、アイルランドの詩人パドレイク・コラムの詩で有名だ。その詩は彼の詩集Wild Earth and Other Poemsに収められ、1916年に出版された。ジョンは歌っている―

いとしい恋人は私にいった
「私の母さんは気にしないでしょう
私の父さんもあなたを軽んじたりしないわ
あなたが気遣いに欠けていることに(For your lack of kind)」

彼女は私の手に自分の手を重ねた
それはこういうことだった
「もうすぐ結婚できる日が来るわ」

彼女は歩きだした
彼女は優雅に身をこなしていた
私は彼女の姿を愛情をこめて見つめていた
彼女がどこにいようと

それから彼女は家路についた
星を目覚めさせるかのように
湖を夜の白鳥が渡るように

彼女はゆうべにやってきた
私のいとしい人がやってきた
あの優しい物腰で
足音ひとつ立てずに

彼女は私の手に自分の手を重ねた
それはこういうことだった
「もうすぐ結婚できる日が来るわ」


ファースト・ヴァースの“kind”は、もともと古語で“kine”であり、中世の時代にはその人の富のシンボルである“牛”を意味していた。デイヴィ・グレアムはこの歌を1963年のEP、The Thamesiders and Davy Grahamでレコーディングした。サンディ・デニーも同様に1967年のホーム・デモで録音していた。ジョンと同じように、彼女のヴァージョンも何年もたった2004年のA Boxful of Treasures(Fledg’ling Records NEST 5002)で初めて日の目を見た。しかし彼女は1969年1月リリースのフェアポート・コンヴェンションのアルバム、What We Did On Our Holidaysで披露していた。

Cocaineはジョンお気に入りのトラディショナル・ソングで、自身のアレンジメントが施され、このアルバムから唯一今日のステージでもプレイされるナンバーだ。ボブ・ディランのDon’t Think Twiceのカヴァーは、彼の繊細な感性を示している。彼の若々しいフレッシュな声は、この歌にほとんど無垢な純真さを与え、同時にそれはアルバム全体にも行き渡っている。

1年少したった1968年12月に、ジョンはセカンド・アルバムのThe Tumblerをリリースする。それはこのLondon Conversationとは全く異なるアルバムとなった・・・

John Hillarby、2005年9月


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