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Man And Friends/Christmas At The Patti/2007 Cherry Red Records ECLEC 2018



オレたちの故郷スウォンジーのクリスマス・ギグは今ではマンバンドの恒例行事となった。それは最高のマンバンドの伝統といっていいが、しきたりというよりもそのスピリットにおいて、だらだらと祝い、履行するものに過ぎない。この‘Christmas At The Patti’はまさにその最初の記録だ。オレはこの時バンドには在籍していなかった。なぜなら卑劣な背信行為にさらされて追い出されたからなんだ。しかし偉大な人生の宿命論者の一人として、オレは恨みがましく思っちゃなかったね。オレは仲間に対し憎悪の念など持たなかった。奴らはバンドにとってベストな考えを実行しただけだった(訳注:他のライナーでも見られるが、かなりの恨みを持っていると思われる・・)。ケ・セラ・セラ(なるようになる)さ、オレは思った。過去の事は水に流せ、だ。オレに代わったのが、ベースのウィル・ユーアットとキーボードのフィル・ライアンだった(それみろ、厄介な人間のクズどもめが。オレの穴埋めには2人必要なのかい?)。

じゅうたんについた血痕を拭き取るために、小さな山脈クラスの恐喝と電気掃除機が用いられたが、ほとぼりが冷めるとオレは自分が自由の身だと悟った。目にもの見せてやると思ったね。上昇志向に燃えたオレはヘルプ・ユアセルフ―UAレーベル・メイトだ―に、マルコム・モーリーの代わりに臨時加入した。彼はバンドのギタリストだったが、その時、存在危機の病にあった。ギグを5つやったあと、モーリーは奇跡的に回復しバンドに復帰した。誰もオレを追い出さなかったからオレはそのままとどまっていた。ヘルプ・ユアセルフはマンバンドほどの成功を収めていなかったから、オレはUAからの最初のソロ・アルバム、‘Iceberg’のための曲を書く時間をたっぷりと持つことができた。

そうこうするうちに、マンバンドはニュー・アルバム、‘Be Good To Yourself At Least Once A Day’に引き続いてうまくいくようになっていた。UAのオレたちの共通のA&Rマンだったアンドリュー・ローダーが、新年のリリースに向けてスウォンジーでのマンのクリスマス・ギグを提案した。スウォンジーのパッティ・パヴィリオンがふさわしい会場として選ばれ、予定が押さえられた。

ザ・パッティ・パヴィリオン―マンブルズ湾の南端に建っていた―は、キュー国立植物園の中にあるんだが、場違いなところじゃなかった。アール・デコ風な匂いのする吹きさらしのでかくて白いガラス張りの建造物だ。それは1901年にイタリア人の女性オペラ歌手、アドリーナ・パッティが建てたんだ。彼女はウェールズに自分の家を持っていた。19世紀末、彼女はスーパースターだった。世界中をツアーし、今の金にすると一晩に60,000ポンド稼いでいたんだ。彼女は世界的名声を手に入れ、そうして著名な社交界の淑女となり、王や大統領、実業界の大物、有名な芸術家たちへの影響力を持つ中心人物となった。ツアーの中で彼女はウェールズを訪れる機会があったんだが、彼女はすぐにウェールズに魅了されてしまい、余生をウェールズで送ることを決心したんだ(なんて見る目のある女だ。彼女は違いの分かる女だ)。

ウェールズに落ち着いた彼女はただちにプライヴェイトな樹木園として、パッティ・パヴィリオンを建設した。熱帯植物でいっぱいにして外来の鳥なんかを放してね。そして世界中から高名な客人を呼んでもてなす会場として使ったんだ。彼女は死の直前にパッティ・パヴィリオンをスウォンジー・カウンシルに寄付した。その後、市は彼女の死を受けてパヴィリオンを取り壊すことを決定したが、その時勃発した第一次世界大戦の大殺戮によって、スウォンジーにはその仕事に従事できる屈強な男たちが残っていなかったんだ。そんなわけでパッティは生き残った。またここはアネカ・ライス(英女性テレビタレント)によってTV用に改造されて生き残ることにもなった。あのニコニコと笑うバカが建物の中身を破壊し、もともとあったプロセニアム・アーチ(舞台と客席を区別するアーチ型の扉口・アーチ型の幕)を引き裂き、ホールに向かう舞台を新たに作った。この文化芸術破壊は軽いエンターテイメントの名のもとに行なわれた。彼女が大破局を迎えるとすぐに舞台は元通りにされたが、プロセニアム・アーチは永遠に失われてしまった。しかし今日に至るまで、このCDのギグは素晴らしいものだ。ありがとうアデリーナ・パッティ、あなたは間違いなく元祖・女ロッカーだ。

ギグに関心が集まってくると、ビラには次第に多くの出演者たちが載るようになっていった。サポート・アクトは親友たちの大きな輪の中から選ばれ、素晴らしいミュージシャンばかり集まったね(ほとんどのバンドがUAレーベル所属だったがそれは取るに足らないことだ)。

ビラにはダックス・デラックス(愉快で荒っぽいショーン・タイラ率いる)、ヘルプ・ユアセルフ(プラス、オレとペダル・スチール・プレイヤーのB. J. コール)、デイヴ・エドマンズ(無任所ギタリスト、気が向いた時に飛び入り参加する)、ミッキー・ジー(似たような任務のカーディフのロックンロール・ギター・エンジェル)そして様々な地元のバンド、再編ジェッツはオレが若かった頃に王位についたロックンロール・バンドで、ハンブルグのトップ・テン・クラブで長い間プレイしていた。一瞬の間栄光をつかみ、レーパーバーン(ハンブルグの歓楽街)の帝王となった(ああ、あのころはよかった!)。

オレがこのギグに現れたのは確かな筋から聞いたし、確かにこのアルバムにオレが参加していることに反駁できる証拠はないんだが、正直にいうとオレはこの時の素晴らしい出来事を覚えていないんだ。オレの物質的存在はそこにあったんだが、おそらくオレの精神は―アンフェタミンと鎮静剤漬けによって―どこかよそへ行っていたんだと思う。オレは自動操縦でプレイし、事実上、外部との連絡を絶たれていたんだな。というわけで、以下の情報はゴシップ、うわさ、伝聞、雑談、思い違い、真っ赤なうそに基づく。

ギグは大成功を収め、パッティは満杯になったらしい。人々はブリテン中からやって来て、その中にはロンドンからバスに乗ってやって来たユナイテッド・アーチスツ・レコーズの全スタッフが含まれていたかのようだった。楽屋は無限に混乱状態となって容赦のない社交の場と化していた。久しぶりに会う誰かと出くわすことなしに方向転換できない有様だった。オレはまるで客人と歓談して回るために生まれてきたんじゃないかと思っただろう。オレはその苦しい闘いから逃れるためにステージに上がったに違いない。そこは静寂が支配する場所だ(いったんステージに上がると、全ての苦痛は消え失せ、ほとんど修道院的な静けさが支配するんだ。うじゃうじゃした世界のぞっとするような苛立ちからパフォーマーを遮断してくれるわけだ)。

まず最初にダックス・デラックスが出たらしい。UAバンドのイングランド人一団のダックスは腕まくりしてロックした(rolled up their sleeves and rocked)。バンドは揮発性のショーン・タイラによって率いられていた。奴は世界で2番目のホラ吹きだ(ジョン・シポリナが世界一)。ショーンは一人のオーディエンスからの無条件降伏を認めるだろう。極端な人身攻撃の嵐はいかなるものも受け入れられないからな。彼の知能、生まれ、育ち、道徳的体質を疑わざるを得ない。オーディエンスは通常、最も面倒のないやり方を選んで屈服してしまうんだが、時には始末に負えなくなることもある。ショーンは怒った一団によってステージを降りなければならなくなった。

ジェッツはステージでふんぞり返っていたらしい。オレはこの時のオレたちのセットがちゃんと録音されていてうれしく思う。無意味な時間がバンドをくじくことにはならなかったからだ。オレたちは無秩序と地獄の完璧なブレンドを保持していた。オレたちは‘Jambalaya’(ハンク・ウィリアムズ)、‘My Way’(エディ・コクラン)、‘Bye Bye Bird’(ブルース・スタンダードだが、恥ずかしながら作者は知らない)の3曲をプレイした。最後の曲でオレはハーモニカをプレイするような振りをしてるんだが、うまくいってるかな?

それからヘルプ・ユアセルフがステージを務めた。オレも加わっていた―万事間違いなしでもなかったとしてもね。ヘルプ・ユアセルフはいつも秩序と混沌の融合で魅了していた。彼らと一緒にプレイすることは音の迷宮に入り込むようなものだった。そこにはマルコム・モーリーの印象的なヴォーカルと鐘の音のようなギターが、リチャード・トゥリースのヤク漬けで脳のぶっ飛んだギターと混ざり合い、きらめくような音の風景を作り出していた。そしてそこかしこに聴覚的仕掛けが施してあった。オレは足を踏み込めないジャングルをなたを使って切り開いただけだからな。誰も文句をいわなかったから、オレはひたすらぶった切った。

そしてヘッドライナー、マンバンドの時間がやってきた。信頼できる筋によれば、彼らは忘我状態となった喝采を受けたらしい。故郷の人たちは祖国に戻ってきた地元のヒーローを大歓迎した。明らかにそれはカタルシスの瞬間だった。不可解なことに、バンドは一風変わった仮装をしていた。オレはなぜだか分からない。多分、心理的にバイスタンダーズの日々に戻っていたんだと思う。明らかな理由は分からないが、彼らは突然コスチュームを着て現れた(オレが初めてミッキーと会った時、奴はどういうわけかバド・フラナガン((1896–1968:英エンターテイナー))の格好をしていた。当時オレは何も言わなかった。万一彼がそれを知らないといけないからな。そう、スズメは自分がスズメだと知らないのと同じだ。だろ?注意深くなり過ぎる方がいい時もあるだろ?彼は社会病質者((人格異常のため、社会的に好ましくない行動を示す))だったに違いないと思った。で、それは実際そうだったんだが)。

彼らの音楽は魂の入った崇高なる創造物だったらしい。喜びの追求と力がみなぎっていたと。そのうえ、それは忘れられない体験になったようだ。人々の言うことは正しいのかもしれない。オレはマンバンドを見なかったから分からない。オレは当然楽屋にいたと思う。夜の生き物たちとともに果てしなくジョイント(マリファナ)を巻きながら、宇宙の端の表面張力地帯を探索しながら。

その晩の最後には全員がジャムに突入した。ステージ上には約30人いたに違いない。10人のギタリストたちが互いに全力で干渉しあいながら、かなりのカオス状態だったろう。うなずきとアイ・コンタクトによって、全員がそれぞれスポットライトに当てられた。それからあれを録音しなかったのか・・・ああ、この期に及んで悔やんでも遅すぎるんだが、オレがステージでチャック・ベリーの‘Let It Rock’を歌ったと証言する奴らに出くわしたんだ。しかもデイヴ・エドマンズがハーモニーをつけてね。ああ、彼らがそういうんなら本当に違いない。

申し訳ないが、これ以上のことは思い出せない。しかしもちろんオレは当時、1日24時間の義務を果たすよう要請されるのは無理だったんだ。神経質でセンシティヴなアーチストとして、オレは容赦のないギラギラのスポットライトから一時逃れる必要がある。オレはこのアルバムが証明している限り、異議を唱える立場にはない。歴史がそこにはいなかった男としてオレを記憶にとどめておくことを決定したんだ。かつてオスカー・ワイルドはショパンの音楽についての見解を尋ねられたことがある。“ショパンを弾いたあとは、” 彼は答えた。“まるで自分が犯していない罪を洗い流し、自分の身に起こっていない悲劇を嘆くかのような気持ちになる。” このアルバムについてのオレの感想もそれと同じだ。

グッド・ラック(不在中)
ディーク・レナード


Man/Christmas At The Patti/1997 POINT PNTVP110CD


1972年12月19日、マンバンドと友人たち、女の子たちはスウォンジー(ウェールズ南西部の市・港町)のパッティ・パヴィリオンでクリスマス・パーティーを開催した。それはかつてひとつの場所に多くの人々が集まって開催された素晴らしいパーティーだった。私たちはまたスウォンジーに可動式機材を持ち込んで、パーティーに起こるだろうハプニングを私たちの子孫のために記録し、そこに参加することができなかった人々のために‘限定廉価盤’アルバムをリリースしようと考えていたんだ。

パーティーは午後6時に始まってスウォンジー警察が決めた時間に終了した。それが終った時、彼らは夜中だと考えていたけど私たちにしては全然早い時間だったな。まずWally Hot Stuffとチャーリーズ一団が始まり、それに続いてダックス・デラックスが登場した。彼らは結成されたばかりで、まもなくレコードをリリースする予定だった。

次がマンの友人だったヘルプ・ユアセルフだった。彼らはその2年前にスイスで行なわれた伝説の“All Good Clean Fun”ツアーで親しくなっていた。ギターにはその時マンを抜けていたディーク・レナードが参加し、このCDのあちこちで聞けるスチール・ギターの‘名手’、BJコールも参加した。

次の‘ノスタルジア’スポットが、その時のために再結成されていた南ウェールズのよく知られたグループたちだった。まずはスウォンジー最高のバンドのひとつ、ザ・ジェッツだ。このバンドのメンバーは、当時ジョー・コッカーのロード・マネージャーをしていた‘プラム・ホリス’、マンのドラマーのテリー・ウィリアムズ、マンのメンバーだったベーシストのマーチン・エース、そして4曲目から参加したリード・ギターのディーク・レナード、あと追加メンバーとして二人の伝説的ウェルシュ・ロック・ギタリストのミッキー・ジーとデイヴ・エドマンズだ。つまりこのバンドはPlum Crazy with Dave Edmunds、あるいはLove Sculpture(訳注:エドマンズの最初のバンド)with “Plum”と呼んでもいいだろう(もしこんがらがったらマンのアルバム“Be Good To Yourself”のファミリー・トゥリーを見てくれ/訳注:手書きの殴り書きファミリー・トゥリーなので、さらにこんがらがると思います)。

再結成バンドの最後がフィル・ライアンの昔のグループ、Eyes Of Blueだった。彼らは実に味のあるプレイを見せてくれた。残念ながら以前のリード・シンガー、“Gazzy”はWild Turkeyに加入してUSAにいた。ドラマーだった“Pugwash”はGentle GiantにいてGroundhogsといっしょにツアー中の身だったため、ここに集結するのは不可能だった。しかし私たちはばっちり録音したからこの音源はまた別の機会にリリースできればと思っている。

むしろFlying Acesとして知られていたマーチン・エースと彼の妻ジョージが、まさに初のお披露目として‘oldies but goodies’を見せてくれた。時間はあっという間に過ぎて行き、Acesはたった2曲だけをプレイした。そのうちの1曲、“Welcome to the Party”はマーチンによれば‘この時のために特別に書いた’のだそうだ。

注目すべき夜の最後にステージに現れたのがマンだった。数曲プレイしたあとには、デイヴ・エドマンズがスライド・ギターで参加し、最後にはヴォーカルでStan Pfeifferが参加した。完全に正しく夜中に警察はショーをストップさせ、パーティーは終了した。マンは夜中のほとんどの間、姿を消していたが、オーディエンスはずっと彼らを待っていたんだ。結局、彼らは現れなかったんだけどね。

Happy Christmas.
Android Laser


‘1972年12月19日、マンバンドとその友人、女の子たちはスウォンジーのパッティ・パヴィリオンでクリスマス・パーティーを催した。パーティーは午後6時に始まり、スウォンジー警察が夜中と定めた早い時間に終了した。’ こんな風に始まるスリーヴノーツはきっちり2枚組の10インチ・レコードになった。ふさわしくミニ・サイズとなって手押し文字が入った見開き仕様のカヴァーだった。そのライナーノーツの主は‘アンドロイド・レーザー’となっていたが、つまりこれはユナイテッド・アーチスツのボス、アンドリュー・ローダーに他ならない。彼はその晩のお楽しみを録音するために可動式機材を持ち込むという、いかしたアイデアを持っていた。その結果、その晩に起こった英国の最も実りあるミュージック・シーンのひとつを素晴らしくとらえたものとなった。

ウェールズのロック・バンドが最も真価を発揮するのは、いつもライヴにおいてだった。マンのファースト・アルバム、‘Revelation’の多くは、スタジオで整えられる前にスウォンジーのラングランド・ホテルで録音されたライヴ・トラックだった。一方、1972年には初期のマンの4人編成―ディーク・レナード、ミッキー・ジョーンズ、マーチン・エース、テリー・ウィリアムズが収められた2枚の限定アルバム、‘Greasy Truckers Party’と‘Live At The Padget Rooms Penarth’がリリースされていた(両方とも最近になってPoint/VoiceprintからCDリイシューされている)。

ショーはふさわしく‘Welcome To The Party’で幕を開ける。‘その日のために書かれライヴ録音され、二度とプレイしない’曲としてFlying Acesが提供したものだ。残念ながらマーチン、ジョージ・エース夫妻によって結成されたAcesは、自身のアルバムを作ることはなかったが彼らのテープは多く出回った。

その晩、勲章を受け取るべき者はほとんどのバンドで出演したディーク・レナードだ。彼はマンをクビになり、ソロ・キャリアにとりかかる前の空白期間を埋めていた。彼はリーダーのマルコム・モーリーが自信喪失の‘真っ暗な深み’にはまっていた時にヘルプ・ユアセルフを救済していた。レナードに活気づけられたモーリーは以前のレイドバック・バンドのノリを取り戻し、それはここに収録の‘Eddie Waring’で聞くことができる。これはTVパーソナリティーからタイトルをいただいたいくつかのリフに基づいたナンバーのひとつで、他には‘Ludovic Kennedy’と‘Frank Bough’があった。

‘ディークはそういったタイトルみたいな“名前”のついたバンドにしようとしてたね。’ギタリストのリチャード・トゥリースはいう。結局モーリーはバンドに戻ることを決心し、ディークはIceberg結成のために去って行った。

次が厄介な4人組ダックス・デラックスだ。彼らはロンドンのパブ・ロック・シーンで勇者となり、RCAに2枚のアルバムを残すことになる―ここで聞ける‘Boogaloo Babe’はその2枚のアルバムには入っていない。ウェルシュ友愛組合に入っていたのがヘルプ・ユアセルフだった(訳注:ヘルプスはイングランド出身のバンド)。ショーン・タイラはどちらのバンドのローディーもやりプレイもしていた。一方で以前ヘルプスのベーシストだったケン・ウェイリーがダックス・デラックスの最初のラインナップに入っていた。

ザ・ジェッツとプラム・クレイジーはどちらも将来性があったが、その時はまだレコーディングの経験はなかった。それぞれ1964-65年にかけてスウォンジーから出てきたバンドと、1968-69年にかけて出てきたバンドであり、どちらもヴォーカリストのプラム・ホリス擁していた。ジ・アイズ・オブ・ブルー(1964-69)もプレイしたが、2人のオリジナル・ラインナップが別々に活動して以来、アルバムを作っていなかった。その2人―ゲイリー・ピックフォード・ホプキンスはワイルド・ターキーで、ジョン‘パグウォッシュ’ウェザーズは未来のマンのドラマー、そしてジェントル・ジャイアントだ。

お祭りはマンと2人のゲストの飛び入り参加でふさわしく幕を閉じた。1人がギタリスト、プロデューサー、そしてワン‐マン‐バンドのデイヴ・エドマンズで、彼はその年の初めにマンのアルバム‘Be Good To Yourself At Least Once A Day’で、その才能を提供していた。もう1人のスタン・フィファーは、ディーク・レナードが明かしたところによれば、‘多くのスウォンジー・バンドで活躍したローカル・ヒーローだった。彼はよく現れては・・・うん、彼を遠ざけておくのは本当に大変だった!’

‘Christmas At The Patti’のスピリットは1990年代の3つのウェルシュ・コネクションにおいて意識的に呼び覚まされることになった。それはマンのインフォメーション・サーヴィスによって組織され、かつての様々なグループたちが1日のうちに活気を帯び始めた。南ウェールズのグループたちがひとたび同じ船上に乗り合わせると、あの晩のマジックは依然存在するはずだった。そしてそれはマンの30周年を祝うものになる―元ヘルプスのリチャード・トゥリースとケン・ウェイリーをフィーチャーしたジ・アーチャーズ、あるいはクライヴ・ジョンのトレブリング・ニーズがスウォンジー内外のパブ・ナンバーをプレイした時に・・・

最後はトゥリーシーの言葉で締めくくってもらおう。‘Christmas At The Pattiは陽気で楽しい1日だったね。ディークは沈みかけた船を助けようと手を貸していたんだが、妙なことに彼は自分のバンドをIceberg(氷山)と名付けたんだ!’ 喜びに満ちた祝いのCDをぜひ手にとってみてほしい・・・(Help yourself)


Man/Christmas At The Patti
All Music Guide Review by Jo-Ann-Greene


バンドにとってホリデイ・シーズンをスタートさせるにあたって、彼らの友人たちを集める以外に何かよい方法なんてあるだろうか?(都合のいいことに、もしそれが偶然にも同じユナイテッド・アーチスツ・レーベルの仲間なら) お祭りパーティーを開きそれを後世に伝えるべく、全てを録音するためにである。マンが1972年に行なったのはまさにそれだ。それは彼らの故郷であるスウォンジーのトップ・アーチストたちをたくさん集めただけにとどまらず、その時のために町で最も愛されていたグループの再結成を促すことにもなったのである。

Christmas at the Pattiは、その運命的な夜をドキュメントした素晴らしいレコードだ。これは元々は10インチ・ミニLP2枚組として限定リリースされた。エソテリックは今、愛情を持ってオリジナル・テープからリマスター作業を終えたところだ。そしてこのPattiは大歓迎すべきCDリイシューとなった。ディーク・レナードが改めてスリーヴノーツのためにペンを執った。彼は実際ギグそのものの記憶はもう残っていないのだが・・・。ひょっとしたら彼のドラッグ摂取によるものか、あるいは神経を使い果たしていたためなのかもしれない。この元マン(訳注:この時点でディークは一時脱退していた)のギタリストは、その晩三つのバンド(The Flying Aces, The Jets, Help Yourself)でプレイした。皮肉にもマンはその中に入っていなかったのだが。

フライング・エイセズはここで初めてステージに登場し、その陽気な“Welcome to the Party”でアルバムの幕を開ける。実際には彼らはビラに最後から二番目に載っていた。つまりマンの前である。それとは対照的に、ゲスト・バンドだったイングランドのダックス・デラックスは、すでにいくつかのギグを行なっていた。彼らは“Boogaloo Babe”によってこの夜にレコーディング・デビューを果たすことになった。

もし次の二つのバンドが現在では、過去クリスマスに現われた亡霊だとしても、まずザ・ジェッツはその猛烈なR&Bをやってのけた忘れられないステージによって、過去のクリスマスの強力なスピリット・バンドとしてここに刻まれているし、次のデイヴ・エドマンズが参加したプラム・クレージーも驚異的な“Run Run Rudolph”を披露したバンドとして同様にここで聴けるのだ。
残念ながら最後の亡霊、アイズ・オブ・ブルーは一部のメンバーのみによる復活のため、彼らのパフォーマンスはお蔵入りとなってしまった。

その代わり、より充実した空間がゲストのディーク・レナードとスライド・ギター・ヒーローのB. J. コールによって強化されたヘルプ・ユアセルフのために用意されていた。彼らの唖然とさせるような扇動的な“Mona”のカヴァーは見事だ。次の彼らの卓越した“Eddie Waring”と共にこの2曲は、マンがその晩もっと早くに予定していたとしてもおかしくはない演奏だ。トリのマン自身はたしかにその晩輝いていたが、この曲の並びからいけば、ヘルプと比べて最初は迫力に欠けていた。しかしブギ・ビートが刻まれ始め、ゲストのデイヴ・エドマンズのギター・ソロが効いてくるころ、オルガンのフィル・ライアンが荒々しく切り込んでくると、バンドはついには“Shuffle”によってその晩の驚くべきハイライトへと突入するのである。

すぐに伝説的ステイタスをモノにした驚嘆すべきこのコンサート、このCDがまさにその理由を聴かせてくれる。


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