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Love/Da Capo/2002 Warner Strategic Marketing 8122 73604-2



ありそうにもない音楽的空想家たちの集まるグループにとっては、1966年がサマー・オブ・‘ラヴ’だった(訳注:通常は1967年が‘サマー・オブ・ラヴ’の年)。その時期にラヴは彼ら唯一の全国トップ40シングル“7 & 7 Is”をものにした。そして夏の終わりまでに、彼らのセカンド・アルバムで草分け的な『Da Capo』のレコーディングに没頭していた。「突然僕たちは町一番の人気者になったが、僕たちは自分たちの住んでいたところからの反応に全く不意を突かれてしまったね」 ラヴのジョニー・エコールズは回想する。「それはハリウッド中のレストランで腹いっぱい食うようなもんだった。最高のテーブルを用意されてね。そして支配人がやってきて小切手を受け取るってわけ。山ほどのお世辞がみんなの頭を満たし始めていた。音楽をプレイすることを愛する純粋な男たちは少し変わり始めていた」

たしかに、文字通りアルバムのタイトルのような音楽的方向性をとり、また初めからくり返すどころか、バンドはポップ・ミュージックの未踏の領域へと踏み出していた。「僕は自分自身を見つけたと感じている。あるいはアルバム『Da Capo』の中で今日の自分の種をまいたんだ」 アーサー・リーはミュージシャンでジャーナリストのレニー・ケイにそう語った。「僕がレコードの中で引合いに出してほしいという点についていえば、僕は『Da Capo』で生まれた。どういうことかわかるかい?つまりその時から今日までずっと同じ生き方ってことだ。自分のしたいこと、自分がなりたいものなんかを見つけた時から君の運命は決まる。僕はその時から僕であって、今ここにいる僕なんだ」

大きなターニング・ポイントは、“7 & 7 Is”を書いた時にやってきた。それはハリウッドのコロニアル・アパートメントでリーが書いたディラン調のフォーク・ソングとして第一歩を踏み出した。「僕はサンセット大通りに住んでいて、ある朝早くに目が覚めたんだ」 リーはライターのフィル・ガロウに語った。「他のメンバーはまだ寝ていた。僕は浴室に行って、この歌詞を書いた。僕の歌はよく夜明け前にひらめいていた―夢の中で歌が聞こえてくるんだ」

詞の内容はあいまいではあるが、その歌はアーサーの幼少時代についての貴重な洞察を与えてくれる。少年時代のアーサーはよく部屋に閉じ込められ、‘アイス・クリーム・コーンあるいはばか帽子(できの悪い生徒に罰としてかぶらせた円すい形の紙帽子:dunce cap, fool’s cap)をかぶって心を漂わせていた’。「彼の母親は学校の先生で、アーサーはちょっと自分のことを頭が足りないんじゃないかと感じていたと思う」 エコールズはいう。「彼の母親はアーサーから能力を引き出したくて、彼に考えさせたんだと思う。アーサーは学問的関心が全くなかったから。彼が学校で悪い成績をとったりすると、彼女は彼を部屋に閉じ込めていた」

さらにその当惑するような詞―‘僕の親父は暖炉にいて 僕の犬は催眠術にかかったように眠っている’は、危うい現実とは程遠いものがあった。「アーサーは小さな犬を飼っていて、彼の親父はよく暖炉とその燃えさしを見つめながら考えにふけっていた」 エコールズはいう。「僕があそこに寄った時は、それがいつもの家庭の雰囲気だった。あのLeave It To Beaver(ビーバーちゃん:テレビ・ホーム・コメディ)みたいなシーンだ。アーサーからは想像もつかないが実際そうだったね。基本的に彼の家で起こっていたことと彼らの変化がその歌に反映されていた」

「アーサーがやることのほとんどは自伝みたいなものだ。人生と幼少期に関するものだ。彼は多くの時間を自分の部屋に閉じ込められて罰せられていたから、すごく内省的になって内にこもるようになったんだ。大人になるにつれて、彼は全く違う人間になっていったが、子供の時の彼はとても内向的で引っ込み思案だった。今では信じられないが、あとから身についた派手なアーサーは基本的に見せかけなんだ。うん、なぜってそれは本当の彼じゃなかったから。僕が知っていたアーサーは物静かで内向的でロマンチックなタイプの人間だった。彼はいつも完璧な女の子を探していた。完璧な愛をね。彼はいつも探しては失恋していた。僕はいつも彼に、たちまち恋に落ちてしまうんだなといっていた。多くの歌はそれをほのめかしていて、“7 & 7 Is”は彼の家庭生活をほのめかしていた」

音楽的には、もともとスローでフォーキーだった“7 & 7 Is”は、ケン・フォーシのうなるようなベースとジョニー・エコールズの猛烈なギターによってテンポアップされた。「アーサーがあれを僕たちに聞かせた時は全く違う歌だった」 エコールズは思い出す。「僕たちは“In My Time”っていうもう1曲の歌にとりかかっていた。それは僕たちがファズ・トーンとベースの新しいフレーズを実験したいと思っていたっていう点で、“7 & 7 Is”に似ていた。僕はいつもサーファーっぽいヴィブラートを使いたいと思っていた―ちょっと違うタイプの歌でね。僕たちは‘コントロールされたカオス’―僕の好きな言い方だ―を探していた。“7 & 7 Is”がまさにそんな感じだから。混沌として聞こえる中でたくさんの音が入っているが、かなりコントロールされている。ケニーはベース弦をグリッサンド(すべらせる)ぽく弾いているが、ほとんど‘タップ’(叩く)サウンドだ―今じゃギターで普及しているようなプレイだ。彼はそれをファズとミックスしておもしろい効果を出した。実際それ以来、僕はあんなサウンドを聞いたことがないね」

その曲のレコーディング準備(1966年6月17日と20日)が整うまでに、ラヴは大きな変化を迎えようとしていた。これはドラムのスヌーピーを含むオリジナルの5人編成をフィーチャーした最後のセッションとなり、またエレクトラの創設者ジャック・ホルツマンによる最後のプロデュース作品となった。結果的に、“7 & 7 Is”のレコーディングは簡単な作業ではなかった(このコレクションのボーナス・トラックとしてフィーチャーされたラフ・ヴァージョンで証明されているように)。何10テイクという数が録音されては消去され、そのほとんどはバンドが曲に猛然ととりかかることによる短い出だしのつまずきだけが原因だ。

「これはかなり複雑だし、すごく速いテンポのせいで疲れるんだ。全てが最後まで全開だからね」 エコールズはいう。「アーサーは“7 & 7 Is”でドラムを叩いてないよ。プレイしたのはアルバン・スヌーピー・フィスタラーで、彼はものすごい仕事をやったんだ。彼はあの歌で本当にとことんやり通したし、功績を認めるべきだ。これは彼がプレイした中でベストだし、彼が実際にやってのけたのは驚くべきことだった」

歌の最後に、ホルツマンは即興のフェイドアウトにつなげて回転速度を落とした砲撃音をダビングした。「ブライアンが即興をやり始めたんだけど、最初は“7 & 7 Is”の一部ではなかった」 エコールズは回想する。「ジャックがあそこに爆発音を入れたあとに僕らがプレイした。僕らがあれをライヴでやった時は、曲を終えるために僕がアンプの上のリヴァーブ装置をぴしゃっと叩いて、マイクを近づけて爆発音みたいな音を出していた。一瞬のちょっとした刺激みたいなものだった」 ラヴが再びこういった猛烈な音を聞かせることはなかった。

1966年7月30日、“7 & 7 Is”はビルボード・チャートに入り、10週以上圏内を動き、33位まで達した。その10週の間、グループはセカンド・アルバムのレコーディング準備の段階で大きなスタイル的変化を遂げていた。「僕たちが『Da Capo』のトラックをやっていた時にラインナップの拡張を決心したんだ」 エコールズはいう。「僕たちは全体に柔軟性のあるスヌーピーを手放したくはなくて、ファンタスティックなドラマーだったマイク・スチュアートに入ってもらった。それで僕たちはスヌーピーを(キーボーディストとして)キープしようと決めて、サックス・プレーヤーを加えたらどうかと考えた。そんなわけで僕たちはツェイ・カントレリ(Tjay Cantrelli)を加えた。僕たちは何年もツェイのことを知っていた。彼は完璧にグループにフィットした。僕たちはコルトレーン・タイプのサウンドに本当に深くハマるようになっていた。つまりフリーフォームのフュージョンだ。‘フュージョン’はまだ存在しなかった―僕たちはフリーフォーク・ロックと呼んでいて、それはジャズとロックを足したものだった」

またグループは新しいプロデューサーとして、ポール・ロスチャイルドを見つけた。「ジャック・ホルツマンは『Da Capo』について話すために、アーサーと僕をニューヨークに連れ出していた」 エコールズは思い出す。「彼はそのプロデューサーについて僕に話した―麻薬でムショから出たばかりだが、とてもファンタスティックで僕の好きな人たち全てと仕事をしていた。僕はその実績に感銘を受けてしまった。それで僕たちは‘グレイト!’といって、彼に会ってたちまち意気投合した。でも彼は僕たちのファースト・アルバムをすでに聞いていたから、プロデュースについては心を動かされなかった。それが猛烈にハードなロックになった理由だ―彼は全く違うグループにしたがっていた。僕たちは豊かなジャジー・タイプ・サウンドにシフトした。ファースト・アルバムから『Da Capo』へは180度の転換だった。同じグループとは思えないサウンドだったね。彼は何か完全に違うものを期待していたが、僕たちがスタジオに到着してすぐにリハーサルを始めると、僕たちは彼が背後にいるような気がし始めた。彼はその時、同時にドアーズのセッションも仕切っていて、それがサンセット・サウンド・スタジオじゃなくてRCAスタジオBに僕たちがブッキングされた理由だったんだと思う。ドアーズがあそこにブッキングされてたって事実からいうとね」

RCAはグループに新しい環境をもち込んだだけでなく、そのマテリアルにふさわしい雰囲気をも創りだしていた。その名誉はもちろん一流エンジニアのデヴィッド・ハシンジャー(Hassinger)にあり、彼の熟練の耳は仕事に対するさらなる自信をグループに植えつけていた。「あそこでは全てがリラックスしていた」 エコールズはいう。「僕たちは曲を書いてなかったし、リハーサルもしていなかったから、あの場所で時間を使い果たしていた。あのスタジオに行くほんの数日前に7人編成になったからね。RCAではサンセット・サウンドのようなピリピリした感じはなかったんだ。サンセット・サウンドでは何度かなぐり合いのけんかがあった。ちょっと閉所恐怖症を引き起こすようなところだったから。その雰囲気と人々―ブルース(おそらくセカンド・エンジニアのブルース・ボトニック)たちみんな―は、デイヴ・ハシンジャーのいるRCAのやり方では役に立たなかったんだ」

いい感触があったにもかかわらず、レコーディング初日(1966年9月27日)はいくらか張り詰めた瞬間があった。「“Orange Skies”にはフルート・パートがあって、ツェイがこのパートをうまくできなくて、彼らがハービー・マンを呼ぶぞと脅し続けていたんだ。単に僕らのチューニングが狂っていたからなんだけど」 エコールズは思い出す。「どうなっていたかっていうと、僕らがハープシコードに音を合わせたあと、ハープシコードが消えてそれから全てがわずかにオフ気味になったから、彼はフルートで正しい音程がとれなくなったんだ。彼らはツェイの落ち度だと考えたが、ツェイ・カントレリはファンタスティックなミュージシャンだ。僕はよく彼をハービー・マンのコンサートに連れ出していた。ハービー・マンはグレイトなセッション・ミュージシャンだったが、レコーディング・アーチストでもあった。彼は丸暗記でプレイしていて、ツェイの自発的でソウルフルなプレイには程遠かった」

ラヴのカタログの中で明らかに最もさわやかな作品だったその歌自体は、1965年にブライアン・マクリーンによって書かれていた。「僕は当時バーズのローディーだったんだ」 ブライアン・マクリーンはDJのフィル・ニーに語った。「僕は“The Bells Of Rhymney”(バーズ)のロジャー・マッギン(その時はジム・マッギン)のギター・ブレイクからあの歌を書いた。注意深く聞けば同じ形態なのがわかるよ」 他の彼のラヴ作品とは異なり、ブライアンはレコーディング・ヴァージョンでは歌わなかった。「ブライアンは最初、僕にあの歌を歌ってほしがっていた。なぜかというと、僕はジョニー・マティスの真似がけっこううまかったから」 エコールズは回想する。「僕はあれを練習したが、ブライアンはギターのカポを使わなかった。彼はそれを使うのは好きじゃなかったね。彼は使い方さえ知らなかったと思う。あの歌はオープン・コードだ。だから僕たちはキーを変えることができなくて、僕はバリトン・ヴォイスみたいに歌ってみた。あの歌のキーはDだったから、アーサーが歌う方が適していた。それで僕たちはすぐにアーサーにスイッチして、彼はあれですばらしい仕事をした。僕は彼のあの歌い方が本当に好きだった―ボールルームやサロン風のジョニー・マティスだ」

一方でこれはその価値にふさわしいヒットとなることはなく、2つのシングルのB面としてリリースされた。「ロサンジェルスではかなりエアプレイされた。エレクトラがもうちょっとプッシュしてくれていたら、たぶん売れただろうと僕らは思ったね」 エコールズはいう。「もし彼らがもっと金を使っていれば…だけど、当時の彼らは金をもっていなかったから」

RCAスタジオでの2日目(1966年9月28日)は、一風変わった“Que Vida”のレコーディングに焦点が当てられた。「アーサーがあの歌をもちこんだんだけど、僕たちはどうすればいいのかわからなくて苦労したね」 エコールズはいう。のちにこの歌のプロダクションは風変わりな感触が加えられて完成した。「ロックのグループを扱う以前のエレクトラは、20ものサウンド・エフェクトを用意した」 ドラマーのマイケル・スチュアート-ウェアはいう。「それで僕らはちょうどいいところにシャンペンのコルク音とジングル・ベルを差し挟むために、エレクトラの広大なサウンド・エフェクトのストックを利用した。“Que Vida”は他の僕らのマテリアル同様、すばらしいラテン風味をもっていた。スヌーピーはあれでオルガンをプレイした」 これはのちにシングルとしてリリースされたがほとんどプロモーションされず、結果的にエレクトラでのラヴの最もレアなシングルとなってしまった。

翌日(1966年9月29日)、ラヴは魅惑的な“She Comes In Colors”をレコーディングした。「実は“She Comes In Colors”は僕たちがやった中で一番難しい歌だったんだ」 エコールズはいう。「変な短いコードが入っていて、ネックの上を行ったり来たりするからね」 ドラマーのマイケル・スチュアート-ウェアは歌詞のおもしろさを指摘する。「‘僕がイングランドの町にいた時’ってところを聞いた時はおかしかったね。もし‘イングランドの町’がなければ、アーサーが『Da Capo』の曲を書く前に住んでいたテネシーかカリフォルニアあたりしかないわけで、それってジェイムス・テイラーがカロライナに行ったってやつと全く同じだ!もしかすると、僕がケニーといっしょにマリファナかなにかを吸っていた時と同じようなものかもしれない。彼は‘なあ、マイケル、ディズニーランドってすげえゾクゾクするよな’といって、僕が‘ああ、いつ行ったんだ?’って奴に聞いたんだ。そしたらケニーは笑ってこういった―‘今そこにいるんだ’」

いずれにせよ、のちにアーサー・リーが主張したように、女性の月経サイクルに言及した歌のタイトルが、彼のイングランド訪問と同じように、真剣に受け取られてしまったことは知られていない。しかしながら、広く信じられていることがある―ローリング・ストーンズがラヴのアイディアの中から、1967年の“She’s A Rainbow”の歌詞のために‘借用’したことだ。「はっきりいって、彼らは借用した」 ジョニー・エコールズは認める。「彼らはウィスキー・クラブによくやってきて、僕らを見ていた。彼らは僕たちが“Revelation”をやっていた頃に、続けて3回やってきたんだ。最初の晩はミックがきて、次にキースがきて、それからミックとキースがいっしょにやってきた。彼らはバルコニーのうしろを陣取って座っていた。僕たちがストーンズの“Going Home”を聞いた時、これはパクりだとわかった。なぜなら彼らはあのあとすぐにレコーディングしたから」

ラヴの1966年9月30日のセッションは、アーサー・リーによる謎めいた作品、“The Castle”に集中した。「タイトルのインスピレーションは、僕たちが7人編成になる直前にグループが共同生活していた、LAのロス・フェリッツ・ヒルズ地区にあった古くて大きなちょっと変わった館からきている」 マイケル・スチュアート-ウェアはいう。「みんな“The Castle”と呼んでいたが、本当は城にもなんにも見えなかった。単にばかでかい家だったんだ。最初ブライアンが僕に、立ち寄ってみようといって、僕は歩いて中に入って、アーサーはローラースケートで居間の周囲を回っていた。まるでスケート・リンクのように気持ちよさそうにね!そこは硬い木でできた床でじゃまになるような家具はいっさい置いていなかった―真ん中に長椅子とコーヒー・テーブルがあるだけだった。アーサーは玄関のところに立っている僕に気づくと、ちょっとだけうなずいてスピードを落とさずにくるっと回って今度は後ろ向きに滑っていった。実際、彼はとんでもないアスリートだったね」

「メイン・ルームの暖炉はとても巨大で、ケニーが腰をかがめなくても立って入れるくらいだった。彼はニューポート(たばこ)をアクア・フィルターに詰め込んで、暖炉の中に立って音楽を聴いたり、だべったりしていた。たばこの灰部分が長くなってくると、彼は指でポンとはじいて床に落としていた。彼が立っていたのは暖炉の中だから、それでオーケーだった。何度も灰皿のところまで歩いて行かなくて済んだ―彼はすでに灰皿の中に立っていたってことだ」

音楽的には、この歌は『Forever Changes』のアコースティックな穏やかさ(最終的には不協和な気味悪さがあるが)への道しるべだ。ケン・フォーシの強力なベースを中心に組み立てられ、ブライアンとジョニーのギター・スタイルが交互に顔を出す。「ブライアンと僕はパートを交代して前へ出たりうしろへ引っ込んだりしている」 エコールズはいう。「僕はピックを使っていたが、彼は指弾きだった。デイヴ・ハシンジャーはかなりうまくその2つのスタイルをブレンドすることができた。これは間際になってこういう形にした彼の作品の1つだった。僕たちが全くそれまでリハーサルしたことのない歌だったんだ。のちに“Robert Montgomery”となる“Michael Morgan Plays Organ”は、その時僕たちがどうしようかと考えていた1曲だったが、結局“The Castle”をやることになった」

“The Castle”が完成した数日後のラヴのRCAでの最後のセッションは、1966年10月2日にスタートした。この日、『Da Capo』のオープニング・トラック、“Stephanie Knows Who”が録音された。「この歌はジャズ・ワルツなんだ」 エコールズはコメントする。「間奏は5拍子だ―あまりダンス向きではないね。僕たちは歌の効果を考えて、よりプレイに関心をもつようになっていたし、ダンス・グループでいることよりも音楽の枠から抜け出そうと考えていた。僕たちがこれをライヴでやっても、ジャズ・ワルツのために人々は踊れなかったね。単なる3拍子だったら踊れたかもしれない。これの出どころは、『What’s New Pussycat』(何かいいことないか子猫チャン)と、ギタリストのガボール・サボー、フルート奏者のチャールズ・ロイド、それにドラマーのチコ・ハミルトンのあのグループだ。彼らは僕の友人で、僕は彼らの音楽が大好きだったからすごく大きな影響を受けたんだ」

しばらくすると、アーサーの歌詞はその時のめまぐるしく変わるガールフレンドがメインとなっていった。「彼女の名がステファニーだった」 エコールズは回想する。「彼女は最初、ブライアンのガールフレンドだったと思う。それからアーサーがつき合い始めて、最後は2人とも彼女を失った。彼女は本当に手際のいい女の子だったが、若かったから多くの男とつき合いたかったんだ。彼女は落ち着くことには関心がなかった。アーサーは当時ガールフレンドがほしくて、彼女といっしょに住みたがっていた。彼女は自分のためにアーサーが詞を書いても興味をもたなかったんだ」

「ある日、彼女がアーサーに傾きかけていた時、彼は本当にすばやく“Stephanie Knows Who”を書いた」 スチュアート-ウェアはつけ加える。「でもまだ十分に速いとはいえなかった。なぜなら、以前にも彼が最後の仕上げをする前に彼女はブライアンに戻って行ったからだ。これはリハーサルでの2人の間のくり返し使われるジョークみたいになった―ピリピリしていたけど。間奏部はジョニーとツェイのすばらしいフリースタイルのジャズ・デュエットになっている。スヌーピーの精密なハープシコード部分を聴くと、まるでジャックハンマー(空気ドリル)みたいな指だ」

『Da Capo』を完成させるために、ラヴはサンセット・サウンドに戻り、ステージでのお気に入りである“John Lee Hooker”にとりかかった―ロックでは初となるレコード片面全てを使ったジャムだ。残念ながら、多くはステージからスタジオに移行する過程で失われてしまった。タイトルさえ“Revelation”に改められた。「“John Lee Hooker”の時とは全く違う曲になったね」 ヴォーカルもとったエコールズは指摘する。「ステージでは猛烈なブルース・ジャムだったんだ―オールマン・ブラザーズ・タイプのね。そういう感じだった。完全にライヴ向きの1曲で、強力なグルーヴがあって、時々僕たちは1時間くらいプレイしていた。僕たちはこれをプレイするのに2セットのライヴをやった。すごく長いから、その時のオーディエンスは本当にハマっていたし、僕たちは音楽的にのびのびと手を伸ばすことができたんだ。僕たちはジョン・コルトレーンを見に行っていた。コルトレーンは10分間ほどのソロをプレイして、それからマッコイ・タイナーを残してステージを降りる。タイナーはそのままプレイして、それから彼も退散する。ジミー・ガリソンはエルヴィン・ジョーンズを残して降りる。それで僕たちもそれをやり始めて、みんなは気に入ってくれたし、僕たちの定番になった」

「ポール・ロスチャイルドはそのあたりを変えた。彼は‘絵を描く’試みをしているんだといっていた。僕は彼に説明していた―絵を描いてカンバスに塗る、あるいはテープに録音するのは僕ら次第であって、そういうことをするのに主導権を握るのはやめてくれとね。とにかく彼は断片をつなぎ合わせて僕らのいたるところを変えてしまった。あの出だしのハープシコードはあそこにもってこようとは思ってなくて、最後だけにくっつけようと思っていた。僕たちがリハーサルして、ハード・ロック・ヴァージョンから変容させたコルトレーン風のジャズ・パートは、ツェイ・カントレリがプレイしている。普段僕たちがしていたのは、アーサーが最初に去ってそれから僕が去って、そしてブライアンがプレイして彼が去ると、ケニーとマイケルとツェイが残るんだ。そしてツェイがソロをプレイして2人をステージに残して降りる。それから僕がステージに戻ってきて、完全に歌を変えて4人で(ツェイが戻って?)長いジャズ・タイプのジャムをやる。そしてアーサーが戻って、次にブライアンもステージに戻ってくる。長い長い曲だから、こうすればみんなが休憩をとれるんだ。こういうやり方をすれば、聴いてもそういうことには気づかない。ミックスダウンで短く切ったようなものは、誰がプレイしているのかわからない。何のギターか、どの楽器が入ってきたのかは判断できないんだ。時々僕は本来入ってくるよりずっと先に、ソプラノ・サックスの音が聞こえることがあるけれど」

マイケル・スチュアートはスタジオ・ヴァージョンから失われたもう1つの光景を覚えている。「クラブでバンドはシンコペートしたパワフルでソウルフルなヴァージョンの“Gloria”をやっていた。多くの人たちが、オリジナルのゼムのヴァージョンよりいいと考えていた。エレクトラはバンドにふさわしくないと考えたのかもしれない。レコーディング・ヴァージョンは破棄された。すごく残念なことだ。クラブで僕たちがこれを始めると、聴衆は興奮していたからね」 ベストを尽くしたにもかかわらず、バンドはローリング・ストーンズの一足早い“Going Home”のリリースによって、出し抜かれてしまった。最終的には、“Revelation”あるいはむしろ“John Lee Hooker”が、真の居場所を勝ちとった。

アルバムの完了をもって、ラヴは『Da Capo』のリリースに先立って、その新しいサウンドとラインナップを公に示し、1966年を終えた。アルバムは最初から最後まで、地元のプレスで大絶賛された。「僕たちはウィスキー・クラブでアルバムを紹介した。そのあとには1966年のクリスマス・イヴにフラバルー(テレビ音楽番組)でもう一度紹介したんだ」 スチュアート-ウェアは回想する。「時々人々は僕に、なぜドアーズや他のグループみたいなフィルム・クリップが全くないのかを尋ねてくる。僕はいつも彼らに、もしアーサーが望めばあっただろうねといっている。フラバルーみたいなところでは、ドキュメンタリーのために気取り屋が16ミリのカメラでパフォーマンスを撮っていた。それがアーサーの神経に触ったんだ。“John Lee Hooker”のツェイのサックス・ソロの真っ最中に、アーサーはつかつかと歩いて行って、身をかがめてそいつのカメラを掴んだ。そしてそれをステージ後方近くのカーテンのうしろに放り投げた。彼はあとで舞台係にカメラを返させたと思う―ただしフィルムを破壊してからね。‘写真はダメ!’が僕らのモットーだった」

結局、ラヴの写真嫌いは『Da Capo』の裏ジャケットに大混乱を引き起こすことになった。「メンバーの誰もが『Da Capo』のバック・カヴァーの写真が嫌いだった。彼らはやり直さなきゃならなかった」 エコールズは説明する。「最初のやつは裏側の半分がツェイの写真で、僕らはほとんど最小サイズだった。アーサーはそれを破り捨てて、彼らはもう一度やり直して僕らに送ってきた。それは唯一、僕らがスタジオでポーズをつけた仕事だった。なぜなら他の写真は全て外に出て撮ったからね」

アルバムのフロント・カヴァーは簡単な仕事だった―完全にレコードのタイトルを説明していた。「僕たちはファースト・アルバムのカヴァー写真を撮った場所に戻ったんだ」 エコールズは始まりに戻ったバンドのことを語っている。「アーサーは最初に戻ることを音楽用語で何というかスヌーピーに聞いて、スヌーピーはDa Capoだと答えた。それでこのタイトルになった。僕たちはハリウッドにやって来て、こういうロック・グループに変化する前に僕たちがいたところに戻ろうとしていたから、それはルーツに戻るってことだった。僕たちはブッカーT & The MGsタイプの音楽やジャジーなブルースなんかをやる、もっとブルージーなグループだった。基本的に僕たちはそういうのに戻ることについて話し合っていた。アルバムが具体化すると、そういうのに戻ることはなかったけど。限界に挑むような感じだったんだ」

アンドリュー・サンドヴァル




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