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Lynyrd Skynyrd/Pronounced Leh-nerd Skin-nerd/2001 MCA Records 088 112 727-2



1972年のアトランタ・ロック・シーンは未知の音楽的才能の温床だった。夜になるとThe Head Rest, The Mad HatterそしてMy Houseのようなクラブがハイドラ、エリック・クインシー・テイト、モーズ・ジョーンズら、のちにサザン・ロックとして知られることになる斬新なブランドを担った未契約のグループを数多く出演させていた。Funochio’sはアトランタのクラブの中では底辺に位置していた。そこはアトランタで最も危険なクラブだった。多くのグループがそこでプレイすることを恐れていた。

1972年の暮れ、フロリダ州ジャクソンヴィル出身のおかしな名前を持つ無名で名声に飢えたバンド、レーナード・スキナードは、彼らのマネージャー、アラン・ウォルデンによってFunochio’sでの6日間のギグがセッティングされた。この南部の屈強な長髪のグループは、レコード契約を獲得しようとプレイできるならどこででも出かけていき、その“南部奴隷サーキット”で7年もの間活動してきた。“Funochio’sではクソ生意気なことばが飛び交っていて、一晩に最低2回はケンカが起こっていたね。” リード・シンガーのロニー・ヴァン・ザントは回想する。“オレたちはケンカには巻き込まれたくはなかったんだが、あそこから生きて出てくるには戦わなくちゃならなかったんだ。オレたちはFunochio’sでのギグが決まるまでフロリダに戻って、次のショーのために新曲を書いていた。何人かのメンバーは食っていくために花屋の配達のアルバイトなんかをやってた。オレたちはレパートリーをオリジナルに切り替えようとして、ついにダンス・クラブ・サーキットから抜け出すことができたんだ。オレたちはプロになるために全員学校をドロップアウトした。どんな厄介なことが起ころうとも、それに付き合わなきゃならなかったね。綿を切り刻む以外にオレたちは何にもできなかったんだけど。”

ニューヨークのプロデューサー、アル・クーパーは以前ディランのバッキングを務めたことがあり、ザ・ブルース・プロジェクトの元メンバーであり、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの創設者であり、彼がアトランタで発掘したブルース・ギタリスト、マイク・ブルームフィールドをフィーチャーした2枚のLP、“Super Session”のプロデューサーでありプレイヤーであった。“僕は当時の自分のバック・バンドだったフランキー・アンド・ジョニーのアルバムをプロデュースしていたんだ。” クーパーは回想する。“僕は何日か休みを取っていて、いろんなバーに行って探索したりぶらぶらしたりしていた。そこにはグレイトなバンドがいくつか出ていた・・・昼夜問わずクラブを占拠していたね。それは1965年のサンフランシスコにあった雰囲気と同じものだった―若者たち、オーディエンスとミュージシャンはとてつもないエネルギーを創り出していた。それで僕はひらめいたんだ。僕はMCAに行って、それらのバンドのために僕のレーベル(Sounds Of The South)に資金を提供する気がないか尋ねてみた。”

クーパーはよくFunochio’sに訪れていたが、そのクラブのマネージャーが彼と幼なじみだった。“レーナード・スキナードがそこでプレイしていたんだ。” クーパーは1979年にBAM Magazineに語っている。“彼らは日本製のギターを持っていて、靴下も靴もはいてなかったし、ひどいアンプを使っていた。僕は彼らを連続で5日間観ることになった。なぜなら僕らは親しくなっていたからなんだ。” 最近になってクーパーは語っている。“最初の晩、僕は‘I Ain’t That One’を聴いた。二日目は‘Gimme Three Steps’を聴いた。4日目までに僕はステージに上がって彼らとジャムるようになっていた。それで5日目に僕は彼らにレコード契約を申し出たんだ。”

“彼はある晩に現れて‘やあ、僕はアル・クーパーっていう者だ。’っていったんだ。オレたちは全員ぶったまげたね。” ヴァン・ザントは回想する。“オレたちは本物のロック・スターなんて誰一人実際に見たこともなかった。彼はオレたちに一緒にジャムっていいか聞いてきたから、オレたちは‘もちろんさ、上がってこいよ!’っていったんだ。それでオレたちは親友同士になって、行動を共にするようになった。彼はオレたちにサウンズ・オブ・ザ・サウス(クーパーのレーベル)についてしゃべってたけど、オレたちはどうすればいいか分からず、イエーなんていってたね。”

スキナードはクーパーのオファーを検討していたが、20歳のベーシスト、レオン・ウィルクソンはバンドに加入してかろうじて半年経たばかりだった。結果的に彼は突然と現れ、去っていくことになった。“僕は大成功する予感が別にあって辞めたんだ。” ウィルクソンは回想している。“それに僕はまだ準備不足だと感じていた。” 残りのメンバーにとっては見込みあるレコード契約だったため、スキナードは直ちにウィルクソンの代わりが必要となった。ヴァン・ザントはサイケデリック60sウェスト・コースト・バンド、ストロベリー・アラーム・クロックの元ギタリストだったエド・キングを思い出した。スキナードは彼らの1970年のフロリダ・ツアーの前座を務めたことがあった。キングはヴァン・ザントの才能に感銘を受け、バンドのオープニング・アクトとして一緒に活動しないかと尋ねたことがあり、そのことを彼は覚えていた。ともかくヴァン・ザントはキングは最近南部に移動し、ノースキャロライナの村のバー・バンドに入り、グリーンヴィルでプレイしていることを突き止めた。24時間以内にヴァン・ザントとロッシントンはジャクソンヴィルから約20マイル離れたフロリダ州のGreen Cove Springに彼を連れ戻すために、小さなトヨタ車に乗って北上した。そこは彼らが使っていた湿地帯の入り江にあるリハーサル小屋があったところだった。バンドはその小屋を“ヘル・ハウス”と名付けていた。“オレたちは2〜3ヶ月間、毎日12時間練習に明け暮れた。” キングは回想する。

1973年3月、スキナードはサウンズ・オブ・ザ・サウス・レコーズとレコーディング契約を結んだ。彼らは契約割増金として9,000ドルを受け取ったが、それは彼らが見たこともないような大金だった。彼らはレコーディングで使用するための新しい機材のために全ての100ドル札を使った。数日内に彼らはファースト・アルバムのデモ・テープをレコーディングするためにスタジオ・ワンに入った。

“Mr. Banker”はオリジナルのブルース・ナンバーで、ヴァン・ザントの猛烈なヴォーカルをフィーチャーし、キングの燃えるようなスライド・ギターとゲイリー・ロッシントンのフィンガーピッキング・ギターによるバッキングが施されていた。“Down South Jukin’”はバンドがその1年前にマッスル・ショールズでレコーディングしていた曲だった。両曲とものちにシングルのB面としてリリースされた。セッションは毎回深夜にまで及び、バンドはこれも最初マッスル・ショールズで録っていた“Gimme Three Steps”と、ヴァン・ザント-コリンズの新曲であるブルージーなバラッド、“Tuesday’s Gone”のデモ・ヴァージョンもレコーディングした。スキナードはまた“Free Bird”のデモも録った。コリンズのクライマックス的なソロの最初に、彼はギターの弦を切ってしまったが、バンドは彼が弦を張り替えて曲のピークの前までに戻ってくるまで、そのまま演奏を続けた。どうやら彼らは誰ももう一度テイクをやり直すほどの失敗だとは考えなかったらしい。

1973年3月27日、スキナードはサウンズ・オブ・ザ・サウスでの初のアルバムのレコーディングを開始した。バンドは何年もかけて自らのレパートリーを磨き上げ、それはいつレコーディングしてもいいほど準備は万全だった。スタジオ・ワンでの最初の週のセッションで、彼らはリズム・トラックを1テイクか2テイクで録り終えてしまった。最初の週の終わりまでに彼らは6曲をレコーディングしてしまっていた。“オレたちは手っ取り早く仕上げてしまったね。” ドラマーのボブ・バーンズはいう。“みんな自分のパートを目をつぶってもプレイできるくらいだった。過去、自分たちがたくさん練習してきた曲だから、ただ呼吸するみたいな感じだったね。”

クーパーのスキナードとのステージでのジャム・セッションが、結局スタジオでの両者の良好な関係を予兆させていた。レコーディングの過程において、そのプロデューサー(クーパー)は曲作りからプレイ、アレンジからプロデュース作業に至るまでバンドに関わることになった。クーパーは“I Ain’t The One”と“Gimme Three Steps”でアレンジとしていくつかの音楽的特色を加え、ほんのわずかなアレンジを省いた。“Tuesday’s Gone”のレコーディングではプロデューサーによる広範なメロトロン・アレンジがフィーチャーされた。クーパーはヴァン・ザントのオリジナル、“Mississippi Kid”にアレンジメントを施し、彼自身がマンドリンを弾いている。 最初の何週間かのセッションののち、スキナードはステージでのケンカに巻き込まれ、その痛手から立ち直るためにジャクソンヴィルに戻った。4月30日、彼らはセカンド・セッションのためにスタジオ・ワンに戻り、“Things Goin’ On”と“Simple Man”をレコーディングした。

間違いなく、このセッションで傑出した1曲が“Free Bird”だった。しかし慣習的なレコード・ビジネスの見識からすれば、9分の曲はラジオでのオンエアに適さず、MCAの重役たちはバンドにシングル・リリースのために標準の3分間に短縮するよう説得しようとした。しかしバンドは9分間のままレコードに収録することを頑として譲らなかった。“オレたちは‘ああ、平気さ。この曲はライヴで受け入れられるから’っていったんだ。” ロッシントンはいう。“‘他の曲を選んでくれよ’ってね。”

アルバムはリリース待ちの状態となり、スキナードはジャクソンヴィルに戻り、刷新的なメンバー・チェンジが行なわれた。ウィルクソンがベーシストとしてバンドに戻り、キングがギターに戻ったのだ。3本のギターで武装したスキナードは、レコード業界への徹底的な正面攻撃をサウンズ・オブ・ザ・サウスとMCAレコーズのための初ライヴ・パーティーで敢行した。1973年7月29日にアトランタ、リチャードの“南部で最高のロック・クラブ”でのことだった。スキナードは半分ジョーク、半分おどしで彼らの新しいレコード会社に向けて、新曲“Workin’ For MCA”をプレイし、詰めかけた業界人たちをぶちのめしてしまった。コリンズが最後の曲“Free Bird”でギター・ソロに攻めかかるまでに、オーディエンスは椅子の上に立ち、叫び声を上げさらにプレイを要求していた。

バンドのデビュー・アルバム、(pronounced leh-nerd skin-nerd)は1973年8月23日にリリースされた。“グリッター・キッズたちに用心しろ。真のロックンロール・バンドが今現れた!” Record Worldのアルバム・レヴューは宣言していた。Performanceマガジンはスキナードを“南部から出現した今までで最高のバンド”と評した。Creamマガジンはバンドのことを“オールマン・ブラザーズ・バンドよりもウィットと喜びを備え、ストーンズよりも強力な一撃を備えている”と断言した。Cash Boxマガジンは彼らを単に“次の世界的スーパーグループ”と呼んだ。pronouncedがリリースされた1ヶ月以内に、“オンエアにはふさわしくない1曲”だった“Free Bird”は、国中のFMラジオで最も多くオンエアされる1曲となり、LPは米国内で10万枚以上が売れた。

pronouncedが大成功する前にすでにスキナードは、MCAレーベル仲間でブリティッシュ・スーパーグループだったザ・フーの“四重人格”北米ツアーのオープニング・アクトとして抜擢されていた。“オレは本当に一発当てたんだ。” ヴァン・ザントはいう。“挑戦みたいなもんだった。オレたちとザ・フーの間の張り合いさ。オレたちは自分たちのやり方を変える必要なんてなかったね。クラブでやっていたことをやるだけだった。”

スキナードが“Free Bird”をプレイしている間に、ザ・フーのオーディエンスたちはスタンディング・オヴェイションを送り始め、楽屋でおしゃべりをしていたザ・フーのギタリスト、ピート・タウンゼンドは話を中断し、こういった。“奴らは本当に素晴らしいじゃないか、そう思わないか?”

―ロン・オブライエン



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