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Man/Revelation/2009 Cherry Red Records Ltd. ECLEC 2127



REVELATIONは初のマンのアルバムで、オレはこれをレコーディングした時まだバンドに入って3週間だった。オレはバイスタンダーズに加入したような気分だったね。ウェールズの仲間だったザ・バイスタンダーズは大きく成功したグループで、1週間にかなりの稼ぎがあった(1968年にしちゃ幸運なことだった)。彼らはどうやってそれを成し遂げたか?1967年11月の最後の週に話を戻そう。彼らはマンチェスターの両端にある2つのクラブでレギュラー出演していた。1つのクラブでショーをやったあと、猛ダッシュでもう1つのクラブのレイト・ショーをやるために町を横切るんだ(彼らは3つのフルセットの機材を持っていた―2セットはそれぞれのクラブ、1セットはスタジオ・ワークのためにヴァンに積んであった)。ある時BBCラジオ・セッションのためにロンドンへ3日間旅立った。何曲かのカヴァーと最新シングルを録音するためだった。それから土曜日には2つのクラブからの特別ボーナスとして、ロイヤル・アルバート・ホールで英国航空の例年のパーティーに出るためにまたロンドンに行った。Acker Bilkのサポートのためだった。16回の出演契約で総距離は1,500マイルだ。発生した収入は1,000ポンドとプラス小銭だ。

彼らはまたパイ・レコーズとレコーディング契約を結んでいて(半ダースほどのシングルをリリースしていたがヒットは出ていなかった)、南ロンドンの広々としたフラットに住んでいた。彼らは波に乗っていて、マネー製造マシンだったからオレは加入したんだ。ついにオレはリッチになろうとしていた。しかし本当のところ金は重要じゃなかった。なぜならオレは一人のピュアな心を持ったアーチストで音楽的向上心にひたむきに燃えていたからだ。悪銭を持った汚れなき者は、答えを必要とする困難な倫理的問題にぶち当たるんだ。オレがすべきことは?例えばダークブルーのジャンソン戦闘機を買う、あるいは鮮紅色のEタイプのジャガーを買うか?ベルグレーヴィア(ロンドン、ハイドパーク南の高級住宅地区)にフラットを買うか、あるいはハムステッドに大邸宅を買うか・・・えーと、ダイアナ・リグ(英女優)の電話番号は何番だ?

オレがマンチェスターでバンドと会った時、彼らはエキサイティングに活気づいていたね。彼らはオレにとってグレイトなアイデアを持っていた。彼らはバイスタンダーズからマンにグループ名を変えようとしていて、これからはオリジナル曲だけをプレイするつもりだったんだ。あの掃き溜めサーキットの中でこれ以上しょーもないナンバーをプレイするのはやめにしようとしていた。彼らはアルバム用の曲を書くことに専念するために、全てのギグを永久にキャンセルしていた。もちろんこのことは不確かで不毛な期間を意味していたが、いったんアルバムがリリースされると事態は再び活気を取り戻したね。オレは何を考えていたか?

“お前は気が狂っちまったのか?” オレは自分に問いかけた。“お前は憶測上のアルバムを作るっていうちゃちな望みのために、デカい儲け話を棒に振るのか?”ってな。だがオレは外面上はこう言い続けた。“グレイト!” あふれんばかりに見せかけの熱意を持ってね(オレの頭の中では、ベルグレーヴィアのオレのフラットの前にあるオレの鮮紅色のEタイプのジャガーの中で、やりたくてうずうずしているダイアナ・リグが座っていた)。

しかしアルバムは憶測上のものなんかじゃなかった。それはパイ・レコーズからリリースされることになり、オレたちは3週間以内にレコーディングをスタートすることになった。ギリギリの時間だった。そして実はパイはバンドを解雇することを決定していたんだ。ラジオでひんぱんにオンエアされていたにもかかわらず、バイスタンダーズのシングルは何もチャート入りせず、パイは斧を振り下ろすためにバンドのプロデューサー、ジョン・シュローダーをオレたちに会いに向かわせた。彼は解雇を通知するつもりでギグに現れた。しかしその時までにバンドはマンとして多くの自作曲をプレイしていたんだ。それをシュローダーは気に入った。それで彼はオレたちを解雇するどころか、アルバムを作ろうと提案した。彼はパイに戻ってバンドとの契約続行を説得した。

その頃は時代の大きな変化によって、レコード産業は試練の時を迎えていた。サイケデリアの激しい嵐が音楽産業の古臭い回廊の中を吹き抜けていた。何かが起こっていたんだが、彼らはそれが何であるかの手がかりを持っちゃいなかった。ポピュラー・ミュージックの新しいトレンドほどレコード会社にとって脅威となるものはないからな。彼らはパニック状態に陥っていた。もし彼らが船に乗り遅れようものなら、彼らはポップ・シングルを依然として扱うことになっただろう。そこで彼らは全てのレコード会社が不確かな時代にやったように、思慮なく駆けずり回り、長髪にパンタロンの者なら誰とでも契約を交わした。オレたちはそのどっちにも当てはまっていたからギリギリ間に合ったんだ。

しかしながら、オレたちには極貧の時期が長引いていた。バンドの中でのオレの最初の週が来たるべき前触れとなっていた。取得契約―ゼロ・マイルの旅程―収入ゼロ―なんもなし。しかし裏面が余りあるほど埋め合わせてくれた。書いた曲―4曲。手を出したヤク―産業規模。アーチスト的充足感―計り知れず。

オレたちはまっすぐリハーサルに向かった。すでに曲の多くは完成していたが、まだまだやることがあった。リハーサルは爽快だった。ミッキー―3分間ポップ・ソングの圧政から開放され開花し、恐るべき即興テクニックを現し始めた。彼がプレイしたものは全てが待ちに待った新曲だった。新入りとしてオレは自分が加入したことに感謝し、最大限の努力をした。オレはギターではミッキーにかなわないことを知っていたが、曲作りバカとしてのオレの頭の中には100万曲が渦巻き、いつでも詞が浮かび、アイデアは尽きることがなかったぜ(オレは生涯こういう時のために準備万全だった―そしてレコードを作ることになる)。

オレたちはパイのマーブル・アーチ・スタジオでレコーディングを始める日にちを明確に決められ期限もあった。その時、ジョン・シュローダーがアイデアを思いついた。オレたちはスウォンジー(ウェールズ南部)のラングランド・ベイ・ホテルでのギグの予定が迫っていた(予定されていた最後のギグだった)。そこでジョンはパイの移動式機材によってギグを録音することを提案したんだ。

“誰も分からんよ。” 彼はいった。“おもしろいことだと思わないか?” 最初はオレたちもおもしろいと思ったね。これは彼とパイが試作品にかかる重大なコストを用意するっていうエキサイティングな新体制だったんだ。その中でひらめいたってわけだ。彼が望んでいたのはスウォンジーの宴会を会社が全額負担するってことだった。オレたちはしきりに彼に人間の堕落への入口として、バビロンに次ぐものになるといっていた。しかしオレたちは賛同してしまった。‘何かおもしろいことを思いついた’ってことを言い訳にしてな。そして文明人であるオレたちは彼の暗い欲望のために地元のグルーピーさえ用意した。しかし大いにオレたちが驚いたことに、これは成功したんだ。なぜならバッキング・トラックとしてモノになる大きな分け前をオレたちは作り出すことができたからなんだ。

アルバムの残りはパイのマーブル・アーチ・スタジオでレコーディングされた。エンジニアはアラン・フローレンスだった。レコーディングは毎日3時間セッションで行なわれた。それが当時の習慣だったんだ。オレたちはそれを嫌っていたね。なぜなら時間が短すぎたからだ。特にジョンとアランが休憩のためにセッションの真ん中に消えちまうんだ。これも当時の習慣さ。オレたちは自分たちの貴重なレコーディング時間が浪費されるのに腹を立てていたが、振り返ってみればそれはオレたちにとってはうまく作用していたな。なぜならジョンとアランがカンバーランド・ホテル近くでスモークサーモンをバクバクと食い、シャンペンをガブガブ飲んでいる間に、オレたちは新曲を微調整して、それをレコーディングする頃にはオレたちは曲の出来に、より自信を深めることができたからだ。

セッションの間にジョンは、パイの幅広いサウンド・エフェクト・ライブラリーがオレたちに必要なだけ使えるといった。オレたちはそれを使ってアルバムをサウンド・エフェクトで覆った。あるいはオレたちはやり過ぎてしまったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。じゃ、こうしよう、リスナーの諸君、君たちが判断してくれ。

アルバムは音楽界から満場一致の無関心さでもって迎え入れられた。オレたちは音楽紙のレビューを読んでちょっと途方に暮れてしまったね。2,3のラジオ局がシングル‘Sudden Life’をオンエアしたが、セールスはがっかりするものだった。なぜかドイツでは不可解にもセールスは‘励み’になるものだった。事実上このことが、パイにもう1枚アルバムを制作させてもらえることにつながった。オレたちにはまだチャンスが残っていた。

しかしひとつ喜ばしい意外な展開とでもいえる尾ひれがついた。アルバムの中の1つに‘Erotica’という曲があった。これはラングランド・ベイのギグからのインストゥルメンタル・ジャムだったんだが、ジョン・シュローダー―全くのモラルなし男―が、それにオーガズムのあえぎ声を真似た女の声を入れることを提案したんだ。オレたち―同じくモラル欠乏人間―は同意した。ジョンはパイの2階のオフィスに上がって行き、タイピスト集団の中から一人を確保し、30分後、準備は整った。結局これは論議の的となるトラックとなった。‘Erotica’というタイトルのために、W. H. スミス(英大手チェーン店)はアルバムを店に置くことを拒否した。そしてニュース・オブ・ザ・ワールド(英日曜大衆紙)の中で数インチのコラムとなって取り上げられた。フランスではシングルとしてリリースされた―セルジュ・ゲーンズブールとジェーン・バーキンの‘Je T’aime’の優に2年前だ(訳注:70年代初頭に再度ヒットした頃からと思われる)―そしてフランス・チャートで3位まで上がった。それからアンゴラ(アフリカ南西部)でも大ヒットした。その結果、アンゴラのある部族はマンバンドを崇拝するようになった・・・。それはオレたちが思うに・・・オレたちはわずかにそれだけの価値があったってことだ・・・

ディーク・レナード―2009年春


Man/And In The Beginning…The Complete Early Man 1968-69/2004 Sanctuary Records Group Ltd. CMDDD 921


序曲

1968年11月、地元のロック・シーンは明らかにブリティッシュ・ミュージック産業自体よりもはるかに速いペースで進行していた。しかしサイケデリアの出現から1年半あるいはそれ以上経っていたにもかかわらず、プログレッシヴ・ムーヴメントを支持し育てることになる高校/大学の土台がまだその場所には存在しなかった。キンクスのような数ヶ月間ヒットのなかったグループ―60年代においては不滅の存在―は称賛を受けながらも収支を合わせるためにキャバレー・サーキットへと活動の場を縮小していった。高く評価されていたウェールズのハーモニー・バンド、the BystandersDavid Whitfieldという名のメローなテナーのシンガーと共にマンチェスターのクラブで2週間のギグを行なっていた。レギュラーな協力者であったMantovaniの助けを借りてWhitfieldは1950年代にビッグ・ネームとなっていた。彼は時代にすり寄る前に20曲以上のヒットを放った―‘Answer Me’、‘Cara Mia’、‘My September Love’などだ―今では彼は最高のオールディーズとして、その陳腐な作品群は青二才の群れによって称賛を受けるに至った。The Bystandersにその地位を空ける前のことである。

The Bystanders‘I Am The Walrus’‘Incense And Peppermints’をプレイしていた。

実際それはシュールな並列―60年代後半の英国ではみな極めて同等であった―ではあったが、礼儀正しいハーモニー・ポップ・バンドであったバイスタンダーズが大胆なサイケデリック路線へと次第に変容していき、カウンター・カルチャーの旗手として多才で手ごわいバンド、Manとなる、ちょっとしたピカレスク(ワル)であったことを示しているに過ぎない。パイ・レーベルでもう少しで成功するところだったシングルを経て(Ronnie ScottMarty Wildeが彼らのために書いたあつらえの曲‘When Jesamine Goes’含むが、これはすぐにCasualsがコピーしてチャートに送り込んでしまった)、バイスタンダーズは世界中に巻き起こっていたSummer Of Loveに重大な影響を受けていた。メンバーのClive Johnがキングスレィ・アボットに次のようにいったとおりだ。“僕たちはサイケデリック・バンドのStrawberry Alarm Clockみたいなサンフランシスコ・タイプのハーモニー・バンドに影響を受けた。でも僕はそれとはちょっと違ったもっとオリジナルなバンドにしたかったんだ。大量のヘロインが使われていたね。僕たちはあるものを発見したんだ。LSDかって?そう!新しいドラッグさ!”

しかしバイスタンダーズがそのハーモニーと能天気なポップス的方向性を取りやめたことは、彼らがおよそスマートとはいえないレコードを作らずに済んだということを意味していた。彼らだけが持つ天才的で型破りな創造性は‘Cave Of Clear Light’で示されていた。スリリングな西洋と東洋の衝突といえるこのナンバーは、1968年2月のシングル、‘When Jesamine Goes’のB面に入っていたオリジナル作品だ。しかしながらバイスタンダーズにとっては時すでに遅しであったことが判明しただけだった。彼らの次のシングル、自意識過剰気味なBee Gees風のヴォーカル・スタイルを使った‘This World Is My World’の頃までにグループはばらばらになり始めていた。シンガー、Vic Oakleyは依然昔のクリーンなアメリカン・ハーモニー・ポップ・サウンドに憧れていた。彼はメンバーと次第に心が離れていくようになった上に、彼の妻はウェールズに住み、彼とバイスタンダーズの仲間はロンドンのStreathamのフラットで共同生活をしていたことで、さらに状況は悪化していくようになった。ヴィックはあるいはお終いにしようと考えていたのかもしれない。そしてグループのメンバーたちはそれに異論はなかったのだった。

オークレィ(Oakley)が去ろうかという時(オークレィはのちにウェールズでトップ・シンガーとなる)、グループのプロデューサー、John Schroaderは、パイの上層部から7枚のシングルが失敗に終わったことでバイスタンダーズとの契約を切るよう告げられていた。彼はグループの窮地と戦っていたが、プライヴェイトではそれに同意していた。彼らのさわやかなハーモニー・ポップ・スタイルはますます時代遅れとなっていったが、彼らはサイケデリック・ブリティッシュ・ポップ・シーン後に必要とされた成功のカギとなるような創造性をほとんど見せてはいなかった。

そして始まり・・・

グループ最後の2年間以上に渡って親密となっていたシュローダー(Schroader)は、気の進まないバイスタンダーズとの面と向かっての最後通告を伝えるために彼らのギグへ向かったが、彼がそこで見たものはグループ内に進行していた驚くべき音楽的変容だった。彼はその変わり様にブッたまげてしまったのである。グループはFour SeasonsBeach Boysのような昔からの安易なカヴァーをやる代わりに、プレイしたのはほとんどがオリジナルであった。会社(パイ)に戻ったシュローダーはその時の自分の上司に、古いBystandarsはとうに死んで今やバンドは新しく生まれ変わり、力強く最新のスタイルになったと報告し、契約破棄の保留が許可されたのだった。

1968年11月、様々な地下活動の末、新メンバーとしてRoger‘Deke’Leonardが飛び込んできた。Martin AceTerry Williamsらと共に(後にも多くのメンバーがやってくる)、レナードはサイケデリック・バンド、the Dreamsメンバーだった。“僕らは当時フリーク・アウト(ラリった状態)してるなんて思っちゃなかったね。”うつろな目をしたディークは1972年にZigzag誌に語っている。

“僕らは自分たち自身を創り上げなきゃならなかった。でっかいドローン(ブーンという持続低音)を出すためにアンプの上にギターを載っけたままにしたり、お互いにビールを振って泡を客に向けて飛ばしたり、手一杯の新聞紙を切り刻んだやつを客に投げ込んだりね。マーチンはアソコを強調してペイントされたふんどしをよくはいてた―みんな僕らのことを野蛮な精神異常者だと思ってた。”

レナードは同じウェールズのギグ・サーキット(地域)でプレイしていたため、バイスタンダーズのメンバーを知っていた。一番あとの頃でDreams時代だったが、the Smokeless Zone、the Jetsそして1963年にまでさかのぼってでさえ、とげとげしく若いR&Bバンド、およそ似つかわしくない名のLucifer & the Corncrackersも例外ではない。The Dreamsが、彼らの身近なところにいた多くの取り巻きたち、支持者たちを越えて一気にブレイクするのに失敗したのに対して、the Bystandersは数え切れないほどのBBCラジオ・セッションやBatley Variety Clubでは時々まるまる一週間の出演延長が計られるなど、どんどん出世していった。彼らはウェールズを越えて知られるようにさえなっていった。

ディークがとてつもないManについてのデータ本、Rhinos, Winos & Lunaticsの中で詳しく述べているように、彼はグループ加入の誘いはロック界でトップに立つための手段として考えていた(最初は6月に誘いを受けたがウェールズを離れることに気が進まなかった。それは特に新しいガールフレンドと離れることだったからである)。the Bystandersは、バンドにとってきわめて重要な要素であるシングル・ヒットに欠けていたに違いないが、彼らはそれでも自分たちに対してはほぼ満足していた。ディークはグループ名をManに変えることを告げられた時、あまり喜びはしなかった(“僕はBystandersって名前が好きだったんだ。何かが起こる時には仲間の連中がいつも近くに立ってるって意味がね。”)。それはその新しい名前が、人類学に通じていることを示す‘自由と兄弟愛の時代’を反映していて、ヒッピーがいつも使う用語であり、何といってもギグのポスターには大きく文字が書かれるとしてもだった。

彼のBystandersとしての最後の栄華はマンチェスターでのDavid Whitfieldとの2週間のジョイント・コンサートだった。そこでいったんバンドは片付き、彼が正式メンバーとなることでManへの移行が完了することになる。バンドはレコード会社と新しい契約を交わしていた(所属アーチストの世話を心得ていたパイ・レーベルの慣習であった防衛策は5年契約で年1枚のアルバム、印税率は0,75パーセントだ)。そして今まさにデビュー・アルバムをレコーディングしようとしていた((一方では彼らはMordenのR. G. ジョーンズ・スタジオで他人の書いた曲のデモ・レコーディングを続行していた。それはリーズ・ミュージック出版に所属していたロニー・スコットとマーティ・ワイルドの協力による、いい小遣い稼ぎであった。Robin Scott(後の悪名高い‘Pop Musik’Mとして知られることになる)の曲、‘Down The Dustpipe’のデモでバッキングを依頼され、それがStatus Quoによってメロディがコピーされたのもある意味同様である))。マンチェスターに滞在していた間(場所はPhil Lynottの母親Phillisが経営していたホェイリー・レンジのミュージシャン向けのホテル、The Bizだ)、バンドはディークがホテルに戻るまでの時間にリハーサルを行ない、夜は契約上の責務(ギグ)を果たしていた。リハーサルの内容は主にバンドが書き溜めていた素材だった―‘And Castles Rise In Children’s Eyes’、‘Empty Room’そして彼らが名付けた1曲のがらくたSesquipe dalarianisticpsychomaticmotor(とか何とか・・)で、またディークは明らかにおかしな曲The Missing Piecesを持ってきた。この曲はDreams時代の残りカスだ。彼らがマンチェスターを去るまでにはManとしてアルバム1枚分の十分なレパートリーが生み出されていた。

都合のいいことに、マンの最初のラインナップ―Micky Jones(guitar, vocals)、Deke Leonard(guitar, vocals)、Clive John(keyboards, vocals)そしてJeff Jones(drums, vocals)―がスウォンジー(ウェールズ南部)を離れ、一日か二日Streathamに戻ってきていた。John Schroaderは故郷の聴衆の前で2回のショーを行ない、それをレコーディングしてマンのファースト・アルバムとし、彼らの基盤とするのがいい考えだと思っていた。バンドはSchroaderの考えを受け入れなかったが事は全てうまく運んだ。ラングランド・ベイ・ホテルでの2回のギグはパイの移動式レコーディング・ユニットにより録音され、マンはマーブル・アーチにあるパイ・スタジオでのセッションのためにロンドンに戻ってきた。

結果的にBystandersからは遠くかけ離れたものになったが、マンのデビュー・アルバムはなにか寄せ集め的な傾向になった。それはメンバーの音楽的ルーツ―激しいR&B、ハーモニー・ポップ、the Dreamのサイケデリックでややラリッた感じ―の断片を結合し編集したようなものに未来のマン・サウンドの要素が絡み合っていた。‘Sudden Life’はBystandersのトレードマークであったハーモニーが残っていた。しかしより肉感的で完全なサイケデリック・コーダで完結するプログレッシヴ・ブルースの流れがある。‘Love’はトラディショナルなアコースティック・バラッドで、確かに少しJose Felicianoが入っている。一方‘Empty Room’は彼らにふさわしいウェストコーストにインスパイアされたハーモニーが見られ、クライヴ・ジョンのドアーズ風オルガンが基調となっている。

もしかすると最も印象的なトラックは、不吉な雰囲気のあるオープニング・ナンバー‘And In The Beginning…’かもしれない。加えて冒険的でやかましいギター・リフは、その後David Bowieの‘The Width Of A Circle’で神秘的に再現されることになる。Revelationを特徴づけているのは当時の時代精神であり、コンセプト・アルバムだという点だ。後にディーク・レナードが次のようにLPのテーマを指摘している。

“存在というものの全ての側面があちこちに散りばめられているんだ―原始の液体から宇宙の征服までね。全てに渡って僕らは時間(歴史)の本質をカヴァーしようとした。過去における社会の構築、幼年期の純真さ、儀式と過ち、夢の希求と挫折、理想主義の死と希望の再生。柄にもなく僕らは打ち込んだよ。”

こういった増大した探究心の中にあってもまだ少しは昔からある宇宙に関する笑い話のようなものも受け入れる余地があった。ラングランド・ベイのテープはバンドがアルバムでしきりに活用していたインストゥルメンタル・ジャムを含んでいた。しかしアルバムは彼らが決して‘頑固者’であることを表わしてはいなかった。レコーディング・スタジオで誰かが女性のオルガスムの喘ぎ声をやり過ぎなほど入れてみようと提案した(ハメをはずす、なんちゃって・・・)。Schroaderは2階へ跳んで行き、パイのオフィスから誰かを連れてきた。宣伝課のアニアという女性だった。しかし残念なことにアニアの最初のMeg Ryan(米女優1961〜)ばりの試みはいくらか迫真性を欠いたものになり、彼女にとってその場でそういったムードを醸し出すのは難しいことが判明した。そこで彼女はミッキー・ジョーンズと一緒にスタジオに入り、電気を消してカーテンで彼らを隠すことを提案した。残りのメンバーはまるでお呼びでないかのようにマヌケにその辺りに座っていた。アニアはなんとかそれっぽく声を入れることに成功し、‘Erotica’はうまくいったのだった。

音楽的差別化を図るためにバンドとJohn SchroaderはSpike MilliganのTVシリーズ、ビーチコーマー(ルンペンの意)で編集を担当していたプロ、Malcolm Eadgeを裏方として呼び寄せた。アルバムのコンセプトを反映するような少量のサウンド・エフェクトを自由に加えてもらうためであった。一番印象的な装飾は、‘The Future Hides Its Face’の最後で聞ける。それは1962年2月20日、アメリカのジョン・グレン宇宙飛行士による初の地球周回飛行「フレンドシップセヴン」のロケット発射から借用したものだった。飛行中のある時期、グレンの宇宙カプセルはオーストラリア上空を通り過ぎていた。パース市民は全ての明かりをつけ、光が空に反射するように芝地に白いシートを置いた。軌道上から眺めるとその効果はとてつもなく印象的な光景であった。グレンはいう。“私は明かりをつけてくれたみんなに感謝したい。”そういうわけで、ハード・ロックの原型として、そしてマンのような活気あふれた乗組員にとってこのような仕掛け(効果音)を使わない手はなかった。

Revelationはクリスマスまでに完了した。マンに関していえば、残るはいかにアルバムのパッケージング(ジャケット)を称賛に値するだけのものにするかということだった。ディーク・レナードは表ジャケットに裸のメンバーが沙漠に佇み、裏ジャケットでは服を着て町の通りに佇むメンバーたちを載せるアイデアを思いついた。かなり気まずく恥ずかしいフォト・セッションが行なわれ(砂漠の風景に重ねることを念頭にヌード・ショットには一台のドライ・アイス・マシンが用意された)、バンドはパイのアート部門の能力限界まで使い切った。一方彼らはBystandersとして最後の責務を遂行した―Nurse Of The Year Ballにおけるクリスマス前のパーティーだ。ギャラはそれほどよくなかったが、有給休暇らしきものを取れる見込みはあったらしい・・・

前途多難

Revelationは1969年1月に発売されたが、ジャケットはManが何を意図したのかはっきりしないような出来であった。パイはドライ・アイスは使ったが結局砂漠は採用しなかったのである。ディーク・レナードの言葉はこうだ。“これじゃまるでラグビー・ソング・アルバムだね。”(同月偶然にもパイはバーミンガムのバンド、Velvett Foggのデビュー・アルバムをリリースしたが、これもまたメンバーの裸の写真が使われていた。今回はドライ・アイスでなくペイントでぼかしてあった)。

メロディ・メーカー紙が好意的なコメントを寄せたにもかかわらず、アルバムはチャート上で支持を得ることは出来なかった。しかしながら少なくとも英国プレスの好色家たちの注意を引くことに成功した。‘Erotica’がLangland Bay Hotelでの当にエロティックな乱痴気騒ぎを引き起こし、サンデーピープル(英国の日曜大衆紙)はラジオ・ワンのDJAlan FreemanPete Murrayがその曲をかけることを拒否したと報じた。チェーン・ストアのW. H. Smithも同様にアルバムを店頭に置くことを嫌がっていた。アメリカではフィリップス・レーベルがLPをかなり控え目な(どちらにも取れるような意味を持つ)ジャケット・デザインでリリースし、アメリカのニュー・グループで同名のManと混同を避けるため、Man Powerとクレジットした。

英国では臆病なパイが‘Erotica’を完全に避けて代わりに‘Sudden Life’(B面は‘Love’)をシングルとしてリリースすることに決めた。しかしJohn Peelのトップ・ギア・ショーのサポートにもかかわらずヒットせず終いだった。ヨーロッパにおいては寛容なパイの傘下レーベルが‘Erotica’をリリースした。もっともある地域ではB面に違いがあった―オランダでは‘Sudden Life’、フランスでは‘Don’t Just Stand There(Come Out In The Rain)、そしてポルトガルでは‘Love’であった。ちなみにアメリカではタイトル変更されて‘Please Love Me(Erotica)’だった。

フランスはあのお国柄でもってこのリリースに応え、チャート3位というクライマックスに達した(←失礼・・・オランダでもこれにはわずかに及ばなかったがヒットした)。そしてこのことは間違いなく数ヵ月後の同じようなドギツく露骨なジェーン・バーキン/セルジュ・ゲーンズブールのヒット、‘Je T’Aime…Moi Non Plus’を導くことになったのである。‘Erotica’のヨーロッパでの成功によってマンはパリに呼ばれることになった。しかしかの地では例の忘れられない声を曲に提供していた女性をバンドが連れてこなかったために、大きな失望をもって迎え入れられることになってしまった。これを埋め合わせるために様々な案が練り出された。クライヴ・ジョンは自らハモンド・オルガンによってあの雰囲気を出そうとしたが、どうもうまくいかなかったようだ。

Revelationが出るまでにバンドはセカンド・アルバム用の曲を書くためにStreathamのティアリー・ロードに身を隠した。“僕らは一日中プレイして一晩中LSDをやっていたな。”Rhinos, Winos & Lunaticsの中でディークは回想している。“プラグ(バンドのローディー)は見たとこカリフォルニア産の花模様のブロッター(LSDを染み込ませた吸い取り紙)を有り余るほど持っていたようだったし、カーナビー・ストリートが最高に盛り上がってた頃だ。僕らはフランク・ザッパキャプテン・ビーフハート(主にビーフハート)、スティーヴ・ミラーヘンドリックスそしてたまにクイックシルヴァーなんかを聴いていた。僕らにとってビッグな1枚のレコードはTouchというイタリア系アメリカ人のアーチストだった。知る限りこれ1枚しか作らなかったと思う。”

セカンド・アルバムは再びJohn Schroaderの指揮の下、自ら謙遜したようなさり気ないジョークであるタイトル、2 Ozs of Plastic With A Hole In The Middle(真ん中に穴のあるプラスチック盤2オンス)として完成した。60年代の最後の最後の年にリリースされた2 Ozs of Plasticは60年代と70年代の間のポッカリ大きく口を開けたすき間を明確に定義づける同時期の他のアルバムと近いものがあった。それに対してちょうど1年前かその少し前のバイスタンダーズは、複雑なヴォーカル・ハーモニーに大きな重点を置き、自分たちのアピールするメロディを容易に我がものとしていた。マンは事実上3分間ポップ・シングル・バンドとしてのけばけばしい衣装に別れを告げ(あの声帯も)、代わりに曲は長くなりやや即興演奏的に大部分がインストゥルメンタルで構成されるようになっていった。それが彼らが自信をもって自らの方向性を選んだ結果であった。間違いなくこの当時の彼らの最も魅力的なナンバーは‘Prelude/The Storm’であり、多くの点で彼らの意思表明となった。そしてそれはマンだけでなく来たるべきプログレッシヴ時代の特徴であり、伝統的な小節/コーラス/ミドルエイトのアプローチはもはや時代遅れとなり、ミュージシャン同士の気まぐれなコミュニケーションや時代環境的に、音を織りなしていくことへの追求があった。“まるでひとりでに曲ができていくようだったな。”明らかに畏敬の念に駆られた(そしてほとんどラリッた)ディークは公言する。

しかしマンのリラックスした姿勢はパイの保守的な階級体質には受け入れられなかった。レナードのハープシコードを活用したバロック調の間奏曲‘Parchment And Candles’はレーベルの第一人者であり、レコーディング・マネージャーであり、出世したコンポーザーであったTony Hatchに差し止められてしまった。不運にも彼はバンドがその曲を完了した時に戻ってきたのだった。ハッチは怒り狂い、マンにきっぱりと金を払わないで機材を使わないよう宣告した。しかしとにかくその時点でそのトラックは録り終えていた。

予定されていたアルバムからのその他2曲がレーベル側と衝突してしまった―少なくともそれはタイトルに原因があった。ミッキー・ジョーンズのものすごいリフが聞ける‘Spunk Rock’((Carry On(60-70年代の喜劇映画シリーズ:セックス、下ネタを散りばめていた)の俳優シド・ジェームスは、これがプレイバックされている時にスタジオにふらふらと迷い込んできてゲラゲラと笑って言った―“はらわたをかき回す音楽だ!”))と、クライヴ・ジョンのヘヴィ・ブルース・ロックのブチかまし一発、‘Shit On The World’(権威のセコさに対するこき下ろしとして十分に相応しかったが)はパイにとって、とうてい受け入れられないタイトルだった。‘Spunk Rock’の‘Rock’はだいたい差し支えなかったが、‘Spunk’(俗:射精)は、う〜ん、かなりきわどかった。そして・・・‘Shit On The World’?!?!冗談だろ?我々にポップ・キッズたちに向かって汚物をばらまけってのか?!

パイにタイトルが‘Spunk Rock’ではダメだといわれたクライヴ・ジョンは、会社の望むタイトルにすると答えた。‘Shit On The World’についてはどうかとパイが尋ねると、“It is as it must be”(言うとおりにする)と、ジョンはLSDによる機敏さと、うんざりするようなあきらめの入り混じったヤク漬け状態で答えた。

そうこうするうちに2 Ozs of Plasticのミックス・ダウンが行なわれ、ディーク・レナードは4月に結婚し突然家庭の事情から脱退が伝えられた。そして彼はtheNew Mayfair Orchestra((地元ラネリー(Llanelli:ウェールズ南部の町)ナンバー・ワンのナイト・クラブ、the Glen Ballroomのバンド))に加入した。そこには彼のDreamでの以前の仲間Martin Aceが在籍していた。

一定期間経た後、視覚的な効果を狙った見開きジャケットによるアルバムがついに1969年10月に発売された。それはパイ傘下の新しいアンダーグラウンド・レーベル、ドーン(Dawn)始動の1枚となった。しかしレーベル名がどうであろうと、いくつかの点で変わらないものもあった。パイは最後まで変化するミュージック・シーンを感受することの出来ない保守的な会社だった。その年の初め、パイは元Black Widowであるアーチスト、Pesky Gee!をリリースしていた。パイがバンド名のうしろに!マークをつけ忘れるくせがあることで、バンドのマネージメントはパイの本部にすぐに電話をかけ、彼らの名を冠したアルバムに使うクレジットについて丁寧に言葉で説明した―“忘れないでくれ、Pesky Gee、エクスクラメーション・マークだ。”アルバムが出た時、パイはPesky Geeとクレジットし、アルバム・タイトルをExclamation Markとしてしまった・・・

さて次はマンの番だった。もうひとつ直解主義に基づくケッサクがある。オフィスの人間たちはクライヴ・ジョンが言った言葉をそのまま受け取ってしまった。‘Shit On The World’(印象的なオープニングの詞は “生のニンジンをつかんで食いつく”)は‘It Is As It Must Be’となった。こっけいな一幕は‘Spunk Rock’にもやってきた。レーベル側は最初の単語に異を唱えたあと、パイのひらめいた考えは完全にポイントをはずし、タイトルの後ろの単語を変えてしまった。今では‘Spunk Box’として知られるが、これも元々のタイトル同様‘攻撃的’であるしさらにシュールなタイトルとなった!レコード上では比較的地味なこのトラックはのちに‘Prelude/The Storm’のように30分ものジャムへと変形していった。そしてその後何年にも渡ってバンドのレパートリーとして生き延びることになった。

[ちなみにパイはもちろんオリジナル・タイトル‘Spunk Rock’に、より大きな不快感を持っていた。それは古いR&B、‘Walkin’ The Dog’よりも下品なもじりを含んでいた。2 Ozs Of Plasticのセッションからの他のはみだしたアウトテイク―別バージョンの‘My Name Is Jesus Smith’と現段階で世に出ていない‘A Sad Song’―に加えて我々のアンソロジーは‘Walkin’ The Dogma’の1969年4月終わりのヴァージョンを含んでいる(これもタイトル変更されねばならなかったものだ)。それはパイのテープ・アーカイヴによればバンドがつけていた元々の仮タイトルで9番目のテイクだった。]

2 Ozs Of Plasticは前作同様のプレスの称賛を受けた。彼らのライヴァルたちには大部分見過ごされてしまったにもかかわらず、メロディ・メーカー紙は大きな衝撃を受けたと表明し、‘Prelude/The Storm’はロック界におけるベートーベンの‘田園交響曲’であると言明した。あるいは土曜の午後のラジオ・ワン・ショーで‘Prelude/The Storm’をそっくりそのまま3週連続で流したAlan Freeman(オメデタイ奴としていつも引き合いに出されていた)を揶揄したのかもしれない。しかし残念ながらこの曲は‘My Name Is Jesus Smith’(どうしてパイがこの不敵なタイトルに不服でなかったのだろう?)もしくは‘Brother Arnold’s Red And White Striped Tent’の2曲のようなバンドの未来への出口にはならなかった―なるほど後者は何10年ものブランクの後の1998年のライヴ・ツアーにおいて驚くべき再演がなされたのである。

それにもかかわらずRevelation, 2Ozs Of Plastic…のいくつかの曲は間違いなくバンドがUSウェスト・コーストの影響を大きく受け、その実り多い領域へと進み、ミッキー・ジョーンズとディーク・レナードの2本のギター・アンサンブルがマンを続けていくことへのこだわりを示し、Quicksilver Messenger Serviceとの比較を生む内容を含んでいた。アルバムはすぐにバンドの10年間のライヴ・ショーの分岐点となる基盤となった。しかし商業的側面においてはより幅広いリスナーを獲得するには至らなかった。そしてパイはそのアルバムからわざわざシングルをリリースしようとはしなかった。

IT IS AS IT MUST BE

1970年3月までにディーク・レナードはバンドに戻ってきた。New Mayfair Orchestraを去った後、彼は地元のピアノ工場の事務所の仕事に就いたが、仕事場の食堂での不快な出来事が彼の選択を促していた。同時期に起こったのが、全国紙のトップに載った‘ウェールズのバンドがドラッグ不法所持でベルギーの刑務所に入った’というニュースだった。ディークは記事を読む前にそのバンドはマンに違いないと分かっていた。実際に彼らはバーダー・マインホフ団(資本主義社会の打倒を目標とするドイツのゲリラ集団)と間違われベルギーの刑務所で9日間過ごしていた。ウェールズのピアノ工場ではこんな派手な騒ぎ方はできまい、ディークは決心した。マンがロンドンに戻ってくるとすぐに彼はメンバーに電話をかけバンドに戻りたいと言った。

放蕩息子レナードが古巣に戻り、マンは1970年春、あるお決まりのことに身を入れて取りかかった―ディークの言葉を借りると、“ヨーロッパ中を飛び回ってヤクをやり騒ぎまくった。僕らは朝食にLSD、昼食にLSD、夕食にLSD、お茶の代わりにLSDだった。つまるところくつろぎとして少しのLSDを飲んでたんだ。世界中で違法なLSD研究機関が要求に応じるために働いていたよ。”

ヤク漬けの中にあって、あるちょっとした魂胆があった。セット・リストを不要とし、6人のManは今や即興でステージをやるようになっていた。ただレイ・ウィリアムズとジェフ・ジョーンズは他のメンバーほど快適ではなかった。二人は既婚者で、既にバンドの拠点であったTieney Roadからは離れていた。その後Terry Williams―Dreamにレナードとマーティン・エースと共に在籍していたが、その時はLove Sculptureに在籍―が、ある日ジャム・セッションにふらりとやってきた。ドラムスにウィリアムズ、エースはベースにまわるとバンドはたちまち調和してしまった。テリーは翌日加入し、一方のエース、レナード、ミッキー・ジョーンズそしてクライヴ・ジョンは、勇気を奮い起こしレイ・ウィリアムズとジェフ・ジョーンズを解雇した。レイ・ウィリアムズ、彼はセミ・プロ・バンドへとずるずると追いやられていったあと、悲しいことに1993年に亡くなってしまった。一方ジェフ・ジョーンズはJethro Tullから枝分かれしたバンド、Wild Turkeyに参加した。

英国は依然として彼らの魅力を断固として受けつけないままであったが、ヨーロッパ―とりわけドイツではRevelationはかなりの成功を収めていた―はマンにとって救いの道であることが証明されていた。ディークは次のように話す。“イングランドでは僕らはエッピング(ロンドン北東)のWake Armsのような小さなクラブなんかを回っていて、利益は4ポンドかそこらだった。ガソリン代も出なかったよ。でもドイツで僕らは大スターで、ものすごい数の客を集めることができたんだ。それは幸運なことだった。なぜなら当時のドイツのシーンはマンにとって憧れの地だったからだ。当時のドイツ人はヤクやり放題のでっかいフェスティヴァルにはまっていたんだ(つまりあそこは他のヤク・フェスティヴァルよりもさらに大きなLSDフェスティヴァルだったということだ)。僕らはヤクをやってロックするヤク常習バンドだったから、ドイツですごく気に入られたんだ。一晩でかなりの大金を稼ぐことができたよ。僕らの充実した1ヶ月間はイングランドでの無益な3ヶ月間をカヴァーするに十分な稼ぎがあった―僕らはそれで未払いの家賃、ヴァン代、ヤク代なんかを支払うことができたけど、食い物は依然として友人に頼らなきゃならなかったね。”

こういった背景とは対照的に2Ozs of Plastic大失敗後、パイ/ドーンはバンドに興味を失ってしまった。しかし1970年夏、マネージャーのBarry Marshalは新しいラインナップでユナイテッド・アーチストと契約を結ぶことに成功した。ここで事実上バンドの第一段階は終わりを告げ、ここからマンの何年にも渡るアンダーグラウンド・ミュージック・シーンでの彼らの特異性が発揮され続けることになる。ここから全てが始まった―創造の夜明け、マンの誕生である。あるいは彼らの驚異的なキャリアの当に最初に彼らが暗示したように、そこには始まりも終わりもないのかもしれない。

デヴィッド・ウェルズ
2003年12月

マンの歴史に関するさらに詳しい情報はディーク・レナードが著した絶対的オススメ本、‘Maybe I Should’ve Stayed In Bed’と‘Rhinos, Winos & Lunatics’で見ることができる。これらの出版元は以下の通りだ。
Northdown Publishing Ltd, P O Box49, Bordon, Hants GU35 OAF(sales@northdown.demon.co.uk)、それぞれISBN 1 900711 09 5と1-990071-00-1だ。

バイスタンダーズのフル・ストーリーは、Pattern People:The Pye Anthology(Castle CMRCD 270)で聴ける。
グループの全シングル両面と7曲の未発表アウトテイクが含まれている。


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