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Love/Forever Changes/2001 Elektra Entertainment Group. 8122-73537-2



僕はライノが1980年にリリースした『The Best Of Love』で、ラヴの音楽に関心をもった。他の多くのコンピレーション盤と同じように、当時そのレーベルがリリースしたこのレコードは、僕にとってそのバンドと音楽をさらに知る出発点だった。

実をいうと、アルバム『Forever Changes』を最初に聴いた時は、ベスト盤のようにはすぐに僕の心の琴線には触れなかった。僕の耳は、その普通ではない曲構成、音楽的急進性、そして一見、無限にも思える繰り返しのないセクションに困惑してしまった。しかしさらに聴けば聴くほど、全てが意味をなし始めた。

僕にとっての究極の『Forever Changes』体験は、自分の車でロサンジェルスのストリートを走りながら、そのアルバムを流すことになった。ある意味、『Forever Changes』はLAの究極のサウンドトラックだ。人種・文化のるつぼにおけるマリアッチ(メキシコ音楽)・ホーン、サイレンと事故、甘いストリングスと不協和音のギター。アーサー・リーとラヴは、1枚の音楽の絵ハガキの中で、その全てをとらえてしまった。このニュー・エディションは彼らがいかに考えをまとめ上げていったかの洞察を与えてくれるが、ラヴをもってすれば常に事実よりもミステリーがつきまとってしまうだろう。この傑作をひも解く鍵は、たしかにロサンジェルスの人々と場所にあり、グループ自身のなぞめいた内省にあるのかもしれない。

―アンドリュー・サンドヴァル


1967年6月。平和と愛は評判ほどではなく、それはロサンジェルスのスモッグでおおわれたオレンジ色の空の下よりもはっきりと見られるところはどこにもなかった。
ハリウッドの夢産業界の大物実業家たちは、生計を立てるためにイメージを大量生産した。そしてそこには、彼らが盗用し、中和し、そして金メッキすることのできる文化的コンセプトがいくらでもあった。

その結果、夢製造組織のすぐ近くに住み、働いていたシリアスなアーチストたちは、あまりにたやすく手に入るあらゆる文化的イメージに用心する傾向があった。メディアがサンフランシスコのサイケデリック・メイポール(maypole:5月祭に、花やリボンなどで飾ったカラフルな柱の頂部にくくられたテープをもって周囲を回りながら踊ること。5月柱)の周りで踊る一方で、1967年夏へのロサンジェルスのアーチストたちの返答は際立って特異だった。産業界の冷笑的行為を健全な懐疑的態度へと変えたことと、そのイメージが提供したアーチスト的自由を自発的に最大限に利用することにつなげた結果、私たちはザ・ドアーズの『Strange Days』、キャプテン・ビーフハートの『Trust Us』、ティム・バックリーの『Goodbye And Hello』、そしてフランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションの傑作『We’re Only In It For The Money』といった作品を手に入れることになった。しかしまさにラヴの『Forever Changes』のように、当時の不可思議さを表現した、あるいはその美と恐怖の連結をとらえた作品は他に存在しない。

アーサー・リーは独自の視点からこの絵を描くことができた。白人ロック・アンダーグラウンドの中で最もホットなバンドを率いた1人の黒人は、彼が具現化した多くの矛盾の中で唯一最も明らかな矛盾した存在だった。ラヴはそれまでの2年間、サンセット・ストリップ(ロサンジェルスの大通り)のロックンロール・シーンを支配していたが、都会生活に通じていたリーの姿を通りで見かけることはめったになかった。生れと気質によりアウトサイダーだったリーは、ビーチ出身だったブライアン・ウィルソンと同じくらい、対象から外れていた。彼は成功の見返りを、ハリウッド北方の丘にある柵で囲まれた敷地内に自らを隠遁させることに使い、そこから自分の王国を見下ろし、歌を書いた―「丘の斜面にすわり/人々が死んでいくのを見ている/向こう側に行けば気分がすっきりするだろう」(“The Red Telephone”)

アーサー・リー:「『Forever Changes』までに―あのアルバムを作った時、僕はある時がきたら死のうと考えていた。僕の最後のことばってことでね。僕は26歳だった。僕はいつ死ぬかについて、いつもこのことを考えていた。うーん、あるいは肉体的衰えというか…僕はそれが26歳かそこらだと考えていた。そういう可笑しな気持ちをもっていたんだ」

実際は、当時のアーサーはまだ22歳だった。そして彼の心は‘死’どころではなかっただろう。彼のグループによるパンク・ロック的に簡素化された、バカラック-デヴィッド作の“My Little Red Book”のカヴァーは、1965年にレコーディングされた彼らのデビュー・アルバム『Love』が10万枚以上売れる手助けとなり、フォーク・レーベルのエレクトラ・レコードを1つのロックンロール企業へと変えた。次の作品である1967年の『Da Capo』は同様に成功し、イングランドで堅固なアンダーグラウンド支持者をひきつけた。“7 And 7 Is”は彼ら最高のトップ40チャートに入り、33位を記録し、多くの者がその2分15秒間続く猛突進をグループの頂点と考えている。ロサンジェルス外の遠地でプレイすることをアーサーが執拗に拒否したにもかかわらず、ラヴの運命はグループが3枚目のアルバムを準備していた時には、確実に上昇機運にあるかのようだった。

しかし実は、アーサー・リーの王国は静かに去りつつあった。ラヴは過去2年間、サンセット・ストリップで最もヒップな存在だったが、それはザ・バーズの不在によるところが大きかった。バーズはいつも国際的なロック・スター―アーサーの乗組員がついぞなれなかった―になるべく、ジェット機でどこかを飛び回っていた。これはラヴが嬉々として埋めていった空白状態を創り出したが、ツアーをしないことによって短期的には地元の利益を獲得したことは、長い目で見ればキャリアの発展を妨げたことによって、相殺以上の痛手をこうむっていた。さらに悪いことに、ツアーに重点をおかないことは血の流れを止めることができず、外面ばかりに焦点が集まってしまうバンドを作り上げてしまう。アーサーは他のメンバーたちが自己満足に陥り、怠惰になり、そして少なくともいくつかのケースではあまりにヤクに酔いすぎていると感じていた。そうこうするうち、ザ・ドアーズ―アーサーは熱心にエレクトラ社長のジャック・ホルツマンに推薦していた―が、全国規模への展開へと自らを位置づけつつあった。そして7月に“Light My Fire”がシングルとしてリリースされると、彼らは完全にそして永遠にラヴを飛び越えていった。

ジャック・ホルツマン:「アーサーは今でもそうかもしれないが、私のレコード業界での全キャリアを通じて、私が会った中で最もスマートで知的で、そして最高のミュージシャンの1人だった。しかし彼の才能と同じくらい大きいのが、あの孤独癖と自分の音楽をオーディエンスに届けるための行動に対する無関心だった。彼の孤独好きはキャリアを犠牲にしてしまった。とても残念なことだった―なぜなら彼は全ロックンロール界で私が会った中で数少ない天才の1人だったから」

その孤独にもかかわらず、アーサー・リーは明らかに温室育ちの想像力に恵まれていた。ラヴの最初の3枚のアルバムは、それぞれ思考と実行において進化を示していて、(偶然ではなく)それぞれがメンバー交代を伴っている。バーズのジャングル・ギターとストーンズの攻撃性がナイフの刃先で結合したファースト・アルバムは、シンガー/ソングライター/ギタリストのリー、リード・ギタリストのジョニー・エコールズ、リズム・ギタリスト(そして卓越した才能をもつコンポーザー)のブライアン・マクリーン、ベーシストのケン・フォーシ、そしてドラマーのアルバン‘スヌーピー’フィスタラーをフィーチャーしていた。『Da Capo』を彩ることになったアート志向のジャズ、ラテン、そしてクラシック色を手に入れるために、アーサーはサックス/フルート奏者のツェイ・カントレリとドラマーのマイケル・スチュアートを加え、スヌーピーをハープシコードへスウィッチさせた。『Forever Changes』となるアルバムのために、サウンドはカントレリとフィスタラーの脱退によって切り詰められた。さらにシンプルにするために、その音楽は基本的にアコースティックになった。オーケストラ編曲の最後のセクションは、クラシック・コンサート・ホール用に画策されたかのように見えるかもしれないが、本質的にはアルバムは2本のアコースティック・ギターに乗って、リヴィング・ルームでプレイできる作りになっている。

ブライアン・マクリーン:「アーサーと僕は毎日ぶらぶらとすごしていた。僕たちは互いに近くに住んでいて、僕は丘を上って空き地を越えて、それから小さな道を下って行った。僕とアーサーはどっちも犬を連れていた。僕たちは彼の家の窓にすわって、そこからは南北戦争時代から続く町を見渡すことができた。1本のアコースティック・ギターがあって、彼は僕に自分のやりたいことを弾いてくれて、僕にそれを教えてくれたんだ。僕は何でも知っていると思っていたけど、実際には彼は僕たちといっしょにやり遂げる必要のあるアイデアをいくつかもっていて、僕はそれには気づいていなかった。僕は単にこう考えていただけだった―作らなきゃいけないアルバムがあるからリハーサルする、アーサーはそのためにリハーサルしたがっている。一方で僕は自分の歌に関しては全てをわかっているってね」

ラヴのサード・アルバムのセッションはその夏に始まった―アーサーの旧友ジミ・ヘンドリクスがエレクトリック・ギターのノイズを全く違う次元に連れていったことを示した時だ。その次元とは、ラヴが“7 And 7 Is”で独自に予期していたものだ。ライノの1995年のアンソロジー『Love Story』で注釈をつけていた、業界紙ヴァラエティのリポーター、フィル・ガロウは、アーサーがその舞台でヘンドリクスと張り合うことができないとわかっていたため、彼は別の道を行ったと語ったことを覚えている。アーサーは次々に現われるギター・ゴッドたちに対抗できるプレーヤーが、バンドにいないことを常にわかっていた。だからこそラヴは楽曲とアレンジメント、そして最小の枠組に最大のエネルギーを注入することに努力を惜しまなかった。ラヴはキース・ムーンのような爆発的に推進力をもったドラマー、あるいはピート・タウンゼントの火を噴くようなパワーをもったギタリストを誇示することはできなかったが、それが“7 And 7 Is”が、1年後にザ・フーが配列して見せた“I Can See For Miles”の全てのエネルギーを備えていた理由だ。その時までに、アーサーとクルーたちは正反対の方向へ向かっていたが。

『Forever Changes』はそのオーケストレーションのために、広大な作風として認識されているが、実際はラヴのアルバムの中で最もぜい肉を削ぎ落とした作品だ。全てがベースとドラムスに支えられたアコースティック・ギターに煮詰められている。それは彼らが『Da Capo』に収録された“Que Vida”で大きな効果を上げたフォーマットだ。エレクトリック・ギターとキーボードのオーヴァーダブは控えめに、戦略的に適用された。しかしアーサーが狙っていたサウンドが、簡素化されたラヴ(誤解を招きやすい簡素化にはなったが)だったとしても、それは容易にできるということを意味してはいなかった。

ブルース・ボトニック:「『Forever Changes』のプロジェクトは、ニール・ヤングと私がプロデュースするつもりで始まったんだ。バッファロー・スプリングフィールドはちょっと不安定だったし、私はニールが新しい方向性を使って、もしかしたらLPで少しギターを弾けるかもしれないと考えた。でも始まる時になって、ニールはスプリングフィールドの契約義務のためにそれができなくなってしまった。彼の身にはいくつかの変化が起こっていて、当時は体の自由がきかなかったんだ。そういうわけで、彼はプロジェクトから身を引いて私がやることになった(最終的なクレジットは、‘Produced by Arthur Lee with Bruce Botnick’)。ラヴは大変な時期の真っただ中にあった。多くの個人的問題が存在していたし、バンドはしばらくの間、ライヴから遠ざかっていた。バンドはまとまりがなくなっていたし、プレイもひどくなっていた―私はすばらしいロック・スタジオ・ミュージシャンたち―ハル・ブレイン、ドン・ランディ、そしてビリー・ストレンジ(おそらくキャロル・ケイも)を引き入れるのがいいアイデアだと考えていた。私はスタジオ・ミュージシャンをバッキングに使い、アーサーとブライアンがそれぞれの曲で歌い、プレイするアルバムのレコーディング準備をした。アーサーはギターをプレイして、私たちはギター・パートとアレンジメントを完成させて、3時間で2曲をレコーディングした。“The Daily Planet”と“Andmoreagain”だ。グループもその場にいた。私はこのセッションで彼らが実際に泣いていたのを覚えている。バンドはひどくショックを受け、気分を害し、傷つき、それは彼らの個人的問題を忘れさせるほどで、バンドは再び一つになった。私たちはその2曲をキープした。出来がよかったからね。しかし私たちはよりバンド・サウンドらしくするために、いくつかオーヴァーダブをやった。それは結局うまくいくことになった精神的かけ引きだったんだ」

アーサー・リー:「僕たちは毎晩働いていたものだった。ただ僕たちが儲け始めたあと、儲ければ儲けるほど働かなくなって、ばらばらになっていって、ラヴは堕落したんだ。みんなの麻薬癖は音楽よりも重要になり始めていた。彼らは初めのうちは僕の歌を聴いていた。僕はラヴの90パーセントの曲を書いていたから。僕たちが成功するようになると、彼らはうぬぼれるようになった―みんな家や車をもっていた。ぴかぴかのキャデラックをね。彼らは僕を必要としなくなった。金が彼らをだめにしたんだ―僕もだ。奇妙な時代だった。僕はくたばろうと思っていた。それでも続けることになった」

ケン・フォーシ:「“The Daily Planet”で、ある女の子がベース・パートを頭に入れようとして、できなかったことをはっきりと覚えている。この曲はたくさんのコード・チェンジがあったから。それで僕は‘うん、僕がやるよ’といって、ベースを代わってもらったんだ。こういうことは他の数曲でもあった。なぜかっていうと、彼らは歌を書かなかったから、どういう感覚なのかわからなかったんだ。なんというか、セッション・ミュージシャンは譜面を読んでプレイするけど、僕たちがプレイした中には譜面では表せないニュアンスもあるっていうことだ。で、‘目を覚ませ’ってことになったのが、僕たちみんながグループの存続の危機に死ぬほどおびえたことだった。僕たちは‘よし、ここで改心して立て直そう’って決心した。突然、僕たちは自分たちの手の中にあるものと、もし目を覚まさなければそれを失ってしまうことに気づいた。それでついに僕たちは一つになったんだ。どれとどれだったかわからないけど、最初の2つのトラックが僕たちの昔のフィーリングに引き戻してくれた。僕たちはクタクタになったけど、さっきいったように、自分たちが復活し始めたことが本当にうれしかったし、僕たちはほとんど順調だった―最初の頃の自分たちを取り戻すって意味でね。あのマジックが再び戻ってきて、あの初期の僕たちのフィーリングがよみがえってきたんだ」

悲惨な6月のセッションのあと、バンドは8月11日までサンセット・サウンド・スタジオに再び集まることはなかった。その数週間はスタジオ・ミュージシャンの話がさらに出ることはなく、明らかにうまく使われていた。少なくとも表面上、このアコースティック・ミュージックはLAのクラブ・シーンに君臨していたロックで攻撃的なラヴとはほとんど似ていなかったが、それでも『Forever Changes』のトラック群は、バンドとしての彼ら最高のパフォーマンスが描写されている。さらに熟考すれば、リズム・セクションの貢献を評価しないわけにはいかないだろう。ケン・フォーシのしなやかなベース・プレイは、常にグループの柔軟性におけるキー・ポイントだった。一部からは堅く力任せだとして批判されていたマイケル・スチュアートのドラミングは、機に応じて真の才能を発揮している。彼は少しも派手なプレイをせず、ある意味、アコースティック・ギターを圧倒することなく、それでもオーケストレーションの猛攻撃に支配されるわけでもなく、楽曲に推進力を与えている。彼の句読法としてのシンバルの使い方は見事だ。

アルバムは内容的に調和しているように見えるが、実際はばらばらに少しずつレコーディングされた。彼らは1日か2日やってきて、2〜3曲にとりかかり、そして去って行った。セッションはほんの数えるほどしかなかった―ブルース・ボトニックによれば、総予算は2,257ドルだ―が、彼らは4か月以上をかけた(証拠書類は浮かび上がってはいないが、予備のレコーディングはウェスタン・レコーダーズとレオン・ラッセルのホーム・スタジオで行なわれた可能性があると考えられている)。9月末の2つのオーケストラ・セッションは、のちにデヴィッド・アンダールが呼んだ‘ストリングス入りパンク’という音のコンセプトとして完了した。

アーサー・リー:「単調な指揮といえば…『Forever Changes』のあのクラシック・ミュージシャンたちだ。あのアルバムで可笑しかったのは、フル・オーケストラがいるところに僕が入って行った時のことだ。いつもの服を着た黒人の僕があそこにすわって、1時間ほどたってから、彼らは僕が誰だったのかを知った!そりゃ、おもしろかったね。僕は彼らになんにもいわなかったから。彼らはこういった―‘ああ、男が現われないから、私たちは去らなきゃなんないんだろうな’。それから5分たって、‘ヘイ!僕がその男だ!’といったら、彼らは信じられない様子だった。その1つは、僕の民族的な部分にある。僕は近所ではただ1人、ビートルズ、デイヴ・クラーク・ファイヴ、ザ・ローリング・ストーンズが好きなガキだった―彼らは僕のヒーローだった!ラヴは違った。僕たちは初の人種混合ロック・グループだった」

ロックンロールの中にストリングスを入れることは、ほとんど目新しいことではなかった。ビートルズ派もストーンズ派もほとんどのバンドが、時折オーケストラ付きのバラッドをフィーチャーしていたし、ザ・ビートルズは誰もが知っているように、アルバム『Sgt. Pepper』を作るためにオーケストラを使った。ニューヨークのバンド、ザ・レフト・バンクは‘バロック・ポップ’としてプロモートされていた。しかしそこでのロックはしばしばストリングスの支配下にあるように聞こえた。統合の名人アーサーは彼独自の陰うつなヴィジョンを反映したコンセプトを作り出した。‘お堅い’音楽とポップ・ミュージック両方でかなりの経験を積んだアレンジャーのデヴィッド・エンジェルは、彼らの歌の情報を得るためにアーサーとブライアンに会い、リーは基本的なアイデアを編曲者に歌った。

アーサー・リー:「デヴィッド・エンジェルはグレイトだった―彼はレコード全体にかかわっているんだ!僕は彼にやってほしいことを伝えて、編曲を手伝った。ホーン隊にはLAフィルハーモニック・オーケストラのメンバーも入っていた。僕たちはあのアルバムで何でもトライした。あのアルバムにはたくさんのミュージシャンたちが参加している。当時はシンフォニー系の人たちはシンフォニー・ミュージックだけをやっていた。僕は彼にどうしたいかを伝えたんだけど、彼は即興で作ってしまったね。ブライアンの曲は別としてね―ブライアンは“Alone Again Or”に関することをした。それ以外の部分には不気味さが存在している。アルバム『Forever Changes』は僕の最後のことばになるはずだった。あの中にはなにか死のようなものが感じられる。だから絶対的に‘永久の変化’なんだ」

完成したアルバムは以前のラヴとは似ても似つかなかった―たとえ『Da Capo』で音楽的前触れがあったことを人々が認めるにしてもだ。事実、これはそのアコースティック・ギターとオーケストレーションが一面をおおっている点において、他のどんなロック・バンドとも全く違っていた。その2つはどちらも注目すべき点であったが、この場合に限り、その音楽が十分正当性をもつものとして決まり文句を使えば、それらを組み合わせたことで、これは永遠の古典となった。そのことはまさにオープニング・トラックの“Alone Again Or”によって告げられる。

ブライアン・マクリーン:「“Alone Again Or”は1つの重大な事件だった。僕はこの歌が今でも過小評価されていると思う。まだ1つのアンダーグラウンド・ソングなんだ。僕は誰かがこの歌をちゃんと評価してくれて、これまでとは違った扱いになるだろうと今でも信じている。アルバム『Forever Changes』について1つあげると、アーサーは僕が歌うことに信頼を置いていなかったことだ。だから聞こえてくるメロディは、実はハーモニーなんだ。本来書かれたとおりには聞こえてこない。つまりみんなはアーサーのハーモニー・パートを聴いているけど、僕がリード・ヴォーカルをとっていた。エンジニアたちは僕のリード・ヴォーカルにアーサーのハーモニーをミックスした。だからミックス後に実際聞こえてくるのはアーサーのハーモニーであって、それはリード・ヴォーカルに間違えられるんだ…その理由はわかっている―僕はあの時点ではあまりいいシンガーではなかったから。今では正しく歌えるから、これはちょっと苦痛だったね。たぶん彼は必要に迫られてやったんだと思うし、僕もおそらく心の中でわかっていた」

[あいにくアルバム全曲のマルチトラック・テープは不可解なことに紛失してしまったため、私たちはブライアンの元々の意図を反映した“Alone Again Or”のリミックス・ヴァージョンを作ることはできない。しかし彼がのちに正確な音程を習得したという主張は、息をのむようなソロ・ヴァージョンが(1972年、あるいはもっとあとに)レコーディングされながら、遅きに失したブライアン・マクリーンのアルバム『ifyoubelievein』(1997年にSundazedがリリース)に入ったことによって完全に立証されている]

母親のフラメンコ・ダンスと、バンドよりも前の日々にささげたマクリーンの歌が、完璧なアルバム・オープナーだ。“Alone Again Or”は、理性を失いやすい強力で軽い素人のファンを誘うと同時に、アーサーを誘惑している。「(フォークのメロディとフラメンコの優美さで)そういう人たちが一番楽しんでいるんだと僕は思う」 ブルース・ボトニックはトランペット・ソロにおけるティファナ(米国国境に近いメキシコ北西部の観光都市)のブラスの影響を、いくらかおどおどしながらも認めた―彼は当時、ハーブ・アルパートとも働いていた。しかしそのあたたかい親しみやすさは、みごとに功を奏している。その音楽的外観は、主人公と、‘ほとんど誰とでも恋に落ちる’人間(アーサー)が一致しないことを気づかせないほど魅力的だ。また、フラストレーションをひき起こす自由恋愛のスピリットの欠如によって生じるシンガーの黙想についても、同様に見過ごしてしまうだろう―‘そうさ そして僕は再び今夜も一人ぼっちになるだろう’(“Alone Again Or”)。エリシアン公園(ロサンジェルスのダウンタウンにある公園)の散策というわけでもないのだろうか?

次に続くのが、アルバムでは表面上、最も明るい“A House Is Not A Motel”だ。これは私たちをアーサーの心の暗闇へといざなう。今度の歌詞は安心を与えるもののように見える―‘通りは金で敷き詰められ/誰かが君に尋ねれば 君は僕の名前を呼べばいい’―さらに彼らはほとんど不気味な性質のフォークロックへ向かう―その場を繕うだけの歌詞をみごとに特徴づける、いらいらして落ち着かないドラムス。リーはついに3番目のヴァースの中で到達する:

僕が歌い終えるまでに
戦いの学校のチャイムが鳴ることだろう
もっと混乱(confusions)を もっと輸血(transfusions)を
きょうのニュースは未来のための映画となるだろう
水は血へと変わった
そう思わないのなら ふろ場の栓をひねってごらん

(“A House Is Not A Motel”)

アーサーは最初の2枚のアルバムでホロコーストを予期していたが、ここではそれが間近に迫っている。しかしサンセット・ストリップにいて、東南アジアで戦争が始まろうと、彼の耳の間に何か聞こえてこようと、ミスター・リーはそれほど具体的なことばを選ぶことはしない。大きなポイントは、通りが敷き詰められているのは金ではないということだ。それは腐った肉だ。このヴァースの最後で、ドラムスがついに簡素なブレイクの中に躍り出て、そのあとに左右に分かれた2本のリード・ギターが猛烈な銃撃戦の中に消えていく。オーケストレーションをフィーチャーしていない数曲のうちの1曲であり、エレクトリック・ギターをフィーチャーした唯2つのうちの1曲であるこれは、『Forever Changes』の中で最もぶっきらぼうだ。残りは全て、より繊細で狡猾だ。

かつてアーサーが考えていた最も愛らしいメロディの1曲、“Andmoreagain”が、前トラックによる猛攻撃のあと、安心を提供すべく次に現われる。しかし彼はもう大丈夫だといっているわけではない―前トラックと比較しての話だ。“The Daily Planet”の中で(そのアレンジメントは、ニール・ヤングが少しだけ参加したことの唯一の痕跡だといわれる)、私たちは“Andmoreagain”の毎日の結果を見せつけられる―繰り返し、退屈、停滞、見せかけ、それら全ては音楽的背景の変化によって、どういうわけか不吉な感じを与えている。この空虚感の中へ、ブライアン・マクリーンの穏やかな“Old Man”(ロシアの作曲家プロコフィエフの組曲“キージェ中尉”の‘トロイカ’進行が基になっている)が、ロマンチックな安堵感をもたらすために忍び足で入っていく。しかしそれから“The Red Telephone”が暗く強力なイメージとともに幕を開ける―‘丘の斜面にすわって 人々が死んでいくのを見ている’(“The Red Telephone”)―その空想描写は平凡でありふれている。

これが『Forever Changes』の奇妙な美しさだ。スタイリスティックな一貫性は、聴覚に訴える流れを創り出しているが、それぞれの歌はまずなにか暗雲と困惑のようなものを含み、あとに続くものによってそれ自体がぼかされていく。アーサー・リーは二重性と矛盾にふけっていた。それは割り当てられたどんな肌にも完全にフィットしない白黒混血児にとって、自然な領域だった。ここで視点は各曲によってわずかに変化する―それは時に音楽性によって、時にことばによって変わる。“The Daily Planet”の中で、彼は矛盾することばを接するように直接的に使ってさえいる。一方で『Forever Changes』の音楽は、ほとんど催眠性のある一貫性と人を惑わせるような愛らしさを伴い、その歌詞は指が届かないところに感じるむずかゆさがある。そのコンビネーションは徹底的に魅力的で、わずかに心を乱すところがある―最も厳密な意味でサイケデリックだ。

ブライン・マクリーン:「アーサーの歌詞と音楽は全て内的独白(stream-of-consciousness:意識の流れ)だったってことを理解しなきゃならないんだ。僕は自分の歌にとりかかって組み立てていったけど、彼はそういうふうには書かなかった。‘ハナクソがズボンにこびりつきやがった’なんてのが出てくる…で、それはそのまま生かされる!(笑) 彼はすばらしいマインドをもっていたけど、最大の問題はヒップになろうとしていたことだ。彼はことばでは表せないほどヒップだった。彼は1940年代のジャズ・ミュージシャンみたいなしゃべり方をしていた」

ある者は、リーはマクリーンが認める以上に歌詞にこだわっていたのではないかと疑っている。もしこれらの歌がアーサー・リーの最後のことばになるはずだったのなら、彼は明らかに私たちにそのことばをいつまでも考えてほしかったろう。例えば2つの例外を除いて、歌のタイトルは歌詞のどこにも出てこず、それは私たちにその意味を探ろうとする行為を促すことになる。また歌詞がヴォーカル的にどう聞こえるかという、リーのアプローチの仕方も特徴的だった。多くのロック・シンガーたちはただ厚みを出すために、決まりきった仕事としてリード・ヴォーカルをダブル・トラックにするが、ここでのアーサーはドラマチックな強調、あるいは伝えたいことの様相をゆがめるために、戦略的に使っている。時々、彼は自分自身とデュエットし、時にはリード・ヴォーカルでコメント(論評)する。彼の2つの声は、初めてマーヴィン・ゲイが“What’s Going On”で完全に探究することになる手法をすでに用い、それらは相互に作用しあっている。

“The Red Telephone”までに、ぐつぐつと煮える疎外と混乱でフルにかき乱されることになる。オリジナルのレコードではA面の最後だったこのトラックは、どこかにエドガー・アラン・ポーを隠しもった、死の匂いのする傑作だ(タイトルは米ソ冷戦危機でのアメリカ大統領とソヴィエト首相の間のホットラインに言及したものだ)。通常はカリフォルニア・ポップ・ミュージックであたたかさの象徴として用いられるハープシコードとストリングスは、ここでは底流としての脅威を伝えている。‘彼らは刑務所に閉じ込め 終身刑にする’は、締めくくりのことば‘明日は誰がそうなるのだろう 君か僕か?’の中での無表情なくり返しへと続く(“The Red Telephone”)。これはよくある論争上のヒッピーの妄想とも読めるが、トラック自体がまいた種をただ露骨にしているだけだ。60年代のスローガンである‘フリーダム’をくり返す声は、そのコンセプトをまるでアホウのおしゃべりのようにしてしまっている。

‘どうだい?元気かい?’―そのシンガーはB面最初の“Maybe The People Would Be The Times Or Between Clark And Hilldale”の中で問いかけている―まるで“The Red Telephone”の光景が悪い夢にすぎなかったかのように。‘Between Clark And Hilldale’は‘ウィスキー・ア・ゴーゴー’を含むサンセット・ブールヴァードのブロックに言及したもので、‘彼らがいつも僕の歌をかける’(“Maybe The People Would Be The Times Or Between Clark And Hilldale”)場所である、アーサーの小宇宙ロサンジェルスとして仕えたところだ。それはサンセット・ストリップ生活のさわやかな喚起作用であるが、次の曲“Live And Let Live”のまさに初っ端の歌詞―‘ああ 鼻水がオレのズボンにこびりつきやがった’で、私たちは一気に鏡を抜けてあの赤い電話のある風通しの悪い部屋に引き戻される。「僕たちはスタジオにいた」 アーサーはフィル・ガロウにこのショッキングな(少なくともポップ・ソングにしては)イメージについて語った―「僕は酔いつぶれてしまって、自分のズボンによだれを垂らしていたのに気づいたんだ。それは結晶化してカピカピになっていた。それについて書いたんだ」

“The Good Humor Man He Sees Everything Like This”で、再び私たちはお下げ髪と花のイメージはごくノーマルであり、それは今や肯定的な気味悪さであるかのように思える場所へはね返される。“Bummer In The Summer”までに、彼は全てのゲームから足を洗う覚悟をしているように見える。アルバムは“You Set The Scene”で最高点を迎える―一見、孤立した歌の断片が縫い合わされたかのような大きなカンバスだ。不吉なベース・ラインと低音のストリングスを伴ったファースト・セクションのかき乱されるような不安は、まるで気がふれたリーが前進していくかのようだ。しかしホーンが入ってくると再び形勢は一変し、それを最後にもう変わることはない。

これが僕の生きている時間
毎日 笑顔で向かい合おう
与えられた時間は少ししかないのだから
僕がやらなきゃいけないことは
あまりあるほどのスタイルであふれている

(“You Set The Scene”)

これがアーサー・リーの償いの空中文字声明だ。しかし過去に直面したもの全てに勝利を収め、ホーン、ストリングスのポップ的解釈と信念が困難を乗り切ったものの、その見解は純粋に個人的なものだった。彼が向き合ったのは自分の消滅(死)であり(間違ってそうなってしまったが)、彼は残された時間をフルに活用しようと決心した。そして残された私たちはひとりぼっちだった。アーサーの弁明は1つのチャレンジのように発せられ、彼が未踏の地へ向かった時に、その弁明は肩越しにうしろへ放り投げられてしまった。この複雑なアルバムのシンプルなメッセージは、その夏の集団サイケデリック・オーディションの余波の中であるいは私たちが聞いていたのかもしれない、最も価値あるものだった―‘自分で考えろ’だ。

サンセット・ストリップが公告した‘第3のラヴ’としてビルボードで歓迎された『Forever Changes』は、1967年11月にリリースされた。エレクトラ傘下のクラシック専門レーベル、ノンサッチで多くのジャケットをデザインしたボブ・ペパーによるアルバムのアートワークは、アルバム自体と同様、サイケデリックなお決まりのパターンに屈することなく、明るく奇抜な色彩による4人の顔をフィーチャーしていた(アーチスト自身が覚えてさえいない破棄された最初のレイアウトは、最初の2枚のアルバム・カヴァーにあった、俳優ベラ・ルゴシ所有のぼろぼろになった屋敷にグループをまたも配置していたが、下部分に“The Red Telephone”の気味の悪い雰囲気を思わせる墓地が写っていた)。

アルバムはヒットせず、最高位はアルバム・チャートで期待外れな154位だった。シングル・カットされた“Alone Again Or”は‘ホット100’の下で泡となり、メイン・リストに割って入ることはなかった(エレクトラが1970年にリリースしたコンピレーション、『Love Revisited』は、さらに低いチャート・アクションだった)。かなりの枚数は売れたが、実際のところ、積極的に自己の主張を立証するグループなしでは、それぞれのラヴのアルバムが売れた枚数はそれほど多くはなかった。何年もたつうちに、『Forever Changes』は最初の2枚の合計よりも多くを売り上げるようになった。主な理由は、常にプレスされ続けたためだ。その累積セールスがゴールド・レコードの資格をもつとさえいわれてきた。

アーサーが気乗りしなかったことで、ラヴにとって好都合となった場所がイングランドだった。そこでは距離と貴重性とが相まって、みなの望む神秘のオーラが創り上げられることになった。アメリカの状況とは正反対に、それぞれのラヴのアルバムは『Forever Changes』を最高24位まで押し上げた、アンダーグラウンドの勢いがあった最後の時よりもよく売れた。いくつかの海外出演はこの成功をヨーロッパへ広げ、そして裏側からアメリカへ波及させたのかもしれない―ジミ・ヘンドリクスも同様のことをしていたが、これはあまりそうはならなかった。LAでは、その仕事のないバンドはアルバムのセールスが警告する前に広がっていた無関心の中へすぐに滑り落ちていった。1968年1月30日、ニュー・シングルのためにレコーディング・セッションが行なわれたが、それが6月にリリースされる時までに、バンドはプラスチック(レコード)上にしか存在しなかった。マクリーンが最初にバンドを離れ、すぐにアーサーは他のメンバーに彼に続くよう促した。リー率いるラヴという名のバンドはその後も続いたが、決してあのラヴではなかった。

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アーサー・リーはその年に死ぬ予感にとりつかれていたが、生き残らなかったのはラヴの方だった。『Forever Changes』はオリジナルのラヴのピークと死両方を描写しているため、我々は発掘することのできるボーナス・マテリアルを全て収集した。かぐわしい“Wonder People (I Do Wonder)”は、アルバム・セッションからの唯一の未発表曲だ。これは最終的に、アーサーのほの暗い指針にはあまりに明るすぎたのかもしれない。前年の“7 And 7 Is”セッションでレコーディングされたインストゥルメンタル・トラックの“Hummingbirds”は、“The Good Humor Man”の原型だ。“Alone Again Or”のモノ・ミックスは(ブライアンが探していたものではないが)異なっているが、“You Set The Scene”のオルタナット・ミックスはアルバム・ヴァージョンで削除されたヴォーカル・アレンジメントをフィーチャーしている(訳注:後半のダブル・トラックのヴォーカル)。

我々はこのコレクションを、すばらしくひねりのあるグループ最後のシングル、“Your Mind And We Belong Together” b/w “Laughing Stock”で閉めた(ラヴ研究家はこれらのトラックを、『Gethsemane』と名付けられた幻の‘ロスト’アルバムからの抜粋であると考えたが、我々のリサーチではその説を裏づける証拠は見つからなかった)。そこにはオーケストレーションは存在しないが、両面とも『Forever Changes』を特徴づけるアレンジメントの変化とねじれをフィーチャーしている。

ラヴ・ファンにとって思いがけない新事実が、9分にわたる“Your Mind”のトラッキング・セッションだろう。これはアーサー・リーが、『Pet Sounds』セッションでのブライアン・ウィルソンと同様の支配権をもっていることを示しているが、また同時に(『Pet Sounds』のバンドの)‘レッキング・クルー’ほどのコントロールはこのバンドには効かないことがあらわになっている。アーサーは自分の望むテイクを手に入れたが、それはテイク44までかなわず、いったん私たちがそのプロセスを垣間見てしまうと、調子の悪い正規ヴァージョンの壮大さがさらにいっそう驚くべきことのように思われる。そのB面、“Laughing Stock”は、精神的かつ物理的な崩壊における2分間のスケッチであり、一巡して最初に戻る“My Little Red Book”にアーサーが無造作に言及したことで、ラヴというバンドの歴史が終わるのにふさわしい場所を無意識のうちに作っていた。

もちろん、その歴史はそこで終わりはしなかった。ローリング・ストーン、モジョ、そしてQといった出版物でのオールタイムベスト・リストで『Forever Changes』が高位置につくのは、そのアルバムが常に聴かれてきたという、評論家たちによる評価を反映している。続く世代たちの中で見る目のある者たちは、『Forever Changes』の音楽にたどり着き、その遺産を受け継ぐべく、順に同趣向者同士で共有していった。ライノ・レコード創設者のハロルド・ブロンソンとリチャード・フーズは、レーベルが設立されるずっと前からそんな2人だったし、あなたが今読んでいる乱筆ライターもその1人だ。

今やあなたもその1人だ。伝えてくれ。

―ベン・エドモンズ


無類のラヴジーン(ラヴ・ファンジーン)、The Castleを発行するデヴィッド・ピーター・ヒュースデンに特別の感謝を送る。情報と意見の貴重な収集品は以下でコンタクトできる―Stonecross House, Fitton End Road, Gorefield, Wisbech, Cambridgeshire PE13 4NQ England. また以下の方々にも感謝する―ジョン・トブラー、ハーヴィー・クーバーニック、バーニー・ホスキンス、ケヴィン・デラニー、ロバート・ディーン・レズリー、そしてとりわけ編集に関する援助をしてくれたハロルド・ブロンソン




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