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John Martyn/Bless The Weather/2005 Universal Island Records Ltd. IMCD321/983 073-1



ジョンとビヴァリー・マーチンはロンドンからヘイスティングスの古い町に引っ越した。それはジョンのソングライティングに大きな影響を与えることになった。ヘイスティングスはイングランド南部の海岸行楽地であり、釣りの町だった。“そこでは天候から逃れることはできないんだ。”アイランド・レコーズはジョンがソロ・アーチストに戻るべきだという結論に達し、Bless The Weatherがたったの3日間で完成した。ジョン・ウッドとジョン自身が共同プロデュースにあたり、アルバムは1971年11月にリリースされた。

音楽は絶えず言葉の進化を遂げる。アーチストが表現する創造的風景は変わりやすく、はっきりと見分けがつくものとしばしば不明瞭さへと沈み込むものと様々な表情を見せる。横方向に作用する後者の創造的風景が、価値ある革新性として認められ成功するアーチストはほとんどいない。驚くべき才能を持ち、情け深く、時に辛辣なジョン・マーチンは、新しく出現するミュージシャン全世代へ影響を与えインスピレーションを与えてきた一人だ。あなたが彼の表現する音楽に何かを感じ、ついにはそれに釘付けとなり、彼の音楽をカテゴライズしたとたん彼はまた別のものに変容を遂げてしまう。彼はあらゆる音楽に同時に取り組みながらも、特定の音楽ジャンルを確立することを拒否する。彼のギター・プレイは何年にも渡って進化してきた―60年代のアコースティック・ギター、ワウワウ・ペダルとファズ・ボックスとエコープレックスを使った70年代のエレクトロ・アコースティック、80年代のほとんどフル・バンドでのエレクトリック・ギター、そして90年代に取り入れたトリップ・ホップとファンクの要素である。

ジョンにとって魔法など存在しなかった。彼のギターの魔術は独学によるものである。真にプログレッシヴなアーチストは、追求し手に入れたサウンドによって一つの場所にとどまる事は決してないし、自らの新しいアイデアの中に新しい領域を持ち込もうと探求、実験を繰り返し、音に色彩と基調を持たせることを好むものだ。彼のライヴ・パフォーマンスは伝説であり、ジョンのスタジオ・アルバムの多くの曲は、その自由で構造化されていないステージの中で、進化したり、認知された音楽的領域へ戻っていったりする。

ジョンは心を歌う不治のロマン派作家だ。このような献身と情熱を持って歌うアーチストは他にはいない。人々は彼の深い感性を伴う神秘的な歌に惚れ込んだり、また嫌いになったりする。ジョンの音楽は我々の感情の状態を測るバロメーターであり、我々は彼の歌を聴くことによって自身の心の状態を測ることができるのだ。情熱と精神性はそれらの歌の奥底にあり、同時にその人の奥底にあるものだからだ。

ジョン・マーチンは1948年9月11日、Ian David McGeachyとしてサリー州、ニューモールデンのビーチクロフト・アヴェニューで生まれた。二人の輝かしいオペラ歌手、Thomas Paterson McGeachyとBeatrice Jewittの間の一人息子だった。ジョンの両親は彼が幼い頃離婚し、彼は幼少時代をグラスゴーで父親と祖母に育てられて過ごした。その祖母がスコティッシュ・トラディショナル・ソングの素晴らしさをジョンに少しずつ教え込んでいった。“僕は祖母と父親と共に育ったんだけど、とてもよかったと思ってるよ。僕はすごく貴重な時間を過ごしたね。学校は歩いて行けるところにあったし、祖母は上品で古いタイプの人で僕をすごく大事にしてくれた。”彼の父親が教えてくれたのは?“釣りとアレとバイクだよ!”

グラスゴーはその造船技術で知られた町だったが、50年代までに商業用と軍船の造船需要は減少していた。没落した町はすっかり魅力をなくしてしまい、街を覆う何日も続く冬の夜の厚いスモッグは、数ヤード先も見えないほどであった。Oscar Marzaroliが写真に撮った印象的なゴーバルズ(グラスゴー郊外、かつてスラム街があった)の町の古い石でできた住宅は取り壊され、高くそびえるブロックに取って代わられた。ジョンは当時のタフな環境を回想する。”外に出ていって何人か自分より強い奴らを蹴飛ばすんだ。さもなくばホモと見なされるようなところだった。“

ジョンはモス・サイド・ロードのShawlands Academyに歩いて通っていたが、その後グラスゴー芸術学校に通った。しかし2ヶ月で退学になってしまった!“僕はボヘミアンになることばかり考えていた、ローリング・ストーンズのレコードを1日中聴いてマリファナを吸ってコーヒーを飲んでってね。それが僕のライフ・スタイルになりつつあったし、そこから抜け出せなくなっていた。”彼の音楽に対する興味は両親から来ているのは確かだが、その両親の職業(オペラ歌手)が直接つながるわけではない。“僕の親父はちょっとした放蕩者だった・・・親父はデイヴィ・グレアムのレコードを持っていたんだ!”デイヴィ・グレアムはジョンの音楽に大きな影響を与える一人になった。“僕はカブスカウトだったんだよ!”(ボーイスカウトの幼年団員:英では8-11歳) ジョンは興奮して言う。

学校が休みの間、ジョンは母親と一緒に過ごしていた。“うちはThames DittonのThe Thamesにヨットを持っていた。それから反対側のシェパートンのShip Hotelに行くんだ。パブは近くの映画スタジオから来た俳優で一杯になっていた。すごく変な一団だったな。”彼はクスクス笑いながらつけ加える。ジョンはギターを買うためにポンド紙幣を貯めていた。そして15歳の時にギターを弾き始めた。17歳になった彼は学校を辞め、ヘイミッシュ・イムラックの庇護の下、地元のフォーク・クラブで歌い始めた。ヘイミッシュはジョンを励まし、彼に多くのジャンルの音楽を紹介した人物だ。ジョンの中に才能と可能性を見出していた彼はカルカッタに生まれた。あたたかく気前のいい男であり、かなりの名声を持ったシンガー、ブルース・ギタリストだった。

フォーク、ブルース、ジャズの境界線をぼやけたものにしてしまった草分け的ミュージシャンであったデイヴィ・グレアムは、ジョンにとって最初のヒーローのうちの一人だった。“彼のプレイを聴いてショックを受けて、僕は外に出て自分で歌うことを決心したんだ。1965年までには聴いていたし、デイヴィ・グレアムになりたいと思うほど凄く感銘を受けた。もし彼になれなくても彼から離れたくなかったからギターを買ったんだ。”

ジョンの初のギグはいくらか思いがけないところからやって来た。“Josh McCraeがパブで飲みすぎて来れなくなったんだ。それで僕がギグをやることになった。なぜ僕かっていうと、お客の中でギターと歌ができるのは僕しかいなかったんだ。そして約4ヵ月後、僕はDollarのThe Black Bullっていうところでプレイした。そこはスターリング(スコットランド中部の町)の外側にあった。僕は11ポンドのギャラをもらった。そりゃうれしかったね。”グラスゴーのソーキホール通りにあったClive’s Incredible Folk Clubというクラブのオーナーだったクライヴ・パーマーは、1960年代半ばにロビン・ウィリアムソンと共にインクレディブル・ストリング・バンドを結成した。そしてジョンの親友の一人となった。“僕が今まで聴いた中でベスト・バンジョー・プレイヤーで、愛すべき男だね。”ジョンとクライヴはフラットを共有し、ミュージック・パブやクラブに出入りするようになった。“あの頃は気違いじみた時代だった。クライヴは驚くべき男だった。グレイトなミュージシャンで地に足が着いていて頭がよくて、僕に多くのギター・プレイを教えてくれた。”彼らは続いてカンブリア(イングランド北西部)の老朽化した小屋に住んだ。ジョンは回想する。“電気もなかったし水も流れなかったけど、僕らは1日中ギターを弾いて過ごしたね。外に出てもあるのは湿地だけだった。湧き水が飲み水だった。素晴らしい日々だったな。”

北方のクラブ・サーキットでどんどんと名声が高まり、ジョンはロンドンへ移るべき時が来たと判断した。その頃ロンドンでは次々と新しいクラブがオープンし、にわかに音楽シーンは活気づいていた。“僕はロンドンでどこでも寝泊りしていた。トラファルガー広場で寝たりとか、警官に追っ払われたりとかね。”彼は最初のエージェントだったSandy Glennonによる提案で、John Martynと名乗ることにした。彼の姓は彼の好きなアコースティック・ギター・メーカーから来ている。ただし“i”の代わりに“y”を使った。ファースト・ネームのJohnについては、単にシンプルで覚えやすい以外の理由は全くないと思われる。ジョンはグリーク・ストリートのLes Cousins、Bunjie’sそしてKingston Folk Bargeのようなロンドン周辺のクラブで歌い始めた。

“僕がキングストンのFolk Bargeで歌っていると、セオ・ジョンソンという一人の太った男が近づいてきて言ったんだ。‘オレが君をスターにしてやろう’ってね。え?!今何てった?本当か?って思って僕は言った。‘話を続けてくれよ’そして彼は2曲の僕のデモ・ディスクを作って、そのレコードをクリス・ブラックウェルのところに持って行ったんだ。そして僕を売り込んだ。さあこれです!ってね。”Les Cousinsはジョンが言うには“本当にわくわくするような素晴らしいところ”だったらしい。クリス・ブラックウェル、彼は農園オーナーの息子で、1959年にジャマイカでアイランド・レコーズを立ち上げた。レーベル名は英国の小説家アレック・ウォーのIsland In The Sun(1956)からつけられ、初期のリリースは西インド諸島のミュージシャンによるものだった。ジョンはそのレーベルと契約した初の白人ミュージシャンという栄誉を持っている。ブラックウェルは回想する。“僕は彼のことも彼の声も好きだったから契約したんだ。”

デビュー・アルバムのLondon Conversation(IMCD319)はジョンが19歳の時にリリースされ、それから1年ちょっとあとにセカンド・アルバムThe Tumbler(IMCD320)が続いた。ジョンとビヴァリーのStormbringer(IMCD317)、とりわけその中のWould You Believe MeとThe Oceanでは、のちのジョンの一連のスタジオ・アルバムと70年代のコンサートで主役となる彼のエコープレックス・ギター・テクニックが初めて披露されている。ジョンはサックス・プレイヤーのファラオ・サンダースの特にKarmaというアルバムにインスパイアされていた。“僕がエコープレックスを買った唯一の理由は、ギターでサンダースのサステイン(音を伸ばすこと)を真似ることだったんだ。”The Road To Ruin(IMCD318)は1970年11月にリリースされ、ジョンとビヴァリー名義の最後のアルバムとなった。ジョンはウィッチシーズン・プロダクションのプロデューサー、ジョー・ボイドがアルバム全体に渡って施したアレンジメントに反対していた。オーヴァーダブが多すぎて自然さを欠いていると感じたからだった。

ジョンはビヴァリーの連れ子であった2歳のウェズリーを養子にし、1971年2月にはマイリ(Mhairi)も誕生した。家族の家はヘイスティングスの古い町、コーバーグ・プレイスにあった。アイランド・レコーズはジョンがソロに戻るよう決定を下したが、ジョンは喜ばなかった。“彼らはビヴァリーの歌を聴きたくなかったんだ。ひどい話だよ。僕は今でも彼らは間違っていたと思ってる。”子供の世話がビヴァリーの引退を促すことになった。ジョンはBless The Weatherについて、“とても無頓で美しくて、楽しみながら作ったアルバムだった”、“Bless The Weatherのほとんどの曲はすぐにできてしまったんだ。スタジオで曲を書いてその日のうちにレコーディングしてしまった。そういう自然なやり方がすごくうまくいくんだ。何の書き直しもしなかったし、本当に自発的に出てきたものだから。こういうやり方がすごく好きなんだ。”ジョンは言う。“あのアルバムが出た後、人々は急に僕に関心を示したけど、なぜだか僕には分からないな。”

美しく偽りのないBless The Weatherは、チェルシーのサウンド・テクニクスでレコーディングされた。ダニー・トンプソンがベースを弾き、リチャード・トンプソン、トニー・リーヴス(コロシアム)、イアン・ホワイトマンとロジャー・パウエル(マイティ・ベイビー)らが参加した。ダニー・トンプソンは、以前Tubby HayesやAlexisのような当時のジャズ、ブルース界の第一人者と共にロニー・スコッツ・ジャズ・クラブでプレイしていた。そして1967年にペンタングルの創立メンバーとなり、世界的なダブル・ベース・プレイヤーの一人として名声を打ち立てた。彼はHaitian Fight Songでコンテンポラリーなフォーク・ミュージックに接近し、同時にペンタングルとは別に革新的なソロ・アルバムを制作した。それはダブル・ベース・プレイヤーのソロとして他に類を見ないものだった。ダニーはThe Road To Ruinでプレイしたが、これがジョンの一連のアルバムへ参加するきっかけとなった。つまりSolid Air(IMCD274)と1973年のInside Out(IMCD322)、1975年のSunday’s Child(IMCD323)、そして1977年のOne World(Deluxe Version 981 922-2)、もちろん忘れられないのが1975年のLive At Leeds(One World Records OW107CD)であり、そこにはジョン・マーチンのライヴ・パフォーマンスの雰囲気、熱狂、即興全てが詰まっている。

私はダニーにどうやってジョンと知り合ったのか尋ねてみた。“僕がペンタングルにいた時に、ジョンとニューポート・フォーク・フェスティヴァル(アメリカのロードアイランド)で出会って、彼が一緒にやってみないかと言ったんだ。”一方ジョンは違う見解を持っている。“どうやって知り合ったか今ではよく覚えてないんだけど、最初期ペンタングル時代にトッテナム・コート・ロードのThe Three Horseshoesっていうところで彼と会ったに違いないと思う。僕らは1〜2回そこで会ってお互いを気に入ったんだと思う。彼は多分セッションでハイになってたんだろうけど、それ以来僕らはすっかり意気投合したんだ。すごい男だよ。”

ジョンの独特なフォークとロックとジャズの融合、彼のエレクトロニクスとその無限の可能性に対する興味は、彼の音楽の中によりくっきりと浮かび上がってくるようになった。彼がエコープレックスを使いリズミックなサウンドを幾重にも作り上げ、あらゆるルールを打ち破っていくという実験的な姿勢は、彼をフォーク・シーンから遠ざけることを促した。“僕がハマったエコープレックスは素晴らしいマシンだ!”

Glistening Glyndebourneは、エコープレックスを通した彼の素晴らしいアコースティック・ギター・テクニックを示している。“傑作だ・・・ジョンはGlistening Glyndebourneのような最新曲でさらなるステップ・アップを続けている!”サウンズ誌は書いている。このインストゥルメンタルに与えたインスピレーションは、サセックスにあるジョンの家近くで開かれたオペラのフェスティヴァルから来ていた。“そこには小さな田舎の駅があった。何百って人たちがイヴニング・ガウンやディナー・ジャケットを着てオペラを観るために電車にどっと乗り込むんだ。それはすごく慣習的なことだったんだけど、僕は音楽っていうのは普段着であるべきだと思う。僕は音楽の中に解放や自由をすごく求めていたし、それはプレイする度に形を変えるんだ。”

穏やかでふわふわしとしたGo Easy、有機的で喜びにあふれた魂の祝福であるWalk To The Water、そして人気曲のHead and Heartは、内側にある意味を少しずつ染み込ませていくような曲だ。“Bless the Weatherは僕が作った中で最もピュアなレコードだ。”今回我々は初めて1971年5月17日に行なわれたバンドとのセッションでのHead and Heartのヴァージョンを聴くことができる。

君をどれだけ愛しているといってもしょうがないこと
君は決して僕を悲しませたりしない
それはすばらしいことだ
ただ僕が恐れているのは
君にふさわしくないってこと
時々僕たちはおびえているのが分かる

頭と心で愛してくれ
もう一度初めから愛してくれ
子供のように

僕が感じたことを演じてみてもしょうがないこと
君のいうことを君にいってもしょうがないこと
毎日僕はこそこそしているように感じるだけ
どこか新しいところへ行ってみたい

頭と心で愛してくれ
もう一度あたまから
僕が手に負えない時に愛してくれ

どうやって君が必要だってことをいえばいい?
僕には大きくて小さく感じられるのがこわいんだ
君と過ごす日々が続いていると
全てが過ちだったことを知るのがこわいんだ

頭と心で愛してくれ
ありのままの君で愛してくれ
子供のように

自分の運命が分かっただけ
そう、君の上を飛ぶ1羽の鳥

1971年11月、ジョンはドラムスとバッキング・ギターをフィーチャーしたヴァージョンのMay You Neverをレコーディングするためにスタジオ入りした。ジョンは私にいった。“John ‘Rabbit’Bundrickがキーボードを弾いてKossieがギターを弾いたんだ・・・”当時ジョンはレコーディングしたあと、オーヴァーダブのためにプロデューサーに手渡し、プロデューサーがそれをまとめるやり方が好きではなかった。May You Neverはシングル(WIP6116)として1971年にリリースされたが、あまり売れなかった。そしてそれは再録音され、1973年のアルバム、Solid Airに収録されジョンの最も人気の高い曲になった。“むかつくほどよく覚えてるよ!”シングル・ヴァージョンは今回初めてこの拡大&リマスター版に収録された。

ジョンとフリーのポール・コゾフは、両者がツアー中のスカンジナヴィアで会っていた。ジョンは彼の音楽を称賛し、二人は友人同士になった。May You Neverがレコーディングされたセッションで彼らはジャム・セッションを行い、お互いの創造性を引き出し、その結果信じられないような18分間のインストゥルメンタル、Time Spent Time Awayが生まれた。これは最近発掘され、フリーのBoxed Set Songs of Yesterday(IBXCD3)に収録されリリースされた。単にTime Awayと名付けられたショート・ヴァージョンは1973年のコゾフのアルバム、Back Street Crawler(IMCD084)に収録されていた。続いてジョンは、コゾフの生活を蝕んでいたドラッグによる彼の健康問題に取り組み始めた。しばらくの間、コゾフはヘイスティングスのジョンとビヴァリーの家に住んでいた。しかし残念ながら彼はドラッグ治療との戦いに勝つことができず、1976年3月19日、ニューヨークへの飛行中、心不全で死んでしまった。

悲痛で痛々しい純真さを持つBless The Weatherで、ジョンは素晴らしいヴォーカルとギターを披露し、ダニー・トンプソンは最高のメロディを奏でている。

何度も何度も僕はやめた
それが死んでいくのを見るのを
次から次へと聞こえてくる歌を僕は愛した
その声を見ることを

君を僕のところに連れてきた雨の恵みに感謝
君を連れて行った嵐にわざわいを

何度も何度も揺れるのを僕は見ていた
それがはためくのを見るのを
毎日毎日僕は冷ましていた
熱くなるのを見るのを

次から次へとやってくる痛みに僕は耐えていた
それがどうなるのか確かめるため
降り続ける雨の中に僕は立っていた
それが本当なのか確かめるために

ジョンの歌うNacio Herb BrownとArthur FreedによるSingin’ in the Rain(1952年の映画でジーン・ケリーによって有名になった)でアルバムは幕を閉じる。Bless The Weatherは彼のファンと音楽プレスの熱狂的なレビューを受け、彼を一躍有名にした。ジョンはBBCラジオ1のスペシャル・リクエストにより、1971年12月30日、Live In Concertのショーに出演した。彼はHead and Heart、Singin’ in the Rain(オーディエンスが合唱した)、Bless The Weather、そして初期ヴァージョンのOutside Inを披露した。

あるいは1973年にリリースされたSolid Airがジョンの最もよく知られたアルバムかもしれないが、それとは音楽的にも感情的にも大きく異なったBless The Weatherは、愛と幸福がもたらすものについての歌が詰まった、気持ちの高揚するアルバムだ。

“・・・音楽は頭と心の間のバランスなんだ。そしてそれこそが僕が日々トライしていることなんだ。頭と心のバランスをとることをね。”

John Hillarby, September 2005


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