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Love/Love/2001 Warner Strategic Marketing 8122 73567-2



ある意味、ラヴは究極的なロサンジェルスのバンドだった。いきなり彼らはその創造性と狂気のみならず、町の音楽的、文化的多様性を獲得してしまった。しかしながら、ほとんどのLAストーリーの場合と同様に、ラヴの歴史は実際他のところで始まっている。メンフィス(その町の音楽的経歴はほぼ他の全てを凌駕している)がアーサー・リーとジョニー・エコールズの生まれ故郷だった。彼らの家族は2世代にわたって友情を築いていた。「彼の母親と僕の祖母は友人同士だったんだ」 ラヴの共同創立者でギタリストのジョニー・エコールズは回想する。「祖母の家族は僕の母親が生まれる前から、小さな学校の先生だった。僕の家族はそれくらい長くさかのぼることができるんだ。アーサーの母親は僕の家族がロサンジェルスにやってくる前に引っ越していった―1年かそこら前だ。彼らはずっと連絡を取りあっていた」

「僕はかなり早くにメンフィスを去った。アーサーもだ。南部から離れたところにもっといいチャンスがあった。僕たちは9歳か10歳の時にロサンジェルスにやってきた―アーサーは2つほど年上だ。僕たちは27番ストリートに引っ越してきて、そこで彼と再会した。僕は10歳の時にギターを始めて、アーサーはコンガ・ドラムをプレイしていた。彼はある程度上達するようになって、僕たちは何時間もプレイした―まあ、シンプルなリズムだったけど。近所の女の子たちが僕たちの周りに集まってくるようになって、それで僕たちは自分たちのやりたいことに気づいた。そこから音楽をプレイすることに決めたんだ」

「ちょっとした即興のセミナーみたいなのがあって、彼らはオルガンを売ろうとしていた―1年間の無料レッスン付きでね。それでアーサーはそのレッスンに通うことになって、1年後、彼はかなりうまくなったんだ。僕たちは小さなグループを始めて、地元のパーティーや成人式なんかでプレイした。アーサーはよくデイヴ‘Baby’コルテスの“The Happy Organ”をやっていた。のちには僕たちはブッカーT&ジ・MGsの“Green Onions”なんかのインストゥルメンタルをやるようになった。僕たちはまだ過渡期で、‘優等生’のパーティーなんかに出てたね」

「僕たちはビリー・プレストンといっしょにドーシー・ハイ・スクールに進んだんだ。卒業するとアーサー・リーはヌーニー・リケットといっしょにプレイするためにラスヴェガスへ行った。僕はビリー・プレストン、ジミー・ジェイムズといっしょに‘ナイト・ライフ’(おそらくクラブ名)でプレイしていた―ジミーはジミ・ヘンドリクスのことだ。僕たちは数ヶ月間そこでプレイしたけど、僕がロサンジェルスにいた時にそれだけがアーサーと別活動していた時期だった。僕たちはいつも同じグループにいた。僕たちはまず‘ハウス・ロッカーズ’と名乗って、次に‘ALJE’―つまりArthur LeeとJohnny Echolsの頭文字を並べただけ―、それからアーサー・リー&the L.A.Gsと名乗った。ブッカーT&The MGsにちなんでいた―アーサー・リー&ジ・LAグループってことだった」

1963年半ば、リーとエコールズはレコーディングを行ない、アーサー・リー・アンド・LAGsとして唯一のシングルをリリースした―印象に残らないその2曲のインストゥルメンタルが、“The Ninth Wave”と“Rumble-Still-Skins”だ。「当時の僕たちはオファーされればほとんど誰とでも契約を交わしていた」 エコールズはいう。「僕たちはブッキングされればどこでもプレイした。ザ・コースターズやブッカーT & The MGsみたいなグループや、その他何でもブッキングするエージェントがいた。たぶん彼は誰も違いなんてわからないだろうと考えていたと思う。それで彼は適当に若いグループたちをブッキングして、何とかと名付けて、優等生パーティーに送り込んでいた。学生たちはたぶんすごく酔っ払っていたから、そこにいたのが誰なのかわからなかっただろう。僕たちは別バンドを名乗ったりして、コーラス・グループのバッキングをやったりしていた」

1964年までに、リーとエコールズは別のレーベルと、別のグループ名を見つけていた。「‘ジ・アメリカン・フォー’は僕、ジョン・フレック(旧姓フレッケンスタイン)、アーサー、そしてジョン・ヤコブソンだった。ヤコブソンは短期間ドラムを叩いたんだ」 エコールズは回想する。「その時にモンテベロに出たんだ。それから僕たちがハリウッドに戻ってきた時に彼は大学に戻ることにして、代わりにドン・コンカが入った」 アメリカン・フォーとしての彼ら唯一のシングルはセルマ・レーベルからリリースされた。両面(“Luci Bains”とインストゥルメンタルの“Soul Food”)とも最初のシングルよりもはるかにすぐれ、のちに彼らがラヴとしてレコーディングした作品に、より近いスタイルになっていた。

そのシングルは町の話題とはならなかったが、グループはこつこつと活動を続け、手に入ったオファーなら何でも受け入れ、1回限りのコマーシャル・ソングである“It’s The Marlin Baby”でさえレコーディングした。「僕たちはそいつのためにコマーシャルをやっていたんだ」 エコールズは詳しく説明する。「‘Marlin’っていう車のことだ。そいつがこれをシングルとして再リリースした時に、僕たちは人気が出始めたんだと思うけど、その車が丘を走っているバックに流れる単なるコマーシャルだった。僕は全く魅力を感じなかったな」

1965年に入って、ついにリーとエコールズは単に取り組むだけでなく、音楽的にもスタイル的にも彼ら自身として採択し適合させることができるものを見つけ出した。驚いたことに、それは元アコースティック・フォーク及びブルーグラスのミュージシャンたちで、今はエレクトリックに転向した、‘バーズ’と名乗る5人編成のバンドだった。「僕たちはハリウッドにやってきて、‘Ciro’s’でバーズを見たんだけど、彼らも全体のシーンもクールだったね」 エコールズはいう。「あまり密接なつながりのない人々のグループ一団がいたんだけど、LAタイムズがそれに‘シャーウッド・フォレスト’(Sherwood Forest)という名前をつけた。その群衆はヴィト(Vito)に率いられていた。彼は彫刻家で、国際連合の仕事を請け負っていて、とてもよく知られていた。ダリとピカソの友人で、その一群を率いていて、みんなすごく奇妙なかっこうをしていた。シナリオ作家とか俳優たちで、いわばジャック・ケルアックのビートニクだった―その最後の世代だ」

しだいにそのイメージと、シャーウッド・フォレスト団の支持を手に入れ、バーズに影響を受けた自分たちのハイブリッド・サウンドを創り上げつつあった彼らは、再び新しいグループ名をつけた。「僕たちはマルコムXのアルバムを見ていて、偶然‘グラス・ルーツ’という名を見つけた。それでそれをいただくことにしたんだ。僕たちはBrave New World(クラブ名か?)でプレイしようと思って、それが僕たちの新たな名前になった」

この段階で、グラス・ルーツは自らを変容させようと望んだだけでなく、彼らの潜在的なオーディエンスも変えようと思っていた。「LAのフェアファクス近くのメルローズ通りにゲイ・バーがあった」 エコールズはいう。「まさにそこだった。男(アラン)が僕に、‘俺たちはこのクラブを同性愛者向けじゃなくてストレート(ホモでない)なクラブにしようと思ってるんだ。心配するな。君たちがここにくればストレートになるよ’といっていた。僕たちが最初にそこに着いた時は野郎共しかいなかった。僕は‘なんてこった。ここでプレイなんかしたくないよ’といった。それで僕たちは二晩だけやって、今にも解散しそうだったんだけど、たしかにアランは約束を守って、そこにやってくる女の子を何人か捕まえた。彼は僕たちを雇ったのは、僕たちがアメリカン・フォーとしてかなり大きな支持を集めるようになっていたからだといって励ました。しばらくすると、ゲイとストレートが五分五分くらいになって、やがてストレートの人々がゲイの数を上回るようになった。防火責任者がやってくるようになって店を閉鎖しようとした時―その時までに僕たちはとても多くの人々を集めていたから―アランは妙案を思いついて、ゲートの上に布のマットを置いた。店のすぐ隣には外のフェンスをへだてて駐車場があった。彼はそのフェンスの周りにマットを敷いて、2つの巨大なVoice of the Theatreのスピーカーを載せた。そして入場料を取って、基本的にゲイたちは外へ行って踊り、ストレートの人たちは中で踊った。その時には僕たちのお客は3倍に膨れ上がっていた」

この段階で、グラス・ルーツのラインナップは、アーサー・リー(ヴォーカル、ハープ、時にギターとオルガン)、ジョニー・エコールズ(リード・ギター及びヴォーカル)、ジョン・フレック(ベース)、そしてドン・コンカ(ドラムス)で成り立っていた。ラインナップをふくらませるために(あるいはバーズのそれとさらに張り合うために)、特別のギグではセカンド・ギタリストが加えられた。「ボビー・ボーソレーユは短期間グループにいた」 のちに不幸をもたらすことになるチャールズ・マンソン・ファミリーの一員となってしまった時のことをエコールズは思い出す。「彼はとてもすばらしいギタリストだった。僕はよく、もし状況が違っていたら、もし僕たちがボビーの居場所を見つけていたら、もしマンソン事件がそれまでに起こっていたらと考えることがある。なぜならボビーはあのファミリーとしてお客の9割を連れてきていたし、彼が最初にチャールズ・マンソンと会ったから。彼は基本的にはただのナイーヴな少年だったし、あんな犯罪人じゃなかったんだ。彼はあの悪人に夢中になってしまった…」

ボーソレーユの代わりに、グループはブライアン・マクリーンという、もう1人のその筋の人物を選んだ。ボーソレーユとは違い―当時のニックネームは彼が経験したLSDのバッド・トリップから、バマー(Bummer)・ボビーと名付けられていた―マクリーンの血筋はきわめて貴重だった。彼はバーズのメンバーと親友だったし(ごく初期のグループのツアーでローディーを務めていた)、裕福な育ちで、何よりもまずアーティスティックだった。結局、彼はバンドのラインナップを完成させただけでなく、グループにマジカルな無形のクオリティを加えることになった。にもかかわらず、マクリーン加入の裏にあった最初の動機は、クールなビジネス・センスに過ぎなかった。

「僕たちはベン・フランクのレストランによく行っていた。そこはライヴのあと、バーズがファンに囲まれる場所だった」 エコールズは説明する。「彼らはその店に専用の大きなテーブルを確保していて、みんなやってきてはメンバーやスタッフの周りでぶらぶらしていた。ともかく、僕たちはそうやってブライアンと出会った―ベン・フランクの店でね。ある日、彼は僕たちに、自分はギターをプレイしていて、Brave New Worldにやってきたんだといった。そして僕たちと何回か同席して話に熱中した」

「僕たちはブライアンをギタリストとして加えれば、人気が出るぞと考えたんだ。基本的にはそれがブライアンを雇った理由だったし、シャーウッド・フォレスト一団の人々は僕たちについてきたから。彼らはバーズの支持者でもあった。のちに彼らはフランク・ザッパに乗り換えたんだけど、思うに僕らがあまりにコマーシャルになりすぎたか、人気が出すぎたからだろう。彼らは片隅にいることを好んでいたみたいだ」

今や固定メンバーと確固たる支持を手に入れたバンドは、自らの新しい音楽を記録する行動を起こし始めていた。「僕たちはいく人か違うメンバーでデモを作っていたんだ」 エコールズはいう。「実をいえば、僕たちはジェリー・ホプキンズという男といっしょに、ラヴのファースト・アルバムよりもずっといいヴァージョンを録っていた。彼は‘君たちといっしょにデモを作って、いい売り込み先がないか探したいんだ’といった。それで僕たちはやったんだ。結局彼は作家になった(エルヴィスとドアーズの伝記を書いた)。その時までに、僕たちはBrave New Worldから移動して、Bido Lito’sにやってきた。Bido Lito’sっていう名前は、つまりBill, Dorothy, Linda, そしてTommyをつなげたものだった」

1965年の夏までに、ホプキンズは利害関係者となっていただけでなく、グラス・ルーツは多くのレコーディング・オファーを受けるようになっていた。このうちの1つがグループを永遠に変えることになった。「ある日、僕たちがBrave New Worldで休んでいると、プロデューサーのルー・アドラーがやってきて、グループの契約について話したんだ」 エコールズは回想する。「僕は‘ちょっと待って。僕たちはオファーを2つもらってるから、僕たちのマネージャーに連絡をとって彼に話してくれるかい?’といった。僕がそう考えたのは全く普通のことだった。でも彼はそのことばを悪くとってしまった。彼はすごく酔っ払っていて、このひよっこに自分が大物だってことを思い知らせようとした。それで彼は一席ぶったんだ。いいかい?彼はこうきたんだ―‘オレはクソどえらいスター仕掛け人で、一体お前たちは何の分際でそうやってオレを排除できるんだ?!’ってね。彼はわめき散らして、僕たちに‘お前たちはまだ無名だし、オカマ・バーにいるだけじゃないか!’といった。彼は本当に際限なくしゃべり続けた。それで僕たちは彼をブッ飛ばすかなんかして、その場を去ったんだ」

「1ヶ月ほどたって、僕たちの知っているある女が‘今日ラジオであなたたちのレコード“Mr. Jones”を聞いたわ’といった。僕たちが何だそれ?というと、彼女は‘イエー、ラジオでグラス・ルーツを聞いたのよ’といった。僕たちは何も知らなかった。あとで僕たちが知ったのは、ルー・アドラーが“Mr. Jones”をやるスタジオ・グループをでっち上げていたってことだった。彼らはみなスタジオ・ミュージシャンだった。僕たちはその時までに、グラス・ルーツとしてロサンジェルスで巨大な支持を受けていた。つまり大きな支持を受けりゃ、人々はみなそのレコードを買いに走って、それはキャッシュ・ボックスを急上昇するってことだ。その頃はたった1つ、‘Wallich’s Music City’っていう店があって、みんながそのレコードを買いにそこへ行ったんだ」

「奴は見かけほど無謀じゃなかった。奴は僕たちにいらいらして、まんまとやり通せると考えて僕らの名前を使った。それから人々がそのバンドのことを、Brave New Worldでプレイしているローカル・グループと考えてレコードを買うだろうと予測して、彼らを送り込んだんだ。そして実際そうなった」

「僕たちはある弁護士に話をした。そしてこの‘かわいそうな男たち’の登録証明書を手に入れた。今でも僕の母親のうちのどこかにあると思う。そこから自分で書留書簡を自分に送って、その名前が僕たちのものだってことを証明したんだ。それが僕たちのやったことだ。みんな僕たちをグラス・ルーツとして認識した。そうやって僕たちは優先権を獲得した。だからたぶん僕たちは勝ったはずなんだけど、それにはたくさんの金と法的な時間がかかるんだ。それで僕たちは自分たちの名前を変えたいと思うようになった。どちらにしろ、僕たちはGrass Rootsって名前がちょっとドラッグを連想しやすいし、そういうふうに聞こえてしまうと考えていた。僕たちはそれを口実として使っていただけだった」

僕たちは(Bido Lito’sで)オーディエンスに向けて、自分たちがある選択をしようとしていると公表した。うん、いろいろあったんだ―Summer’s Children, the Asylum Choir, Dr. Strangelove, Poetic Justice, The Love あるいは単にLoveとか。僕たちはオーディエンスに決めてもらうことにして、Loveが圧倒的に人気があった。その名はありふれていて何の問題もなかった。‘The’ Loveじゃないよ、The Loveと単なるLoveのどっちにするかで決めたわけだから。彼らは絶対的にLoveを推した。その時から僕たちはLoveになった」

不幸にも、これだけがグループが耐え続けなければならない変化ではなかった。1965年暮れ、彼らのラインナップは2度変わった。「映画撮影技師のジョン・フィンガーと彼の父親は、ジョン・フレッケンスタインの家族と友人同士で、その家族は彼に提案させたんだ」 エコールズは説明する。「フィンガーは自分の見習いにならないかとジョンを誘って、それでジョン・フレッケンスタインはそのためにグループを去るいい機会だと考えた。僕たちには何人かのベース・プレーヤーがいた。ダグという名の男がいた―彼のラスト・ネームは覚えてないけど、しばらくの間プレイしていた。それからついにケニーに落ち着いた」

ケン・フォーシはサーフ・バンドのサーファリズの後期メンバーとして一定期間在籍したのち、ラヴのパーマネントなベース・プレーヤーとなった。彼のがっしりとしたメロディックなスタイルは、ラヴのサウンドの土台となった。しかしながら、1965年後半のラヴのリズム・セクションは、そのすぐれた能力を地元のシーンに見せつけるすばらしい夜をほとんど提供することはなかった。バンドのドラマー、ドン・コンカはギグをこなすにはドラッグを消費しすぎるようになっていた。

「彼はドラッグにハマっていたから、僕たちは彼のために部屋を借りて、彼にドラムを買ってやったんだけど、彼はそれを売り払ってしまった。(おまけに)ドン・コンカはモンキーズのオーディションを受けていた。彼は全てのオーディションにパスしていた。彼は2次面接まで進んでいて、それからバンドを去って行ったと思う」 コンカにとっては悲しいことに、モンキーズのギグは実体化したことはなく、彼のドラッグ問題はさらに深刻になる一方だった。当時の解決法として、ラヴはケン・フォーシの同居者アルバン‘スヌーピー’フィスタラーに協力を求めた。

「スヌーピーは不規則な参加だった」 エコールズはいう。「スヌーピーはケニーのルームメイトで、コンカがつかまらないか、プレイか何かをするにはハイになりすぎている時に断続的にドラムを叩いていた。スヌーピーは実際すばらしいドラマーだと思ったけど、彼はちょっと見かけが違っていたんだ。彼はグループの他のメンバーほど‘ヒップ’じゃ全くなかった。だから彼は部外者みたいな感じだった」 にもかかわらず、コンカがバンドに戻ることはなく、スヌーピーがバンドのパーマネントなメンバーとなった―それは65年の冬にBido Lito’sで行なわれたギグで、ジャック・ホルツマン(独立レーベルのエレクトラ・レコードの創設者)がバンドをチェックしにやってきた時だった。

「私はバンドを探していた。私は(それまで)ロック・バンドと契約することができないでいた―シングル・レコードで業績を残したことがなかったからね」 ホルツマンはいう。「私はラヴィン・スプーンフルと契約するのに手間取っていたが、このバンドなら契約を交わせると思った。ニューヨークは他のレコード会社によってすみずみまでバンドが発掘されていたが、LAはニューヨークよりも手つかずだったし、私にとっては将来性があったんだ。それで私はできるだけ早くLAに乗り込もうと決めた」

「(ラヴは)アル・シュレシンジャーに紹介された。彼はかなりラビ風の男で、私に自分のほしいものをいって、私は‘イエス’と答えた。それが5,000ドルと5パーセントの手数料だったが、全く簡単なことだった。しかし彼はそれを現金でほしがったから、私たちは銀行で会った」 容易に想像できるように、アーサー・リーがその金の一部を中古車に使い、バンドの他のメンバーの面目をつぶした時、事態はより複雑になっていった。今度はバンドが、問題が片付くまでプレイすることを拒んだ。バンドの‘金’の問題はこれが最後ではなかった。

1966年1月24日午後7時、ラヴは初の公式なエレクトラのレコーディング・セッションのために、サンセット・サウンド・レコーダーズに入った(唯一参加しなかったメンバーがスヌーピーだった。この最初の日、彼のドラム・ストゥールにはアーサー・リーが座った)。レコーディングはアーサー・リーとブライアン・マクリーン共作のシンプルなラヴ・ソング、“And More”で始まった。ヴォーカルはリー、マクリーン、そしてエコールズがとった。「“And More”はみんなで書いたんだ」 エコールズはコメントする。「全員のライター・クレジットが入っているのかどうかはわからない。音楽をプレイしたってことが一番重要だった。みんなが歌を持ち寄って、みんなでアイデアを加えたんだ。だから基本的に全員で作った曲だった」

次にとりあげられたのが、グループの古いナンバー、“Can’t Explain”で、たしかにローリング・ストーンズに負ったところがあった。「もともとは“What A Shame”って曲だったんだけど、スタジオでタイトルを変えたんだ」 エコールズは認める。「(ジョン・フレッケンスタインに)‘ローリング・ストーンズに“What A Shame”って曲があるだろ?’っていわれたが僕は知らなかった。それで僕たちはそのタイトルは使えないと判断した。スタジオにいる時に、その場で僕たちは“Can’t Explain”に歌詞をつけたんだ」

セッションで次にとりかかったのは、全くのオリジナルである“No Matter What You Do”で、エコールズによるユニークなダブル・ネックのギブソン・ギターのグレイトなソロをフィーチャーしていた―ダブル・ネックの上側がエレクトリックの8弦マンドリンになったギターだ。「僕がその曲でソロを弾いた。実際これはバンド全員で取り組んだんだ。アーサーがいくつか歌詞をつけて歌い始めて、僕たちがメロディをつけていった」

セッションの最後が抒情的で風変わりな“Gazing”で、‘珍しい存在だった白黒混血児の心境’で鏡をのぞき込む主人公をフィーチャーしている。「あれは基本的にボツだったんだ」 エコールズはいう。「僕たちはあれこれとジャムをしている時にあの歌を作った。だからこれも全員の共作だったけど、歌詞は全てアーサーが書いた。もし誰かが歌詞に貢献すれば、アーサーはその人をソングライターとしてみなしていたと思う。でもそれがメロディに対しての貢献だったら、彼は歌詞ほど重要なことをしたとは思わなかっただろう。それが彼の中での基本的な考え方だったと思う」

次の日である1966年1月25日、スヌーピーを含めたラヴは2〜3時間セッションのために、サンセット・サウンド・レコーダーズに戻ってきた。全体的に、バンドはパフォーマンスの向上に時間を費やし、ドラミングは最後まで驚くほどタイトになっている。その日の午後最初にレコーディングされたのが、“Colored Balls Falling”だった。「基本的にはぶらぶらしながらマリファナを吸ってトリップしてジャム・セッションをやったんだ」 その歌のインスピレーションについてエコールズはいう。「トリップ・ソングみたいなものだった。あまりはっきりとした構造にはなっていない。僕たちが次のアルバム『Da Capo』でやることになった曲の多くは、もっと早くから取り組んでいた。僕たちはあの特殊なアルバムとは離れたところで、一定量たくわえるためにあの楽曲群をキープしようとしていた。そのうちのいくつかは即席で書いたやつで、ファースト・アルバムに収録した―まあ、“埋め曲”みたいなものだった」

次にレコーディングされたのが“You I’ll Be Following”で、その天国のようなグループのハーモニーによって、ファースト・アルバムのハイライトの1つとなった。歌詞は究極のハイ状態を追求したもので、最終的にはサンフランシスコで冷蔵庫のうしろに隠してあった靴箱の麻薬の発見につながってしまった。「基本的にはドラッグ・ソングだが、厳密にはアンチ・ドラッグ・ソングなんだ。でも何よりもまずドラッグ・ソングだね」 エコールズはいう。「アーサーは“You I’ll Be Following”を神についての歌だと主張するがナンセンスだ。当時アーサーは神のことなんて何も知っちゃいなかった。一方で‘これを探そうと思う’といいながら、他方でそれを手に入れると彼は全く好きになれなかったりする。基本的には精神分裂気味な語法を使ったタイプの歌だ。いわゆるダブル・ミーニングの曲で、僕たちはそういうのをたくさん作った。ディランとかドノヴァンや他の人たちはそういうダブル・ミーニングの歌を歌っていて、知的な感じだった。これはそういうタイプの歌の1つだとみなされると思う」

セカンド・セッションはラヴの紛れもないクラシックである“My Little Red Book”をもって終えた。「あれはハル・デヴィッドとバート・バカラックの作品だ」 エコールズはいう。「僕たちはチャイニーズ・シアターで『What’s New Pussycat(何かいいことないか子猫チャン)』を観てあの歌を好きになった。僕たちはあれをラジオで聞いたことはなかったから、基本的に僕は記憶だけでプレイしていた。結局、あの歌はマイナー・キーになった。僕はプレイした時、どんな曲だか覚えちゃいなかったけど、マイナー・キーを使ったんだ。バート・バカラックのオリジナルとは全く違う。だから彼は僕たちのヴァージョンが大嫌いだったと思う。僕たちは毎晩あの曲をプレイして、人々は好きになったようだった」 最終的にこれはラヴのファースト・シングルとなり、1966年4月に52位に達し、彼ら初の全国チャート入りとなった。

「ラジオのトップ40で初めて“My Little Red Book”を聞いた時のことは今でもはっきりと覚えている」 ジャック・ホルツマンは回想する。「現実になっていた。私はそれまで15年間、トップ40のラジオのことなど考えずにレコードをプロデュースしていた。自分のフォークのバックグラウンドを考えれば、トップ40でかかるレコードを期待するなんて断じて思いもよらなかったんだ。それから突然これをトップ40ラジオで聞いて、私は涙が出るほど感動した。それは私に可能性というものを教えてくれた。エレクトラみたいなヘンテコな会社でさえ、ものがよければトップ40でかけてもらえるんだってね。私たちは最も大切なことを学ばなければならなかったんだ」

ラヴのデビュー・アルバムのためにもう1日フルにレコーディングに費やしたのが、1966年1月26日に始まったセッションだ。このセッションは最も生産性の高いものとなった。しかしながら、最初にレコーディングされた“Virginia-Get Me Straight”(最初はマスター・テープに単に“New Song”と書いたラベルが貼ってあったが、のちに“No. Fourteen”と名付けられた)は、アルバムの構成曲とはならなかった。「ブライアンとアーサーがあの歌を作った」 エコールズはいう。「これも僕たちがアーサーの(マリファナによる)ハイな状態につき合って作った1曲だった。僕たちはフォークっぽいものをやり始めた。僕はここでもってこいのハープをプレイした。基本的には何の意味もないばかげたフォーク・ソングだった。全体でたくさんの曲があったが、そのほとんどはもう覚えていない。もし僕たちが完成させていればたぶんそれぞれが本当にすばらしい曲になっただろうけど、僕たちは部分的に採用して作った」

次にレコーディングされたのが、伝えられるところによれば、ラヴがエレクトラとの契約を勝ちとったトラックだった。どうやらジャック・ホルツマンがバンドのライヴで最初に聞いたのが、彼らの演奏する“Hey Joe”だったらしい。彼はその場でバンドと契約したいと思うほど、すぐに感銘を受けてしまった。もともとは“Hey Joe”がレーベルにとってのラヴのデビュー・シングルとなるはずだったが、ある運命がじゃまをした。「ブライアンがバーズからグループにもち込んだんだけど、僕たちの友人だったリーヴス(バンド)の連中がその歌の歌詞を僕に尋ねたんだ」 エコールズは明かす。「僕は彼らに明日、歌詞をわたすよといった。それから僕は全く違う歌詞をつけた。彼らのレコードで聞ける歌詞は僕が書いたやつで、オリジナルの“Hey Joe”とは何の関係もないんだ。オリジナルの方の歌詞は、‘Hey Joe, where you going with that money in your hand…I’m going downtown to buy me a blue steel 44, when I catch up with that woman, she won’t be running no more’で、‘Hey Joe, where you going with that gun in your hand’なんて歌ってはいない。僕らがリリースする前に、彼らが僕らの歌をカヴァーしようとしていたのを僕は知っていたから、僕は歌詞を変えたんだ。僕がリーヴスを利用した汚い策略みたいなもので、その歌詞が結局一般的になった。僕たちはあれを自分たちのファースト・シングルとしてリリースしようと計画していたんだけど、彼らが僕らをカヴァーして先にリリースしたんだ」

間違いなく、この時点でのアーサー・リーの最も印象深い作品が、ブルージーでどきっとするような“Signed D.C.”だろう。前ドラマーのドン・コンカにインスパイアされたその歌は手紙の形をとり、ドラッグ中毒の苦悩で埋め尽くされている。「アーサーはドン・コンカを堕落した人間として見ていた」 エコールズは回想する。「彼はとてもファンタスティックなドラマーだった。僕たちがドンを雇った時、彼には何10人もの支持者がいた。僕たちは彼がセレブみたいな立場から、ドラッグへと堕ちていくのを見ていた。彼はその時スピード(ドラッグ名)にハマっていた。僕らがザ・コロニアル・ウェストっていうところにいた時、アーサーはひどくいらいらしていた。僕ら全員が住んでいたのはモーテルみたいなところで、アーサーはそこでこの詞をつけた。彼は小さなキーボード・タイプのワーリッツァ・オルガンをもっていて、それで曲を作っていた。僕はそれをギターのコードに置き換えて、ほとんど“House Of The Rising Sun(朝日のあたる家)”みたいになったんだ。これはちょっとした名作になったね。全くスタジオの中にいるように感じる曲だった。他に言いようがない。つまりそれが全てを語っていた」(またこのCDにはボーナス・トラックとして、“Signed D.C.”の全く簡素なテイク3が収録された)

このセッションでは“Mushroom Clouds”の新ヴァージョンも録音された。これはもう1つの過小評価された忘れられないアコースティック・ナンバーであり、エレクトラのデモ以前のグラス・ルーツ時代にレコーディングされていた。「僕たちがラヴになる前に書いていた歌だ」 エコールズはいう。「アーサーと僕はあの歌をプロテスト・ソングとしてプレイしていた。僕らがプレイした中で、いつも僕のお気に入りの1曲だった。なぜかっていうと、人々がかかわる話として可能性を秘めていると思っていたから。戦争と子供たちについてのすごくヒューマンなストーリーだ。僕たちはこういうことをヒロシマから学んでいた。アーサーと僕は彼の母親の家でテレビを見ていたんだけど、人々の影が壁に焼きついていた。僕たちは2人とも動揺してしまった。なぜなら僕たちは毎日をあの戦争ヒステリーの中で過ごして成長していったから―核兵器のことだ。学校の窓には全てに黒カーテンがかかっていた。子供の時期に核兵器の大惨事に巻き込まれて死ぬことを恐れるなんてね… ジェリー・ホプキンズがレコーディングした“Mushroom Clouds”のオリジナル・ヴァージョンが正しい歌詞だ。‘困らせないでほしい―僕は自由になりたいだけ’とアーサーが歌うヴァースがある。あれは採用されないはずだった。僕の詞は‘父さん 僕たちに教えてくれ 毎日あなたと並んで歩く道を’だった。のちにジャック・ホルツマンが、あれは宗教的すぎるから取り除いてほしかったといっていた。アーサーはあれを‘困らせないでほしい’と変えた。そう、アーサーは天才的な作詞家だけど、実際それ以上にものすごいことができたんだ」

その日のレコーディングはバンドにとって初のブライアン・マクリーンの単独作“Softly To Me”をもって終えた。マクリーンのソングライティングはラヴの攻撃的なスタイルに、ソフトな対照的要素を提供していた。「彼はとても楽天的なタイプのソングライターだったね」 エコールズは愛情をこめていう。「ブロードウェイ・ショーの曲やレナード・バーンスタインやそういう感じのやつだ。彼の母親の影響が強いと思う。彼はフォーク・ソングとか甘くて優美なやつ、チョコレートで包んだアイスクリームみたいな感じのものに夢中になっていたような気がする。そういうのが彼の人生観だった―バラ色の展望をもってね。彼はそういう風に音楽をやっていたし、それがソフトな資質を加えていたからグレイトだったんだと思う。初期の僕らはもっとハードなロッカーだった。だからブライアンの影響は大きかったね」

1966年1月27日の2〜3時間セッションで、グループはファースト・アルバムのレコーディングを完了した。この日のレコーディングはバンドのファースト・シングルのB面となった“A Message To Pretty”を含んでいた。「アーサーにはアニタ・ビリングズっていうガールフレンドがいて、彼は彼女に‘プリティ’っていうニックネームをつけていた」 エコールズはいう。「これは彼が完全に1人で書いたうちの1曲だった。彼はギタリストでは全くなくて、オルガン・プレーヤーだったんだ。僕は時々、彼の指を見て彼のやろうとしていることを理解して、それをコードに置き換えたり、詞にメロディをつけたりしていた。これは彼が実際にオルガンでコードをつけて、それから僕たちがギターに置き換えたんだと思う」

明らかに“Hey Joe”の模倣である“My Flash On You”(のちのできごとを考えればいくらか皮肉ではあるが)は、ドラッグをテーマに独特な詞的スタンスをとっている。「あれは人々がドラッグに手を出さないためのアンチ・ドラッグ・ソングだった」 アーサー・リーはかつてそういった。「君をパッと思い出す 君はそんな風に見える トリップしているみたいだ ‘あいつを見たかい?’‘ああ パッと奴のことが浮かぶんだ’―ただそれだけのことなんだ」

アルバムの締めくくりに、ラヴはエコールズ作の60年代初頭のサーフ・インストゥルメンタル、“Emotions”をレコーディングした。これはのちに映画『ミディアム・クール』の中で冷えびえとしたシーンで使用されることになった―その映画に出てくる、シカゴでの1968年の民主党大会の一場面に挿入された。「僕はあれをハイ・スクール時代に書いていた。ディック・デイル・アンド・ザ・デルトーンズみたいなタイプのサーフ・ミュージックをやっていたグループで、僕がアーサーといっしょにプレイしていたやつだ。僕はたくさんのインストゥルメンタルをやっていて、これはその時期からの1曲だ。僕たちは‘埋め曲’としてもう1曲必要になったから、それをアルバムに加えたんだ」

アルバム制作を完了するために残った唯一の仕事が、レコード・ジャケットのデザインと製作だった。北米で生産された1966年以前のほとんどのレコードは、厚紙を使った白黒の裏ジャケが貼り合わされていた。ロックのレコードで初めて、ラヴのデビュー・アルバムは1枚の厚紙で印刷され、そこには表と裏に2枚のバンドのフル・カラー写真がフィーチャーされていた―彼らの伝説的な共同生活場所である‘The Castle’での撮影だ。「ある男がいて、彼がザ・キャッスルっていう家をもっているといった」 エコールズはいう。「実際それは巨大な屋敷だったんだけど、とにかく彼は‘城’と呼んでいた。彼は‘基本的に税金と維持費だけ払ってくれれば、好きなだけ住んでいいよ’といった。それで僕たちはそうしたんだ。僕たちは全員引っ越してきた。アパートを借りるより安かったからすばらしい取引だった。たぶんその頃がグループにとって一番幸せな時期だったと思う―毎日顔を合わせて、いっしょにぶらぶらしたりどこかへ出かけたり、曲もいっしょに書いていたから。全てが共同作業だったから、僕たちはまさに1つの‘グループ’だった。そういう状況が続いていれば、僕たちはおそらくグループを維持していたと思う」

21時間―ちょうど4日間でレコーディングを終えたアルバム『Love』は、ついに1966年半ばにリリースされた。歴史的に見れば、そのアルバムのリリースはエレクトラによるロック・アルバム時代の幕明けとなった。「あのバンドはとてつもない才能をもっていたと思う」 ホルツマンは結論づける。「スタジオでこういうアルバムを作るのはゾクゾクする体験だった。私はあれがあらゆるものの先駆だとわかっていた。私たちは本当に慎重だったし、自分たちのやっていることが好きだった。私はこれがあとになって、ものすごい研究のテーマになるなんて考えていなかった。もしそれがわかっていたら、たぶん私は慎重になりすぎていたと思う。どのトラックでスヌーピーが飲んだり薬をやっていたかを私が覚えていないもんだから、人々はうろたえてしまうんだ!もし私がジャズの記録保管人だったら、全て書き留めていただろうね」

モノとステレオ・ミックスについての覚書

このリイシューは1966年のオリジナルのモノとステレオ・ミックス両方を収録している。当時はレコード・プレーヤーとラジオのオンエア両方にマーケットがあったため、どちらも作られ、別々にリリースされた。熱心なリスナーは2つのミックスの間にかなりの違いがあることに気づくだろう。「私はいつもステレオの方を好んでいた」 ホルツマンはコメントしている。「1966年までに、私たちはステレオ・ミックスのことを知っていた。私はそれが表現の幅をより大きくすると考えていたが、まだほとんどの人がモノを聞くことも知っていた。スタジオで私たちはいつもモノ・ミックスに切り替えてチェックしていた」 ここにはあなたの個人的見解と同意のために両方のミックスが含まれている。

アンドリュー・サンドヴァル

ブライアン・マクリーンケン・フォーシの思い出に捧げる



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