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Man/Do You Like It Here Now, Are You Setting In?/2007 Cherry Red Records. ECLEC 2013



‘Do You Like It Here Now?(Are You Setting In?)’は1週間以内に書かれ、レコーディングされ、ミックスされたんだ。当時オレたちはほとんどドイツで活動していた。実際そこに住んでいたしね。ダルムシュタットだ。ダルムシュタットはドイツでは芸術的中心地で美しい町だったよ。城塞のような都市のビルと完璧な麻のある庭があった。でも辺りが暗くなってくると、夜の生き物たちが徘徊しだすんだ。当時の危険なもの(大麻?)を思い切りやって堕落してどん底に落ちるわけだ。で、その献身的な実行犯としてオレたちはピッタリだった。結局オレたち夜の動物は自明の理をつかみとることになる―真の悟りへの道は魅惑的な乱痴気騒ぎの中にこそ横たわってるってことをね。よし、じゃあ考察してみよう。

オレたちは究極的に危険なドラッグの拠り所として、ネパールの次に重要な場所であるアンダーグラウンド・クラブでプレイした。そこは自らの生態系をもっていた;マリファナの濃密な煙、夏には雷雨、時には稲妻を起こすことだってできた。単にラリッて目が回っていたに過ぎないんだけど・・・ もちろん大げさに言ってるんだけどね。いや、そうでもないな。

クラブはMarten Schimaによって経営されていた。この創始者は南アフリカ出身で、彼はNektarとかドイツで活動している他の英国のバンドも世話してた。オレたちは他のバンドと親友同士になって、彼らはSeeheimにあるでっかくてボロボロの家に同居する目的でオレたちを招待したんだ。ダルムシュタット郊外にある活気のない村だった。オレたちは彼らの親切な振る舞いを受け入れて引っ越したんだ。仕事は両バンドにたくさん転がり込んできたね。オレたちは家にいるよりアウトバーンで過ごす時間の方が多かったな。みんなとすっかり仲良くなったよ。クリスマスの時に一度だけ英国に戻ったな。でもオレたちのヘヴィ・スケジュールのおかげでなかなかレコーディングする時間が取れなかった。ユナイテッド・アーチストが次のアルバムを要求してきた時もね。でオレたちが確保できたのは移動時間より少ないたったの10日間だった。最後には6日間に縮められてしまったけどね。たったの6日間だよ。

オレたちはモンマス(ウェールズ南部の町)のロックフィールド・スタジオに予定を入れた。ロックフィールドは至福の場所のひとつだ。モンマスシアのなだらかな丘が横たわっていて、レコーディングするにはもってこいの牧歌的なところだ。そこは農地経営されていて牛やなんかがいるんだ。パーコレーターで作ったコーヒーのうち、いくつかはそのまま牛のミルクが使われるんだ。ベッドから起きると、太った使用人が作った朝食をとる。そして次はスタジオのドアまでさ迷い歩く。18時間こもりっぱなしになるところだ―安っぽい部屋でかき鳴らされた音を密封するところ―創造の現場だ。そして疲れ果ててベッドにもぐり込む。

ロックフィールドで生活してレコーディングすることは無上の喜びだったね。そこはワード兄弟が所有してた。チャールズとキングズリーだ。チャールズは農場を経営し、キングズリーはスタジオを経営しているんだ。チャールズはあんまり見かけないんだけど、キングズリーの気配はいつも感じるんだ。彼はかなりの悪ふざけ屋で、皮肉の効いたユーモア・センスを持っててゲラゲラ笑うんだ。セッションはたまにキングズリーのたくらみによって妨害されたな。ポルノ映画フィルムとワイン一式持ってきたりしてね。ヤツはアガメムノンだった(古代ギリシャのミケーネ王でトロイア戦争におけるギリシア軍の総大将)。しかしながらロックフィールドはあるいかがわしい秘密がいくつかあったんだ。それはことのほか恥ずべきことだ。最悪なうちの一つは、フレディ・マーキュリーが‘ボヘミアン・ラプソディ’の中で書いた馬具部屋での残虐行為の事実だ。ああなんて不名誉なことだろう!

オレたちは40分の音楽を録る必要があった―片面に20分だ。でもレコーディングのために1曲半分しか用意してなかったんだ。オレたちがレコーディングのための時間がない時にリハーサルの時間を削ってしたことは、サウンド・チェックの間に曲を急ごしらえで完成させることだった。オレたちは全く大胆不敵だったよ。バンドはエンジン全開で順調に機能してたし、第1級のネパール寺院産のマリファナをしこたま持ってたから―うまくいかないわけないだろう?そう実際どうってことなかった。

ことは滞りなくスムーズに運んだ。オレたちはしくじらなかった。初日録ってミックスしたのが‘Many Are Called(But Few Get Up)’だった。オレたちが完成させていた唯一の曲だった。二日目、半分出来上がっていた‘Angel Easy’を書き終えてレコーディングしてミックスした。続く4日間は毎日午前中に曲を書いて午後にそれをレコーディングし、夜ミックスするという感じだったね。焦りもパニックもなかったな(一度だけある晩巻紙が切れてしまった以外は・・・)。袋小路にも陥らなかったし、曲がうまく書けなくなったこともなかった。書いた曲は全て採用したよ。自分たちの決めたペースで堂々とした決意を持ってことを進めた。自らの妙技を使って希望に満ちた大地をまっしぐらに宿命の戦士(?:Warriors at the Gates of Destiny)のように闊歩した。デイヴ・エドマンズにお呼びがかかる以外はね。

エドマンズ―彼はのちにロックフィールドの住人になった―は定期的にやって来ていた。多分堅苦しい田舎の生活にうんざりしてたんだ。ヤツはすごく愉快だったけど破壊的でコントロールの効かない変り種で、いつもセッションを取り仕切ろうとしていた。オレは一度ヤツにオレの氷山の一角であるアルバムの中の1曲をプロデュースしてもらったんだ。‘Hard Way To Live’って曲だ。即座にヤツはそれにアレンジを加えた。派手でぞんざいな感じのピアノをリズム・トラックの上に自らプレイしたんだ(“ピアノの音がほしいんだ”ヤツは言ったよ“どういうプレイかは問題じゃないんだけど”)。で、オレにもう一度ヴォーカルを入れさせたんだ。ヤツはそれをミックスしたんだけど、全く素晴らしいサウンドになったね。でも一つだけちっちゃな問題があった。

“デヴィッド” オレは言った。“まるでデイヴ・エドマンズ自身のレコードみたいだな。”
“あ、そうだね?”ヤツはまるで意に介さないかのように応えた。“そう聞こえて当然だと思うよ。うん、もし君がよければ使っていいよ。”でオレは使うことにした。まあオレはちょっとその曲をいじったんだけど、エドマンズのトリック(派手なピアノとか)はたくさん使ったよ。ちょっとばかしオレのレコードらしくなるようにはしたな。ヤツはいつも夜中近くにスタジオにやって来て、オレたちがレコーディングしていたトラックを聴いて何とか参加しようとしてたよ。採用されようがされまいが、ヤツは突発的なアイデアをどんどん提供したね。

“イントロにペダル・スチールを入れたらどう?中間部分に4パートのバッキング・ヴォーカルのハーモニーを入れてみるのはどう?キーボード・ソロをギター・ソロに変えてみるのはどう?”

いくつかは却下したけどいくつかは採用した。ただヤツの意見を受け入れるってことはちょっとしたトラブルを意味したんだ。いったん採用されるとデヴィッドは自分の思い通りにして当然だと考えたんだ。デヴィッドはオレたちにうまくいくまで新しいパートをリハーサルさせて、その中のベスト・テイクを選んだ。

“うん、使いたければそうすればいいよ”ヤツは決まってそう言うんだ。彼はこのアルバムでEdmundo Razzとクレジットされているよ。

6日後、オレたちの6曲40分間の音楽はリリース待ち状態になった。オレたちはきわめて満足していたね。

締め切り期限の要求、関係者たちの気まぐれに基づいて決められた勝手な期限とは対照的に、ことはオレたちにとってうまく作用しているようだった。オレたちは効果を高めるためにためらいを捨てて、レコーディング・セッションを腐らせることになるようなキリのない些細な悩みをどんどん追い払ったよ。それはカタルシス的な体験だったな。仕事はうまくいった。オレたちはキリのないネパール産のマリファナをやめにしたよ(あれをやるとドラキュラの墓みたいな匂いがするんだ)。

翌日、オレたちはドイツに舞い戻ってハンブルグでギグをやった。すると突然、アルバムを作ることが束の間の夢のように思えたね。つい1週間前には存在しなかったものが今ここに存在している。どっから来たんだろう?まあ、はっきり言って知ったことかってんだよ。ノッてるときゃやるっきゃないんだ。追い風ならばね。お行儀のいい仕事なんざクソ食らえだ。真冬の夜明けにチャリこいで凍るような思いして仕事するなんてもういい。ハイジ!もう1本巻いてくれ!

オレたちにはアルバムのジャケット・デザインを考える時間なんて残ってなかった。で、その手に余る仕事をアンドリュー・ローダーに任せてしまったね。彼はUA(ユナイテッド・アーチスト)のオレたちのA&Rマンだ。ヤツは非の打ち所のないセンスを持ってたから、オレたちは全面的に信頼してたよ。まあ、つまりは当時オレたちは誰をも信頼してたんだけど。最後は結局自分たちのやりたいようにやってたからね。ボーナス・トラックは3曲だ―‘Many Are Called But Few Get Up’、‘Angel Easy’そして‘Romain’だ。全てライヴで、1971年11月、ドイツのエッセンで収録されたものだ。でっかい市のホールでぎゅうぎゅう詰めになった忘れられないギグだ。アモン・デュールが最初に出てオレたちはその次だった。そしてカンだ。その時はノリノリでショーを終えた。大喝采の中ステージを降りてから‘Romain’のアンコールで再びステージに戻ってきたんだ。

当時オレたちは歌の終わりに空襲警報(サイレン)の音を使ってた。ミッキーとオレは二人とも全く同じワウワウ・ペダルを持っていた。サイレン・エフェクトも入ったたくさんの追加機能が付いてたんだ。フット・スイッチで作動させるやつだ。ひとつ踏み込んでは他方を緩めるというね。オレたちが5分間に渡って二つのサイレン音を交差させると、客たちは自制心を失って一番近くの防空壕に隠れてしまうんだ(避難するということか?)。これはショーの目玉で、オーディエンスは狂ったように夢中になったね。拍手喝采はカンのショーが始まるまでの入れ替わり時間だった20分間鳴り止まなかった。しばらくしてかなりばつの悪いことになった。カンの連中はもっともなことだが、ひどく怒ってしまったんだ。一方オレたちにとっても同じようにもっともなことだが、明らかにこっちがウケてたってことが判明してしまったね。ヤツらは何というか・・オレに言わせると・・・気取り屋(smug)だってことだ。素晴らしいギグだったし、ついにやったぜ!って感じだった。

オレたちがこのアルバムを楽しんで作ったのと同じくらい君たちに楽しんでもらえたらうれしく思う。まあ完全に天国へ達するまではいかないかもしれないけど。オレにとって、いわばマンバンドでプレイすることは、時や状況に縛られない楽しみだった。もちろんドラッグ所持で2週間ベルギーの刑務所に入ったことは別としてね。まあこういうことだ。明るく輝く日の光ってのは暗い影があってこそなんだ。

Good Luck,

ディーク・レナード



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