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Man/Slow Motion/2008 Cherry Red Records Ltd. ECLEC 2062



Slow Motionは当時オレたちが最も成功したアルバム、Rhinos, Winos & Lunaticsの次に当たるアルバムで、アルバム・チャートの12位まで上がった。ワイルドでクレイジーな時代だった。オレたちはRhinos, Winos & Lunaticsのプロモーションのための最初のアメリカ・ツアーから戻ってきたところだった。初のアメリカ・ツアーってのはどんなブリティッシュ・ロック・バンドにとっても前途洋洋な体験だ。もしアメリカを制覇しようと真剣に考えるなら、時間、ハードワーク、異常なまでの忍耐力、家族の理解を必要とする。だがまずはスタミナだな。戦士と自由の地に行き来するようになると、生活は空港のロビー、ホテル、プレスとラジオのインタビュー、レコード会社のオフィス、見るからに果てしのないハイウェイとチリまで行くトラックの行列の連続写真になってしまうんだ。仕事をうまくこなして何日間か休日を手に入れた時には、インディアナ州のサウスベンドで貴重な時間を過ごすっていう旅程になるわけだ。その町はオレの故郷ラネリ(ウェールズ南部の海港)を思わせる悪徳はびこるバビロンなんだ。オレの経験では現実との接点を失うまでに約6週間かかる。同時にスタミナの減退を補うためには、働けるだけのアンフェタミンが必要になる。持久力テストだな。それを好むヤツもいるが嫌うヤツもいる。オレは好きだったし、マンバンドの他のメンバーもそうだったね。それがないとオレたちはぶっきらぼうな現実の世界から滑り落ち、狂気へと突き進み、異常行動へと放免されることになっちまうんだ。

当時のバンドのラインナップはミッキー・ジョーンズ、テリー・ウィリアムズ、ケン・ウェイリー、マルコム・モーリーそしてオレだったが、ヒースロー空港で飛行機から降りたとたん、キーボード・プレイヤーのマルコムがバンドを抜けた。誰もそれを見なかったし、どういうわけか分からなかった。しかし知らぬ方がしあわせな場合もあるってことだ。オレたちはヤツに何にも聞かなかった。代わりのメンバーは入れないことにした。キーボードが必要になったときは、いやもちろん必要になるんだが、その時はオレが代役を務めることになった(オレはキーボード・プレイヤーとしてはかなりきびしい限界があった。だが経験を積んでない分、好き勝手にできるってもんだ)。オレたちは曲作りと次のアルバムのレコーディングのためにモンマスのロックフィールド・スタジオへ行く前に、ジェット機が遅れたと芝居を打って1週間のオフを手に入れた。ツアー中に新曲を書く暇なんてなかったが、オレたちは断片的なものは書いていた。ほとんどはステージ上の即興で全員が固めていってメインとなる部分を作っていた。そのテーマを拡大して発展させていき、ヴォーカル・ラインを加える―ほらよ!―で一丁上がりさ。2週間でオレたちは8曲を書いた。アルバム1枚分としちゃ十分すぎるほどだったな。

オレたちはたちまちのうちに片付けちまったし、真面目な話、となりのスタジオでレコーディングしていたフォガットっていうバンドに気を散らされることもなかった。フォガットは平凡なブリティッシュ・バンドだったし、イギリスじゃ知られていなかったんだが、どういうわけかアメリカでビッグだった。奴らは全員飾り立てた衣装を着た新進の金持ちミュージシャンだった―まっさらな機材、何百本もの年代物ギター、バックスキンのジャケット、ターコイズの宝石、そして奴らの自慢のたねはダークブルーのジャンソン戦闘機だ。奴らはそれに乗って狂ったように退屈なロックフィールド農場あたりを飛び回っていた。窓から顔を出して汚い言葉をわめきながらね。奴らはいたずら好きだった。オレたちが罠にはまらないと知ると奴らはキングスレィ・ワードを標的にした―ロックフィールドのオーナーだ。しかしキングスレィ・ワードに対して命がけで罠にはめようとしても彼はいたずらにはじっと我慢するんだ。だがその時はプッツンと切れてしまった。彼はダークブルーのジャンソンをでかい缶一杯に入った鮮やかなオレンジ色のペンキで塗り替えてしまった。フォガットは意気消沈してロックフィールドでの残りの時間はずっとしょげていた。かつていばっていた奴らが今じゃあてもなく肩を落としてしまった。一方災難に見舞われたジャンソンは陽気なツートーンカラーになって中庭に痛々しく転がっていた。人間の愚行の不快な思い出だな。天罰がくだったんだ。

曲が完成するとオレたちはミックスのためにロンドンのオリンピック・スタジオに移動した。ロックフィールドでレコーディングしてオリンピックでミックスってのは、オレたちが確立したやり方だった。ミュージシャンにとってこれ以上のやり方はないね。ミキシング作業中にバリー・マーシャルが伝えてきた―オレたちのマネージャーだ。サイケデリアの著名な第一人者リック・グリフィンがオレたちのアルバム・ジャケットを手がけることに同意したんだ。オレたちがカリフォルニアで彼に会った時、彼はオレたちのためにバンド・ロゴを作っていた。彼はヒーローみたいなもんだった。なぜなら彼は当時のグレイトフル・デッドを定義づけたあのグラフィックをデザインしていたからだ。オレたちは彼に次のアルバム・ジャケットを手がけてほしいといったら、彼は考えさせてほしいといった(彼のことをよく考えたらそれは不可能ってことだった。なぜなら彼は寡黙でポーカーフェイスで自制的な男だったからな)。しかし驚いたことに、彼の返事はイエスだったんだ。ただ彼はアルバムのタイトルを知りたがっていた。オレたちは緊急会議を召集してどうするか話し合った。オレたちは彼に行動や動きを要約するようなタイトルを選んでもらおうと考えた。進展のなくなったアーチストにとっては大きなテーマだし。そしてSlow Motionに決定した。オレたちはミキシング作業に戻り、完了させてからドイツへ短いツアーに出かけた。オレたちがいない間にUAのアンドリュー・ローダーがアルバムをまとめていったんだが、彼は急にオレがスリーヴノートを書いていなかったことに気づいた。それでオレは急いでそれを書いて―レイモンド・チャンドラー(米探偵小説家)へのオマージュだった―テレックスで送った(自画自賛したいわけじゃないが、歴史上書かれた言葉の中で完璧に子供じみたたわごとの一番いい例だと思うね)。アンドリューの名誉のためにいっておくが、彼はインナースリーヴにそのテレックスを印刷しただけだ。

グリフィンのアートワークが完成し、アンドリューがオレたちにコピーを送ってきた。オレたちはあまり好きになれなかった。彼はタイトルを無視してアルフレッド E. ニューマンを描いていた。マッドマガジン(米ユーモア月刊誌)の漫画の顔で、魚を抱えていた。しかしオレたちは天才に向かってノーとはいえなかった。それで仕方なくゴーサインを出した。だが面倒なことが起こった。マッドマガジンがオレたちにアルフレッド E. ニューマンの使用差し止めを要求したんだ。オレたちは彼らの著作権を侵害していた。オレはほっとした。しかし事は振り出しに戻って厄介なリリース締切期限が迫ってきていた。そこでアンドリューが名案を思いついた。“魚をちょっとだけ使おう。”彼は言った。問題解決さ。上の方にアルフレッド E. ニューマンのあごが見えるだろう?これなら耐えられるね。これがいわゆるアーチスト的妥協ってやつだ。人生とは―みんな同意してくれると思うが―妥協の連続だ。死ぬまでね。

アルバムは熱烈な歓迎を受けてリリースされた。どのレビューもオレたちがすぐに‘次の大物’になると予想していた。‘Day And Night’がシングルとしてリリースされた。全てのレビューは熱狂的でオレたち自身ブレイクの予感は高まっていた。ジョン・ピールがサウンズ誌でレビューしているから全文引用するぞ。

“バンドは素晴らしいプレイをしている。このドライヴ感とヴァイタリティは今年リリースされたどんな大物のレコードにも欠けているものだ。君の聞きたいと思っているギター・ブレイクがここには詰まっている。大事なことはこれは買うべきレコードだってことだ。チャート上にロバート・ワイアットがいる今、こういったハイレベルなレコードは彼のあとを追う力を持っているに違いない。一人の老人をとてもハッピーにしてくれたウェイリー、ウィリアムズ、ジョーンズ、そしてレナードの四氏に感謝する。サンキュー。”

悪くないだろう?

楽観的なムードの中、オレたちはアルバムのプロモーションのために19日間の英国ツアーに乗り出した。当時オレたちはツアーは成功したと考えていたが、振り返ってみればオレたちは遠くで鳴っていた警告のアラームを聞くべきだった。ニュー・ミュージカル・エクスプレスはオレたちの問題点をはっきりと指摘していた。彼らは当時バンドの全ツアーを追ってリポートしていた。彼らはオレたちが19の会場のうち12をソールドアウトにし、拍手測定器によって‘very good’を獲得したことを報告していた。しかし不吉にもこう続けていたんだ。‘ニュー・アルバムは未だ動きを見せていない。どんどんライヴをやってもそれがLPセールスに反映されていないのだ。’全ての真実が姿を現し始めた。もしオレたちがツアーで3万人に向かってプレイすれば3万枚のレコードが売れていただろう。つまりオレたちのレコードを買った人たちってのはオレたちのライヴを見た人たちってことだ。残念ながらオレたちは一般大衆の称賛をつかむことはできなかった。オレたちは落ち着いて考えるには忙しすぎたし、生き残るために見てのとおりごたごたに巻き込まれていた。なるほどNMEがリポートした時にはすでにオレたちはヨーロッパ・ツアーに出ていた。そしてその後には狂気から逃れてオレたちは再び10週間のアメリカでの休暇に入っていた。それってのは事実上は次のアルバムのための準備期間だった。

今老いぼれてオレはついに明確な真実をつかんだ―世界的名声はオレたちを素通りしちまったんだ。なぜならマンバンドは単なる消費音楽を超えた後天的嗜好音楽(だんだん好きになるような)だからだ。悲しいことにオレたちの音楽は最も見る目のあるリスナーしか近寄れないようなところがあるし、最高に鋭い知力がないとオレたちの洗練された音楽的規範を解読することができないんだ。そして永遠なる美に対する通だけが、オレたちの完全なる音世界への旅へ同行することになる。こういう従者を持つ幸せなバンドはほとんどは王位にはつかず、魂の儀式に向かう一個人のものとなるんだ。このアルバムを買い、今これを読んでいる親愛なる読者のみんな、君も間違いなくオレたちの仲間だぜ。ようこそヒューマニティ師団へ。覚えておいてほしい―大衆性とはその真価のバロメーターではないということを。

Good Luck
Deke Leonard


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