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Laura Nyro/Gonna Take A Miracle/2002 Sony Music Entertainment Inc. SICP 8053



ニューヨークの夜
ストリートの天使たちが
階段を降りて行く
地下鉄の音がこだまするその場所へ
今日も歌うために・・・


私は初めてGonna Take A Miracleを聞いた時のことを憶えている。それは71年の夏だった。私はニューヨーク州北部の“進歩的な”キャンプのうちの一つで、町の少年たち、そしておびただしい数のマクラメ編み(粗めの節糸)の人たち(訳注:ヒッピーたちのことか?)とうまく付き合いながらDr. Bronnersについて学んでいた。いく人かの女性カウンセラーは小さなレコード・プレイヤーを持っていた。夜になるとキャンパーたちは音楽を聞くために集まってきた。みな熱心にフェミニストの見識を信じ込んでいた。必然的にその結束固いセッションのサウンドトラックはローラ・ニーロとなり、中でもとりわけGonna Take A Miracleとなった。カウンセラーたちは最も聞くにふさわしい意図を持ってローラのレコードをかけた。なぜなら私たちは何か本当に深遠なものを“獲得”しようとしていたからだ。そこには世界平和、人種間の問題、そしておそらくそれ以上に性別に向けたメッセージがあった。

正直言えば、私はその時聞いて感動した話さえ今思い出すことができない。しかし私の胸を打った安っぽい演説者の中には、何か甘酸っぱい魂の主張があった。ローラとラベルの声は突然空から舞い降りてきて体を揺すりながら、ある一つの言語を使って歌っていた。ミステリアスだった。12歳の時、私はそれをマスターすることだけを夢見ていた。私はやせっぽちで胸がぺしゃんこで少年たちは私を嫌っていた。しかしGonna Take A Miracleは、ある日私が美しくクールでソウルフルな女になる希望を私に与えてくれた。そのアルバムで歌っている女性たちのように。

Gonna Take A Miracleは、音楽が魔法を使うことができるという思い出で織り込まれている。5枚目のニーロのアルバムであり、モータウン、ドゥーワップ、そしてガール・グループのパワーにオマージュを捧げている。それは都会の音楽であり、街角の音楽だった。それは“ブラック”ミュージックだったが、誰でもパッションを持っていつでも聞けるヒップホップのようだった。意志の強さとめまいが交互に訪れるそれは、8月の午後の湿り気を帯びたようなニューヨーク・シティの空気の中に立ち込めていたサウンドだった。それはブロンクスでのローラの幼少時代の音楽であり、アルバムのためにニーロが選んだ曲は彼女のルーツと記憶に捧げられていた。

セールス的に大きな記録を達成できなかったにせよ、Gonna Take A Miracleは元々コマーシャルな作品ではなかった。フォーク、ジャズ、ショー・チューン、R&B、そしてロックから集められたが、ローラはすでに革新的なシンガー/ソングライターとして自身を確立していた。しかしカヴァー・アルバムを過去の栄光となっていた(その時点でも)トリオと共にリリースしたことによって、ローラは予測もしない方向に舵をとることになった。それでもローラのキャリアが人々にインスピレーションを与えようとしていた。そこにはローラとラベルが、自分たちの親しんできた歌を巧みに再構築し、それらに猛烈な歓喜を吹き込んだマナーが明確に示されていた。彼女は新曲を書き下ろさなかったのかもしれないが、ローラ(とラベル)はこれらの歌を自分のものにした。そしてこの4人の女性たちはニーロのオリジナル作品と同等のコンテンポラリーで革新的なアルバムを創り上げたのである。

パティ・ラベル・アンド・ザ・ブルー・ベルズとして、ノナ・ヘンドリクス、サラ・ダッシュ、そしてパティ・ラベルは1962年の“I Sold My Heart to the Junkman”を始めとするヒットを連発していた。71年までにトリオは‘ラベル’として彼女たちの過去の‘ガウンを着た3人のガールズ’から方向転換し、ちょうど大気圏外宇宙旅行の時代にソウル・クイーンズへと飛び立った。ローラは彼女たちの当時のマネージャーであったヴィッキ・ウィッカムを通じてグループと出会った。ウィッカムはニーロのファンで、メロディ・メーカーでローラと対談した。そしてパティもそのインタビューに同席していた。ヴィッキは回想する。“私たちが部屋に入っていくと、ローラが‘パティ・ラベル!パティ・ラベル!’って叫び出して、パティのレコードや歌のことを細かくしゃべり出したのよ。あまりに二人だけでワイワイと盛り上がるものだから、私は‘ちょっと静かにしてくれる?インタビューできないじゃない。’って言わなきゃならなかったわ。”

ローラとパティは親しくなり、ローラは時々グループと共にツアーに出たり一緒に遊んだり、彼女たちのために料理をするようになった。ニーロがその新しい友人に電話をかけ、Gonna Take A Miracleで歌ってほしいと招待したのも当然の成り行きだった。セッションはラベルの本拠地だったフィラデルフィアで行なわれ、プロデュースにはケニー・ギャンブルとレオン・ハフがあたった。彼らは数年後、フィラデルフィア・サウンドの立役者として、オージェイズ、ハロルド・メルヴィン、そしてブルー・ノーツのヒットメーカーとして世界的名声をつかむことになる。スタジオは1週間押さえられたが、6日目になってもまだ何もレコーディングされていなかった。なぜなら、みながあまりに素晴らしい時間を楽しみ過ぎてしまったからだった。

スケジュールはどんどんとタイトになっていき、パティとハフは実際、数時間で素早く楽曲をやっつけてしまうことができるか、かなりの大金を賭けたそうだ。ヴィッキによればGonna Take A Miracleのうちの何曲かはファースト・テイクだ。その理由の一つは、全員が全ての曲を暗記していたからだが、主な理由は単に時間がなかったからだ。おそらく“Jimmy Mack”の出だしにヒューという電子音が入っているのと、ローラがまるでマイクのテストをするかのように静かな声で“Jimmy”と言っていることがそれを説明しているだろう。のらくらと過ごしたあと、本気で仕事にとりかかったことに全ての称賛が与えられよう。Gonna Take A Miracleはエネルギーと誠実さできらきらと輝いているのだから。

ローラとラベルは数日間だけアルバムを“サポート”したが、ギグは大部分、気軽な楽しみのために行なわれ、音楽的なつながりはその後まもなく終わることになった。しかしその後何年にも渡って連絡はとり続けられた―ローラの父親であるニグロ氏は、ノナのピアノを調律し、パティとローラは1997年にローラが死ぬまで親しい間柄だった。

私は最後にGonna Take A Miracleを聞いた時のことを覚えている。それはBed Stuyの友人のところだった。誰かがそのCDをかけると私はキャンプのあの頃に戻っていった。徹底的に美しく、クールでソウルフル、Gonna Take A Miracleは今なお人々の心に触れ、その記憶の中に命を吹き込んでくれる。

Amy Linden
2002


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