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Laura Nyro/New York Tendaberry/2002 Sony Music Entertainment Inc. SICP 8052



“あなたは街のよう
でも私にとってあなたは宗教のよう”
―“New York Tendaberry”

ニューヨークは素晴らしく美しく、寛大で、矛盾に満ちた街だ。5つの自治区(マンハッタン、ブロンクス、ブルックリン、クイーンズ、スタテンアイランド)から成り、そこには人々、建造物、騒音がひしめき合っている。芸術、愛、そして犯罪;あらゆる人種、信条、主張が交錯する。ここで孤独を感じるのはたやすいことだ。それは驚くほどだ―小春日和に穏やかな日光を浴びたセントラル・パークにたたずむ、あるいは大雪の中の静けさに、屈強なタクシーが1台真っ白なブロードウェイをゆっくりと通り過ぎてゆく。ハングリーさや置き去り感を憶えるのはさらに容易なことだ―暮らしと人とのつながりに対する絶望感。そしてそこには様々な明かりがある。夜になるとビジネス・タワーと高層アパートからもれるチクチクと刺すような白とゴールドのモザイク;タイムズ・スクエアにたむろする観光客たち、詐欺師たち、警官たちにネオンの炎が浴びせられ;街灯の青白い光は夜の雨の中で濡れた舗道に反射する。

ローラ・ニーロはそういった光景全てを見てきた―彼女はNew York Tendaberryの制作に専念する中で、それを全て飲み干した。これは彼女が愛した街への歌の贈り物であり、アーチストとして最高の能力が発揮され、彼女のキャリアの中でも商業的成功を成し遂げたアルバムだ。彼女はマンハッタンのアッパー・ウェスト・サイド(セントラル・パーク西側)にある彼女の小さなアパートからイルミネーションに照らされた地平線の中を泳ぐことだってできた。ニーロはまたストリート・レヴェルの不安をスローモーションでたしなんできた。セッションの間の多くの夜を過ごすために、彼女は家とミッドタウンのコロムビア・レコーディング・スタジオの間を馬車で往復した。セントラル・パークを通って、おとぎ話が花開く場所へと向かって。

“ローラはすごく芝居好きだったよ。” Roy Haleeは懐かしく思い出す。“彼女は夜スタジオに来る時、きまって美しいガウンを着て現れた。毎晩彼女は夕食を持ち込んできて、僕らは隣のコンソール・ルームに座って、ろうそくの灯りで食べるんだ。すごくロマンチックだったね。”

しかしまたレコーディングはハードワークでもあった。“ローラは究極の完全主義者だった。” Haleeはいう。彼はニーロのエンジニアとして、そしてNew York Tendaberryの仮レコーディングからの共同プロデューサーとしてそこにいた。その仮レコーディングは1968年の秋に始まり、69年初頭までの間に最も実りある時期を迎えていた。5月には夏に向けてアルバムの困難な過程の中で、Jimmie Haskellの豪華なオーケストラが持ち込まれた。“僕たちはちょっとしくじってしまったんだ。” Haleeは認める。“こう言ったね。‘ローラ、僕は君の歌を全て愛しているし、君のことも愛してる。でも僕らはこのレコードを完成させなきゃならない’ってね。”

しかしローラにとって、New York Tendaberryは特別な子供だった。彼女は19歳の時にファースト・アルバムを作った―1966年のMore Than a New Discoveryだ。芽生えつつあったソウルと驚異的なソングライティングの華麗な作品集だった。ニーロの1968年のコロムビアからのデビュー作、Eli and the Thirteenth Confessionは、彼女の才能と野心を明確にし、シンガー、ピアニストとしてフルに開花したニーロの最初の姿を捉えていた。しかし同年、ザ・フィフス・ディメンションが2つのローラの曲でトップ20のヒットを放った―“Sweet Blindness”と“Stoned Soul Picnic”だ―一方でEli and the Thirteenth Confessionはかろうじてビルボードのトップ200に入っただけで、68年の秋に181位に達したに過ぎなかった。

ニーロに近しい者たちはNew York Tendaberryがいかに彼女にとって重要なアルバムかを知っていた。“彼女は何度も何度も僕にいったね。‘このレコードは私のハートとソウルよ。’ってね。” Haleeはいう。ニーロが1969年9月についにアルバムを発表した時、多くの友人たちが彼女の「誕生」を祝うカードを送った。

ローラ・ニグロ(Nigro)は1947年10月18日にブロンクスに生まれた。マンハッタンの音楽芸術学校に通い、地下鉄のホームで歌を磨き、プエルトリカンのドゥーワップ・グループで歌ってきた―ローラ・ニーロは徹頭徹尾ニューヨークの女だった。そしてNew York Tendaberryは彼女が生んだニューヨーク・ベイビーだった。

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1970年に出版された雑誌、ライフに載っていたニーロのプロフィールについて、ライターのMaggie Paleyは、ニーロはNew York Tendaberryを実際は二度制作したとリポートしている。“最初に彼女はバッキング・バンドと共にアルバムのほとんどの曲をレコーディングしたが、それらは全て破棄された。彼女は再び仕切り直しをしたが、今度は彼女のヴォーカルとピアノを正確に録音し、それに彼女がいうところの‘色’を加えていった・・・”

Halee―彼はセッションの中で重要な役割を担うためにやって来た。それはニーロがサイモン・アンド・ガーファンクルでの彼の仕事を称賛したからだ―はその成り行きを覚えてはいない。彼は最初から言っていた。“僕はローラとピアノだけを録るつもりだった。なぜなら彼女はグレイトなピアノ・プレイヤーだったし、誰も彼女のレコードでただ彼女が座ってプレイするところを掘り下げようとしなかったからだ。ドラムスも他の誰のことも忘れよう。ただ彼女とあのピアノを捉えればいい。そうすれば徹底的に自由になるはずだってね。”

“ローラはこの考え方がすごく好きだったね。なぜなら彼女は自分の好きなテンポで、自分のやりたいようにヴォーカルとピアノをあやつることができたから。” Haleeは笑う。“まあ、それでえらく時間を消費することになったんだけどね。”

1968年7月の初期の段階でビッグ・バンド・セッションが行なわれた。これはロサンゼルスのBones Howeによるプロデュースだった。AMラジオでのオンエアを企てた“Save the Country”は、神聖なる洗礼と世俗の義務への賛歌であり、ブラスと追い立てるような手拍子によって鼓舞されていた。これは10月にリリースされたがチャート入りは逃してしまった。しかしそのヴァージョンは魅力あふれるもので、今回ここに本編のヴァージョンと共にボーナス・トラックとしてフィーチャーされている。Tendaberryヴァージョンは倍の長さがあり、Haskellはこの上ない至福状態を作り上げた―オルガン、コンガ、そしてホーンの一団は最後に巨大な持続音を吹いている―曲の前半はニーロの歌とピアノのみで、ゆっくりと祈りが増大していき、速度が変わり、一つの旋律で疾走し始める。それはあたかも思考と喜びの中で我を忘れているかのようだ。

ニーロがピアノの前に座り歌う時のことをHaleeはいう。“普通の拍なんてなかったね。全てがテンポ・チェンジだった。彼女は感じるままにスピードを緩めたり速めたりする―これが僕が望んでいたことだった。でもあとからオーヴァーダブのためにミュージシャンが入った時はキツかったね。僕たちはニューヨーク最高のミュージシャンを連れてきた。でもあとで彼らのうちの一人が僕にいったことを覚えてるよ。‘なあ、二度とこんなことやらせるなよ’ってね。”

“私はいつも自分の中に狂気を持っていたわ。” ライフ誌の記事の中でニーロはMaggie Paleyに打ち明けている。前のアルバムでニーロは主張していた。“みんないつも私に何かに挑戦させることを怖がっていたわ。このアルバムでは最初誰も私がやったことが分からなかった。誰もね。” しかしニーロは主張する。“私は自分のしたことを分かっていたわ。”

Haleeによれば、ニーロは譜面の読み書きができなかったらしい。その代わり彼女は自身のことをHaleeやHaskellに説明するのに比喩を使っていた。それは彼女がイメージしたサウンドの‘色’だった。“彼女はこういうんだ。‘ここは少し明るい青が欲しい。その先はピンクね。’” Haskellはいう。彼は1969年5月初旬の狂乱の日々にNew York Tendaberryのためのオーケストラ・アレンジを書き指揮した。“僕は明るい青は中高音域の楽器をソフトにプレイすることだと解釈した。ピンクはその楽器を大きめにプレイする。彼女が白だといえば、それは最も大きく騒々しいサウンドだと考えたね。”

New York Tendaberryは全てが影と光であり、街の生活と愛の印象主義表現だ。ブリル・ビルディング・ポップ、ガール・グループの官能性と1950年代のリズム・アンド・ブルース―ニーロの初期のヒットの土台だ―は目に見えないムード、空気、特徴をまき散らすようになった。“Captain for dark mornings”における霧の港を思わせるストリングスのささやき;“Mercy on Broadway”におけるクロマチック・ハーモニカによる不意の一撃は、ラッシュアワーの車の警笛のようだ;“The man who sends me home”における穏やかなぬくもりと束の間の大好きな恋人を意味する猛烈な恍惚感。

“ローラと僕は彼女の詞の意味について話し合ったことなんて一度もなかったよ。” Haskellはいう。彼はロサンゼルスを拠点として、Ricky Nelson and the Lettermenと多くのセッションをしたヴェテランであり、Bobbie Gentryの1967年のナンバー・ワン・ヒット、“Ode to Billy Joe”でグラミー賞をとった男だ。しかしHaskellはニーロが彼女のいう青、ピンク、茶の色について的確に表現していたことを断言する。コントロール・ブースの中で、ニーロはオーケストレーションの一音一音を注意深く聞いていた。Haskellもまた、ニーロがヴォーカルとピアノを配するための魅惑的なスペースに気を配っていた。“You don’t love me when I cry”での一幕についてHaskellはいう。“僕はストリングス、フルート、フリューゲルホーンを8秒間だけ入れたんだけど、そのあと消すことになったんだ。あと彼女が‘All over me’と歌うところに、僕はベルの音を入れたんだけどこれも採用されることはなかった。ローラが‘ジミー、それはそこに要らないわ。’といったんだ。”

ハイライトのタイトル・ソングはニーロのヴィジョンが最も純粋な形で現れている。アルバムはその土台であるソウルへと切り詰められている。“New York Tendaberry”の中での全てのアレンジメントはセカンド・ヴァースのブラシによる1つのシンバル音のみで成り立っている。ニーロの自由に漂流するヴォーカルと無骨なピアノは、澄んだ深いエコーのプールの中に浮かんでいる。それは気ままで爽快な混沌状態へと帰着する放浪のスピリットを表したサウンドだ。それはまた勝利を勝ち取ったサウンドでもある。“彼女はこのアルバムから歩き出したんだ。” Haleeはいう。“‘そう、これが私のやりたかったことよ’って気持ちを持っていたね。”

New York Tendaberryはニーロの唯一のトップ40アルバムとなった。1969年秋にリリースされ、ビルボード・チャートに4ヶ月以上居座り続け、32位まで上がった。ニーロは残りの人生を独自のペースで音楽を創り続け、1997年4月8日に癌によって死ぬまでに、半引退時期を挟んでレコードをリリースした。しかし彼女はNew York Tendaberryで彼女がそのパワーと美に到達したことを認め、悟っていた。

1969年感謝祭の週末、ニューヨークのカーネギー・ホールにおいてピアノのみでライヴを行なったニーロは、ほぼ全てのナンバーが終わるたびに立ち上がり、熱狂的な拍手喝采の嵐を浴びていた。“あなたたちは何とか私に気に入られようとしてるのね。” ローリング・ストーン紙のVinee Alettiのレヴューによれば、彼女はオーディエンスにそんなジョークを言った。3度のアンコールのあと、ニーロはステージの前へと、手を伸ばし彼女の足元へと押し寄せたファンたちのところへ歩いて行った。“ローラは一人か二人の手に触れていた。” Alettiは書いている。“あるいはステージ左から彼女を照らす光線から彼女が立ち去る前に、少しの間彼女に触れることが許されたのかもしれない”―女王にふさわしい退場の仕方だ。彼女が愛した街で・・・

David Fricke
New York City
April, 2002


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