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Man/2 Ozs Of Plastic With A Hole In The Middle/2009 Cherry Red Records Ltd. ECLEC 2128



TWO OUNCES OF PLASTIC (WITH A HOLE IN THE MIDDLE)はマンのセカンド・アルバムだった。その半年前のファースト、REVELATIONはほとんど無視されたが、パイ・レコードが次のアルバム制作を依頼するには十分の成果だった。オレたちはアルバムが失敗に終わった理由を探し求め、検死解剖を行なった。オレたちはその理由が音楽自体にあるとはどうしても思えず、その時の体制にあるに違いないと思った。オレたちはすぐに自分たちの現状況の棚卸しにかかった。ギグの予定は入っていなかった。オレたちには代理人(エージェンシー)もマネージャーも広報係もいなかった。オレたちに代わって働いてくれる者など全く誰もいなかったんだ。そこのところに何か手がかりがあった。

オレたちのレコード・レーベル、パイを公正に見てみれば、彼らはこのことに気づいていたし、いくつかのマネージメントに探りを入れていたんだが、誰もその餌に食いつかなかったんだ。それでオレたちの出版者デヴィッド・モスト―ミッキーの兄弟―が電話をかけてきた。彼は興味深い一団を知っているといって、自分のオフィスでのミーティングの約束をとりつけたんだ。そのオレたちの新しいマネージャーになる見込みがあったのが、ピーター・グラントだった。彼はすでにレッド・ツェッペリンという名のバンドのマネージャーを務めていた。彼は無慈悲なところがある巨大な男だったが、彼のすることといえばレッド・ツェッペリンについてしゃべりまくることだけだったな。オレたちは、ツェッペリンはいくらか一瞬だけの成功に終わってしまう何の望みもないバンドだが、オレたちマンバンドはポピュラー・ミュージックの未来だと彼を説得しようとしたが、彼は聞いちゃいなかった(訳注:過度に自虐的な回想)。彼はギグの予定が迫っているといったが、オレたちには何のギグの予定も入っちゃいなかった。まあ、それはそれだ。

明るい側面としては、オレたちはもう1枚のアルバムが進行中だったから、まとまった新曲を書き始めたことだった。その新曲群はStreathamのオレたちのフラットの中で、長く、暑く、もうろうとしたアシッド漬けの夏の間に書かれた。天候は壮観だったがStreatham High Streetはくすんだ特色のない大通りだった。しかし突然、南ロンドンの女たちが蝶のようにその暗い冬のまゆから飛び出し、薄っぺらい夏の服をひらひらと震わせながら花開いたんだ。しかしオレたちは何も見なかったんだなこれが。オレたちはティアニー・ロードの永遠に薄暗い1階のフラットに埋葬されていた。そこにある重いカーテンはいつも取り払われることなく、日光は常に弱々しく差し込んでくるだけだった。サイケデリックなもうろうとした精神状態の中、オレたちはこの暗黒街をさまよっていた。引力に引っぱられる前に、たまにチーズ・オン・トーストを食うくらいで、リヴィング・ルームにまるで召喚されるように集まっていた。

リヴィング・ルームは常にリハーサル・ルームとして機材がセッティングされていた。そしてオレのベッドルームもあったんだ。オレはドラムキットのとなりで寝袋に入って床に転がっていた。シンバルのひさしの下でな。オレたちがしたことといえば、寝て音楽を作っただけだ。オレたちは時々フル・ヴォリュームで夜通しリハーサルすることもあった。驚いたことに、フラットはテラスハウスのうちの一軒だったのに、オレたちは隣り近所から苦情をひとつも受けなかったんだ。もしかすると彼らは音楽好きだったのかもしれない。あるいはひょっとすると、彼らはオレたちの大家を恐れていたのかもしれない。大家は凶悪犯か何かだったのかもしれない。フレンドリーなんだが、しかし殺し屋なんだ。音楽は簡単に出来上がった。オレたちの凄まじいイマジネーションから飛び出してくるんだ。

‘The Storm’はアルバムの最重要ナンバーとして発展したように見える。ミッキーが流れるようなコードの配列を思いついて、それは一発で海の風景を思い起こさせた。クリント(クライヴ・ジョン)は抑揚あるオルガンを加え、オレはカモメの鳴き声を作ってそれを入れた。自然に出来上がったようなトラックだった。

またミッキーは巨大な4分の5拍子のリフを作り、それは‘Spunk Rock’となり、マンのアンセムになった。これは以後続く多くのナンバーのひな型になった。クリントは‘Shit On The World’を書いた。権威主義をこき下ろした素晴らしい曲だ。これら2曲のタイトルはオレたちとレコード会社の間に問題を引き起こした。彼らは歌のタイトルに‘Spunk’(俗語で射精、精液)と‘Shit’を使うことはできないといってきた。長く苦痛を伴うディスカッションは引き分け試合となった。論議の矢面に立ったクリントは、彼らに好きなようにタイトルをつければいいといった。すると彼らはオレたちに、もし彼らの選択が気に入らないなら・・・といってきたね。

“ああ”クリントは怪しげにいった。“なるようになる”(it is as it must be)。

オレたちはアルバム・カヴァーが出来上がってくるまで、結局どんなタイトルになったのか知らなかったんだ。‘Spunk Rock’は‘Spunk Box’になっていた(愚鈍な連中は間違って‘Rock’の方を変えていた)。そして‘Shit On The World’は‘It Is As It Must Be’になっていた。

オレたちはパイのマーブル・アーチ・スタジオで3時間セッションを毎日続けてアルバムを録音した。オレたちはパイのほら穴のようなスタジオ・ワンを使った。そこで彼らはオーケストラ演奏をしたり映画音楽を作ったりしていた。オレたちはスタジオの中央で完全な円形になり、オレたちの頭の上からは1本のスポットライトが当たっていた。まるでタイムカプセルの中にいるようだったな。密閉され外の世界から隔絶されていて刺激的だった。オレたちは然るべき時に然るべき場所にいたんだ。もしオレたちがそこでできなければ、他のどこでもできなかっただろう。オレたちは成し遂げたんだ。

レコーディングに参加した人々は、みなこれがマンのベスト・アルバムだというだろう。オレたちは悪の権化のようにプレイしていた。全員が完璧に機能し、お互いに火花を散らし、オレたちはそれぞれが最高の仕事の中の1分1秒にまで容赦なく力を注ぎ込んだんだ。そりゃ爽快だった。オレが経験した中で最も満足したのが唯一この時だった。もし君がこのアルバムが好きになれないなら、マンのアルバムはどれも好きになれないだろう。

セッションが終わりに近づいた頃、あるひとつのシュールな事件が起こった。オレたちが‘Spunk Rock’の最終ミックスを聴いていた時、シド・ジェイムスが入ってきたんだ。普通ありえないだろう?な?ブリティッシュ・コメディの巨人がマンのレコーディング・セッションに何の用事があるんだ?彼は立ったまま聴いていたね。プレイバックが終わると一瞬の静けさが漂い、それからその偉大な男が話し始めた。“うん” 彼はいった。

“便秘を治す音楽だな。”

彼はそのあとトレードマークのガラガラ声の笑いをつけ加えた。そのあと話をしてみると、彼は南アフリカのラジオ番組のためにオレたちにインタビューしにきたことが分かったんだ。シド・ジェイムスはオレにインタビューするつもりだった!そう、オレはそんなことは知らなかったんだ。インタビューはオレの人生で忘れられないものになったね。悪知恵の天才との冗談の交換は一生に一度あるかないかのスリルだったね。オレは彼を笑わせた。オレはシド・ジェイムスを笑わせたんだ。それが最高点で、それ以来ずっとオレの人生は下り坂になってしまった。

アルバムはまたしても英国で無視された。ひとつの注目すべき例外を除いてはね。感謝すべき人物、DJのアラン・フリーマンは‘The Storm’をかけたんだ―彼の日曜のBBCラジオ・ショーで11分まるまる、それも3週連続でね。レコード・セールスにはほとんどつながらなかったようだが、たしかにバンドの知名度を上げたな。それは彼との美しい友情の始まりになった。フリーマンはマンのアルバムが出る度にしつこくラジオでかけてくれた。オレたちは彼に会ったことはなかったが、彼のことを一人の友人だと思っていた。

おもしろいことに、‘Revelation’同様、このアルバムもドイツでよく売れた。ローレライ(Lorelei:ドイツ伝説 美しい歌声で船人を誘惑して難破させたという魔女)かラインのおとめ(Wagnerの楽劇「ニーベルングの指輪」に現れるラインの黄金を守る少女)がオレたちを呼んだかのようだった。そしてこの時、オレたちはそれに応える手段を持っていたんだ。アラン・フリーマン・ショーが助けになって、オレたちはマネージャー、エージェント、広報係を獲得した。3週間以内にオレたちはフェリーに乗ってドイツに行ったんだ。なにやかにやら、まあ言うならばミステリーだ。

マンバンドを聞いたことのない人々から、オレはたまにどんな音楽をやっているんだと尋ねられることがある。オレの答えはいつも同じだ。

“オレたちは便秘を治す音楽をやっている”

そう、もしシド・ジェイムスが正しいなら、公演芸術の決定的歴史書が書かれる時、オレたちはおそらくサイケデリック通じ薬として分類されるだろう。

See ya later, defecator!(←浄化剤)

ディーク・レナード―2009年春


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