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Lazy Farmer/Lazy Farmer/2005 sunbeam records SBRCD5005



1973年までに、60年代ブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルの栄光は消えかかっていた。それを埋め合わせるかのように、ヨーロッパ本土がシーンを引き継いでいた。英国フォークのアーティストたちは、ヨーロッパでの活動が増えていた。とりわけドイツでは伝説のシンガー/ギタリスト、ウィズ・ジョーンズが自身のブランド―フォーク、ブルース、オリジナル作品―を確立させていた。

ウィズは1961年パリでバスキング(即興演奏)中、妻となるサンディと出会い、彼女に5弦バンジョーを始めるよう説得した(”前の彼女にも勧めたんだけど今度はうまくいったよ!”)。そして彼らは南フランス、モロッコへとヒッチハイクで旅に出た。イングランドに戻るとサンディは子供たちの養育に専念し、ウィズのフォーク・シーンでの成功をサポートするため、配達軽トラックのドライバーとして働いた。この頃の彼女は、バンジョーを弾く時間がほとんどなかったらしい。ジョン・バークスのクローハマー・スタイル(親指とその他の指を下方にかき鳴らすバンジョー・スタイル)のバンジョーの手引書、‘Old Time Fiddle Tunes For Banjo’によって、彼女が熱意を再び持つ以前の70年代初頭のことである。ジョーンズの姿勢は、いつでもあらゆるミュージシャンに対してオープンであった。

かつての同居人だった‘リトル’ジョン・ビッドウェルとジェイク・ウォルトンは、元々コーンウォールの出身で、しばしばジョーンズのもとを訪れるようになっていた。ジョンはその頃、COB(Clive's Original Band)を脱退していた。彼はそこでギター、バンジョー、ハーモニウム、ホイッスル、リコーダー、ダルシマーを担当していた。また彼はインクレディブル・ストリング・バンドの創立メンバー、クライヴ・パーマーと共に、独特なシタールの演奏スタイルを編み出していた。クライヴは1968年にコーンウォールに移り、2つのバンドを結成する前に、ザ・フェイマス・ジャグ・バンドと共にSunshine Possibilitiesを吹き込んでいた。2つのバンドとはジョン・ザ・ストックルーム・ファイヴ(オールドタイム・カントリーミュージックを演っていた)と、ザ・テンプル・クリーチャーズ(インド音楽をさらに難解にしたようなバンド)である。

2つとも公式のレコーディングはなく、コーンウォール以外での活動はしていなかった。しかしCOBはラルフ・マクテルのプロデュースにより、2枚の注目すべきアルバムを作っていた。1971年のSpirit Of Loveと、1972年のMoyshe McStiff and the Tartan Lancers of the Scared Heartである。COBが解散したため、ジョンは地元の中等学校で、ギターの講師をしていた。ジョンは以前管楽器を少しかじった事があったことから、フルートを手に入れプロになる決意をした。

一方ジェイクはレディング大学で心理学の修士号を取得した後、ジョン同様、中等学校でギターを教えていた。彼はドノヴァンに強く影響を受け、アパラチアン・ダルシマーとギターをたしなんでいた。コーンウォール・フォーク・シーンのことはよく知っていて、サンディ、ジョン、ジェイクはジャム・セッションをするようになっていった。”僕がドイツから戻ってきたら、サンディがジェイクとジョン・バークの本に載っている音楽を演奏してたんだ。”ウィズは言う。”僕はすでにフォークウェイズ(レーベル名)のアルバムを全部聴いて知っていて、バンジョー弾きのピート・スタンレーとブルーグラスを演っていたんだ。それがレイジー・ファーマーの元になったんだ。”ジェイクはバンドについて言う。”とても社交的なバンドだったね。ウィズのうちへ缶ビールを持って集まるんだ。”サンディも同意する。”楽しかったわ。みんなギグを演るつもりはなかったわね。”イギリスでのギグは主にコーンウォールに限られていた。ジョーンズ一家がいつも夏の間を過ごしていたところである。

1973年8月10日、コーンウォール、セインタイヴス、ギルドホールでのトリを務めたことにより奮起したサンディは、ロンドンのセシル・シャープ・ハウスに行き、トム・ペイリーから2回のバンジョーの講義を受けた。これが彼女が唯一受けた正統教育である。その後彼女とウィズは近所のパブで、セッションに参加した。”僕たちが中に入るとジューン・アップルの美しくて、はかないバンジョー・スタイルの演奏が聞こえてきたんだ。素晴らしくスウィングしてたね。”ウィズは回想する。そこには信頼できる若いミュージシャンがいて、名前をドン・コギングといった。彼はフォーク/カントリー・ミュージシャンのブライアン・チョーカーと活動していたが、すぐにレイジー・ファーマーの仲間として付き合うようになった。ウィズはしばらくの間ソロとして専念していた。

1973年10月、彼はWhen I Leave Berlinをレコーディングし、翌年春、ブリストルのヴィレッジ・シング・レーベルからリリースした。ゲストとしてバート・ヤンシュが参加し、アルバムはレイジー・ファーマーのデビュー作として注目すべき作品となった。サンディがバンジョー、ジョンがフルート、ジェイクがダルシマーとギターで、バンドとしては4曲で演奏している―ウディ・ガスリーのPastures of Plenty、ジェシ・ウィンチェスターのSkipping Song、トラディショナルのCluck Old Hen、そしてウィズのタイトル・トラックだ。ドンは2曲で演奏者としてクレジットされている。バンドの音としては、2つのバンジョーのけたたましいサウンドを想像するかもしれないが、彼らは自分たちの楽器を、月並みな使い方で演奏することは避けようと決めていた。

しかし彼らの目指す楽器の使い方は、問題を引き起こすことになった。とりわけダルシマーとバンジョーのチューニングが合わなかったことだ。”ギターとフルート、2本のバンジョーとダルシマーのチューニング全て合わせるのはほとんど不可能だったわ。ステージ中に狂うのよ。しょっちゅうね!”サンディは笑う。ウィズは几帳面にチューニングを合わせていたが(”無理なことだって悟ったよ!”)、それだけが悩みの種ではなかった。”僕は弦は絶対切らなかったよ。巻き弦を使っていたからね。”彼は説明する。”ある晩、ペンザンスのウィンターガーデンでのギグで、ジョンの吹くフルートのキーが僕のギターの弦に絡んじゃったんだ。僕らは曲の途中から悪戦苦闘を始めちゃってさ。おかげで本当は強く胸を打つような悲しいラヴソングだったのが、途中からコメディ・ソングに変わっちゃったよ。”

ある時はクラブのサービス係が彼らに、ギグは夜なのになぜ昼間に来るのかと尋ねた。”サウンドチェックのためだよ。”彼らは答えた。するとサービス係は、”必要ないよ。先週やったから。”と答えたそうだ。実際バンドは当時いくつかのギグを引き受けていた。そのときのメンツは1人だったり何人かだったりの変則形態だったようだ。パトニーのハーフ・ムーンでのあるギグでは、彼らはなぜか‘The Balham Banjo Band’としてポスターによって告知された。会場は口コミで集まってきた人でいっぱいになったのである。ある1人のオーディエンスは、ウィズのドイツでのマネージャーだったカールスタン・リンドだった。彼はその時たまたまウィズ、サンディと居合わせた。ギグに感動した彼は、即座にドイツEMI傘下のソング・バードとの契約の話を持ちかけ、アルバムの契約金を前払いした。

こうして1975年1月、彼らはコーン郊外の田園にあるスタジオに入った。カールスタン・プロデュースで、エンジニアは伝説の人物、コニー・プランクだった。彼らのレコーディングは、ありのままのクリーンでナチュラルなサウンドで録られた。多くのプロデューサーはベースやパーカッションを加えたりしていたが、レイジー・ファーマーはすでに確立されたサウンドを持っていた。2,3のオーヴァーダブ(John Lover's Goneなど)はあるが、いくつかのトラックではファースト・テイクをそのまま収めてあった。サンディはヴォーカルを重ねたが、ミックスの段階で彼らの粗野な部分を適度に残してある。彼女は右手の爪を折っていたため、あるナンバーではそのクリック音が聞き取れる。

アルバムはかなりの割合で(Lazy Farmer, The Cuckoo, John Lover's Gone)ジョン・バーク・ブックから選曲された。それらの楽曲は、バンドによってうまくアレンジされていた。”僕らは本の中のfiddle timingsにとにかく固執してたね。でも…”ジョンは回想する。”僕らが演奏するといつも思うんだけど、何か不思議な東洋っぽい雰囲気になったんだ。”彼らの仲間、ラルフ・マクテル作Standing Down In New York Townはマクテルが1971年10月、初のUSツアーに行った時にインスパイアされた曲である。一方Love Songは神秘的なアメリカのバンジョー・プレイヤー、デロ−ル・アダムスの曲である。彼は50年代末ロンドンに住んでいて(友人のランブリング・ジャック・エリオットと共に)、当時の若いフォーキーたちに強烈な印象を残して去った。アルバム最後を飾るウィズのWhen I Leave Berlinは、1972年復活祭で、最初にベルリンの壁が開放された時の短期間に刺激されて作られたものだ。

彼は、町が活気に溢れ、有能なミュージシャンが集まり、プレイしていた事をよく覚えている。しかしそこへ行くには、トラックの車輪の跡が深く残る荒れ果てた道しかなかった。”もし古いフォルクスワーゲンでも使って行くのなら、なんとか故障する前にたどり着きますようにって祈らなきゃならなかったね。”彼は言う。アルバム全体は優れて安定していて、滑らかで美しく録音されていた。そして思いがけない雰囲気の変化にもあふれた楽しさで一杯であった。”振り返ってみれば、”ジョンは思い起こす。”この音の感触の大半は、ジェイクとサンディのヴォーカル、ジェイクのダルシマー、それとドンと僕が後になって発展させて確立した、より生っぽいサウンドの滑らかさと、ローキーを多用するアプローチによって生まれた緊張感だと思うね。”

間違いなく一聴の価値ありの素晴らしいアルバム’Lazy Farmer’はしかし、ドイツのみのリリースでほとんど売れなかった。印象的な見開きジャケットに収められていたのであるが…。それでもくじけず、レイジー・ファーマーは1975年夏、過酷な30日間のドイツ・ツアーを行った。それにはいくつかの大きなフェスティバルも含まれていた。多くのギグは大成功に終わったものの、バンドは自分たちのPAを持たず、マイクさえなかった事もあった。時には彼らの音楽を全く理解しない、サウンド・エンジニアの無関心さにさらされることもあった。

”モニターなんてあったためしはなかったわ。”サンディは回想する。”他の誰かの音量が大き過ぎて、自分の音が聞こえなかったりするんだ。”ウィズは回想する。”楽器を責めることはできないけど、バンジョーってのはうまくいってる時も、チューニングを保つのが面倒な代物だね。悲しいかな時々めちゃくちゃになる事もあったね。”スケジュールは過酷であったが、何人かのメンバーは楽しんでもいたようだ。”何人かはギグの後の空き時間なんかに、例えばドンとジョンが遅くまで出かけていたおかげで、ホテルから締め出されて、何とかはしごを見つけて窓から入るんだけど、違う部屋だったりとかね。”

ツアーの後、サンディはイングランドに戻ることにした。”私たちがアルバムのレコーディングとプロモーションをしている間、ラルフとナナのマクテル夫妻がコーンウォールで子供の世話をしてくれてたの。もうツアーはできなかったし、親の務めがあるしね。”彼女は説明する。ウィズは付け加える。”全ていっしょに止めようと思ったよ。ヴァンを運転するのも、自分のコネクションを使ってギグをやるのもね。続けられたら素晴らしかったかもしれないけど、実際それは不可能だったんだ。”そういうわけでレイジー・ファーマーは尻すぼみに終わってしまったが、彼らは今も相変わらず友人同士である。

ウィズは今日でもフォーク・シーンで、活発な動きを見せている。一方サンデイとジョンは、しばらくは音楽から遠ざかっていた。ジェイクは世界を代表するハーディ・ガーディ奏者になった。しかしドンはドイツ南部のオーグズバーグで庭師として働いていたという情報を最後に、バンド仲間との連絡が取れていない。これは彼らが心残りに思っていることだ。レイジー・ファーマーは短命であったし、悩み多いバンドであったが、彼らの作ったアルバムは、歌に捧げられた熱狂、感性、愛情の遺言書であり永遠のものだ。この初の公式なCDリリースは、最初彼らを受け入れられなかったリスナーを、改めて獲得するに値するものである。

グレアム・フッド、2005年9月


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