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Man/Live At The Padget Rooms, Penarth/2007 Cherry Red Records. ECLEC 2014



1972年が明けると同時にマンバンドはついに英国民の意識から外れていった。オレたちはドイツでものすごく受けていた(ほとんどオレたちはそこに住んでいた)。しかし英国ではこの上なくおめでたい無視状態にあった。オレたちはベルリン、ハレ(ドイツ中東部)で注目を集めるギグを展開していた。ハレは第三帝国(1933-45:ヒトラー治下)時代にナチスが恐るべき無学な集会を開催したところだ。ギグはベルリンでのロンドン・ウィークの一環だった―ブリティッシュ・カウンシル(英国文化振興会:明らかに本当にクールな奴らの一団)と共同しての‘スウィンギン・ロンドン’が、疑うことを知らないドイツ人たちのところに押しかけてきたんだ。ドイツ人たちは知恵を授かったことによってすごくリッチになったが、それは極めてダサいことだった。それは未開人に対する教育期間だったが、ついでに彼らからわずかなドイツマルクを奪うことになったんだ。その週は芸術展覧会であり、ファッション・ショーであり、映画上映会だったが、最後がハレでのギグだった。ビラにはソフト・マシン、イエス、ファミリー、そしてオレたちが載っていた。英国音楽プレスの大集団がギグにやって来た。全てのバンドは前日に飛んできていた。オレたちを除いてだ。オレたちはすでにそこにいたからな。

一部始終をかいつまんで言えばだな、オレたちは全バンドを吹き飛ばしてやったぜ。それはパフォーマンス・スキルの違いに尽きるな。あの頃は駆け出しだったから、以前ドイツでプレイしたバンドなんて皆無だったんだ。そして不可解なことに、彼らは自意識過剰となり掩蔽(えんぺい)壕的精神構造(批判を受けいれずに頑強に自己の保全につとめる精神態度)と化していった。ナチは敬礼し、上げ足歩調(ナチスドイツ軍のひざを曲げずに足を伸ばす歩き方)になるのがならわしだった。

オレたちはいつもの慣れた領域へと踏み出し、徹底的にわけの分からない言葉をしゃべったね。他のバンドの出番になると、彼らは掩蔽壕的精神構造へと陥った。彼らは6,000人のドイツ人の前で全くコミュニケーションをとろうとはしなかったな。ひたすらよそよそしく、ほとんど何もしゃべらなかった。オーディエンスはその雰囲気を嗅ぎ取って、だんだんと敵対するようになっていった。たしかにかなりの野次も飛んでいたが、それはファミリーのアクション・スタイルのシンガー、ロジャー・チャップマンがマイク・スタンドをオーディエンスの中に投げ入れた時にストレートな攻撃に変わった。マイク・スタンドが怒ったドイツ人たちの密集地帯を破壊しそうになったんだ。彼らが飛びかからないようにするために犬と警官が必要となっていた。ファミリーの出番が終わると、不快な休戦状態が訪れ、イエスとソフト・マシンは機械的な拍手の中、ピリピリしたプレイをしていた。ひどいギグじゃなかったが、それなりだった。翌週、ギグはメロディ・メーカーのロイ・ホリングワースにレビューされた。見出しのタイトルはこうだ。‘ベルリンの壁に並べられて’ 彼はオレたちを絶賛した―それがオレたちの英国プレスでの最初のものだ。全文引用するぞ。

疑いなくマンが最も人気があった。レコードでよく知られた彼らは、ウェールズ人ベース・プレイヤー、マーチン・エースの驚くほど流暢なドイツ語のアナウンスによって優位に立っていた。彼らは土曜の晩7:30にスタートし、2人のリード・ギタリスト、ミッキー・ジョーンズとロジャー・レナード、そしてクライヴ・ジョンのキーボードによる美しくシンプルで効果的なリフによって、その晩最もあたたかい反応を獲得した。いくつかのフレーズは少しアイアン・バタフライを思わせるが、彼らはさらに巧妙な音楽的要素を加え、重厚なムードを凝縮させていた。泣きわめくサイレン、そして悲しげなカモメの鳴き声は‘Storm’のようなナンバーのハイライトであるが、彼らはそれとは対照的にファンキーなブギ・シャッフル・ブルースも披露した。これを聞いたのはデイヴ・エドマンズと‘Black Bill’以来だ。

オレはたまにホリングワースが、オレたちのドラマーのテリー・ウィリアムズが‘Black Bill’で叩いていたのを知っていたのかどうか、不思議に思うことがあるね。まあ、ロイはそれ以来オレたちの支持者となり、ことあるごとにずうずうしくオレたちのことを宣伝してくれたんだ。

オレたちの評判が高まったことで、突然オレたちのマネージャー、バリー・マーシャルが英国内でのギグの予定を容易に入れられるようになった。人々はオレたちのギグに来るようになった。オレたちは大きな会場をソールドアウトにし始めたんだ。オレたちがギグをやる時には必ずホリングワースがそこにいたね。彼とは大親友になったよ。しかし彼は数年前に死んでしまったよ。やつらはいつもいい奴ばかりを連れて行っちまうんだ。そうだろ?なぜ代わりにブライアン・フェリーを連れて行かなかったんだ?(訳注:クイックシルヴァーのジョン・シポリナが死んだ時も全く同じことをいっている)

オレたちが今にもブレイクするかのように見えたと同時に、オレたちのキーボード・プレイヤー、クリント(クライヴ・ジョン)がバンドを去った。誰も驚かなかったな。オレたちは分かっていたんだ。ある時期から奴は次第にバンドから離れるようになっていた。奴は演奏中に次第にオーディエンスの中に入って足を組んで座り、ジョイント(マリファナ)を巻くクセがついていた。教祖のお出ましといった装いでね―ドラッグ漬けの身上相談のオバハンみたいなもんだ。もうほとんど奴はステージにいない状態になっていたんだ。奴の脱退はオレたちのパートに対して何ら音楽的修正を必要としなかったな―オレたちはすでにほとんど1年間4人編成みたいなもんだったから。

4人編成になってやった最初の仕事が、ラウンドハウスでの‘The Greasy Truckers Party’だった。The Greasy Truckersは愛の名の下に仲間のためによい行いをする完璧な一団のことだ。ビラにはホークウィンド、ブリンズレィ・シュウォーツ、そしてマジック・マイケルが載っていた。マイケルは現実との接点が希薄ないかれた魔法使いだ。オレたちは晩に別のギグがあったから、午後の早い時間にプレイした。ショーは全てが録音され、2枚組アルバムとしてリリースされた。オレたちが提供したのは‘Spunkrock’の怒涛のヴァージョンだったが、その曲は時の権力者によって成功不適格の烙印を押されてしまったと考えられている。そしてユナイテッド・アーチスツのボスのアンドリュー・ローダーがオレたち自身のライヴ・アルバムを作ろうと提案した。オレたちは同意した。しかしアンドリューは完璧じゃなかった。彼は限定8,000枚プレスの廉価盤でリリースしようと提案した。オレたちは賛成したが、ひとつ問題が残った。どこでやるかだ。オレたちはふさわしい会場としてぺナースのパジェット・ルームを提案した―オレたちのホームグラウンドだ。

アンドリューは同意した。カーディフ湾の最南端にあるぺナースは、魅力的なエドワード朝時代の遊歩道がある美しいシーサイド・リゾートだ。パジェット・ルームは海から奥まったところにあって、やや広い会場だった。全盛をきわめた市営のホールだった(‘だった’といったのは、多分今はテスコ((英スーパーマーケット))の駐車場になっているからだ)。そこはシャレた外観だったが、建てられた時からペンキは塗られていなかったようだ。何年にも渡って地方巡回のメソジスト派の牧師、燃え木行商の労働組合員、よぼよぼの社交ダンサーたちに場を提供していたが、オレたちがそこに出る頃には国(ウェールズ)で一番の忌々しいサイケデリック・ギグの会場となっていた。

人口統計学的に、オーディエンスはかなり均等に地元のドラッグ売人と透けた服を着たイカレた女たちに分かれていた。それがオレたちが選んだ理由だが。実際、市営のでかいホールにしては普通じゃなかったし、すごくいい音がするんだ。

オレたちはギグをやり、ユナイテッド・アーチスツはそれを録音し、1ヵ月かそこらでリリースした。アンドリューのマーケティング戦略は功を奏し、アルバムは最初の週にソールドアウトになった。ミッドプライス・アルバム・チャートでナンバー・ワンとなって翌週には跡形もなく消え去っていたね。

アルバムの成功はオレたちの名声をさらに高めることになった。何人かのジャーナリストはオレたちを‘次なる大物’として有力候補に挙げた。

全く正しかったね。アルバムは逸品だったし。オレたちにチャンスを示し、オレたちはのし上がるってわけだ。オリジナル・アルバムは4曲(片面2曲ずつ)収録されていたが、このCDで君はフル・ステージを聞くことができる。オレもこのスリーヴノートを書くまでは聞いたことがなかったんだぜ。もしオレが一瞬の間、俗っぽい自己拡大アートの中にふけっているのだとしても、オレたちは全く疑いの影もなく、最高にいかしたロックンロール・バンドだぜ。誰にも劣らないな(これに同意できないなら、オレはアンタを完璧に敗北に追い込んでやるぜ)。まあ、とにかくオレたちは頂点に達していて、完全に調和し、これ見よがしに振舞っていたんだ。音楽がオレたちの中から転がるように飛び出していた。オレたちは即興詩人となり、重力のごう慢な束縛から逃れ、天空へと上昇し、全速力で宇宙の端の表面張力波へと向かっていたんだ。そこには多くの陶酔、アイ・コンタクト、互いにニヤニヤと歯を見せ合ったり、グルーヴがあった―うまくいってる時の確かなサインだ。まあ、俺の言うことをそのまま信じるなよ。君自身で判断してくれ。

しかしオレたちの名声と運命に危機が迫っているようだった。オレたちは評論家から称賛を受け、たくさんのレコード・セールスを上げ、うんとたくさんの創造的満足を得た―しかし人生はそんなに魅惑的には見えなかった。それからクソ野郎たちがオレをクビにしやがった。オレがあまりにシニカルになり過ぎているという理由だった。一体どういう根拠でシニカルになり過ぎてるなんていえるんだ?まあ、少なくとも音楽的理由じゃなかったんだ―本当にうんざりしちまったね。ユナイテッド・アーチスツはすぐにオレにレコード契約をオファーして、オレはソロ・キャリアに乗り出した。その頃のオレは即座に解雇される恐れを感じないようにするために、それだけシニカルになっていたんだ。オレは自分が解雇されるように仕向けるつもりなんてなかったんだ。だろ?しかしオレは認めなきゃいけない、オレはどうしても時々そうなっちまうんだな。

1年半後、オレはマンバンドに復帰した。オレなしでうまくいくはずないだろ?オレのステージ上のでかい存在感がないと寂しいだろ?オレの容赦のないシニシズムがないと寂しいだろ?とにかくまたバンドに戻れたことはよかったね。だが・・ひとつだけ問題があった。実はその時にマンバンドはオレの倍シニカルになっていたんだ。オレは発見してしまった。ゾッとすることに、オレはバンドの中で唯一の理想主義者になっていたんだ。おかしな世界だろ?

Good Luck
Deke Leonard


Man/Live At The Padget Rooms, Penarth
All Music Guide Review by Dave Thompson


Christmas at the Pattiと並んでこのLive at the Padget Rooms, Penarthは、マンの最高のライヴをとらえた1枚として存在し続けている。それはバンドがピークに達した1972年のサウンドを見事にドキュメントしている。そもそもこのアルバムのきっかけとなったのは、その年の少し前にレコーディングされリリースされたアルバム、Greasy Truckers Partyにマンが参加したことによるものだ。マンはレコードの片面より少し長くなることを許可されていたが、バンドがそれまでリリースした中で最高のうちの1曲としてディーク・レナードに認められていた長時間ヴァージョン(22分)の“Spunk Rock”は、スタジオ・ヴァージョンですら10分ほどでフェイドアウトしていた!しかしこの時のリリースによってその不足分が補完されることになった。

アンプからストレートにあふれ出すサウンドとともに、たった3曲がアルバムを使い尽くしている。その中には驚くべき喚起作用のある“Daughter of the Fireplace”と、肯定的かつ悲痛な叫びを帯びた“Many Are Called, But Few Get Up”が含まれ、後者はリリースされて以来、成長しながら長く彼らの重要なライヴ・レパートリーとして演奏されることになる。かつて繁栄していた英国の宝石店チェーンから名付けられた“H Samuel”がさらにダイナミックな即興演奏を繰り広げながら、アルバムを締めくくる。それまでマンが冒険を試みてきたどのアルバムよりも、ロックとジャズの融合が見られる強力でほとんど麻薬常習者に近い感覚をアルバムに残しながら・・・。しかしながらこの秘宝群を聴くためには当時すぐに動き出さねばならなかったのである。Greasy TruckersとChristmas at the Pattiのアルバムと同じようにLive at the Padget Rooms, Penarthも限定8000枚リリースの廉価盤であり、ミッドプライスLPチャートではナンバー・ワンになったのである。アルバムはすぐに売り切れ、7日後には完全に店頭から姿を消してしまった。再び店頭に並ぶには30年の月日が必要になったのである。


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