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The Mamas & The Papas/Gold/2005 Geffen Records 0602498624685



ミシェル・フィリップスはそのドレスをまだ覚えている。17歳になった典型的なカリフォルニアの少女は、恋人のひょろっとしたフォーク・ミュージシャン、ジョン・フィリップスといっしょになるためにウェスト・コーストを出発し、ニューヨークに向かうことを父親から1962年初頭に許されていた。「ニューヨークは寒いからあたたかい服を買った方がいいといわれていたんだけど、私はロサンジェルスとメキシコで育ってきたから、その寒さを想像することができなかったのよ」 彼女はいう。「私は自分で袖なしの背中の開いた流行の服を買って東へ向かった。私はコートも手袋さえももっていなかったわ。ニューヨークに着いた時はそれは寒かったわ」 彼女は笑う。「私が到着してすぐに、ジョンと私はセントラル・パークに散歩に出かけた。私たちはセント・パトリック大聖堂を通りすぎたんだけど、私はその中に立ち寄ったの。あとはみんな知っていると思う。それがあの歌のきっかけだった」

もちろん、それが数年後にジョン、ミシェル、デニー・ドハーティ、そしてキャス・エリオットのママス&パパスをスターにした“California Dreamin'”だ。まる40年間、“California Dreamin'”はあの時代をもっとも思い出させる象徴のひとつとして、アメリカ文化に今なおこだましている。このロックンロールの殿堂に入った4人組が創り上げた“Monday, Monday”、“Go Where You Wanna Go”、“I Saw Her Again”、“Dedicated To The One I Loe”、“Creeque Alley”、そしてその他多くのコーラスを基調としたクラシックの数々も同様であるが、彼らの短期間ではあるが波乱に満ちたキャリアは、ステージ上でもプライヴェイトでもスウィンギン60sの縮図だった。

「私がいつも思い浮かべるジョンのイメージは、ストラップをつけたギターを下げてかき鳴らしながら、うろうろと何かを考えながら歩いている姿ね」 ママス&パパス以前のあたふたと格闘していた日々のことを、ミシェルは回想する。ほぼ9つ年上で、ヴァージニア州アレクサンドリア生まれのジョン・フィリップスは、フォー・フレッシュメン・スタイルのヴォーカル・グループだったザ・スムーシーズの一員として、1960年に最初のレコードを作った。グループ消滅後、フィリップスとメンバーだったスコット・マッケンジーは、芽生えつつあったグレニッチ・ヴィレッジのフォーク・シーンに没頭するようになり、バンジョー奏者のディック・ワイスバーグとともにザ・ジャーニーメンを結成した。彼らの3枚のアルバムはいずれもチャートに入らなかったが、彼らは大学/コーヒーハウス・サーキットで人気者となり、サンフランシスコのHungry 1に滞在していた61年に、ジョンはミシェル・ギリアムと出会った。彼女はファッション・モデルとしてのキャリアに憧れながら、1人の友人とともにその夏を過ごしていた。

1964年の半ばまでに、最初の妻と離婚していたジョンはミシェルと結婚し、ジャーニーメン解散を受け、次に何をやろうかと思案していた。「ジョンは『ミシェル、僕がグループを再結成したら君も入るんだ』といったわ。私はステージに上がる野心なんてもったことはなかったし、自分のことをシンガーだと考えたこともなかった。でもジョンのそばにいると、彼はいつもハーモニー・パートを歌わせようとしたし、彼は私ができると信じていたわ。おまけに、彼はロードに出たときに彼が支払う私の手当を正当化する唯一の方法だといった」 彼女は笑う。「彼はいつもすばらしいビジネスマンだった」 いくらかヴォーカル・トレーニングをしたのち、ミシェルはザ・ターリアーズに最近まで在籍していたマーシャル・ブリックマンを加えたジョンのニュー・ジャーニーメンに加入した。「問題は私たちの中にリード・シンガーといえる人がいなかったことだった。それにマーシャルはコメディを書きたくて、まもなく去って行った(彼はオスカー受賞のシナリオライターとして成功することになった)。その時にジョンが捜したのがデニーよ」

カナダ人のデニー・ドハーティは、1963年にフィリップスと出会っていた。その時、ザ・ジャーニーメンはドハーティのハリファックス・スリーを含むツアーを続けていた。ハリファックス・スリーは解散し、ジョンは次にドハーティが組んだグループ、ザ・マグワンプスもまた失敗に終わっていたことを知っていた。「デニーはぶらりと訪ねてきて、私たちは8時間いっしょにぶっ通しで歌って、それで私たちは自分たちのシンガーを見つけたと思ったわ」 ミシェルは自分たちがどこに行こうと、デニーが同じ女性に電話をかけ続けていることに気づいた。「私が『あなたのガールフレンドなの?』と聞くと、彼はいつも『いや、親友さ』といっていた。もちろん、それがキャスだった」

エレン・ナオミ・コーエンとして生まれ、ワシントン地区で育ったキャス・エリオットは、まだハイ・スクールに通っていた時にミュージカル・シアターでキャリアをスタートさせていた。60年代初頭、彼女はツアーを経験し、ティム・ローズとジム・ヘンドリックスの間にはさまれたザ・ビッグ・スリーでレコーディングを行なっていた。それからヘンドリックス、未来のラヴィン・スプーンフルのギタリスト、ザル・ヤノフスキー、そして彼女が強い愛情を抱いていたドハーティとともにマグワンプスの一員となっていた。「1965年1月9日、私はついに彼女に会った」 ミシェルはいう。「私が初めてLSDを体験した時だったから、その日付を今でもはっきり覚えているわ。ジョンとデニーと私はLSD-25を手に入れていた―当時は違法じゃなかった―それから1時間ほどトリップしているところへ、彼女が私たちに会うためにふらりとやって来た。玄関のベルが鳴ったんだけど、私はそのドラッグは自分にとって何の足しにもならないと考えていた。それから私はドアを開けた。そこに立っていたキャスを見るだけで、白黒の世界からテクニカラーの世界に行ったような気がしたわ。体重は100キロ以上、髪はセミロングで外巻のカール、ピンクのアンゴラ毛糸のセーター、白のプリーツスカート、かわいい白のゴーゴー・ブーツ、そういうのにお金をかけていた。彼女は大きくて見事なルックスだった。私たちはすぐに仲良くなったわ。私は彼女みたいな人を見たことなんてなかったわね」

事実上、ザ・ママス&ザ・パパスはその晩に誕生した―あまりジョンとキャスのそりが合わなかったため、彼らが正式に男女二組のグループとなるまで少し時間はかかったが。「キャスはグループに入りたかったんだけど、彼女は自然児だったから。ものすごく自尊心が強かった。彼女は命令されるのが嫌いだったけれど、ジョンはそういう役割を果たす側だった。彼女はすばらしいシンガーだったから、最初のうちはグループにとけ込ませるのに苦労したわ。ジョンは一定のトーンを要求した。彼はグループのサウンドをひとつの声のようにしたがっていたから。それでも最終的に全てが収まるところに収まったわね」

その“収まるところに収まる”できごとは、ポップ史の中でさらに名高いひそかな練習の期間に起きた。ジョン、ミシェル、そしてデニーは衝動的に、ミシェルのアメリカン・エクスプレス・カードだけを頼りに、ヴァージン諸島へ出かけた。彼らがセント・ジョンズの海近くでテントを張って過ごしている時に、キャスがデニーに近づくために現われた。彼らはそこで初めていっしょに人前で歌った―島にあった“Creeque Alley”という下宿屋のオーナーのために、間に合わせのステージをまさに夕食前に務めることなった。まだグループのパートとして技術的なことはしなかったが、キャスはウェイトレスとしてそこで働いていたその場所から、ステージに向かってハーモニーをつけて見せた。しかしミシェルはいう―「彼女が私たちといっしょに歌えば歌うほど、そのサウンドの根拠がはっきりするようになっていった」

65年夏に彼らがアメリカに戻る時までに、フォークの流行は終わりを告げたことが明らかとなっていた。ビートルズに先導されたブリティッシュ・インヴェイジョンが徹底的に音楽シーンの風景を変え、無数のフォーク・ミュージシャンたちはアコースティック・ギターをエレクトリック・ギターに持ち替えていた。そのニュー・ジャンルはフォークロックと名づけられ、ザ・バーズやザ・タートルズらのようなグループが率いた中心地はロサンジェルスだった。キャスは最初にそこへ行き、ニューヨークでの見込みは消え失せたと感じ、まもなくジョンとミシェルとデニーが彼女に合流した。キャスは“End of Destruction”のビッグ・ヒットを手に入れたばかりだった元ニュー・クリスティ・ミンストレルのバリー・マクガイアとともに滞在し、プロデューサーのルー・アドラーのレーベル、ダンヒルでレコーディングを行なった。マクガイアは、アドラーがアーチストを探していたことを知っていた。そして彼はオーディションを手配した。4人は“California Dreamin’”と何曲かのジョンのオリジナル―“Go Where You Wanna Go”、“Got A Feelin’”、“Straight Shooter”―を歌ったが、それらは全てジョンとミシェルがいっしょになった最初から彼らの間に存在した問題―貞節を中心とした内容だった。アドラーは事実上、即座に彼らと契約を交わした。彼らはまる1週間LAに滞在し、レコード契約を結んでしまった。

「ルーは最初に私たちをバリーのニュー・アルバムのバックアップ・ヴォーカルとして起用した」 ミシェルは回想する。「そのお礼に私たちは“California Dreamin’”をバリーに提供することにしたの。私たちがそのトラックのバック・ヴォーカルを歌って、それからバリーがリード・ヴォーカルとハーモニカ・ソロをとった。で、休憩中にルーが私たちをわきに連れて行ってこういった―『この歌は君たち自身でキープすべきだと考えている。デニーは歌えるかい?』ってね。デニーはすばらしいヴォーカルを録音して、私たちはたまたまスタジオに居合わせたバド・シャンクをつかまえて、フルート・ソロを加えてもらった。あのソロは卓越した本物の気品が漂っているわ。やり終えた時、私たちはなにか特別なものを手に入れたと思った」

“California Dreamin’”が65年11月にシングルとしてリリースされた時までに、4人はヘルズ・エンジェルズについてのTV番組を見ていて自分たちの名前をつけていた。「ある奴らはオレたちの女のことをチープ(すぐ寝る女)と呼ぶんだ」 1人のバイカーはそういった。「でもオレたちはママズって呼んでるよ」 キャスは急に立ち上がってジョンとデニーにこういった―「あなたたちのことはわからないけど、ミシェルと私はママズね」 「じゃ、僕たちはパパズってことになるなって。それで決まりだった」 ジョンはいう。

66年1月、“California Dreamin’”は彼らのデビュー・アルバム『If You Can Believe Your Eyes And Ears』が店頭に並ぶと同時に、トップ10に入った。まさにふさわしいタイトルだった(『自分の目と耳が信じられるなら』)。彼らのイメージ―そのジャケットから始めると、4人ともめいっぱい着飾っているが、1つのバスタブを共有している(彼らのヒッピー・コミューン的気配を強化している)―は、明確に区別でき、多面的だった。ジョンは感受性強い詩人、デニーは快活でロマンチック、ミシェルはすらっとした美人、そして母なる大地の化身キャス。ジョンのバリトン、デニーのテナー、キャスのアルト、そしてミシェルのソプラノによるヴォーカル・サウンドも同様にダイナミックでユニークだった。アドラーを味方に引き入れたオリジナルの数々は、精選されたカヴァー群とともに、ロックの過去(ボビー・フリーマンの58年のヒット、“Do You Wanna Dance”)から現在(ビートルズの“I Call Your Name”)までまたがり、LPからのセカンド・シングル、“Monday, Monday”が1位になったことで後押しされ、アルバムはチャートのトップへと急上昇した。そのシングルのB面はほろ苦い逸品である“Got A Feelin’”で、珍しくミシェルのリード・ヴォーカルと、ラリー・ネクテルによる忘れられないハープシコードの静かな音色がフィーチャーされていた。「私たちはアルバム全てを同じリズム・セクションで統一した」 ミシェルは誇らしげにいう。「キーボードにラリー・ネクテル、ベースにジョー・オズボーン、ドラムにハル・ブレイン、つまり“レッキング・クルー”よ。アレンジメントについての彼らは信じられないくらいクリエイティヴだった」

66年夏までに、わずか1年でカリブの浮浪者のようなその日暮らしの生活から解放されたママス&パパスは、成功を手に入れたことで浮かれ騒ぎ、浪費するようになっていた。「私たちはあまりツアーをやらなかった。大きな理由は私たちが浪費するからだった」 ミシェルは笑う。「リアジェット(ビジネス・ジェット機)、リムジン、ぜいたくなホテル、最高級レストラン、最高のポット、クラウン・ロイヤル(高級ウィスキー)のケースの山… 私たちは歯止めがきかなかった」 しかしセカンド・アルバムのレコーディング中、ミシェルとデニーにとってあまりに大きな別の誘惑が表に現われてしまった。ミシェルが長い間恐れていた、デニーとの不倫だ。「ヴァージョン諸島にいた時に私はジョンに、デニーと問題を起こしてしまったこと、私が彼を誘惑したこと、そしてジョンとこれからもいっしょに生きていく自信がないことを告げた」 ミシェルは回想する。「ジョンは真に受けなかったわ。彼は『デニーは君に興味なんてもっていない』といった。でもそうじゃなかった。そして結局、私たちは自分たちの感情と戦うことができなくなった」

不倫はつかの間であったが、ショッキングな問題となった。「ジョンとキャスは裏切られたと感じた。デニーはどうすればいいかわからなかった。ジョンは私をクビにすることにして、デニーに最後通牒を出した―バンドをとるか私をとるかのね。デニーは私に自分といっしょに出ていきたいかと尋ねることなんてしないジェントルマンだったけれど、私は彼とキャス、そしてジョンにとってどれほど大きな問題かはわかっていた―スターでいるには。私以外のママス&パパスはみんな努力していた。それで私は罰を受け入れた。少なくともしばらくは」 アドラーのガールフレンドだったジル・ギブソンが短期間、ミシェルの役を引き受けたが、ミシェルが去ったあとのアルバム・ジャケットの写真で、ギブソンは完全にミシェルのようなふりをし、彼女ははしゃいでいた。「私は彼らがビルボード紙のための写真を使おうとしていることを知って、ルーのオフィスに行ったの。そこで私は猛烈に抗議した。『私の故郷にこんなのごめんよ!』と彼にいったわ。それから私は必死でジョンとキャスに許しを請い、ついに彼らは許してくれた。アルバムができ上がるまでに、私は戻ることができたわ」

“Words Of Love”、“I Saw Her Again”、そして“No Salt On Her Tail”のような歌で明示されているように、ママス&パパスのその名を付したセカンド・アルバムは、再びジョンとミシェルの間の葛藤が奥底に潜んでいたが、複雑な“Dancing Bear”やシアトリカルな“Once Was A Time I Thought”といった野心作は、コンポーザーとしてのジョンの成長を示していた。ミシェルはいう―「ジョンはいつも自分の音楽の中で手を広げようとしていた。彼はすばらしい知識とすばらしいイマジネーションをもっていた。彼はずっと、たくさんのブロードウェイとジャズにさらされてきて、特にランバート、ヘンドリックス、ロスに影響されていた。私たちが別れていた時、彼がとても内省的になったのは知っているわ。私たちはみんな感情崩壊していた。あのアルバムには悲しみがあるわね。それは間違いないわ」

それとは対照的に、67年2月にリリースされたグループの次のLP、『Deliver』は、はるかに明るいムードが漂っていた。よりを戻したジョンとミシェルは、ジャネット・マクドナルド(?)のベル・エア高級マンションを購入し、そこで2人は自伝的なヒット、“Creeque Alley”を書いた(「私たちが“ママ・キャス以外に太った人はいない”って詞を書いた時は、笑い転げてしまった」 ミシェルはいう。「私は『いいんだけど、本当の詞ってなんなの?』っていい続けていた。それでもキャスは気に入っていたけど」)。アルバムからのもう1つのメジャー・ヒットがシュレルズの軽快なカヴァー、“Dedicated To The One I Love”だった。「私が一瞬輝いていた時ね」 忘れられない曲で素朴なリード・ヴォーカルをとったミシェルはいう。

その年の6月、ジョン、ミシェル、そしてアドラーは、伝説のモンタレー・ポップ・フェスティヴァル開催を手伝った―その後に続く全てのロック・フェスティヴァルのひな型となったコンサートだ。一方でグループは自らのパフォーマンスに失望することになったが(「私たちはショーをまとめるのにとても忙しかったから、ろくにリハーサルもしなかった」)、3日間のイヴェントは歴史に名を刻んだ。LAからはザ・バーズとキャンド・ヒートが、芽生えつつあったサンフランシスコ・シーンからはザ・グレイトフル・デッド、ジャニス・ジョプリン、ザ・ジェファーソン・エアプレインが呼び集められ、サイモン&ガーファンクル、ザ・フー、オーティス・レディング、そしてジミ・ヘンドリクスらが大々的に世間の目にふれることになった。おもしろい展開として、ジョンが旧友のスコット・マッケンジーのために書いた“San Francisco (Be Sure To Wear Flowers In Your Hair)”は、そのフェスティヴァルのアンセムとなっただけでなく、ラヴ&ピース・ムーヴメント全体のテーマ曲となった。

またその夏は、ママスが文字通り、“ママたち”になった―キャスは娘のオーエンを生んだ(彼女は父親が誰であるかを明かそうとしなかった)。そしてミシェルも妊娠していることがわかった。優先事項は変更され、仕事はグループ4枚目のアルバム『The Papas & The Mamas』にあてられた。アルバムはジョンがベル・エアに建てたホーム・スタジオでレコーディングされ、彼らの娘チャイナ誕生直後の68年4月にリリースされた。サザン・カリフォルニア時代を印象づける逸品、“Twelve Thirty”によって特徴づけられたマテリアルは、シアトリカルな傾向に満ちている。ミシェルはシャーリー・テンプルの“The Right Somebody To Love”をアカペラ・ヴァージョンで歌っている。そしてキャスは1931年度作品の“Dream A Little Dream Of Me”でフィーチャーされている。後者は“ママ・キャス・ウィズ・ザ・ママス&パパス”としてリリースされ、グループ最後のトップ20ヒットとなった。

「私たちはあまりコンサートをやっていなかったけど、キャスはとにかくオーディエンスの前に出て行きたがっていた」 ミシェルはいう。「一方で私はチャイナが生まれてからは子育てモードに入っていて、平穏と静けさを見つけるのに苦労していた。ジョンはすごく混乱するようになって、たくさんのドラッグに手を出して、友人たちといっしょにスタジオの中で一晩中過ごすようになった。私はそれ以上、そんな生活はできなかった。私はそこから立ち去って、キャスはソロとして歌い始めたわ。ほとんどそれで終わりだった」

1968年の終わりまでにママス&パパスは解散していたが、契約履行のため、71年に“リユニオン”アルバム『People Like Us』(数少ない聴きどころの1つが、軽快な“Step Out”だ)が作られた。その時までにジョンとミシェルは離婚し、二度とよりを戻すことはなかった。キャス・エリオットはソロ・キャリアを成功させていたが、自身の体重とハードな生活のために、1974年に致命的な心臓発作におそわれてしまった。ぞっとするような70年代のドラッグの悪癖(1986年の著書『Papa John』にドキュメントされている)を追い出したのち、ジョンは長女のマッケンジー、スパンキー・マクファーレン、そしてスコット・マッケンジーをフィーチャーしたノスタルジア的な“ニュー”ママス&パパスとともにツアーを行なった。彼は2001年に死んだ。デニー・ドハーティはカナダに戻り、そこでTV司会者およびソロ・アーチストとして成功した。2003年、彼は自身のママス&パパス物語をつづる劇場用のショー、『Dream A Little Dream Of Me』で主演した(デニーは2007年に動脈瘤により死んだ)。

そしてミシェル・フィリップスは映画(ディリンジャー)/TV女優として成功を収め、ゴールデン・アワーの連続ドラマ『Knot’s Landing』、そして最近ではポピュラー番組『Seventh Heaven』で、昔のキャリアに立ち戻っている。もちろん娘のチャイナは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの娘たち―カーニーとウェンディら2世ポップスターとともに結成したヴォーカル・トリオ、ウィルソン‐フィリップスで有名になった。一方で、1986年の自叙伝『California Dreamin’』を記したミシェルは、ザ・ママス&ザ・パパスの非凡なストーリーを今でも懐かしくふり返っている。「私にとっては、とても美しくてカラフルな夢のような日々だった。でもほんの短い寿命しかもっていなかった―あれを維持するにはあまりに濃厚だったから、バブルははじけるしかなかった」 そして我々にとっては幸運なことに、その音楽、そのマジックは今も変わらずに輝いている。


ビリー・アルトマン


 
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